2009年10月28日水曜日

日本無銭徒歩初 インターネット 122日目

久しぶりのブログ。6月に書いていたあれこれをちょっと読み返してみた。
ごちゃごちゃ書きすぎているなと自分でも思う。当時は「仕事」もなく、インターネットをする時間がありすぎたんだな。だから、あまり重要でないことも書いている。


ここは兵庫県加古川というところ。6月29日に相模原を出てから122日目だ。
簡単に言うと、相模原からは「富山県」の日本海側に出て、日本海沿いにずっと「出雲」まで行き、そこから「広島」に出て「下関」まで行った。そこで無一文となっていた僕は、目指していた九州には海を渡れず、引き返す羽目に。 そしてまた山陰地方に入り、「島根」から再び「広島」に下りて、「岡山」、「兵庫」、と来た。想定1800kmくらいだろうか。よくわからない。でも一日にすると平均15kmあるかないか、そんなもんだと思う。

さて。今日は、ありのままの全体感を報告したいと思う。
そもそもなぜお金が手に入ったか。
今朝、僕は「姫路」市東の畑の中でキャンプしていた。出発の直後、近くに墓地と柿の木があり、僕は柿の木に手を伸ばして柿を取ろうとしていた。しかし手が届かず、あきらめた。それを墓地から見ていたおじいさんが1000円札をくれたのだが、最初は「変な人がいるな」くらいに見ていたんだと思う。
その畑には僕は裏から入っていて、車道に出る道を知らなかった。どうも墓地の方に道がありそうなので、おじいさんの方にそのまま歩いていくと、「おはようございます」と挨拶を交わした。そしてそこで少し言葉を交わし、先へ行くと、また少しおしゃべりをした。
僕は無銭状態で4ヶ月旅してきたので、どこか「薄汚い」格好をしている。食べ物は「ゴミから」ということもおじいさんの前で口に出した。でも決して惨めな気持ちはなかった。ちっとも。そのおじいさんは僕と話していて不思議と抵抗がなかった。国道2号線へ出る道を教えてもらうと、僕らは別れた。もちろん僕の旅の話も少しはした。
別れて100mくらい道路をゆくと、後ろからおじいさんが 「おーい…」と。自転車でやってきた。
「すこし金をやる。  
 わしにゃあんたみたいな息子がおったんや...死んでもうたが。」
僕は初め断ったが、それではおじいさんの好意に水を差す感じがしたので、有難く1000円札を受け取った。「もう一枚??」と、まるで孫にお小遣いをあげるおじいさんのように、その人は聞く。丁重に断った。

そうしてもらった1000円札を何に使おうかと考えれば、ほぼ迷いなく『近況報告』を思った。
日本を無銭で4ヶ月旅してどうだったか。その近況報告である。

相模原(実家)にいた時は、「断食がしたい」といつも思っていた。
ところが父親には「断食はするな」と言われていたし、1月のヨーロッパ帰国からは借金30万円を働いて返すという目標もあった。しかしあれやこれやで結局、その借金返済の目標は達成せずに、日本で「放浪」をすることになった。それが6月29日だった。

旅に出るや、再び24時間自由になれば、断食は進むと思っていた。
でも山梨県で初めてコンビニから賞味期限の切れた弁当などを発見してから、長野・岐阜・富山・石川・・・と一向に断食が進まなかった。一度は2千メートルを超える山に入って、そこで断食に入ったが、三日目で山を下りた。
石川県のあとは福井・京都・兵庫・鳥取・島根と、鹿児島目指してひたすら西へ歩いたが、この間も、断食をしつつも、何日かたつと何か口にしてしまうのだった。
「なぜだ。なぜだ。」と自問した。昨年10月にやった9日間断食を更新できない理由を探し続けた。

「出雲」からは、あまり考えないようにした。なんともなくコンビニをあさり続けた。
そして広島・山口と行ったが、「下関」で例によって引き返す羽目に。そしてまた島根・広島・岡山を経て今またぐんぐん東へ引き返している。これからどこへ行くのか、自分でもよく分かっていない。

コンビニのゴミをあさるのは、初め抵抗があった。でも次第に「恥」を捨ててするようになった。それは「一皮むけた」という感じだった。外国でゴミをあさることと日本でゴミをあさることは、僕にとっては違った意味がある。この日本で人目を恐れずゴミをあさることは、大きな挑戦だった。

断食をやってもやっても中断してしまう自分に、理由を探した。
そしたらひとつ、こんな答えが出てきた。
 「日本を楽しまなきゃ駄目だ」
楽しむ、とは、日本でも、ヨーロッパでしたように、あるがままの自分を打ち出すことだ。あるがままの自分を打ち出すことで得られる楽しみだ。別の言葉で言えば、この「日本」も、ヨーロッパでしたようにして「知」らなければならないのかもしれない... 過去の悲惨な日本の認識を塗り替えるために。
そうして食べたければその気持ちに素直になってコンビニのゴミ置き場を覗いた。「なんで食べずにおれないのか?」という問いは出さず。
そして気づいたのは、「食べる」ことは、必ずしも「不食」否定ではないということだ。僕の不食モデルである山田鷹夫さんも「食べながら食べないことを目指す」ということをどこかで言っていた気がする。だから食べながら、大いに不食へ進むこともできる。食べることはこれまでの「生」の維持であり、言ってみれば「安定」の場所だと思う。僕らは「不食」を教えられて育っているのでもなければ、いきなり食べずにいることはまず「できない」。身体が変容する。身体の変容が生活を変えてしまうからだ。そこに「動揺」は必至だ。
 だから「不食」を目指すにしても、「安定」の地である「食」の生活にたびたび戻って模索していくしかないのだ。そんなことに気がついた。

 僕の障害は、社会をどう相手にするのかというところにある気がする。
 昨年の秋の体験で、食べないことの気持ちよさを体験した。食事を楽しむ自分とは別次元の自分だ。身体的に不食の可能性を体験しても、社会で不食を生きるということには膨大な勉強(心の準備)が必要だ。それは、人がまずやらない、現時点では「変人」の域であるだけに。
 僕は「不食」を、素晴らしい生き方だとして求めてきた。食べることは大いに好きな人間だし、何か病気があるとか肥満だとかいうのではない。純粋にその生き方に惹かれてきた。
 だから僕が「不食」になるには相応の「実学」が要る。「不食」という思想を発信する者として、考えうるすべてのことに対応できなければならないのだ。それは独りで十分に補える勉強だと思うが、そうすぐには備わらない。「日本をよく知らなければならない」のだ、ヨーロッパを知ったときのようにして。

 さて、生憎時間がもうない。
 これが今僕ができる最善の近況報告だ。僕はこの4ヶ月間、ずっと食べてきた。そしてそんな中で思ってきた上記の事柄で、今の僕が「どんなであるか」、読み取れるのではないだろうか。

 それではまた。