2010年5月2日日曜日

□近況の報告□

 おひさしぶりです。社会の生活に戻って2ヶ月がたちました。
 いろいろなことがあります。人と触れ合う機会が多いだけ、自制力が大切です。特に旅で鋭敏化した神経ではそうです。数ヶ月どころか、1年、2年は裕に見ていかないといけない気がしています。

 自分が体験した「感覚の世界」、「旅の世界」も、より注意深い言葉でまとめるために、いましばらく「書く」という活動からは身を外そうと思っております。社会では“社会の”テンポがあるので、自分だけよければいいということにならないのは当たり前です。でも旅では限りなく自己の感覚世界に集中していましたので、その癖がなかなかとれず、苦労しています。

 今日は『こども時代』の続きを一気に公開いたしました。
 決して書き物全体としては読みやすくなく、一貫して少し「重い」空気が流れている気がします。「まえがき」に書いたように、これは僕の人生の一側面でしかありません。僕の捉えた、もっとも自分らしい表現をしたつもりではありますが、この僕ですら(!)、いつまでもこの『こども時代』に書いたような認識を持っていたいとは思わないのです。これからはできれば、楽しかったこと・よかったこと・すばらしかったことについて覚えていたいですね。(^-^)
 『今できる不食総括』も、この『こども時代』も、書き物の完成度としては「低い」という気がします。細部の細かいチェックはしていませんし、何より短時間で頭というより心が集めてきた言葉を殴り書きした…、という感じです。
 それでも…、今の自分としてはこのネット上でできる最大限の自己表現であると思っているので、がさつですが公開させてもらいました。

 これからは「言葉選び」、「正確さ」を執筆において追求して行きたいと思っております。
 たくさんの読書や知識の獲得によってその辺を改善したいと目論んでいますが、まだ本当に、「社会生活」への順応だけで… かなりの時間がかかってしまいそうです。

 『慌てるでない。よいものは、ちょっとずつ…。
 最近MSNなどのホームで出ているジョージア缶コーヒーのフレーズが、好きですね。(^^)

 それでは、みなさんもお元気で…

とも

『こども時代』 執筆の動機 2

―今日、まだ僕の体は脈打っている…― 
 2007年1月の脱走は、社会的に見れば絶望の結果だが、「不食」探求という意味では「門出」ともいうことができる。もちろん、当時は「絶望」という感触が圧倒的だ。「これで新に不食に向き合うことができるぞ」 などとはみじんも思っていない。当時は、「自分が自分を否定し切らないように」することで精一杯だった。たとえば、突如として起こる 「あのビルの最上階からポンッとジャンプするだけで…」などという発想に、意識が「奪われない」ようにすることで精一杯だった。少し町に出れば、たとえばそういうことで自分の精神異常を外に出さないことでたいへん疲れてしまうのだった。

 成田空港から大韓航空で飛び立った時は、ひとまず安心をした。憎しみや恨みに駆られて、自分の手が何をするかわからなかったからだ。チケット購入日から離陸までの数日間、心がブレずに目的を果たせたことに、その時安堵を感じていた。
 スイスに着いて間もなく例のダンサーと出会いがあり、彼のもとで1ヶ月生活したが、ホモセクシュアルという性分が自分には合わず、やはり放浪するしかなくなった。自分がホモセクシュアルになることや、そのダンサーの元で何かできることはあるかということを考えてはいたが、そういうことになった。
 心ない装備で放浪していると、気が緩んでスイスの親戚を訪ねた。そして親戚の助けを借りて仕事を探し、農場に住み込みの仕事を見つけたが、それも案の定、ダメだった。ある日、無断で農場を抜け出し、15kmほど歩いた先の川で足の裏を切って、農場へ引き返した。「頼りにならない」(独: "unbelastbar..." ) と言われ、「スイスもあとにする」という気持ちを親戚とその農家に伝えた。
 2007年4月の終わりにアルプス北側のスイスを出発してから、「無銭徒歩」の旅は始まった。「無銭」という言葉自体当初の僕は知らず、自分のことは「打ちひしがれた放浪者」だと思っていたが、旅は数多くの出会いに恵まれた。その出会いが、一つ、また一つと経る度に僕の中に「自尊心」とか「喜び」といった人生で最も重要なものを、養ってくれた。言ってみれば、それは「東欧」の人々が、養ってくれた。特にスイスを発って80日、3ヶ月生活を共にしたセルビアの、貧しい農村の人達だ。

 680日に渡る東欧19カ国と地域の旅によってなんとか「絶望」を克服した僕は、また日本に戻ってきて、今度は日本を同じように旅している。日本はセルビアとはまるで違う世界であり、ここに集中していると向うのことはどんどん忘れていってしまうのだが、できればそうでない自分でありたい。特に、お世話になったセルビアには、今後プレゼンテーションの道具を持って『100学校巡り』というのをやりたいと思っている。 つたない自分のセルビア語だけど、外国に行けない貧しいセルビアの子供達に日本や、僕の知る世界のことを紹介できたらいいなと思う。

―今回の執筆の目的― 
 「書く」ことは、僕の趣味だと言えそうなくらい、僕は言葉(とくに日本語)を心の指針にしてきた。高校の頃から人に話せないことを文章にまとめることで気持ちの整理整頓を始めた。それが思った以上に役立って、夢中にもなってしまうので、書くことが好きという感想を抱くようになった。反面、定期的に言葉の世界にとらわれるようにもなった。
 本来言葉は、人の気持ちを伝える手段に過ぎないはずだが、言葉の世界に溺れてしまうと言葉が「先走って」しまって、聞こえはいいが肝心な中身が伴わない言葉を使ったりする自分がいた。特に自分が持っていた外国的な資質を日本語で表現しきろうとすると、どうしても変な言葉になってしまったり、ドイツで覚えたある感情を日本語だったらどういうだろうなどという、自己感覚の多元性によく悩まされた。
 それでも「日本語」という言葉に馴染みも深まるにつれて、高度な表現もできるようになり、心の持ち様も日本的になった部分も多いと思う。しかし今日でも言葉は心を通訳しきれないものであり、ドイツや、マレーシアで覚えた感覚は心深くにしまわれて、滅多に扱わないものも多い。

 純粋に「不食」思想を究めるなら、「書く」必要はない。むしろ一人で静かに、断食を追及するべきだ。この5ヶ月間はそれをやっていたつもりだ。心を捉えるために、自分のために書くが、書いているうちに次第に言葉にとらわれるようになり、ある時バッサリと書いたものを捨てる、そんな5ヶ月間だった。 でもここに来て 『社会に自己発信してみよう』と思うようになった。日本とヨーロッパで800日を越える旅の話は沢山あるし、どうも最近はただ歩いていることにあまり進歩が感じられなかったからだ。「思い切って社会を前に自分を打ち出してみた方がいいのかもしれない…」、と思った。

 しかし社会に対する「自己発信」に取り組むということは、僕の心の持ち様としては大変な変化だ。これまではより純粋な「不食」探求の旅だった。むしろ、「余計なこと」、たとえば「観光」とか、時間を使う出会いとかは慎む姿勢だった。ありったけの精力を「不食」探求に傾けるためだった。
 数年前の僕に言わせれば、「自己発信」なんて生意気なことはするな…、というところだ。しかし、月日の経過で、「絶対変わらない」と思っていた気持ちが、変わってきた。

 2006年前後に僕が打ちのめされた「絶望」の根幹を一言で表せば、「カニバリズム」(弱肉強食の原理)だ。この世の原理とは、『強い者がさかずきを交わし、弱い者はいずこかへ消滅する』
 自分が生きるためには他をのけずり落とすしかないのが、この世界。漁師が海で魚をとって食べるのもそれだし、アメリカがイスラーム過激派組織と対立するのも、それだ。結局どんなにきれいに繕ってみたところで本質はそれなのだ。そう見えない美しい世界がこの世にあるとすれば、それはあなたが騙されているということだ。
 この事実に僕は、深く、深く、失望した。少なくとも親に見せられた世界は、そうではなかった。
 「自分が生きるために他が、極端な話、死ななければならないのか!」
 「そんな世界に生きていたいとは思わん!」
 「死んじまって、いいよ…、ほんとに。」 
 そして戦争は絶えず、自然は破壊し、人口を爆発させながらも、「地球にやさしいガソリン」だとか「差別のない社会」などと言っている人間があほらしくてしかたなかった。そして、もう、何もしたくなくなったのだった。

 ところで、それなら僕はこれまで一体何を見せられて来たのだろう?
 20年間の人生で、この世の過酷さに気付かないというのも変だし、大人になってから現実に直面して「ショック」を受けてしまったのには他の人にはない何かがあったから、もしくは他の人にはある何かが自分にはなかったからだと言えないか。
 そんな客観的な自己について旅の前も最中もよく思いをめぐらせた。そこでどうしても一遍、自分の「こども時代」を振り返る必要に駆られた。
 特に「文化」というものをキーワードに、日本にいても日本人に見えなかったらしい自分の素質とか、なぜ自分は幼少の頃から人一倍活発でいたずらなども絶えなかったか、とか、「人間」そのものについても色々と考察を深めた。そして今回社会への自己発信としては、「子供時代」を徹底して振り返りたいと思うのだ。幼い頃から「違い」に関して苦労して、いつも「でも僕は…」「でも僕は…」と自己主張せねば済まなかった僕の「子供時代」について…。

(―生い立ち―略)

―「強く」なければいけない― 
 「生きるならば、強くなければならない。」―――「絶望」は乗り越えたが、なんとなく生きることを選択した僕が今日突きつけられている課題だ。
 子どもの頃は清らかだった。いたずらっぽかったが穢れはなく、天使のようであったとすら思う。それも僕の場合は長かった。周りの友達が着々と現実的な、シビアな物事の見方を身に付ける中、まだ僕は、「夕日に染まる入道雲の美しさ」とか、「今朝の夢の世界」に漂っていた。
 僕には、中学生の頃、「反抗期」らしきものがなかった。19歳頃から始まった親に対する「反抗」は、ある意味今日も続いていて、とても長引いている。出せなかったものが溜まりに溜まってしまったのかもしれない。だがどうも僕は、最初の数年間は、決定的な「反抗力」を示すことができなかった。中学生だったらバーンッと家を飛び出しては警察に連れ戻されても、「口も利かない」とか、親も困ってしまうような反抗力を見せたりして、親もそれでびっくりして態度を変えて、事は済んでしまったりするが、僕の場合は非常に“柔らかく”、そして“やさしかった”。当初は、「気付いてくれ。そして態度を改めてくれ。」という期待のもとに大きな反抗は示せなかった。自分が「気付く」ように親も「気付いて」くれると思っていたのである。
 しかし、あるものはあるのだ。あるどころか発散が遅れているせいか、僕にはどす黒いものが溜まっていた。父の部屋にあるものを、パソコンから机から、「何から何まで庭の池にぶち込んでやろう」とか、「庭木の目立つものを根元から切り倒してやりたい」という衝動が度々襲ってきたが、それだけで終わらず、他の恨みにも飛び火して「大爆発」になることを恐れた。致命的な傷が関係に残ることを感じて、いつも自分を押し殺していた。そうして劣情・激情を抑制している自分を自分で尊くも思った。
 しかし、怒りや憎しみは抑えても抑えても、キリがなかった。親とは別居していても、度々親を訪ねては、少しずつ、発散せずにはおれなかった。「発散」と言っても、僕が溜め込んでいたものに比べたら大した暴力にはなっていない。怒鳴るので収まらなかったときはふすまを打ち抜くとか、せいぜい窓ガラスを割った、それくらいである。

 一年や二年が過ぎても、親に関しては、何も変わらなかった。「正当な発散」によって心が楽になるまでは、大変な時間が流れた。暴力ではなしに「日本からいなくなる」という形をとった2007年の1月、初めて少し仕返しが出来たようで、心は「軽快」した。ヨーロッパで感じた「自由」・「解放感」・「幸せ」は、それゆえでもあっただろう。しかしそれでも、親は大きくは変わらなかった。ただ親は僕の言うことには慎重に相手をするようになったくらいである。
 ヨーロッパ2年間の旅を経て帰ってきても、親の理解度というものには虚しいものがあった。おそらく父も、母も、なんで智裕が反抗するのか、今日もほとんどわからないのだ。「こんな親だったら息子が自殺していなくなってしまうわけだ」と過去を振り返って、思った。
 今年の5ヶ月間の相模原も、親に同情して送った日々だったが、予想以上の理解の欠如が、発覚した。「この親は…子供がどれだけ犠牲になっているか、気付いていないんだ…」
 2008年の10月、僕は丸9日間の完全断食旅に成功し、帰る相模原では「次なる断食に挑めるんではないか」と思っていたが、それ以上にまた悩んでしまった。それもけっこうなもので、相模原を出て放浪の身となってからも、次なる断食はすすまないほどだった。9日間の断食を可能にしたヨーロッパ最後の幸福感は5ヶ月の相模原を経てまるで、過去のものとなってしまったのだ。

 「親とはもう、話して通じる次元じゃない。」
 そう夏ごろ思った。話して気持ちを伝えようとするだけお互いが辛い思いをする。だからようやく、27歳になってやっと「親からは離れる」ということが全肯定できそうだ。それは言い換えれば、「独立する」ということかもしれない。

 『親を前にもしっかりと自分を打ち出し、「強く」あらねば、そしてそうあることを“誇り”とするくらいでなければ、この世では生きてゆけない。』   

『こども時代』 執筆の動機 1

 「こども時代」― 執筆の動機  (2009.12.18 旅日記より)
 
 ■■■長いですが、以下が『こども時代』を書くと思い立ったときの日記です (当時「まえがき」のつもりで書いています) ■■■


 ここは静岡県「熱海」の数キロ手前、海岸沿いの廃業となったレストランのテラスである。ここ2日くらいいよいよ冬らしく冷え込んでいて、体を温めるために日光浴をしている。テントをかやだけ張って、適度に通気しながら、適当な温度を保つ。

 今日は12月18日で、「日本無銭徒歩の旅」は173日目だ。6月29日に地元「相模原」を出発してから山口県「下関」を経て再び関東地方に戻ってきたというところだ。距離にすると推定2850km、一日平均で16.4km歩いていることになる。今年1月までのヨーロッパの「無銭徒歩」とを合わせると、旅の総距離は間もなく10,000kmになる。
 なんでこんなにも歩いてきたのかと思うと、自分でも不思議になる。別に「歩く」ことが好きなわけでも、「旅」が特別好きな訳でもなかった。率直に言うと僕は『居場所を失った』から歩き始め、気付いたときには旅が深まっていた。
 「旅人」というのはおこがましいかもしれない。「放浪者」とか「流浪人」と言った方が僕には合っているかもしれない。「お金を持たず」、食べ物は「自然界」か、「人が捨てるもの」しかないからだ。ブルガリアでは毎日50個も60個もクルミを食べ、オーストリアから西の世界では可食ゴミの多さに感動した。セルビアでは野性のフルーツに、それまで感じたことのないような「幸福」を感じ、カビの生えたパンに心とおなかが温まった。日本では、今日、コンビニエンスストアというヨーロッパ以上のゴミの豊かさに甘んじている。

 「無銭徒歩」は、絶望から始まった。僕はスイス人の母と日本人の父を親に持つが、スイス以外の海外生活が長く人間的に「日本人」には育たず、大学を中退後の僕の人生は急坂を転げ落ちる様だった。2006年はその「どん底」という年で、「自殺」願望を始め精神が異常な活動を始めるのが自分でも分かった。ついに働くこともできなくなり、親に生活支援をもらうようになった矢先、バックパック一つで日本を飛び出した。2007年1月のことだった。
 母の祖国スイスで3ヶ月間できることを試したが、ダメだった。チューリッヒではスイステレビ局専属のプロダンサーに出会い、彼のところで居候したり、次に助手として働いた農場の主はきさくで面白く、馬が合いそうだったが、それらの貴重な出会いも生かすことはできなかった。自分は何をやってもダメだった。精神の底からまるでエネルギーが出なかった。もうこれ以上人に迷惑は掛けられないと思ってスイスも後にすることにした。
 
 2007年4月末、「無一文」になる覚悟を決めて、残り数ヶ月のパスポートで僕は「歩き」出した。
 僕の経験した「絶望」は、実際にどの程度のものだったかは分からない。「そんなに大したことではなかったのかもしれない…」と最近考えたが、20歳頃から始まった「自分の」人生との奮闘は、たしかに「精一杯」の日々で、僕には「夏休み」はおろか「友人関係」も「若者らしい遊び」も、ないも同然だった。その4、5年間は、周りの誰よりも本気で生きているという自負心だけは本物で、それなのに一向に好転しない人生に、次第に気力を失っていった。「悲観的」になり、「何をやってもダメだ」という自己暗示が強まっていった。そして実際に自分が、その思いの喰いものになった。
 つい最近得られた一つの答えは、「絶望」当時の僕の「精神年齢」は低かったかもしれない、ということだ。当時24歳の僕だが、心が無垢でずるいことは嫌いで、清らかな人間ではあったと思うが、世の厳しさに立ち向かうだけのタフさはなかった気がする。また「日本人」というよりはどちらかといえば「西洋人」であった僕の心は、日本人の心にも十分歩み寄れず、「誤解」や「偏見」、不十分な理解などを携えていた気もする。
 
 ちょっとやそっとではどうにもなりそうにない深い問題に、当時「責任」の追及をした。そしてその結果、僕は「親」を憎んだ。「親がおかしいのだ」という思いは20歳頃にもあったのだが、親の言っていることはほとんど当てにならないばかりか、彼らが子供に教えたことは結局は自分らがいいようにするための教えであったと思うようになった。親を疑うという醜い自分の心に、疑いに疑いを重ねたが、その思いは強くなるばかりだった。今年に入ってからもその検証は続いていた。そしてやはり「人に好かれなければ何もできない」お人好し人間にしか育ててくれなかった親を、「実社会に対して手ほどきをして見せてくれなかった」親を、また憎んだりした。
 もっとも、国際結婚の家族の問題は「扱いづらい」のは確かだ。文化の、洗練された眼鏡をかけて初めて検証できる問題も、片親が異文化出身ということになるとうかつなことは言えなくなってしまう。その当人を傷つけてはならない、と配慮するならば。文化Aでは至極当然なことも、文化Bではそうでもなかったりする。根気ある人間でも「こんなのやってられない」と思ってしまうのは、異文化の絡む問題では無理がない。よって国際結婚の家族は、どうしても「孤立しがち」である。自分達だけの、ユニークな家庭を築くというロマンはあるけれども、それも限度というものがある。「ムーミントロール」の世界だったら、それでもいいかもしれない。あそこだったら、親が好きなように子供を育てても差し支えなさそうだ。ムーミン一家以外に家庭もないからだ。


―失望の中で飛びついた思想『不食』―
 2004年11月のとある日、僕は3年間通った大学をやめることにした。22歳だったが、できることを尽くした大学生活がちっともよくならなかったため、「肩書きというものにしがみついても自分のためにならない」と判断した。不安もあったのだが、大学での僕は「勉強」もできなくなっていた。単位を取るために勉強するということは納得しなくなっていた。
 そして自分の直感とかセンスを信じて何かやっていった方がよいと思って退学すると、ちょうどその時に
 
 『「不食」―人は食べなくても生きられる― 山田鷹夫著 三五館』
 
 という本に出会った。「人は食べなくても生きられる」だって?とんでもない話だが、僕はすぐに本を買ってきて、むさぼるように読んだ。「一日に、青汁一杯だけで元気に生活する人もいる」ということは聞いたことがあったけれど、その山田氏の本は「食事を全く摂らなくても人は生きられる」と言っているのだから、まさに「とんでもない」本だった。
 しかし、読んでみると、その本は理屈とか難しい概念を羅列した宗教本などとは全く正反対に、著者のセンスによって直感的な言葉で書かれていたので、非常に読み易かった。読み終えた感想にも疑いはなく、そういう「境地」というか、「潜在能力」が人間には眠っているということを、僕は信じるようになった。そして時間がたつにつれますます自分自身が「不食」を追及してみなければすまない気持ちになった。
 
 ここで言っておかなければならないと思うのは、この「不食」との出会いには、1つ、「フィルター」がかかっていたことだ。著書「不食」は、自分自身が広告か何かで見つけたのではなかった。実は「父」が、新聞の広告でそれを発見した朝、僕はたまたま実家に帰っていて、その場に居合わせたのだ。この事実はこれまであまり気にしてこなかったが、もし、自分一人でその本に出会ったら、これほど夢中にこの思想を扱うことはなかったかもしれない。前述の青汁生活者の話も父から聞いた話しであったし、僕の「断食」に対する興味関心は、幼い頃お寺に断食修養に出掛けて腹ペコになって帰ってきた父の面影も強い。
 なにはともあれ、大学というものがなくなり、その友人関係や塾講師のアルバイトもなくなってポッカリと空いた僕の頭のスペースには、この「不食」という思想が居座るようになった。初めはあまり大々的に「不食」を考えることはしないようにしていたが、他にやることも見つからなかったので次第にその存在感が増していった。そして自分の食生活を変えたりいじったりしているうちに食事に関してより大きな疑問が沸いたりして、仕事もやめて徹底して食事に向き合ってみたい気持ちになった。もっとも、僕は大学時代に奨学金を借りていたため、その返済が、月々2万円、なされなければならなかった。


―大学中退から絶望までの2年間―
 「不食」と徹底的に向き合うために「無銭徒歩の放浪者」となるまでは約2年間あった。最初の1年間は「不食」を意識しているだけで精一杯だった。そして「不食」思想に夢中となっている自分を他人を前に出すことは、あまりできなかった。「キチガイ」とか「変人」扱いを受けることを恐れていた。そしてスイスや京都に行ってなんとか「大学」に代わるものを探すのだが、コレといったものが見つからず、ますます「不食」だけが際立って見えるようになった。
 「不食」を知ったことを、「悪い呪いにかかった」と恐れたのもこの頃だ。でも過去数年の自分の人生に対する尽力に対して、それに見合ったふさわしい取り組みがあるとすれば、それは、「不食」思想であった。それくらい実は、大学を辞退したことは「挫折」だった。過去の自分を裏切ることはできなかったので、時に恐れながらも、僕は「不食」の研究を深めていった。食事に関する常識を覆して、「不食」独自の食事感覚(哲学)を養った。
 友人もなく、仕事は半日だけのアルバイトかアルバイト派遣スタッフでやりくりしていた僕の生活は、ますます孤立し、「こんなことしていていいのだろうか…??」という不安が頭を悩ませた。そして何度も職場を替え、アパートを替えしているうちに、とうとう社会生活が難しくなった。職場で人に会っても話すこともないし、話したくもない。お金だけ必要だから仕事だけしたいけれど、それではどうもマズイ。馴染み切れていない日本の社会に対する嫌悪が増したり、孤独がエスカレートして精神がむしばまれるようになった。
 みじめな有様を受け入れて、「あぁ… 人生下り坂だなぁ…」と溜め息をついてみても、後戻りはできなかった。プライドが、それを許さなかった。

 「僕はまっすぐ生きてきた。人をけなしたり、傷つけたり、人目を盗んで悪さを働くこともなく、極めて誠意的であったし、高校時代も家族の慣れない日本での生活や、「学業」に専念するために遊び心を捨てて頑張っていた。学校では「恋愛」よりも「友情」の方を大切にし、生活のより基本的な部分を重んじた。「真面目」だった。何も狂っちゃいない…。自分はいつでも本気で生きてきたじゃないか!「不食」との出会いは必然なのだ。もしかしたら自分が数少ない選ばれた「有志」なのだ…。」

 そう前向きに解釈する様にした。「妄想」も抱くようになっていた。「第六感」というか、目に見えない世界に、本や人の話を基に意識を向けるようになった。そうして「自分だけ」の世界が育まれていった。
 「自分の感覚を信頼すること」。感覚が「面白い」とか「興味深い」と判断したら、あまり迷わずやってみる自分があった。知識の詰め込みという勉強方法に、疑問を抱いた大学時代があった。「自主性(主体性)」や「個性」を重んじる外国人の文化研究者についていた影響もあるだろう。
 「何を採り、何を捨てるか。」 広大な精神活動をどう統制するかという問題に、まるで子供のような基本的なレベルから見直しをした。親に教わった人生観はほとんど捨てて、自分自身のものを創り上げることに取り組んだ。その中で根拠の伴う思想と、そうでない「妄想」との間を、行ったり来たりした。
 「不食」に出会ってから2年間は、大いに錯乱した。「人は食べなくても生きられる」という前提が、人生観を根こそぎ植え替えてしまったのである。極端な話、自分は山で仙人になることもできると、思うようになった。「食べもの」に対する依存が解除されたら、それこそ「何だってできる」ような気がした。インドの修行者のような数々の超人的な妙技も「身近」に感じるようになった。その最たるものは、「ババジ」という聖者で、何千年も25、6歳の若さを保ち、身体を自在に物質化・非物質化する能力を持った伝説の人物である。かのイエス・キリストと共に働いたとも聞いたことがある。僕はそこまで、「人間という生き物に秘められた可能性」を信じるようになった。

 そうやって非常識的な世界に入り浸るにつれ、考えるだけではなくて自分も「非凡」の領域、言い換えれば「狂気」とも呼べる道に踏み出さずにはおれなくなった。その世界に「とりつかれて」しまった自分は、もう、行くとこまで行ってみるしかないのだった。下手に中断しては、それこそ夢を奪われた「ろくでもない」生き方しかできない気がした。「廃人」にしかならないだろう、と思った。

 大学の中退からはしばらく右往左往したが、ついにそこまで考えが行きついてしまったということは、「大学中退」がそれだけ大きな「敗退」また「喪失」だったということだ。学生時代は集団に英語を教えるという塾講師のアルバイトがはかどっていたので、必ずしも失望的ではなかったが、漠然とした「不透明」感が生活にはあった。「地に足がついていない」という感覚があった。
 2006年3月、僕はアルバイトをしていた京都の運送会社に無断欠勤をし、10万円を持って放浪に出た。同年9月には子供時代の思い出が詰まるマレーシアへ、日本を出るために航空チケットを買うが、どたんばになってキャンセルし、そのまま地元から宛なき放浪に出た。そうして3度目か4度目になる2007年1月の脱走は「成功」して、それがヨーロッパで「無銭徒歩」というそれまで知りもしない旅へとつながった。

『こども時代』 まえがき

まえがき  

 2010年3月1日、急遽僕の「無銭の歩き旅」が終わりました。 
 ヨーロッパの2年間、19カ国―7000km―に加え、一昨年6月から日本を同じように歩いていましたが、新潟県長岡市でひょんなことから神奈川に戻ることになりました。

 3月1日午前3時頃、長岡市内を歩いていたところ、警察官に声を掛けられ、取調べを受けました。警察官が声を掛けたのは僕の格好が薄汚かったからだと思います。無銭の旅でも、洗剤くらいは持っているのですが、真冬の新潟では服を洗う場所もなく、干す場所もなく、洗濯物は溜まっていて、一番きれいなものを着て町に出ていました。しかし、ひげは伸びていましたし、履いていた靴は自作の「タイヤチューブ」製でした。 
 西洋風の容姿と薄汚い格好では、目をつけられても無理もないかもしれません。 
 警察署で取り調べを受けた際に神奈川の親に連絡が入り、親が迎えにくることになりました。情けなくも、それが925日に及ぶ1万キロ超の旅が終わることになる切っ掛けでした。

 この書きもの 『こども時代』 は、僕がなぜお金も持たずに1万キロメートルも旅してしまったか、その動機や背景的なものを明らかにするものだと僕はとらえています。 
 ヨーロッパから2年ぶりに日本に帰る時、『今できる不食総括』という旅の記録を書き上げましたが、どうもそれだけでは事足らない気がしていました。「旅」も重要ですが、旅につながる背景も同じくらい重要だという気がしてなりませんでした。 
 そうして今年、2010年1月にまとめたものがこの 『こども時代』 です。 
 どんな人の人生もそうだと存じますが、人の過去というものは“計り知れない深み”を持っています。そう思わない人がいるとしたら、それは気付いていないか、まだ気付く時でない、何かの最中にあるということだと思います。僕はたまたま二十代半ばで人生の節目に立ったので、自分のそれをよく見渡すことができる地点にいます。いまにも仕事か、新しい課題に専念したら、周りも見えなくなるかもしれません。それは、仕方がありません。
 
 この執筆は、半分「自己満足」のようなものです。それは、家族も、日本も、お金も捨てるというところまで自己を追い詰めた「こだわり」、又、人生体験が捉えた僕の半生の姿です。しかしこれだけ書いたとしても、(!)、そこに現れているものは人生の一側面に過ぎないようです。例えば兄妹から見ましても、僕の人生はだいぶ違って見えるようです。 
 しかし、前著『今できる不食総括』とこの『こども時代』、もしくは自称の 『大学卒業論文』(2004)をもって、どのようなものが僕を「絶望」まで追い込み、予期せぬ旅を実現したか…と言うことは、十分にわかっていただけるのではないでしょうか…

 絶望も、過ぎてみれば我が人生の財産です。「絶望」と一口に言いましても、十人十色です。僕の経験したそれは大したことはなかったのかもしれません…。あるいは自殺してしまう人はもう本当に何もできなくて死を選ぶのかもしれません…。 
 僕はまだ「歩く」という選択肢を持っていました。それがまるで新しい人生を見つけてくれたのです。

 この自己満足の書きものを読んで下さる読者の方々に、深い感謝の意を表しまして、ご挨拶とさせていただきます。こんな若僧の体験話が、貴方の人生を充足しえるならば、著者としてこれ以上に嬉しいことはありません。

―――3年前、スイスから歩き出した、ちょうど同じ日に
著者小川智裕/Karol

『こども時代』 36(ラスト)

絶望
 当時は肉体をたしかに刺激する「食事」や「自慰」が、かろうじて癒しだった。自分が達成していた大学時代の栄光も崩れさり、父との喧嘩や、家族との激しい対立は自分が悪かったと思うようになった。 生きていることが虚しい。
 生きているだけ辛い。
 世の中が下らない。
 『どうせみんな、自分のいいようにしか生きていないのさ。
  そんな自己中連中の集まりだ、社会なんて。
  「自己中」を、「自己中」に見えないようにするテクニックを磨く人間が成功する。くだらねぇ!』
 『親だって、僕の元気さをうまく利用していただけさ。』

 予感に翻弄される日々が続いた。
 ただ同じような日々が流れた。すべてのことは大体予想できていて、起こっても何の新鮮さもなかった。あれでは、生きている意味が本当になかった。自己監視の悪魔が、心の中には巣作っていて僕の神経系統を牛耳った。
 「あそび」がなかった。あそびたいとも思わない。今更あそぶなんて、ばかばかしい。そう思った。

 『僕は本気で生きてきた。それでも結果はこうだった。
  これで、今できることを尽くしても何も変わらず、まだ最後まで惨めになっていくようなら、死んでやろうではないか、こんな世界。。。
  それまでの世界だった、ということさ。』


今日
 今日で、日本や家族を捨てる覚悟で日本を飛び出した日から3年がたつ。
 その3年間(約1100日)のうち900日を僕は旅した。歩き旅としてはゆっくりだが、その距離は日本とヨーロッパ19カ国を合わせて10,000kmに達した。旅を経て見えてきたものはただならない。まだとても筆舌に尽くせない。これからゆっくりと、一つひとつを言葉にできたらな、と思う。
 今思えば、今こそはっきり分かるが、僕の魂の性質や生まれ持った境涯からして、2006年の「絶望」は必然だった。親に教えられた信念体系、価値観、人間などを、持ちうる全生命力で生き抜き、限界に挑む他にすることはなかったのだ。もしそれを怠って後回しにしていたなら、僕には一向に晴れ晴れとした人生なんて見えてくるはずはなかった。
 こうして限界まで登り詰めたところで、パカッと、木の実が割れる様にして僕は「新しい自分」を発見した。それがなんだかまだよく分かっていない自分である。次も新たな限界を見定めて、僕は突進していくのだろうか?

 「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
 走り出す思考の中で僕がすべきことは、ただちに思考をやめることだった。
 そんな考えずに、「今の自分自身を楽しめばいい」という、誰でも持っているような余裕が、僕にはなかった。家出や、家族との対立に負い目を感じていた僕は、どうしようもなかった。子供の頃に試行錯誤があまり許されなかったのに、大人になってから「失敗せずに」歩めるはずがなかったのだ。父との喧嘩も、家出も、そして家族との激しい対立という闘いも、失敗だと思ったら、それをそのまま認める必要だった。

 生気盛んな子供は、あまり親が面倒を見ないと、「偏屈」になる。たとえば、手持ち無沙汰を、家の柱と見つめ合って、柱と話すようになるのだ。そうすると子供はどんどん内向的になり、親に「自分を出せなくなる」のは必然だと思う。
 しかし、何にしても、僕も家族も、大事には至らなくてよかったと思っている。
 一度憎しみに染まることを許したら、僕の手は何をするか知れたもんじゃなかった。「犯罪」も、こわくない。
 だがもし「犯罪」をしてしまったら、その時こそ僕は、自尊心のかけらもなくなってビルから飛び降りただろう、首にナイフを刺しただろう。

 自己を嫌う自分が強くなってきたら、もうほとんどそれとの戦いで、生命力を使うようになってしまう。これは、放っておけない。ただちに手を打ちたいものだ。そこから逃げる方法は、僕のように、捨てうるすべてを捨てて旅でもするか、自己を嫌う自己に徹底的に向き合って、その自分を「負かす」ことです。不可能ではありません。キーワードは「愛」とか「喜び」です。自分の心を純粋な喜びや愛で満たすことが自分に許せるならば!、別に僕のように何年も旅しなくてもいいのです。


■■■ おわり ■■■
 執筆期間: 2010.1.1 - 2010.1.20
 タイプ:    2010.4.25 「終了」 

『こども時代』 35

症例 2
 飛蚊症の呪いもひどかったが、「思考が勝手に走り出す」というような体験もあった。意味のわからない、狂った思考が頭の中で勝手に展開されていく。2つの有りそうな例を思いついたので書いてみたいと思う:

 A― 頭の中に1つのイメージが思い浮かぶ。
    なにやらそこに何かの機械と牛に与える干草がある。
    リアルな牛舎で、人がその機械に干草をかけ、真面目に働いている。
    干草は機械によってほぐされて出てくる。用途はそれだけの機械である。
    秋に機械によって圧縮され、束ねられた干草はたしかに固まっているが、それを牛に与える前にほぐすのは、人かもしくは牛が自分ですることだ。
    「機械でやる必要がない。」
    「全く意味がわからない。」
    しかし、頭はまじまじとそういうシーンを扱う。

 B― 雪印乳業のチーズのコマーシャルに昔、
    「スライスチーズは雪印♪」というキャッチフレーズがあった。
    ある時、「フランスベッドは雪印♪」と、僕の頭に思い浮かぶ。
    なぜかは分からない。特に意味はありそうにない。
    だが思考はそれから更に話を続ける。
    『分からないよ?「雪印」がフランスベッドを生産しているかもしれないよ?そうだとしたら、どうだろう…。』
    頭は僕にそう問いを投げかける。

 面白みがあるわけでもない、ただ不条理で無機質、何の価値もない発想が起こっては意識を奪われた。そして、こういう意味のわからない自動的な思考に限って無視しようとするとその話が余計に強く印象付けられた。ひどい場合には後で複数回同じ光景やイメージを見せられることもあった。そうなるといよいよ「自分は気が狂っている」と思いかねなかった。僕は「このような思考が頻繁化すれば、自分の思考をコントロールできなくなる」という不満に襲われた。
 
 自分の内面的世界が異常を見せる一方で、家族に対する僕の理解はかなり進んでもいた。その時僕は24で、実家を飛び出した19の時から少なくとも4年はたっており、その間に家族についてたくさん研究していたのだ。実家に帰れば、家族の一挙一動が気になった。ほんの些細な言動でも、僕の目は見逃さなかった。実家で目の前に展開される映像は、僕の頭の中とほとんど変わりがなかった。家族一人ひとりの言動が、手にとるように分かる気がした。
 それだけに失望もした。兄や一番上の妹Yが社会に出たときに経験しなければ済まない苦労が僕にはよく見えて、哀れで痛ましくて、しかたがなかった。兄妹にとって明るい、若者らしい時代などまるで見えてこなかった。


症例 3
 「思考が走り出す」という現象は、健全な思考の中でもよく見られた。 たとえばある日、父の頑固さが気になった。その頑固さはどこからくるのか、僕にはそれなりの見当があった。例えば母の、父に対する配慮不足(独り歩き)から、例えば今の塾生や兄妹達の自分勝手から。例えば家族の不理解から。
 父一人を見ると、そのどんな性質も、決して解くことのできない問題とは思えなかった。むしろ、家族でも、一人ひとりを見ると決して難しくはなかった。問題は僕が一人ひとりの人間的傾向のもとに、自分を監視するのと同じように家族を監視していたことなのだ。
 父の頑固さが気になれば、そのことが兄妹などで話題になった時に、僕はそれに絡む特定の問題を、日常生活の中からピックアップして話し意識の共有を試みた。家族、特に兄妹では、家族について、父さんについて、母さんについて、生活塾についていくらでも真面目な話が挙がった。心の優しい兄妹達は、自ら進んで小川家族の問題を深くそして真剣に扱うのだった。
 そんな中で、僕は日本を飛び出す時まで「話しによって」問題の解決を図ったのだが、そこには手順に大きな間違いがあったことには意外と気付いていなかった。少し脱線するが、話してしまいたいと思う。
 「こども時代」の中で書いたが、小川家や、親の経営する寄宿塾を取り巻く大部分の問題は夫婦の不通によるものだった。おそらく、母が夫婦間にとどめておくべき問題を子供と共有し始めた昔に、兄妹には家族について話す習慣が生まれた。それが家が寄宿生活塾となって、より多面的な問題が生じた時に兄妹は無意識にそこに飛びついたのだ。これが「過ち」の始まりだった。もちろん両親には子供が“無謀にも”「家族について」議論を交わしていることについて配慮はなかった。ないどころか、そんな関わりを求めるところすらあった。
 絶望の当時、僕はだが、最後の最後まで、言葉による家族の「意識統一」を目指した。その中で、思考の迷宮に入り込んで疲れ果てて、何もできなくなってしまった。
 
 「父の頑固さは、母のここが変わればよい」と思えば、それを母に共有した場合のことを考えた。「おそらくこんな意見が返ってくるだろうなぁ」というが分かった。そして一つひとつの場合において何が言えるかを、それまた詳細に考えた。それは当然、父と母にとどまらず、兄妹や、寄宿塾生を考慮に入れて、時には彼らも交えて検証を続けた。
 月十万円程度のお金をアルバイトで稼ぐ以外は、たっぷりと時間を、思索に費やした。時には家族の問題からとんで、自分自身や、哲学や宗教の教えとして検証を続けた。家具も風呂もない、閑散とした六畳一間のアパートで、膨大な執筆を行った。精神的に病んでいたため、食事はみだらになり、風呂に入らない日がつづき、睡眠時間も長かったが、起きている時は進んで執筆に向かった。
 家族の問題について、ありとあらゆる切り口から検証を試した。2006年はだが、そうして得られる斬新なアイデアや、理解も、あまり出なくなっていて、僕の腐心に対する家族の無知や無関心が辛かった。 アイデアや知識、理解が充実するにつれ、家族の問題一つを取り上げれば半自動的に理論が展開するようになった。それは、もし「小川家」という学問があったとしたら、それを究めた学者みたいに、理論を展開できるのだった。
 思考はまるで映像のように、次から次へと展開した。しかし、どう展開しても、どれだけ展開させても、希望的なものは見えてこなかった。10回考えれば7、8回は悲観的な結論が出た。2,3回はうやむやになって、放棄した。稀に希望的観測が得られたが、消え去るのも時間の問題だった。
 「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
 真剣に一歩一歩確認した理論も、希望の見出せない結果に終わってしまうと、その努力は水の泡と化し、意気消沈した。

『こども時代』 34

飛蚊症という名の「呪い」
 「家出」と家族否定は僕にとっても大きな負担だった。家出は歴然とした「負い目」だった。
 父と喧嘩して兄のアパートに転がり込んだ頃、視界に異常を感じた。視界の真ん中に大きなゴミが浮いているのだ。大学一年次はパソコン技能を急速につけなければならず、授業も大変で、目を酷使していた。「飛蚊症」と呼ばれる、視細胞の眼球内の浮遊は、それ自体問題はないのだが、急激に発生する場合は失明の前兆という場合がある。とにかくその頃から、目に浮かぶゴミが急発生して、これには僕は不安を覚えた。眼医者に見てもらって「網膜はきれいですよ」との優しさのこもった言葉をもらっても、僕の不安はなくならなかった。
 飛蚊症(視界のごみ)は、ある特定の精神状態の時に強く意識され、それが気分を左右した。2003年になっても2004年になっても、「家出がいけなかったのだろうか。あの、父との喧嘩がやっぱりいけなかったのだろうか。」 と不安になる時があった。何かに熱中していると、視界のごみは見えなくなるが、休んだり、気持ちが消極的になると、とたんに気になって、しかたなくなるのだった。
 絶望の只中にいる時は飛蚊症によく「ノックアウト」された。ふと朝目が覚めた時に、ゴミが意識されたり、目ぶたが重かったりすると、それだけで落ち込むのだ。それはまるで「呪い」のようで、抵抗できず、自己嫌悪を促した。
 痔によって便に血がついていれば、「ハァ。。。目も、腸も一人暮らしになってからの食生活のつけが回ってきているんだ。早く手を打たなければ。」と、食生活を変える(自制する)余裕なんてないのに頭はそう考えて心を砕いた。


症例 1
 2006年頃の僕の精神活動には次のような症状が認められた:
ケース
  1 
 「コンビニに行こう」と思っていたら、僕の始めたことは皿洗いだった。 (1時間とかたった後で思い出す)
  2 町に出たのに、一番したかったことがどうしても思い出せない。    
    思い出そうとすると「ブロック」もかかっていて、仕方なく家に帰る。
    (家に帰って一段落した頃やりたかったことを思い出す。)
  3 (2の他例) あるいは、一番したかったこと(例えば「本屋で本を買う」)を自ら否定してしまう。 (理由をつけて「本は買うべきじゃない」と思う)
  4 ラーメンを食べに行こうと思っていたら、急に「マクドナルド」という内なる声がして、マクドナルドに行き、満足せずに帰ってきて、コンビニに食べものを買いにいく。

(僕の場合、公の面前では変な行動は出なかった。自立心が強かったためと思われる。これらの症状はすべて自分自身で感じうるものだ。)

 人は何かのこだわりや、信念によって「心」に反発し、し続けると次第にこうなるのかもしれない。僕の場合世間体や名誉は捨てても、自立心は手放さなかったため人の迷惑になる前に日本を飛び出した。しかし、そうでなくすべてを放棄して精神的異常をそのままにしていると、きっとこの先に「精神病」があるのだ。
 ケース2に挙げた「ブロック」についてだが、これは本当に不可解な現象だった。思い出そうとしても、素直に思い出せないのである。それはあたかもアプローチが拒否されているような感覚で、精神が、まるでそっちのことを見れなくなってしまう。時々体験するそんな異常現象だったが、これは恐らく、普段から「心」というものに素直に従わないつけが全く別個の精神活動において現れてきたものだ。
 ケース3についてもこれに似ている。普段から自分を疑い、自己批判や監視が過ぎると、全く別個のそれまで普通にできた精神活動に同じような現象が起こる。しかしこれは、全くもって迷惑な話で、単純明解な欲求までがフィルターにかけられ自動的に疑われてしまうのだ。自分の中に、別個の人格があるのではないか…と思いかねない。
 ケース4について。これもケース2や3に準じている。しかしこれは、最も困ることで、自分の欲求のコントロールを失うことを意味している。「ラーメンだ」と思っていた心は、マクドナルドに行ったことによって無視され、しまいにはコンビニに行くことで余計にお金も使ってしまう。心は自分が何を欲しているのか見失って、しまいには「あれもこれも」とねだる状態になる。「声」というのはその抵抗できない性質から、そう感知される。思考の余地がないのだ。 次に、これの延長とも考えられる症状を紹介したいと思う。

『こども時代』 33

第三章 絶望の記憶Ⅰ


精神分裂質
 絶望について記憶を手繰ることは、本当はあまりやりたいことではない。今日僕が希望を持って生きているのは「それを忘れている」からであり、下手に思い起こすことは危険ですらあると思っている。
 しかし今回、「こども時代」を書くにつれてあまり無理なく過去の精神状態を思い出し、いくつかの有力なメモを作成することができた。それは絶望の精神の一部でしかないかもしれないが、以前だったらこれだけ思い起こすことはできなかったと思う。

 2006年、仕事以外は自分のアパートに籠り、友人もなく、することもなかった僕は自分の精神を観察するようになっていた。
 「!?、今のこの希望の感触は何か!、どこから来たのか。」
 「なぜあの時は邪念に邪魔されたのか。」
 「こういうところで自分に逆らってみたら、どうなるか。」、云々。自分で自分を「監視」していた。
 そんな中で頭が勝手に思考を始めたり、予想もしないことを発想するような症状があり、それを僕は、精神活動が「分裂」しているのではないかと思うようになった。そのつながりで僕は精神病に興味を持ち、「分裂病」の入門書を買ってみた。
 分裂病の定義や専門的な解説部分はほとんど頭に入らなかったが、患者の症例や行動に関してはなんだかよく分かる気がした。完全に自分の世界に入ってしまい、「奇行」に走る患者、一見普通に見えて人をだまし、激しく同情や、怒りや、喜悦に浸る患者。まったくもって交渉の余地がない、認知系統の異常を持った患者…。なぜ多くの患者が自分自身によって狂気を生きなければならなくなるか、僕はわかるような感じがした。
 ヴィンセント・ファン・ボッホは、晩年に分裂病になっていたらしいが、買った本の冒頭には彼の言葉が載せられていた:
 「他に手段があったのなら、何も進んで狂気を選ぶことはなかっただろう。」
 僕は自分自身の精神異常は必然だと思われたため、この言葉に深く共感した。

 異文化の、心はまるで別次元を生きているような両親に育てられた僕には、もともと「分裂質」の傾向があったかもしれない。全く同じことでも、父に言われた時はAで、母に言われた時はBであるというような、一見ルールのない、複雑な世界に生きていた。
 二十歳前後からの「自己改革」にも原因があるかもしれない。親に教わったものを根底から疑い、世間一般人の感覚を身に付けようと躍起になった僕は「自分を打ちこわす」ようなこともした。弱い自分をわざと絶望に立たせるような、そんな行動をよくとった。
 自分が感知しうる世界は心広く、訳隔てなく受け入れるよう努めた。それは西洋と東洋という二大文化だけでなく、社会、風俗、女性、男性、子供も老人も、この日本で、とにかくすべてを対象にした。「僕は大学生であるから…」とか、「そういうのには興味がないから」という絞込みはしないで、できるかぎり感性を開いた。そこまでしようと思った動機には、「神様」を求める気持ちや、「真理」を知りたいという強い欲求があった。「自分の人生を捧げてでも…!」という思いがあった気がする。言い換えれば「楽しい人生」・「豊かな人生」・「幸せな人生」というような現世的な願望には興味もなかった。

 「自分という人間はまだまだこんなものではない!」
 「今認識している自己というものは、「いいかげん」にできたものかもしれない。」
 「感覚を意識的に改造すれば(心に沿っていけば)、全然違う人間にもなれるのかもしれない…!」
 恋愛で大きく変わった経験もあって、そんなことを思っていた。そしてだが、意識的にこれまでとは違う行動、目線、体の使い方などを試しているうちに、自分らしさというものが薄れていった。体を動かすことが好きだった自分が、しだいにそうでもないと思ったり、ある人のタイプが嫌いだと思っていたのがそうでもない気がするようになった。それは、感性の「拡大」、人間の深まりのようにも感じたが、長い年月で培った自分の素養を台無しにすることでもあった。たとえば自分の長所であった「優しさ」とか「礼儀正しさ」というものを僕は、どんどん捨てた。
 2006年の僕は「分裂病」であったのかどうかは分からない。しかし当時僕にあったのは分裂病でも何でも、親のすねをかじってしか生きられないくらいならば、死んでやろうじゃないかという気持ちだった。


自己改革と生存的危機感
 親(家族)を否定し、自己改革を行い始めた2002年頃からは、度々動物的な、生存的危機感に襲われていた。「こんなことして大丈夫か?」という自然な不安を押し殺して自分を追い詰め、駆り続けたからだ。自分の信念体系を大きく崩してしまうと、それはたとえば「生活」を大きく変えるのと同じことで、生命にとっては大きな負担だ。2006年にはその突如として襲ってくる生存的危機感も、定着し、精神的危機感に拍車をかけていた。
 僕が自己の内面に入り込んで籠ってしまったのには、親の教育の影響ももちろんあると思う。例えば親は僕ら子供に「それは本当なのか?」「たしかなのか?」「自分を十分疑ったか?」というような問いかけが過ぎた。子供だから、あまり考え過ぎても却って不健康なのだが、親はどちらも、しきりに熟考を僕らに促していた。大人になってから、人はもっと直感で動いてみなければならないものなんだということを、僕は自分で体験的に学んだ。特に「旅」ではそれが何より大切なことだった。自分のセンスを生かして使ってこそ、人は本当に貴重な学びを体験するのだ。僕の親は子供自身のセンスや理解というものに目を向けなかったため、僕らも子供として余計に自分達の感覚には自信がなかったと思う。
 たとえば、こんなこともあった。自分達には分かりにくい日本の映画などを観て、人が感動するシーンがいくつかある。しかし日本と接触不足であった自分にはその多くが分からない。映画を楽しむ以前の段階なのだ。しかし、友達は中学生にもなればドラマなんかの登場人物の心理がかなり分かって、それに触れて楽しむ。しかしそれが分からない自分は(こういうシーンではこう感じなければならない。)とか、自分の感受性を操作する傾向があった。あるいは誰かに何かをもらって、大してうれしくなくても、(ここで喜べなければならない。)と思うのだった。

『こども時代』 32

子供から飯を奪ったら
 一昔前だったら子供を育てたというだけでも立派だと言われたんじゃないだろうか。子供と向き合う時間や与えるごはんを用意するだけでも一苦労な時代である。
 しかしつい50年前にはあったそんな時代が、めまぐるしい変化を経て、今日はワケがまるで変わっている。今日子供に飯を与えられない親がこの日本にいるだろうか。むしろ今日の親の関心は、子供を塾にやれる金はあるか、大学までやれるか。多くは経済的問題に集約されている気がする。
 ところが、「子供に飯を食わせる」という課題がなくなってしまったわけではない。一人の人間が1日100円、コンビニのアルバイト(10分相当)をすればとりあえず飢え死にしないという豊かな時代となって、人々は食べものの有り難さを忘れているだけである。

 しかし人から食べものを奪ったら、人が食べものに飢えたら、たとえ日給1,000円でも、人は働くだろう。丸一日働いて家族を食わせる食糧しか手に入らなくても、人は働くだろう。食べものとは、それくらい大切なものだ。
 同様に子供から飯を奪ったら。子供は何でもするにちがいない。学校に行けなくても、友達と遊ぶ時間がなくても、小さな体と小さな頭で、生存のためのできる限りを尽くすに違いない。親に尽くすに違いない。

 これほどではないが、僕の親はこれに似たことを家庭で行ったと僕は感じている。それは兄妹の中でも特に僕が苦労した「食べものコンプレックス」だ。親は、「食べものが毎日あるだけで、感謝しなければならない」「(食べものに関して)贅沢は言うな。」「あるもので満足しなさい。」… と言った。しかし僕は「飢え」続けた。食べものは確かにあったが、違う食べものに飢えていた。「みんなと一緒である」という一体感、安心感に欠かせない、条件としての食事だ。もう少し具体的に言えば、おべんとうに白米と赤いうめぼし、かつおぶし(おかか)やウインナー、コロッケ、そしてミートボールを持っていくことであった。
 親は自分が偏った食事で二度大きな病気をしたために、その教訓としてまた滋養として「玄米菜食」を家庭に採用したのだが、僕には自分がそこまでする理由が全く理解できなかった。苦しいだけであった。でも親がそうと決めるからには従うしかなかった。それが子供の心にとってどんなに理不尽で、自虐的で、苦しくても、親がそうと言うのには逆らえないのだ。外へ一人で出ていっても生きてはいけない身だからこそ、どこまでだって自分を犠牲にしうるのだ。

 僕を含め上の兄妹は特に「おひとよし」に育った。親が喜ぶような生き方をすることにだいぶ専念してきたからだ。僕自身今日でもまだその傾向があるかもしれない。ところがこの世というものは、そういう人間にとっては「酷」だ。きれいなことばかり言っても、やっても、生きてはいけない面を持っている。「強く」なければならない。(生存)競争に立ち向かっては必死に闘い、自分を磨いていかなければならない、時には仲間の足を引っ張ってでも自分が生きなければすまない、それがこの世界だ。人はそこから目をそらしたがるから、そうでない社会や環境をつくろうとするけれど、根底にあるのはいつの時代も、過酷な原理だ。
 僕ら小川の兄妹がいち早く身につけなければならないのは、いかにしたら抜け目なく器用に利用されずに生きられるかという処世術だ。


結論
 (「こども時代」のために用意したメモには、まだいくつか、重要な憎しみ(親に対する)が残っている。しかし、省略したいと思う。親を弾劾することがこの執筆の目的ではないのだ。それはそう簡単に消えるものでもないから、刺激的なことをむやみに載せることは控えようと思う。察しのよい読者ならば、僕の経験した憎悪の“輪郭”を汲み取って頂けたと思う。ただし、第三章「絶望の精神」においては十分なメモが用意してあるので、「絶望」について詳しく書きたいと思う。)

 親は「冒険家」だったと、前に述べた。結婚し、子供をつくること自体が大きな 冒険だった。冒険であったから、当然、そこには危険が伴った。「幸せな家庭を築きたい」と願う夫婦にはまずないだろう危険が僕の家族にはあった。その一つが、僕の経験した絶望だ。まだまだ、これからもこの家族を困難は待ち受けているだろう。冒険者である以上、困難はつきものだ。
 しかし、今こうして、自分の半生を振り返ってみて思うことは、「僕はこの親を選んで生まれてきた」ということだ。この飽くなき挑戦者でありロマンチストである2人を僕は選んで「生まれてきた」のだ。彼らだったからこそ経験できたこともある。
 人間として生まれてくる以上は、誰にだって不具がある。ある人は金持ちに生まれるが、人間関係が欠乏し、ある人は目が見えないが人を癒す存在となる。またある人は病気で早死にするが本物の愛や神様に出会う。

 日本を無銭で飛び出す前に自分の完成や、完璧性を求めてやまなかったころ、こんな気付きがあった。 

 『み~んな未熟。  事件、事故、不幸、戦争、殺人…。これらは絶えない。日常茶飯事だ。  それがニンゲン。  その中で生きるなら、「どう生きるか」を考えなければならないんだな…。人間は失敗をするもの。へまをしてなんぼ。』

 精神的にボロボロだったけれど、それは確かな大きな気付き(悟り)だった。
 「人間である」ということ。悟りは、一朝一夕には来ないということ。親の教育の影響で、せっかちに「大悟」を求める自分が人生とは「人間を楽しむ」ことでもあるのだと後に悟らされた。

 この世の醜さや不条理を嫌って死んでいっても、それでは神様が何のためにこの世界をつくられたのか、分からなくなってしまう。
 見方によってはこの世は美しい。青い地球と大自然、多種多様な生物たち。人間たち。朝が来れば日が昇り、夜がくれば月は輝いている。その美しさは、人間が生きるための「おとり」ではない。人間を喜ばすためのものだ。
 そんな「人間」を生きながら、いかにしたら「神」に近づけるか。それが僕の新しい人生のテーマであると、今日思っている。


 P.S.
 父一人では子供は生まれなかった。
 母一人でももちろんそうだ。
 二人がいたからこそ自分は生まれた。
 二人がいたからこそ自分は絶望した。

 「子供をつくる」とはそういうことかもしれない。
 我が身には背負えないなにかを、子供は必ず背負うて生まれてくる。
 我が身を超えて生き行く命の、「人生課題」だ。
 そうやってこの世の命はつづいてゆく。
 けなげに、ひたむきに。そうではないか。

『こども時代』 31

家族に認められたい
 家族と「共依存」的関係にあった僕は、確かに大学時代自力で「成功」しても、それを認めてくれる家族が必要だった。それは元彼女とか友人、たとえ恋人でもだめだった。そもそも僕には次なる彼女をつくる心の余裕もなかった。家族、父、母、そして兄や妹でなければだめだった。
 ところが、前述した様に家族の僕の奮闘に対する理解は本当に乏しかった。それで僕は、200万円の貯金でのこり少ない大学生活を、ゆったり、やりたいことやって過ごすという気にはならず、まだ挑戦をつづけた。
 ちょうどその頃、僕は「不食」思想に出会った。
 ―人は食べなくても生きられる―
 たしかにそれは、運命的な出会いだった。「不食」を知ってしまった以上、元の生活には戻れなくもなった。社会の中で、ただなんとなく自分のできる仕事をして、結婚して、子供を育てて…という生き方にまるで興味がなくなってしまったのだ。
 大学時代に超能力者Iさんに会ったことや、本を通して岡本太郎などの熱き先人らの生き様に魂が揺さぶられるのを経験していた。僕はもう、おとなしくはしていられなかった。


転落
 大学をやめてからはだが、人生は急に下り坂になった。スイスに行く前に、軽い気持ちで寄ったマレーシアで50万円を騙し取られた。「いかさまトランプ詐欺」というやつで、日本人の心の弱みを熟知した、マレーかフィリピン系の行為即妙な詐欺師だった。警察と手を組んで、詐欺師の家をつきとめようとしたり、電話でうまく詐欺師をおびきよせて、警察に捕まえてもらえないかなどと必死に考えたが、しまいには自分の命の危険を感じて、命からがらスイスへ飛んだ。
 本当は日本に帰るべき、精神状態だった。マレーシアの空港を出る時には長かった髪を坊主頭にし、サングラスを掛けて、飛行機が離陸したときには心底ほっとした。
 向かったスイスでは案の定「失敗」した。詐欺の当惑が抜けなくて、雇われた職場でも自分を十分に発揮できなかった。貯金をむさぼり食うように、物価の高いスイスで数ヶ月過ごした後、とうとう限界が来て日本に戻った。
 日本に帰ってからは、「違う日本を見よう」と思って京都に行ったが、元の調子を取り戻すことはなかった。失敗を重ね、惨めになるにつれて自尊心もなくなっていった。家族に認められることはもちろんなく、僕の大学時代の確かな成功は見事過去に葬られてしまった。「また塾講師に返り咲くか?」とも何度か思ったが、そんな後ろ向きな選択はよくないと思った。「行くとこまで行ってやろう」と、思っていたかもしれない。
 京都で勤めていた半日の電線配送の仕事を無断で休み、放浪に出た。三日目にアパートに戻った時には、そこに母がいた。僕はそれで地元相模原に帰ることにしたが、それからはもうボロボロだった。京都から相模原へ戻った10ヵ月後には、また日本を飛び出していた。



 四編  総論


結果しか見ない親
 子供の心を十分に知らない親は、僕の大学時代の成功も、そしてその後の奮闘と苦悩も知らなかった。特に僕などは大学から「自慢するためではないから」と、一人黙々と精進したのだが、それが見えない親はいつまでたってもすげなかった。
 ヨーロッパ7000kmの旅を終えて帰ってきた時にはやっと、親や家族の僕に対する態度が変わっているのが分かった。2年間の旅や断食の実績が僕を絶望から救い上げてくれたが、その時、 「(こんなにばかすか子供を産んで…)息子の一人くらい自殺で失っても、不思議じゃない親だな…!」 と思った。思えば子供の頃も、自分らが限界になる前にはほとんど気付いてくれず、あえぎ声をあげたら初めて手を打つというような親がいたような気がする。

 親への憎しみを言い出したらきりがない。
 たとえば我が家には「ゆとり」がなかった。『子供時代 関係的貧困 情報不足』のところでも触れたが、子供の頃の僕らはいつもどこか焦りの中にいた。母が夫婦関係で補えないものを必死になってカバーしようとした、そんな影響もあるだろう。僕らは母によってもたぶんにせかされていた。
 大人になってから僕は、よその人間が自分とは比べものにならないほどゆとりの中にいるのかもしれない…ということに気が付いた。そして自分の家族での在り方を否定しながら、生活に「ゆとり」を呼び込もうとしたが、なかなか大人になってしまった自分を変えることはできなかった。
 母は昔から、つい焦るところがあって、その焦りの中でいかに精一杯動き回るかということが大事なのだと僕らは無意識のうちに学んだ。「焦らなくて済むように」とか、「よく全体を整理して…」という余裕の在り方は、あまり美しくないと思われた。M教道場の奉仕でも、家の掃除でも必死になってやることが一番なんだと、そんな教育があった。
 おそらく母の持っていた焦りの性分は、自分自身の家族で、五人弟妹の長女として大変だった頃の名残りだろう。母の性格的な「軽さ」も、母の未発達の部分であると思われる。
 しかしそれに対して父という人はしっかりと世間並みの「ゆとり」を知っていて、また採用している人でもあった。父は昔から、自分が子供の頃から、十分なゆとりの中でぬくぬくと育ったのである。
 僕は妻や子供達の焦りを見ながらも、まるで知らんぷりをし続けた父を深く憎らしく思った。

 父にはたとえばもう一つ、すごく自己中心的なところがあった。
 日本人だったらふつう、相手を見てから話すものだ。相手が何をしているか。気分はどうか。話し掛けてもよいかどうか。どう話し掛けられそうか。そして大丈夫そうだと分かって初めて言葉を掛けるのが日本人ならではのきめ細かな感覚だと思う。しかし父は、自分の妻や子供が外国風であるのをよいことに、また主としての権威を誇張して、そうしないところがあった。
 相手の意向を伺いもせず、突拍子もなく自分の話を始める父。家族は皆、これに参っていた。日本に定住し、寄宿生活塾の中でもよくそうする父がいた。
 マレーシアやドイツの頃だったら、西洋的な心でもって、あまりそれも気にしなかったが、日本で父に日本人らしくないことをされてしまうと、さすがに僕らも反感を持った。父も含めて家族一同、大変な時期だった。
 やはり夫婦の意思疎通の不足が一番の問題だが、今では父がそうであったワケも、理解できる。家族を前に「父」であるために、父は日本人として一人前であることも捨てなければならなかったのだ。決して父が察しの悪い人間だったというわけではない。決して父が他人の顔色をうかがえない欠陥の人なのではない。家族生活の中でひょっとしたら無意識にもそうなってしまったのだ。
 

『こども時代』 30

兄妹
 大人になってから、仲がよかった兄との関係は、悪くなった。僕が恋愛や一人暮らしを通して自分の世界を深め、父との喧嘩で家族の在り方を全否定したこともあるかもしれない。
 大学一年の夏休みに、兄と二人で自転車旅行に出た頃から、兄とはある根本的なところで分かり合えなくなり、それからはずっと対立し続けた。
 僕が訴えていたことは自分のことだけじゃなくて、兄妹のことでもあったが、それはほとんど伝わらなかった。

 ある時から、兄貴の心の構造は、自分以上に「西洋的だ」と思うようになった。大胆に自分を改革した僕に比べて、兄は無難に昔ながらの性格で大学生活を送り、社会へ出ていった。しかしそれから、兄は引越しと転職を繰り返し、落ちつきのない生活をしている。
 「心が多分に西洋人だからだ」 そう、僕は思っている。楽天家で、パワーがあり、大きな夢を持っているから元気にやっているが、いかに自分達が文化の混合によってハンディを負っていたかということは、兄にも気付いてもらえたらと願っている。特に「もう親のために生きてはならない。僕らの時代が来たんだ」と、僕は言いたい。

 一番上の妹は高校の終わりに「妊娠」し、今日シングルマザーをやっている。もうじき3歳になる男の子は、誇れる健康優良児だ。実家で、親と一緒に生活している。
 妹は昔、どこかぱっとしないところがあった。やんちゃな男兄弟の下に育って、あまり女の子っぽくもなかった。もの静かで、自分が薄く、こだわりを見せない不思議な妹だった。その彼女が妊娠した時は、それは「絶望」と時期が重なり、「親の関わり不足が原因だ」と思ってやまなかった。「人工中絶」を当然視するような相方の親と、中絶に反対する自分の親の間で、妹は苦しんだ。
 「みやがれ!お前達の手抜きがこういう形で出てくるんだよ!」
 と僕は、親に言いたかった。妹は苦しんだが、僕が日本を飛び出した後には元気な男の子を産み、今日も元気に生活している。


◆「共依存」
 周りの子に比べ明らかに恵まれず、関係的貧困に苦労し続けながらも、なぜか僕は親をはじめとする家族との関係が諦められなかった。
 2006年、僕が最も苦しんだ頃に親の決定的な不理解が露呈した。父も、母も。しかし僕はそれを憎みはしても仕返さなかった。例えばこんなことがあった。
 寄宿生活塾に入ったK君を僕はよく相手をして彼の大学受験のサポートとして家庭教師もやった。しかし父とKについて意識を十分に共有することができないことや、自分自身の内面的トラブルもあって、僕はKの家庭教師をやめることにした。塾講師の頃のタフさはなく、Kのわがままにも耐えられなかった。そしてしばらくしてKが塾をやめた頃、父にこう言われた。
 「これで(君も)どんだけ手をかけなければ子は育たないか、わかったでしょう。」
 子供達の教育に、最も手を掛けないのは、他でもなく父だった。
 同じく2006年、僕はチャンスさえあれば親や、家族の変なところを、言葉で伝えようとした。それは幼い頃からの、家族への誠意の表し方だった。
 ところが、僕もしつこかったのだろうか、母はある時、しびれを切らしてこう言った。
 「ともひろのいいかげんな成長の段階には付き合ってられない!(ともひろのいいかげんな成長は相手にしない!)」
 僕には、家族を攻撃する気持ちなどなかった。むしろ自分に見えていることを伝えたいと思う、家族への忠誠がその根っこだった。しかしそんな心を母も、まるで感じていなかった。

 幼い頃から僕は進んで皆の前で話をした。うれしかったこと、いやだったこと、楽しかったこと、つらかったこと。それは聞いてもらいたかったというのもあるかもしれないが、そうやって家族とコミュニケーションを図ることが好きでもあった。「自分を出す」という点では僕は、兄や妹よりも慣れていた。
 大学一年の終わりに父と喧嘩をして家を飛び出した僕は、劇的に自分というものを、社会で試すようになった。経済的に親から独立し、塾講師をやったことなどはその最たるものだ。
 ところが、家族はそんな僕の奮闘に「気付かなかった。」
 父との喧嘩から2年10ヶ月。僕は大学中退を決したが、その間に学んだものはとても多かった。家族を「否定」し、自分の感覚を養うことに専念したその時間は、本当にたくさんのことを習得した。それまで表層的な理解しかなかった日本や、日本人というものに関して、塾でたくさんの子供達と触れ合ううちに多くのことを学んだ。経済的逆境を自力で乗り越え、大学卒業のための単位も大して残っていなかった。
 そんな僕は、親や、家族の在り方を否定しながらも、時々帰った実家ではありのままの自分を出し、家族が、寄宿生活塾として「こうしたらよい」と分かるところは母や兄妹などに伝えようとした。そうすることがなにより、子供の頃からの家族を前にした僕の役職みたいなものだったからだ。
 「家族を否定しながらも家族を思ってアドバイス」
 一見、妙なことだが、僕は一人暮らしが軌道に乗っていたため、その自分が勝ち得たものを「自慢」ではなく、純粋に分かち合おうと思っていたのだ。

 これにはだが、母も兄も、もともと距離のあった父も非常に「冷ややか」だった。僕は、あえて昔ながらの「智裕」で話をしているんだ…。なぜ相手にしてくれないのか…。そして、「いつまでも子供のままである」自慢や自己主張の好きな智裕とでも思って、2006年でさえ皆は、僕を軽くあしらったのだ。
 きっと、「恋愛」や「一人暮らし」を通じて、僕が一人「まい進」してゆくのが恐ろしくもあったのだろう。「この智裕は、どこまで一人でやっていってしまうのだろう…。」 父との象徴的な喧嘩で飛び出していった僕が生活や人生に成功したら、それは家族にとってはショックになるのだ。それこそ僕が望んでいることではなかった。
 大学3年次の秋には、だが、僕は「次なる」挑戦へと買って出た。大学をやめてスイスに行くことだった。

『こども時代』 29

情けの民と合理主義のゲルマン
 異文化に関してはあとひとつだけ触れて終わりにしたいと思う。 スイスドイツ人は、いわゆるドイツ人の固さは控え目だが、同じゲルマンの民として日本と比較したいと思う。

 僕が大学をやめて23か24の頃だったと思う。基本的に挫折の中をさまよっていた僕だったが、時には少し開き直って新しい目で日本を見る自分がいた。仕事も大学時代の塾講師から派遣アルバイトスタッフ(引越し、軽作業など)や2tトラックの運転手と、ランクが落ちていた。そんな情けない惨めな自分を仕事仲間を前には苦笑いしてごまかしてみた。プライド高きゲルマンの心ではとうていできないことだ。すると驚いたが、不思議と仕事の仲間が寄ってきたのだ。自分の弱みや失敗をありのまま出してしまうことで、人間関係がうんと楽になる気がした。
 「失敗しても、それを隠さないで出してしまうと、不思議とうまくいくんだな。」
 そんなことを思った。まだ見知らぬ、日本の処世術だった。対してドイツやスイスではどうかというと、失敗を、頭をぺこぺこして苦笑いしてみせれば、 (情けないヤツだな)と思われるだけである。職場だったら、 (なんだその態度は!)と思われて、 「責任をとってもらおう。」と、言われてしまう。だからドイツなら、失敗をしても、どう失敗したのかを真面目に話し、これからはどうするのかということを共有しようとするのがまっとうな在り方だ。
 日本だったら、どう失敗したかを真面目に延々と話されても、上司はほとんどめんどくさくて 「うるさい!要点だけ短く話せ。」 と言いたいところだ。したがって社会では自己管理がきちっとできていて、堂々としていると認められ、よい思いをするのがドイツだ。

 もうひとつ。町を歩いているとする。
 なにやら不審な人物が、建物の陰に居る。日本だったら、「何あの人。早く行こ。」 というのが普通だろう。変なことが起きる前にいなくなってしまえばいいという心理だ。また仮にその不審者が「困って」いたとしても、 「関わり合いになりたくない」と思い、見ても見ぬ振りをするというのが普通だ。それが日本では、難を避け、足をすくわれずに器用に生きるための基本だ。
 では、日本では不審者は自由なのかと言ったらもちろんそんなことはないのはご存知の通りだ。町には必ず、そういう人物を取り締まる人間がいる。警察でなくても、地元の人間がうまくそういう人間にアプローチし、事情を調べ、それに応じて対策を講じる。警察なしで済んでしまうことも多い。
 ゲルマンはどうするのかと言えば、意外と暇な人間が町を歩くついでに不審者に声を掛けたりする。「変なことを企んでいるんじゃないだろうな?」という気持ちをぶつける。それで不審者が奇行に出れば、それはすぐさま警察沙汰だ。近隣の人々も、(不審者がいる!)と思ったらすぐ110番する。自分達でどうにかしようとはあまり考えない。「そういう時こそ警察の出番だ」と思っているのだ。
 でも不審者も、厳しい一般人の目で見つめられてしまうと、ふつう悪いことはできなくなる。それくらい向こうでは個人が、社会を代表して判断力を行使できる。それでもそれに反して何かやらかせば、不審者の処罰は厳重で、一般人の抱く恨みも尋常ではない。
 ドイツ人にももちろん 「関わり合いになりたくない」という心理はある。でも人々は関わることも日本人ほどには恐れていない。向こうには個人の権限が歴然とあって、関係したくなければ 「関わるな。」と言えばそれで済むのだ。日本だとその点人間関係というのはイイカゲンなもので、相手の弱みさえ抑えておけばいくらでもちょっかいを出せる…ということがある。したたかな人間が善人の弱みに付け込んで、益を引き出す。だから 「変な人とは関わり合いになりたくない」と日本人はとかく思うのだ。「情け」を重んじる日本人ならではの弱みかもしれない。



 三編  『共依存』


精神的に近すぎる関係
 僕が15歳になる頃まで海外を転々とした僕の家族は「孤立」していた。マレーシアでもドイツでもそして日本でも地元との交流はあったが、決して深くならなかった。そして家族内でも異文化による関係の難しさから、つながれる者とは深いつながりを求めるようになった。それは母の指揮のもとに団結した兄、僕、妹Yと、母のつながりだ。
 前にも述べたように、僕と兄はとても仲のいい兄弟だった。一番上の妹Yは僕と5歳離れているため、遊び自体はあまり一緒にならなかったが、母の下には一緒になって団結した。そして僕らはこの母という人物に支えられて、母をこよなく慕った。
 しかし、そんな関係は「近すぎる」のだった。兄妹が何を思っているのか、母はどんな気持ちでいるか、言葉を交わさなくても分かる感じで僕らはお互いを認識し合った。「自分の感じることは兄妹も感じている。」 そんな一心同体の心を僕は大切にしていた。それが母を支え、また僕らを支えていた。
 テレビ番組を見ても、抱く感想はみな、似たり寄ったりで、あまり独自の感性を発揮することはよくないとさえ思われた。しかしそれでは家庭内でもあまりに窮屈なので、中学生にもなると僕は、静かに自分の世界に入ることも多くなった。妹も、どうも行き場がないように見えた。
 兄はだが、長男として兄妹をまとめるのが好きだった。大人になってもその癖が残っていて僕は個性や個人の尊厳の大切さを主張したりした。
 母は、自分の人生を僕らの教育に捧げる中で、しだいに夫婦関係よりも子供との関係に力を入れるようになった。その中で、母の、父に対する不満や悩みのようなものも、僕らも一緒になって考えるようになった。そしてそれは、気付かぬうちに他のことにも派生して、母の好き嫌いそのものを自分が引き継ぐような結果を招いた。僕はある面で自分自身の感性を発揮することを恐れ、母や兄妹にどう思うか聞いてみないと心が落ちつかないような、そんなところがあった。
 24で人生に絶望した時、僕はだいぶ自己を、小川家で育った自分を、社会で試し、経験を積んでいた。でもそれでもうかなり傷ついて元気を失っていた。「この小川家の人間が、そのまま日本の社会に出ていくと、どうなるか。」 兄妹を思うと、目が暗んだ。
 大学の一人暮らしから日本や日本人について多くを学んだが、母が自分を守るために持っていた東洋人に対する部分的なさげすみは、僕からも抜けきらなかった。たとえば母は、女性問題をよく訴えた。「日本の女性は虐げられている」「かわいそうだ」「立ち上がらなければだめよ」というようようなことをよく口にした。母ほど激しくはなかったが、僕も女性が自分を出さずに、お世辞やその場凌ぎの言葉だけ言って去っていくのを見ると、哀れだという気がしていた。

『こども時代』 28

◆「直球」の母といつも「変化球」の父
 西洋人の「愛」の観念と、日本人の「慈悲」の観念はおおよそ違うと思う。それはイエスの説いた「愛」と仏陀の説いた「慈悲」との違いで説明できるだろうか?
 ヨーロッパを旅した時に、ヨーロッパ人は「与える」ことが好きな人達であると心底思った。無銭の旅人である僕を前にやれ「コーヒー飲んでいけ」・「服は要るか」・「まだ何か欲しくないか」、など率直に聞く人ばかりだった。決して「裏心」があるようではなかった。たとえそう見えるような時でも、そうではなかった。

 母がそれとまったく同じ心で、僕らを育てた。「与える」時は、決して裏があるわけではなく、純粋な愛として僕らは受け取っていた。それでよかった。
 しかしそれが、父や日本人とのやりとりになると、その同じ方法ではうまくいかないのを経験した。たとえば大学時代、塾講師をしていたとき、生徒を慕って何か与えても、なかなか笑顔が返ってくることは少なかった。「日本人には与え方というものが重要だ」ということは分かっていても、心が西洋人な自分はそれをあまり深く考えることができなかった。たとえ教師と生徒という間柄でも、「貸し」や「借り」といった概念が早くも子供にはあるのだった。だからよほど純粋に「与えたい」という気持ちを表現できない限り、生徒は快く受けとってくれないのだ。
 対して父の「与え方」、そして「関わり方」は大概「含み」というものがあって、そこに注意を向けるということを母からは学ばない僕らは、よく分からなかった。それでも父は父で、直球を投げることはほとんどなく「変化球」を投げつづけた。


表を見る西洋人と裏を見る東洋人
 西洋の映画を見ると、「表情の豊かさ」が目立つ。怒りや不安、喜びや楽しさ、なんでもない一介の個人の表情を、これほど豊かに表へ出す民族は他にないかもしれない。特に「顔」というものは西洋人は大切にしている。常に顔はあげて、ネガティブな感情は顔に出ないように気を遣っている。
 対して日本では、あまり顔を上げていてもおかしい。この国では西洋人ほど個人の顔というものは重要じゃないのだ。日本人が見ているのは顔よりも心であり、裏の方だ。
 たとえば、人の安易な言葉掛けにはまず下心を疑うのが日本人だ。日本では西洋ほど気楽に人に話しかけることができないのはそのためだ。言い換えれば日本人に気持ちを伝えるには気持ちがしっかりとこもっていなければならない。気持ちはあっても、それがうまくこめられないならば、表現できないならば、「気持ちはない」とされてしまうのが日本人の厳しいところだ。

 僕は大学の頃から、喜びでも表現の仕方を変えて、日本人流に「含み」を使ったりして表すようになった。それが妹などにはうけたが、母に関してはその頃からやりとりもぎこちなくなってしまった。嬉しいなら、まずそれを顔に出して、興奮を表しながら話すと西洋人にはよく理解されて、対して日本人には喜びと興奮は出さないで、言葉選びや表現方法によってそれを感じさせるのがいい。まるで違うルールである。


あげるだけあげる西洋人とあげられてもあげない東洋人
 僕の体験上、西洋と東洋の違いを挙げ出したら、きりがない。
 「与えること」を「愛」と直結する西洋人は与えられるものならいくらでも与えたいと思う。「愛」はいくら与えても害にはならないからだ。ところが東洋人は「与える」ことを必ずしも「愛」とは考えない。「甘やかす」という観念が強いんじゃないだろうか。「愛」はいくらあってもいいのはたしかだが、「甘え」はそうじゃない。だから与えるのもほどほどにするのだ。
 「甘え」という心理も、日本人を語る上での重要なキーワードだが、西洋の場合、「甘えん坊」というのが少ない。それは西洋人が早くから子供に「自立心」を養い、子供自身が自制し、そうする子供を大人も褒める。人が何か恵んでくれるのを待っている(甘えている)という心は西洋人からすると醜いものであり、自立心の欠如として戒められる。反して東洋ではそこで「情け」が働く。あまり立派な振りをしている子供を見るのは好かないのも東洋的かもしれない。

 子供の頃の僕の感覚からすると、父はケチであった。「ケチ」を越えて、「自分や家族のことを好きじゃないんじゃないか」とも思っていた。与えられる限り直に与えてくれる母に対して、父の不干渉や「変化球」的な関わりは、どうにも理解できなかったのである。ところが後になってから、父の教育観にはこういう考えもあったのかもしれないと思うようになった:
 『子を崖から突き落とす獅子(しし)』
 中国の民話に、子供を強くたくましく育てるために、自分の子を崖からわざと突き落とす親獅子の話がある。崖から突き落とされた子は致命傷を負ってしまうかもしれない。それでも親はそれが自分にできる、最良の教育だと考えるのだ。「密接に関わる親という身分だからこそ、教えられることを教えておかなければならない…」というのがこの話の味噌だろう。今日の近代的な家族はこういう考えをもつ親も少ないかもしれないが、西洋にはまず見られない教育観だ。

 父は昔から、父なりの「愛情」を持っていたが、それが僕には通じていなかった。僕はスキンシップや会話などに西洋的なスタイルを父から求めていた。僕にとって向き合いには西洋も東洋もなく、母から教わった「西洋」しかなかった。でも父は歴然とした日本人だったのである。
 中学生時代に早くも僕が「孤独」を好きになったのはそんな親との関係的貧困が大きいと思う。

『こども時代』 27

M教の意味
 小川家でのM教信仰の意味についても旅の中の流れる思考の中で、何度も扱った。宗教の信仰を始めた理由については、前述したように親からこれといったものを聞いていない僕だが、それは、父の、「家族に関わるための手段」でもあったのではないかと考えるようになった。祖母が当時祖父の介護で苦労していたことや、父よりも母が先に入信したことは聞いている。しかし最も熱心であったのは父であり、父にとってM教がなければ、一体、家族とどんな関わり方をしただろうか、ほとんど想像することができない。宗教がなければ父はもっと露骨に「自己」を出さなければならなくなり、それは妻の施す教育とは衝突し易かった。でも宗教という権威の力を借りることによって、そのたしかに尊い教えと、自らの日本的資質を兼ね添えて、家族で自分を生かすことができたんじゃないだろうか。
 それくらい父は、妻や子供たちを前に、自分が出しづらかったかもしれないとある時思った。日本人の、自分を引っこめてゆく遠慮深さと、謙遜の心が、悪気はないが堂々と自分流を出している妻を前に行き場を失ってしまうのは理解できる。僕が幼稚園か小学校の頃は、特に勇ましくて頼もしい、そんな母がいたのを覚えている。
 もちろん父には、信仰自体に対する興味もあったのだろう。でもどうもそれだけではなかった。M教は家庭で父が自分を発揮するためにも大いに貢献したのだ。
 更には、M教は、子供を「大人しく」、「いい子」にするという意味でも役立っただろう。先述したように、父と母は、あまり子供一人ひとりには深く関われない夫婦だった。できる限り自分達を困らせない子供にしておかないと、結婚自体が問題になりかねなかった。宗教なしでは親子関係もより純粋な「情」のぶつかり合いになり、そうなると意識の共有が乏しかった両親は対処しきれない可能性が出てくる。親が自分たちの弱みを出してしまったら子供だってそこにつけ入って反発する可能性がでてくる。そんな事態を親は危惧していたかもしれないと思う。
 そして宗教によって「よい子」を育てることに成功した両親は、心優しい子供達によって後に「支えられる」ようにもなっていった。



 二編  『異文化』


異文化
 文化には、人間関係のルールみたいなものがあって、それをどれだけわきまえているかということで、外国人、日本人、更には東京人、関西人など細かな分別がなされる。日本人は「島国」という性格があり、外国との交流がヨーロッパ人に比べると少なかった民族だ。スイスというあの小さな国も「自」と「他」を峻別する厳しい目を持っているが、それでも日本人の異国とか、異質に対する敏感さに比べたらうんと緩いだろう。
 近頃はぱったり見かけなくなったが、僕が幼稚園の頃は自分の茶色い髪や大きめの目をみて瞬時に「がいじん~!」と口に出す子供がよくいた。しかも「外人」というときまってアメリカなのだった。しかし、時代も変わって世界に対して日本の認知度も高まるとそれに呼応するように日本人も異文化に対する抵抗をなくしてきている。
 それでも、それでもだが、日本人には世界に類を見ない独自の世界観がある気がする。それをしっかりと継続している。それによって日本人はするどい観察力と巧妙な手法を用いて、自他を区別することができる。しかしそれが非常に厳しい基準によってなされるため、僕自身も日本人になろうとしてもなかなかなりきれない、高いハードルを見つめてきた。これがたとえばアメリカとアフリカ、ドイツとフランスなどであればうんと困難が少ないような気がするのだが、浅はかだろうか。
 なんにせよ、日本人の洗練された世界観とは、西洋の精神文化とは全く別次元のものだ。一旦その目で世界を見たら、西洋人の原理はたちまちわからなくなる。逆に西洋人からしたら、日本人の原理が不思議で仕方ないだろう。
 そのことを僕は自分の親を通して、痛いほど感じさせられてきた。「他の国際結婚の子供もこんな苦労をしているのだろうか」と疑わしくなるほど僕は2人の違いによって迷宮に生きてきた。

『こども時代』 26

学びとは「無心」のこと
 大人になると、人は「失敗」に対して寛容ではなくなってしまう。「友達にメールを送ろうとしていたが、忘れて、他のことをやっているうちに友達から連絡が来て、友達を待たせていた…」というような、たとえばそんなミスが、自分に許せなくなる。
 僕自身がまさにこれで、早くから自分の犯した失敗に対しては恥や自己嫌悪、後悔が強かった。ところが、大学一年の父との喧嘩にしても大学の中退にしても、本当はまだまだ失敗をして、僕はそこからできる限り純粋に、色んなことを学び取らなければいけなかったのだ。しかしそれを妨げたり、過度に問題視させたのが「大人としての」プライドだった。僕は有能な人間だ。「器用」に生きたい。無駄はできる限り避けたい。時間を最大限に生産的に、有効に使いたい…。今思えばそれは「頭」でしか生きていない自分でもあった。

 旅をしてから分かってきたことだが、人は、「無心」である時に最も深いレベルの学習をしている。「これを勉強すればこういうことが分かる様になる」とか打算的な考えがあるうちは人はあんまり学ぶことができない。そうでなくて、大人でも子供でも、純粋な心で我を忘れるくらいに何かをやっている時、本当に血肉になる学びが進んでいると、僕は思う。ある時ふと、無心の自分は「何をやっていたのか」ということに気付く。
 これは、子供ならばまるで当たり前に日常的にできていることだが、大人になるととても難しくなる。失敗を過去に忘れ去るということがなかなかできなくなる。生活や仕事に追われて、自由を見失ってしまうからだ。試行錯誤は面倒臭くもなる。無理なのではなく生産性がしきりに問われるようになるから、そうなのだ。

 僕は子供の頃、友達のようにのびのびとできなかったので、あまり「失敗を通して学ぶ」ということができなかった。「体験的学習」とか「試行錯誤」があまり許されず、早くから「頭」によって自分を統制していた。大人になってから僕に本当に必要だったことは、子供の頃に戻って「失敗を通して学ぶこと」だったが、プライドはそれを許さなかった。
 「無心」でいられる時間が多ければ多いほど、子供は心の豊かな人間になれるのではないか。

 小川家の子供の特徴として、昔、「兄弟ならところ構わずふざけられる」というのがあった。兄弟で盛り上がっている時は、周りのことなんか、どうでもよい。それより兄弟関係を楽しみたい…。それは中学生になろうが、高校生になろうが、変わらなかった。それは今思えば、それだけ心がまだ無邪気で、子供だったのであり、まだまだそういう経験が必要だったのだ。頭は親の真面目さにより色んなことを学んでいたが、心は相応に成長していなかった。心が成長するためには、もっともっと「無心」でいる時間とその学びが必要だった。
 両親の結婚は、ある意味で西洋と東洋の衝突だった。母も父も、強い自我をもつ人間だったからだ。そのせいで子供は心―精神年齢―がなかなか伸びなかった。


5人兄妹の意味
 父と母の夫婦としての交流は、随分早くに限界を経験していたと、いつからか僕は思うようになった。父と母の心のでき方の違いや、自分自身が2人から全く別の性質を期待されたという経験もあって、僕は大人になってから親の夫婦関係に大きな疑問を持つようになった。
 そしてある時、ふと到達した理解は、「子供がいるから2人は結婚を維持することができる」という、容赦ない親批判だった。そして、「小川家は、「家族」としては実は脆いもので、これまで子供を含め皆が必死になってやってきたからなんとか維持ができたのだ」と、僕は考えるようになった。

 もとより父と母は兄ができてから結婚しているが、僕の後には3年とか4年の間隔で妹が順々に誕生した。親は、子供をどんどん作ることを通して、家族をもっともっと愛そうとしたのかもしれない…。本当は、子供のためにも、2,3人でやめてゆったりとした家庭を築くこともできたはずだが、そうはしなかった。どんどん新しい成員を招き入れることで、子供達を通して家庭を豊かにしようという考えがあったのではないだろうか。
 僕とは12歳離れた一番下の妹が4歳になる頃、親は寄宿生活塾を始め、よその子供達も招き入れるようになった。そのような背景には、「個人」よりも「集団」としての豊かさを模索した親の姿があるような気がするのだ。
 かつての「大家族」―――それは現代人が失いもした人間関係の豊かな空間であったことは確かだ。おじいちゃんやおばあちゃんのなにげない関わりが子供の基本的な人間性を育んだ。「不登校」とか「ひきこもり」という社会現象が現れたのも、少子化や核家族化の進行と密接な関係があると思われる。
 しかし、それでも親は自らの夫婦としての不具を棚にあげて子供を前には多大な権力があった。話によって理解させるというよりは、口答えのできないキツイ言葉と雰囲気によって父は家族をまとめるところがあった。友達が親に平気で反発しているのを見るが、自分はそんなこと間違ってもできなかった。やっぱりうちはどこか変だという気持ちも僕はもっていた。
 集団的な豊かさを追求する反面、「個人」はおろそかになった。精神的に幼いままだった上の兄妹は、本当はもっと親とのレベルの高い交流が必要だったが、家によその子が入るにつれ、親の意識は僕らから外れ、そちらに向くようになった。
 やはり、親はあまり個々の子供に深く関わると、夫婦の文化的・人間的差異がまた浮き彫りになるのをおそれたんじゃないか。よその子ならまだしも、実の子に対して親が衝突するのは、子供の情も絡んだりして家族の絆に問題を起こしかねない。だから親はあえて子供には関わらず、自らを別の仕事で忙しくしたのである。最も前提にあった問題はだが、やはり夫婦としての不通だった。

『こども時代』 25

父はあくまで父
 家族が日本に本格帰国するまでに大きくなった3人は、だいぶ西洋的な人間になっていた。とは言っても特定の国はなく、ドイツや母親を通じたスイス、宗教を通じた日本やマレーシアなどが混在した、独特な人間だった。それは決して日本人的ではなかった。
 生活塾としてよその子供が共同生活をする中で育った4人目、5人目の妹達は、だが、その中で必然的に日本人になっていった。心のいくらかを海外に残してきた様な上の兄姉の生き様に比べると、彼らの方がはるかに落ちついていて要領がよかった。妹らにももちろん別の苦労があっただろうが、でも、僕には見ていてホッとするぐらいのものがあった。
 しかし、日本に定住するにつれ父が本来の自分を発揮するようになると、僕などは却ってそんな父を憎らしく思った。

 「なんでこれまで出してくれなかったのさ!なんで今更この人は自分を出すんだ?!」
 「僕がどれだけお父さんとの基本的な関係に飢えていたか、知らないのか?!(憎悪)」
 「もう憎しみはどっぷりとたまっちまっているよ!苦」

 すべて心の叫びだったが、本人を前に明示したことはなかった。そして、うんと後になってからだが、日本人のことが分かる様になった時に、なぜ父がマレーシア時代など、寡黙で自分を出さなかったかが分かった。
 父は日本人としても、「洗練された」人間だった。それをスイス人と結婚したからといって簡単に変えることはできなかったのだ。それを変えようとしても、却って問題が生じると思ったかもしれない。第一、父の日本語教師や、寄宿生活塾といった仕事は父だからこそできた仕事でもあったのであり、それが自分を崩して、妻の西洋風に合わせていたら、家族の生計もどうなっていたか、わからない。
 母が、子供達の教育でフルに自分を発揮し、そこに父の入る余地はなかったのかもしれない。いずれにしても家計を支えていたのは父であり、父はその中で、いかにしたら家族の中で自分を生かせるかということを考えていた…のではないだろうか。


子供時代 関係的貧困 情報不足
 幼い頃を母の心に生きた自分だが、それでも存分に母の世界を味わうということは、できなかった。まず決定的な要因は、母は日本語を使っていたこと、そして、スイスに住んでいなかったことだ。時折、スイスのおばあちゃんからクリスマスなどに送られてきた胡桃や、旅行などで食べることができたチョコレートなどを、僕らは、非常に有り難がって食べた。食べものの見た目や味を通じて、僕らはわずかにスイスを感じることができた。
 かといって、なら日本ではどうだったかと言えば、早くからあった食生活の厳しさと、父親との不通などで、こっちはもっとひどかった。第一章にも書いたように、僕は日本というものに恐れを抱いていた。代わりと言っては変だが、小学校の頃僕がだいぶ心を浸したのが「マレーシア」とその人々、食文化、自然や気候である。
 僕ら兄妹は、だいぶ長いこと、父からも母からも文化的な、自分のアイデンティティとなるような関わりが持てなかった。自分はスイス人であるとも、日本人であるともなく、帰属の意識が曖昧で、宙ぶらりんだったのだ。子供にはピュアな心と、好奇心、吸収力、成長力などがあるが、それらを十分に発揮することができなかった。友達がやっていること(ファミコン、テレビ等)が許されなかったことも大きな理由だ。
 代わりに僕らを満たしたのはM教の教えや活動、そして比較的「文化」とは関係なく扱うことができる、社会問題などの大人のテーマだった。小学校のとき父の話で夢中になったのが、例えば「AIDS」だった。「AIDSとはどういう病気か」「かかるとどうなるか」「どうするとAIDSにかかるのか」… 父が借りてくるドキュメンタリー番組などを早くから一緒に見たりした。話の核心を理解することはできなかったが、それでも映像や時々汲み取れる内容が新鮮な刺激になった。

 そして僕らは、早くから「立派」でなければならない傾向があった。小学校中学年の頃にはもう4人兄妹であったし、母も父も海外での生活や仕事で、決して余裕がなかったのだ。友達はもっとぼんやりとしていても平気だった。自分のうちだけせめて何かやることを見つけないと、「お風呂掃除してー」とか、「ちょっとお鍋みててちょうだい」と、声がかかるのだった。だからあんまりぼんやりする時間はなかった。特に小学校の頃はそうだ。
 父はそうでもなかったが、母は何かやりながらもよく家族全体を伺っていて、僕が遊んでいても、夢中になっていないときはよく声をかけた。それは必ずしもお手伝いとか注意ではなくて、母も時間の許す限りそうやって一緒に考えたり、アイデアをくれたりするのだった。でも僕はあまり邪魔されたくなかったので、熱中できる何かを積極的に探した。
 親に対する「甘え」は、兄妹も早くから卒業していた。時には甘えたい思いもあったのだが、僕など威勢がよかったため甘えるのは恥ずかしいという感情を教えられていた気がする。本当は子供としては、威勢のよさも褒められ、でも弱い時はそのまま受け入れられる、そんな「ゆとり」が必要だったが…。そんな「ゆとり」を持つということを、僕は大人になってから社会を見て、初めて学んだ。

 「欲しいものが手に入らない」とか「知りたいなんでもないことも知れない」というのもあった。友達だったら海外でも毎週買ってもらえていた「少年ジャンプ」なども、うちにはなかった。兄はマンガにすごく興味を持っていたので、通学バスの中でよく友達に借りて読んでいたのを思い出す。テレビ番組も友達ほど見ることはできなかった。
 概して僕らは子供時代に「忍耐」とか「熟考」といった精神力を試された。その度が過ぎて僕の場合、大人になったとき自虐的になったのだが。M教の活動にしても、親の教育にしてもだいぶ忍耐力をつけされたのは確かだ。「与えない。ちょっと飢えるくらいがちょうどよい。」そんな教育観が父にはあったらしい。

『こども時代』 24


 兄妹は幼い頃は圧倒的に母によって育てられた。父は朝から晩まで仕事で、家には母がいて小さな子供の世話をするという、ごくごく普通な、夫婦の役割分担だ。幼児は、母性を強く欲する、ということもある。父は初めは、お金を運んでくるだけのような存在だった。母は教育にはスイスドイツ語は使わず、日本語を使った。しかしそれも結婚してから学んだものなので表現力は乏しかったし、漢字まではあまり覚えなかった。日本語を使っても、心はスイス人なのだった。幼少に受けたスキンシップや、しつけは、よって西洋的だった。父はその事実は認めても、立場上あまり口を挟むことはできなかっただろう。
 小学校高学年にもなると、僕らの日本語は母よりも上手になった。しかし言葉の重みは母にあったから、母の日本語がどんなに間違っていても逆らうということはできなかったし、そもそも心の優しい母には逆らいたいとも思わなかった。僕らは、特に上の兄妹の頃は、母の日本語をよくよく受け入れて、また、その曲がりの日本語を外で使う自分達すらいた。

 母の日本語が「変」だと、直す努力をして欲しいと思うようになったのは高校生の頃だった。家族が日本に帰化し、家が寄宿生活塾となった時に非日本的なものにはあまり寛容ではいられなくなったのだ。母はそれまでの自分を通そうとしたが、子供や塾生のの圧力によって少しずつ後退していった。そして家族には上の兄妹が昔親しんだ母の醸し出す空間はなくなっていった。代わりに父が「人格的なもの」を発揮する様になった。ある時、「もう昔の小川家はないんだ。」と父は平気な顔でそういった。それが小川家の「喪失」であると感じたのは僕だけではなかったはずだ。しかし2番目の妹になると、その新しい空間ですくすくと成長した。「日本にうまく溶け込んでいるように」僕には見えた。
 母も一度、家に帰りづらく思っている兄や僕を見て、「こんな風になるなんて、これまで作ってきたものが台無しだ。悲しい。」というようなことを明言した。そうは言われても、父と母が始めた新しい国での、新しい仕事なのだから、僕も、切ないながらも、「どうしようもない」「必然だ」と思った。塾が、より多くの子供を受け入れるためには、家の空間をより日本的にする以外に仕方はなかった。でもやはりそれは「強引な」父の強行戦略であったと思う。たとえそれが仕事のためであったとは言っても…。
 
 大学入学の頃だろうか、父が素を出しているのが見られるようになって、僕は内心驚いたことがあった。
 「あのお父さんが、こんなに楽しそうにしているぞ…!?」
 「こんなことを、軽く口にしているぞ…!?」 エトセトラ。
 大人になりながらも父親関係にしていた僕は思ったほどだった。それは、言い換えれば、日本に住み、日本の子供を前にして初めて見せる父の人間性だった。しかし僕はまもなく父と大喧嘩をして、実家は出ることになった。
 兄妹が小さかった頃は母が家庭を牛耳っていたと言えるかもしれない。父は、厳しく、真面目で、遊びにはあまり興味のない人だという印象が強かった。時々、日本人の集まりなんかで父が腹から声を出して笑うことはあったが、それは日本人といるからそうなんであって、家族といる時はあまりそうならないんだと、そうしたくないんだとも思っていた。もちろん少年の僕に言わせれば家でも同じように、大きな声を出して笑ってほしかった。
 しかしそれが、父が家庭で十分に自分を発揮できなかったことが、やはり夫婦関係の貧困さだったのだと思う。母は母でもちうるエネルギーや感性をフルに働かせて家庭を回していた。父は父で決して楽ではない海外の仕事と、家族全体を傍から見守った。父は、母の素質や教育観を自分が介入することで踏みにじることがないように、あえて距離を置こうともしたのかもしれない。よって家庭では父が何か言えば、母はあまり物を言えなかったり、また母が何か言えば、父は黙るという風に、交替交替で自分らを発揮していたような気がする。夫婦としての「連係プレー」はあまりできていなかった。
 母はほとんど無意識にもスイス(西洋)感覚を子供達に教えこんだ。「日本流」に合わせるために自分を殺す限界も感じていただろう。そして後になってからは子供を巻き込んで父に反発することになった。

 母は頭脳人間ではなく「アーティスト」だった。感覚が優れていて、ギターを初め、何でもアドリブでやってやってのけてしまうセンスがあった。それだけに身軽でどこか軽い性格でもあり、アフリカなど世界全般に興味があって、「冒険家」でもあった。スイス人は近隣諸国に比べ閉鎖的で慎重、思慮深い民族だが、母に限ってはそうじゃなかった。父と出会った時もそうだったんじゃないかと勝手だが、思うのだ。中学校を出てすぐ職業訓練校に入った母は、あまり頭はよくなかった。それがばったりチューリッヒで、日本からの高学歴ビジネスマンに出会うと、自分とはまるで対極のような人間にきっとすぐにほれ込んでしまった。父の秀才さ、落ち着き、要領のよさ、かっこよさ。そして異国のにおい。まだ見ぬ極東の世界…。
 そうしてくっついた2人には、いつの日か子供ができた。それが、兄だった。

 父はともかくとして、母が結婚前に地球の裏側から来るような異文化の人間と結婚をするということがどういうことなのか、十分な理解があったとは思えない。その点に関して母の意見を僕は聞いたことがない。しかし母は非常に心の開けていた人で、異文化に対してふつうの人が抱く不信感や疑心をまるで持っていない人だった。そして何でも純粋な心で接するので、却って異国の人にも好かれていたんではないかと思う。
 でも結婚生活が落ち着いてくると、人間の、文化に根差した深い違いが、明るみに出てくるようになった。「なんでこの人はこうなんだろう…」と何度か考えているうちに、とんでもない深いところから、とうてい掘り出せないような深いところから、その原因を発見するのだ。それは母の場合、自分だけじゃなくて、元気に育てた自分の子供が学校や友人関係で苦労をする、そんな事を通しても経験しただろう。

 初めはオープンだった母も、次第に自分のルーツを意識し、納得できない東洋人の考え方などには対抗も示すようになった。それは、社会に対してだけではなく実の夫に対してもそうなった。
 「うちの親は本来夫婦でとどめておく問題を、『子供と共有』することで、子供をも夫婦の問題に巻き込んでいる。」と大学の時に僕は思った。一人暮らしが長くなって自分を客観視するようになったときに、自分の父への憎しみは母親によってアレンジされた偏見でもあったことに僕は気が付かされた。
 母はある時は、夫よりも子供を心の拠り所にするように見えた時期があった。僕らに、こう打ち明けたことがある:
 「まだN(兄)しかいなかった頃ね、Nもお母さんも病気でぐったりしたの。そこにお父さんが帰ってきて、ちょっとNの面倒を見てほしかったんだけど…。お父さんは相手にしないでベッドに入っちゃってね。その時思った。この人と一緒にいる限り、私は病気にはなれない!ってね。」
 確かに母は、お化粧も最小限で、立ち振る舞いも女性にしては力強かったし、教育では時々、男のような威勢を感じさせたなと、後で思った。母は母で父性を発揮して、「全面的に」子供を教育するつもりだったのかもしれない。

 冒険心や、夢に身を任せるようにして日本人と結婚した母は、「異文化」がいかに大きな違いであるかを後になってから知ったと思う。



 5人弟姉の長女として育ち、あまり長く教育を受けられなかった母に対して、父は非常に恵まれた、教養のある人だった。兄弟は一人姉を持ち、当然ながら小川家の跡継ぎの本命だった。子供の頃には距離があり、大人になってから日本を知るのと平行して父を知るようになった僕は、今特に、父がいかに思慮深い人間であるかがわかった。それは今日でも、時に父と対面することを通して新しく見えてくるのだ。そんな僕の、父との関係だ。
 高校に入ったかどうかの頃、僕は父が中学校時代に書いた日記を読ませてもらったことがあった。思いを寄せる異性について書かれていたそれは、中学生とは思えないような表現力、そして感情の豊かさだった。僕はそれを読んで、自分が書いている日記に劣等感を覚えたような気もする。というか、当時はまだ見えない父の人間性だけに、評価を下すのは難しかったが、今思えば、やはり父の精神年齢は自分の高校時代と比べるとはるかに高かった。日本の祖父母が満遍なくよく育てたんだと思う。
 父は現役で上智・慶応・早稲田などの大学に受かり、ドイツ文学科に入った。大学卒業後、商社に入り、ドイツに出張して、そこで母と出会った。その後も日本語教師や寄宿生活塾という仕事を経験して、政治・経済・文化・宗教など、多方面の関心の廃れない人だ。

 僕が小さかった頃は家庭では今日ほど陽気に自分を出さない父だったが、前述したように父には妻に対する配慮があったり、父自身の、深い思惑もあった。
 だけど父は思慮深いからといって、決して安定型ではなかった。母と同じで、「冒険家」・「挑戦者」の根性であると僕は思っている。いろんな仕事にチャレンジする所や、自ら仕事を見つけては自分に課していく積極性は、用心深い人ではあっても、決して安定型ではない(と思う)。父はお酒を飲みながらテレビを見るとか、知人と呑みに行くことをしない。酒は普段はビール350mlを食事の時に開けて、それでおしまいである。ゆったりと、生活に深く根を下ろすことはしない。いつ何時も動ける人だ。

 父と母の結婚は、双方にとってちょっとした「冒険」だった。決して生活の安定しているカップルの、「幸せな家庭を築きたい」という結婚ではなかった。「これからどうなるんだろう。」「どんな家庭が生まれるんだろう。」ということが2人とも見えない、そんな興奮染みた結婚だった。
 でも父は、国際結婚に対する見当は母以上にあったと思う。簡単ではない結婚だけれど、「いちず」な妻だし、肝心なところさえ抑えておけば、大事には至らないという父ならではの自信があったと思う。
 積極的に自分を出し、子供を育ててゆく妻に対し、主として、最も基本的なこと以外は妻に場を譲り、自分は少し引っ込んで陰から支える、そんな父がいた。しかしあまり妻だけに子供を任せても「子供は人間的に何人に育てるのか」、という問題がやがて浮上した。子供らが妻の人間性を強く引き継いで、家庭で自分の、日本人としての在り方を出すのが難しくなったのだ。
 「子供があまり自分のことを理解しない。」「理解しないどころか、妻の感覚によって、勝手なことをするようにもなっている…」
 しかし一概に妻の教育に問題を挙げることは夫婦としての問題へと発展する可能性があるため、父はだいぶ長いこと、自分を殺して家庭全体の幸福を見守った。僕の年齢でいえば15歳頃、家族が日本定住をするまで、そうだったんではないだろうか。
 いつだか、大人になってから、父がこんなことを話した:
 ◇僕がお母さん(妻)に見えていることはクレバス*1のようだ、と、結婚して間もないころ思ったよ。その中(底の見えない氷の割れ目)を見ようとすることは、「危険」だと思った。「覗くべきではない」と思った。 (*1「クレバス」…アルプスなど高い山に見られる、春先に山の雪が解けて生じる、氷河の割れめのこと。表面は人がまたいで渡ることができるような幅でも、割れめの底はどれだけ深く、広いかはわからない。)

 「もう少しお母さんに合わせられないのか」という疑問が僕などにあった頃、何かの折に父は、そう訳を説明した。僕はこの説明では納得しなかった。父はそれ以上語ろうとはしなかった。

『こども時代』 23

 第二章 裏のこと
 一編 親・家族・国際結婚

兵庫で見た保母さん
 昨年の11月、兵庫を歩いていた時、高砂の近くで2、3人の幼児の面倒を見ている保母さんがあった。僕は歩き始めて2、3時間の一回目の休憩だったが、その公園での保母さんと子供らのやりとりが、見ていて新鮮だった。
 別に保母さんを見ることが珍しかったわけじゃない。それまで日本の生活で、いくらでも幼稚園や保育園の光景を目にすることはあった。でもかつては目に留まらなかった何かが、この時には目に留まった。それは僕には経験のない(ないと言っておこう)、「日本人女性の子供との関わり方」だった。
 「自分もああいう風な(ごく普通の)保母さんに育てられていたらな…」
 ――日本というものが僕にとってそう「難しく」はなかったに違いない、とその時思った。僕は幼稚園だったが、母というスイス人を見て、それに触れて、そこから学んだのだ。保母さんと、子供らの具体的なやりとりはよく覚えていない。ぽかーんと、自分の世界に入っている幼児らに、保母さんはしきりに声をかけ、注意を喚起し、一緒に遊んでいた。たぶんに、ヨーロッパ人にはない関わり方だ。僕はすごく新鮮なものを感じ、自分がいかに西洋人の心を教えられていたかということを悟らされた。
 「スイス人」というよりは「日本人」としての自覚で、日本の教育を受けて育った僕だが、この「日本」というものにはたいへんな苦労を経験した。


つめたい流し目と無視
 少ないマンガや日本のドラマを通して日本人の心の機微が分かる様になる中学生まで、僕は自分と学校の友達との「不調和」に苦労した。学校では、自分が元気に遊んでいると、なんともなしに冷たい視線を向けてくる子や、声を掛けても無視する子がいた。僕にはそれがどういうことなのか、訳がわからなかった。わかろうとはもちろんしていたと思うけど、わからなかった。口で聞いてみても、答えを聞くことはできなかった。それが、マレーシア人や西洋人にはない、僕にとっては「日本人特有」と認識される性質が、気掛かりで、また恐ろしかった。調子のいい時は意外とそういう経験は少なくて、調子の悪い時、周りを意識する余裕のない時は、特にそれを味わうのだった。
 無視まで行かなくとも、ある決定的な瞬間に冷たい流し目を見るだけで、(何?!!)(何がいけないの?!!)と気を煩った。それでも僕は自分にできる最大限の元気と、明るさと、楽しさを追究して生活していた。朝起きてから、夜寝るまで、そうだったと思う。でもそれは、生憎、周りにとっては必ずしも望ましいものじゃなかった。それより僕ははるかに「母親にとって」望ましい息子だった。
 
 高校や、大学になっても、時々そういう体験をした。西洋人の心だからこそつめたい視線や無視の態度は「異様」で「不可解」だった。そういうことをする人に対して、(私のことが気になるなら、正面からかかってこい!!)と、ほとんど腹立たしく思った。そういう行動自体、軽蔑し、弾圧したかった。
 日本を好かない外国人の気持ちを聞けば、それは痛いほど分かった。僕自身が自分の中から「日本」を、追い出しそうだった。この世界でも珍しい深く洗練された精神文化の残る国を。


父と母の関係
 「国際結婚」の家族を、僕は自分以外にあまり知らない。日本の一般の人に比べたら、国際結婚の家族と触れ合う機会は多かったかもしれないが、そのことを別段意識して付き合っていたわけじゃない。そして、「国際結婚」と一口に言っても、相手方がヨーロッパ人なのか、アジア人なのか、アジアのどこなのか、韓国か、中国か、…こういうことでまるで違ってくる。結局、「ユニーク」だとか、「変わっている」ということで片付けられてしまうのが、国際結婚の現状だろう。
 ところが、じゃあそれで親が好きなようにやっていいかと言ったら、もちろんそんなわけはない。子供が、母方であろうが父方であろうが、「自立」し、社会に巣立っていけるよう育てるのが親として変わらぬ使命だ。
 この点で僕の親はいいかげんだった。今日、5人兄妹のうち上の3人にこれが顕著に現れている。父も母も、子供の立場に立つ余裕がなかった。父と母の夫婦としての意思疎通の程度ではそれが無理だった。