2010年2月10日水曜日

日本無銭徒歩227日目 「お金を持つ」という過ち

 鷹さんにもらった19000円のカンパは、残りわずかとなった。
 「もらうべきでなかった」と後悔気味...

 19000円はそんなに早くなくなるものではないが、僕は6日にお金に手を出してから、アダムとイブがヘビの木のリンゴに手を出したまさにその様に、僕は「放蕩」の日々に入ったのだった。
 付けている日記が今ここにあったらそのまま載せるのが一番だが、2月6日の午後、『まだ食べる』と決めていた僕は翌朝のコンビニ廃棄品まで12時間待てばいくらでも食べられたのだが、僕は特に苦境にあったわけでもなく、ただぽっかりと空いた時間に、その過ごし方を見つけることが出来なかった。

 鷹さんと別れた1月26日からは、出会いのもたらした高揚から、断食をどんどんやっていくという意識だったが、まだ慣れきっていない「雪世界」(新潟は今年大雪となっている)があったり、鷹さんとの出会いのインパクトが数日では収まらず、「時間」が必要なことをさとった。
 食べていれば、精神は落ち着く(「これまでどおりである」)というわけで、下手に断食を強行しても、繊細な出会いの意味を見過ごしてしまう可能性がある。だから、ゆるく「食べよう」と思ったのだ。
 それで、コンビニがある度に廃棄品の有無を確かめて北上をしていった。
 
 天気は滅多によくはならず、5日に4日は雨か雪が降っていたと思う。橋の下にテントを張ったり、道路や新幹線の高架下にテントを張って、2、3日移動しないことは珍しくなかった。
 ところが長岡に来るまでそれまでの経験から言えるような「廃棄品らしい」廃棄品(どっさりと捨てられている)を見つけることができず、それが不満だった。
 長岡市街に入るや、ごみ場を施錠していないコンビニがいくつかあり、2週間ぶりくらいにまっとうな食事にありついた。

 「満足できる」はずだったのだ。また、望めば、朝早くそういったコンビニに出向いて、さっともらっていけば、それだけで何日だって移動しないで読書や思索、瞑想に取り組むことはできた。複数回、同じコンビニのゴミをあさるのは見つかる可能性もあるが、それがいやなら他のコンビニと交互に行く事だってできた。
 しかし僕は、欲望色に染まっていた。

 鷹さんのカンパは、別れてからその金額を知ったが、それを知って以来、
 【どうその金を使うのか】
 ということが頭から離れなかった。当然といえば当然だろう。しかし、それは僕の旅では「異例の事態」と言えるのだ。それは、「処理すべき思考」としてリストアップされてしまうわけだ。
 「お金を持つ」ということに慣れていない僕は、それが処理できなかった。「こうだっ。」という使い道がわからず、「テントを買い換えることができる」・「インターネットで8万字の『こども時代』を発表できる」・「手紙など旅出で出会った人に出すことができる」など、いくらでも選択肢が現れた。
 これに、スッキリしないのだった。



 鷹さんがくれたのは「カンパ」であり、それをどう使うかというのは自分の自由と言えばそうかもしれない。でも僕は、僕の正直な基準としてはもう過剰に受け取っていたのだ。鷹さんと会えるだけで僕の心は存分に満たされていた。でも、不器用ゆえに混乱してしまった。

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 さて。そういうわけだ。
 6日からは「今日一日だけ」「今日一日だけ」と思いながら、結局4回だろうか、町へ繰り出し、レストランに入ったりスーパーをはしごしては食べたいものそのままを、胃が受け付けるだけ口に放り込んだ。
 「山に入って断食する」と決めた際、シャベルやインスタントカメラなどを用意したがそれは大した金額になっていない。つまり、僕はこの大きなお金を、ほぼ純粋に食べ物に使ったのだ。
 昨日から料金の高いインターネット喫茶に入っているが、それでもだ。

 カンパを、食べ物で使い切ってしまう自分。
 ここには僕に、学ぶべき大きな教訓がある。鷹さんは「贅沢しな」という思いでカンパをくれたはずはない。使い方は僕次第ではあるが、僕がこれからネット上で活発に、自己発信をしようと思っていることを応援してくれてのカンパだったに違いない。それがふさわしく利用できないならば、もう遅いのだが、断固としてももらうべきじゃなかった。僕の中ではたとえ1000円でももう大満足だったのだから。

 学ぶべき教訓とは何か。
 それを昨日今日、ちらほらと考えていた。そして、思考は旅の初期、2007年の初夏、どんな気持ちで旅をしていたか、どんな気持ちで社会(日本やスイス)を捨てたのか、当時の記憶を掘り起こした。
 すると、今が『たまらなく贅沢』であることがわかってきたのだ。
 無銭状態で、今日の泊まる場所もわからなくて、この先も見えない自分の何が贅沢かと、人は思うかもしれない。しかし、僕の心の内には、神が「第2の人生」の火を灯してくれた以上に僕に必要なものなど、なかったのだ。たとえ「パンツ」でもである!!
 それが何「自己発信」だ、何「バックを買い換える」だ、おこがましいったらありゃしない。過去の自分に対して情けないったらありゃしない!、そういうわけだ。

 金を放棄したということは、僕は浮浪者になるという覚悟では、厳密にはなかった。人にそう思われるだろうが、僕自身はもっと“高貴な”志、既存の世界を実質超えるための、最大の野心だった。これは言葉では表しきれないかもしれない。生命の究極的目的。神への最大の希求心。そんな風に形容できるか。。。
 「不食」‐人は食べなくても生きられる‐ という思想を信じようとしたこともそれだったといえる。鷹さんという人が僕という人間ではなく魂に直接語りかけたのだ。

 僕は一生、金を手にする人間ではないと思った。
 それが、今の最大の決心である。
 あまりしゃべりすぎても逆効果になるだろうから、このことを告白して、今回の報告の核心とかえさせてもらう。

 終
 

 

2010年2月9日火曜日

「不食」思想の師との出会い

1月20日、僕は10日待って「鷹さん」に会った。

鷹さんは僕がこの5年間誰よりも会ってみたい人だった。ダライ・ラマよりも、マイケル・ジャクソンよりも、まちがいなく会ってみたい人が、『不食』を著した鷹さんだった。

6泊7日鷹さんの家にお邪魔したが、鷹さんは昼間は仕事のため、一緒にいる時間はそれほどなかった。それでも鷹さんは僕が断食したいと言うと、「いいよ。」と言ってくれた。それで最初の晩以外はずっと断食をした。苦労は“まるで”なかった。でもそんな好環境で断食なんて、今更贅沢だと感じた。自分一人で、旅をしながら、食べ物がある状態で断食ができなければ僕の「不食」は意味がなくなってしまう。「とりあえず10日間断食したい」と鷹さんに申し出た僕だったが、5日がたつ頃、鷹さんにもいろいろ手間を掛けるから、自分の満足の程度で早めに旅を再開することにした。
 
 一緒に「銭湯」に行ったり、市の図書館に連れて行ってくれたり、1月に執筆した『こども時代』(約8万字)をコンピュータのデータとして溜めるために、パソコンを貸してくれたり、何もない僕は何かと恵まれて、それが申し訳なくもあった。
 『こども時代』はいずれ公開したいと思う。いつになるかは分からないが。


 鷹さんは、存在からしていろんなことを語ってくれた。
 「話したいこと」は、いくらでもあって、話しきれないのだったが、もはやいちいち細かい話をする気も起こらなかった。僕は、ただ鷹さんに会えただけで、「満足」だったのである。「不食」の信憑性とか、鷹さんの人間性とか過去などについて、特に知りたいとは思わなかった。それは思わなくても、必要であるならば意に留まるに違いないから。話すまでもない。 今更「不食」思想を語る必要はなかった。
 でも鷹さんの「威厳」というものもあった。自分よりも30年以上永く生きてきた、しかも鷹さんのように本気で生きてきた人物に、僕のような若僧がモノを言うべきでない...という気がしたのは事実だ。僕はいつになく子供っぽく出た。
 
 鷹さんに会って、【「不食」に始まり、自分の精神探求はまだまだこれからだ】と思った。
 絶食と飲尿を組み合わせた【尿療法】という新たな研究分野が与えられた。鷹さんが貸してくれた本だ。
 J.W.アームストロング氏の『生命の水』(論創社)という本である。「飲尿」であるから、一般人には抵抗の強い療法(アームストロング氏は英国で迫害を受けている(1930年代))だが、僕には無理がなくもうすでに何度も自分の尿を試している。
 驚くのは「癌」や「心臓病」、「肝炎」や「腎臓病」、あらゆる病気に、この『絶食と飲尿』というシンプルな療法が「想像を絶する」治癒力を発揮するのだ。アームストロング氏は素人であり、医者ではないが、自身が施した治療例を満遍なく著作の中で書いている。
 僕はこれといった病気はないが、断食の際は尿というものに目を向けてみようと思っている。もっとも、今僕は断食の際に3、4日目に現れる、食事とは異なる「ぬくもり」(エーテル温)に興味があるため、飲食両方を断つことに興味があるのだが...
 十日町市では、とある出会いで癌の人があり、「何かの縁か」と思って僕は、この本を紹介した。これがその人の癌の治癒につながらないとは誰がいえよう。



 鷹さんは僕に  19000円  のカンパをくれた。
 鷹さんと別れるまでその金額は見なかったのだが、驚いてしまった。
 とっさに「この金は使わない... !」と決めた僕だったが、この金の使い道に、却って迷って、あるとき(2月6日)食べ物に使い出してしまった。。。


 あ゛-


 僕の節制は崩れてしまった!屈辱だった。自分が情けなくてならなかった。そして鷹さんに申し訳なくて。。。
 しかし、ヨーロッパでもお金を持ちながら使わずに旅したときはあった。9日間の完全断食旅を達成したときもそうだ。だから、僕は、この19000円という、鷹さんの気持ちに「甘えた」のだ。それを本当の意味で役立てるまで、僕の気持ちは完成していなかった。「僕の日本無銭徒歩はそれだけ未熟である。いまだに!。。。」 ということだ。くやしい。


 今回のネット報告も、山から下りてきて、とあるホテルで食べ放題ビュッフェに入った後、「やろう」と思った。あるがままの自分を出さなくちゃいけないときがある。そんな気もした。

 畜生!

日本無銭徒歩226日目  情けない

お久しぶりです。
みなさんお元気ですか。日本での旅も少し深まりが出てきていて、様々な見識者の方々がこの無様で、読みにくいブログを見てくださっているような気がします。今一度丁寧な記述を心がけたく思います。

去る12月に更新した『今できる不食総括』や『自称卒業論文』は、コピーした際に“脱字”が生じていたり、改行がされていなかったり、本当に読みにくくて申し訳ないです。

だいぶ前にコメントをして下さった方の返事も手がつかず、自分の「旅」と「ネット上」のバランスが取れていないことを反省しなければなりません。発信に対して相応の返信ができなければ『ネットするな!』ですよね。純粋な修行として「不食」を志すなら、インターネットは余分です。


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 10月の終わりに「明石」近辺にいた僕は、そこから紀伊半島をぐるっと回りました。その間、大阪府まで不思議と出会いが連続しました。4~5名の出会いがありました。
 それまで主要国道しか通っていなかったとはいえ、都市を旅していなかった僕は気を引き締めていました。特に大阪の中心部を通るときはテントを張れる場所を探すことや、多くの人目を浴びることに緊張もしていました。
 都市部を通ると、日本人の挙動が猛烈に視野に飛び込んできます。すごく、「日本人」を感じるのです。まだ鳥取や石川などを歩いていた時は人も少なく、割りと自由です。でも都会に入ったが最後、目立つ格好をしている自分は嫌でも「立ち振る舞い」を意識せねばなりません。それはやはり日本特有の、僕の困難です。

 話を戻すと、紀伊半島を「串本」町まで海岸線を南下し、そのまま海岸線を名古屋まで歩きました。途中、『熊野古道』にも入ってみましたが、旅のスタイルと合わないため、すぐまた車道に戻りました。
 一度、「嵐」もありました。とある診療所の入り口に(一応屋根の下に)テントを張らせてもらいましたが、風は強くてテントは張っていられず、しまいにはテントを崩してそこにあったベンチに座って朝まで待つしかありませんでした。嵐に対してはテントがいかに無力か、思い知らされていました。

 和歌山から三重の初めまでは、特に出会いはありませんでした。食事は相変わらず「コンビニの廃棄品」狙いでした。コンビニの数は少なくても都会ほどゴミ場は厳重ではなく、けっこう食事を楽しんでいました。
 「お伊勢」を手前に行くかどうか迷っていたところ、「テル」さんというラーメン店経営者に出会いました。その人はちょっと「おしゃべり」がしたいようで、僕もそういう人は日本では珍しかったので、喜んで車に乗りました。すると話が「弾み」、結局テルは僕に7000円以上を使ったのです(!)
 僕は人にお金をもらうことを拒みますが、日本では「情け」という心があり、場合によっては「甘えない」ことが間違えだったりします。人と心を通わせようと思ったら、自分の弱みは隠さない方がうまくいったりするのです。これはゲルマン人とは大きな違いです。
 このテルさんの時も、僕はしきりにお金を使わせないように神経を遣っていましたが、使いたがっているテルさんには、“有り難く”頂くことが正しいように思われて、あまり固くなるのはよしました。テルさんは銭湯(5ヶ月ぶり?)、晩御飯、サンダル、コインランドリー他、5000円くらい僕に使った後、その晩の宿泊場所で別れを告げ、さらにこっそりとロウソクや文庫本を置いていってくれるのでした。それで少なくとも7000円です。

 テルさんにお伊勢に行くよう勧められた僕はでも、この、日本でもっとも神聖な場所である伊勢神宮に、ちゃんとした参拝ができませんでした。「内宮(ないくう)」(天照大神)の前に、天照大神の食事を用意される「豊受大神」という神様が祭られている「外宮(げいくう)」を参拝するのが順序ですが、僕はこの「外宮」で、とあるお祭りを見た際に、自分の心があまりにいい加減であることが恥ずかしくなりました。「自分はまだここに参拝する値ではない」と、そう思いました。テルさんには悪いですが、「外宮」のあとすみやかに旅をつづけました。

 テルさんに会う前にはヤクザから逃げているというおじさんに会いました。一緒にコンビニの廃棄品を見たり、2泊時間を共にしましたが、おじさんの問題は僕にどうにかできる気もしませんでした。おじさんは僕をまた、かわいそうな放浪人という目で見てもいたので、僕が立派な相談役になることもできませんでした。

 お伊勢を出てからは東海道をずっと1号線に乗って歩きました。
 特にそこから大きな出会いはなく、日々「断食」や近づく「関東」世界に気を引き締めていました。「都市を歩く」ことにはそのころだいぶ慣れていたように思います。
 関東平野に来ると、やはり人間の違いを痛切に感じました。日本でもっとも文化の洗練された場所、「東京」。その中ではそれ以外のものは入る余地がありません。「東京人」であるか、「そうでないか。」そこできっぱりと二分されてしまいます。僕が自身のうちに西洋を携えながら、ここでうまくやっていけなかったのは、至極当然と思われました。「なんでよりによって東京に育ったんだろう... 東京でなかったら、関西でもあったら、「絶望」はしていなかったかもな... 」といたずらに思いました。



 クリスマス前に関東に入り、ふとした軽い動機で「実家」を訪ねたのは前に述べた通りです。
 実家を訪ねると初めは、拒否的な態度を示した父でしたが、時間とともにそのやわらかさも見せてくれました。5~6日の実家でしたが、概して「よかった」と思いました。

 僕には、自分の大学時代の奨学金の返済を、親に押し付けているという事実があります。
 2007年に日本から「脱走」した時は、もちろんそんなこと構ってはいられませんでした。しかし、2年間のヨーロッパ放浪を経て日本に帰って来たとき、再びその「重荷」を背負おうとしました。でも、失敗したのです。
 絶望の精神状態は乗り越えたものの、2年間本気で社会から離れた僕は、またそう簡単に社会に戻れるわけもないのでした。
 「何かを達成したから、今度はまた頑張る番だ」 という理屈は、通用しませんでした。よほど「心」を慎重に扱わないと先はないことを知らされました。

 そして今日、まだ放浪を続けています。
 

 12月27日に実家を出て、新宿で路上に立ったあと、アポがとれた「不食」思想の師に会いに、新潟を目指しました。
 新宿では2~3時間路上に出ただけでしたが、ブログの紹介料(100円)が少し入り、自分の旅は十分宣伝できる感じがしました。

 年が明けて1月9日、群馬と新潟を分ける「三国峠」を越え、車に乗せてくれた人があって一気に師、鷹さんの家までついてしまいましたが、予定より10日ばかり早いのでした。
 新潟は「豪雪世界」でした。雪の上にテントを張るわけにはいかないので、寝場所探しにはとても苦労しました。雪世界を軽んじていたので、自分のこしらえた「旅わらじ」では足の保護が不十分でした。1日20kmという、それまでのペースはとてもではありませんが無理で、予定の1月20日まで高速道路の高架下などに何泊もして時間をつぶしました。

 鷹さんに会えた20日まで、ずっとコンビニをあさりつづけました。
 1日2日の断食はよくしていましたが、それ以上はしていません。どうも、コンビニが捨てているものが、僕の中でまだ「許せない」んだと思います。それは、(いつまでもこう言ってはいたくないですが)僕の子供時代によるものです。僕は子供の頃、特に日本では普通の食べ物が「与えられず」、友達が食べるものを「羨望のまなざし」で見続けていました。何年も何年も。
 でも、この特殊な「飢え」も、癒せないものではないことは知っています。ヨーロッパで分かりましたが、自分に、心の底から満足するまで「恵んで」やれば、かならず解消するのです。でもそれには自分に対して想像を超える寛容さ、忍耐が必要なこともあります。おそらく僕にとって「食事」というものがそれなのです。
 「奨学金の返済を延ばしに延ばしている。でも、かまわない。家族はこんな僕を、不満に思うかもしれないけれど、もうどうしようもない。」

 自分の経験した「絶望」の深さは、自分でもよく分かっていなかったりする。自分以外にその淵を知るものはいないから、他人はそれについて軽んじてもしょうがない。でもそれを、自分が「無い」としてしまったら、自分を救える人は誰もいなくなってしまう。また「おひとよし」になるのはいとも簡単で、また「絶望」するのもいとも簡単なのだ。

 僕は、文明人間が当たり前に甘んじてきた幾多のものが、いらなかったりする。
 たとえば、「暖房」。たとえば、「お風呂」。たとえば、「温かいご飯」。
 「マクロバイオティック法」という厳格な食事コントロールによって、肉をはじめ世間が当たり前に使っている「調味料・味をつけるもの」を食べられずに育った僕は、コンビニが捨てるもので大変満足なのである。時に見つけられると厳しい店員は警察に通報しようとするけれど、僕が訳を説明すると、分かってくれる人も多い。でもこの8ヶ月間で見つかったのは指折るほどしかない。
 食事以外でも、普通の人が当たり前に使っているものを僕は使っていない。生活をシンプルに持っていく、ということに専念してきたからでもある。その中で自分特有の精神活動も始まっている。

 新潟に入ったのが1月9日だから、今日でちょうど1ヶ月だが、ひたすら「雪世界」と格闘してきた。
 ヨーロッパでは一度、帰国前フランスでマイナス11度を経験したが、雪は少なく、装備ももっとしっかりしていたので今の苦労はなかった。
 もう3度くらいふ「吹雪」によってテントがつぶされて、やむなく荷物を片して宛てもなくもっとよい場所を探したり、ゆがんだテントで横になることもできない状態で夜を越したり、まあそれは「馬鹿な」もがきをいっぱいしたと思う。

 今も約1.6mの雪を地面まで掘って、そこにテントを張っているが、雨対策が不十分で、また横になっても足が延ばせない(座しているしかない)ような中にいる。でも雨対策(万全な対策)をしないのも、それはそれで意図があったりする。

 
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 また「殴り書き」をしてしまった。苦
 やはりまだ「コンビニあさり」が必要ならば、インターネットによる「自己発信」は控えた方がよさそうだ。自分の経験してきたことを発信したい気持ちは強いけれども、そして、できるけれども、先にもっと決定的な断食成果がなければだめだ、と思う。
 まだ、「甘えたい」のだ。日本に、そして社会に。心がそう言っている。僕はそれを認めようと思う。心が「もういいよ」って言っても、それ以上甘やかしてやろうと、考えている。