2009年6月29日月曜日

●●● 旅立ち ●●● その2

昨日の日記はまだ続けようかと思っていたが、結局はめんどくさくて省略した。
例の、気になっていた「M」さんについて書きたかったが、「旅に出る」と決めた以上、不満をわざわざ表してもしょうがないという思いもあり…


今朝父から、父の助手Tさんが「ダウン」してしまったと愚痴がこぼれた。(過労による)
父のTさんの「扱い」はひどかった。無理もない。
そしてそうなっては僕や、妹に手助けを求める。
求めていいとは思うが、僕や妹は自分らがどう扱われるかも体験的に知っているので、僕は「旅立ち」という自分の予定を変えてまでして行かないし、妹もイヤイヤであった。
  「40年変わらない人間」
先日、そんなことを思ったが、父という人は『人の下に就く』ということを知らない人だ。
有能な人間だったから、いつも大切に扱われてきた。「引越し会社」とか「派遣アルバイト」を転々としてきた僕にある体験が、父にはない。だから部下をどう扱ったらよいかということがわからない。

あきれるのは、父は、「にっちもさっちも行かなくなって」から初めて助けを求める。
まだ遣える、まだ遣える...という時は「無慈悲に」人を、酷使する。
だいたいいつも「正面から」人と向き合うことはなく、婉曲に、「言動から読めるもの」を基準に人と関わる。人の言う言葉はまず「信じない」。
「腹が痛い」
と言えば、それに同情しない。そう言うことで「本人は何を求めているか」ということばかりみている。人の気持ちをまずは受け止めるということをしない。それをしない人が人をうまく従えることができるはずがない。

おっとここでは僕の「愚痴こぼし」になってしまった。^^;
父に関してはこう言い出せばきりがないから、こんなことしょうもないから、やめよう。



僕はこれから再び自分を全開にして旅に出るが、それがどこまで許されるかというのは実は疑問はある。僕は完全にフリーではない。ここ相模原に帰ってくる条件はますます厳しくなったことは確かだけど、おやじがぶっ倒れて、兄妹から助けの要求が入ったら、「戻らない」ともいえない。
先日思ったように、おやじは行くとこまで行くしかないだろう。
おやじを前には僕らの言葉なんか羽虫の音にもならない。右耳から入って左耳から完全に抜けてしまっている。
そうなったらもうやらせるしかない。そして、おやじが自分でも言っていたが、もしやがておやじが「しょんべん垂れの徘徊老人」に成ったとしても、それは受け止めよう。そうなったら一緒に人に迷惑の掛からない山里にでも入って、二人暮らしをしてやろうじゃないか。それくらいの覚悟はあるのだ。


日本に帰国してからの「5ヶ月」でわかったこと。
親は何も変わっていない。彼らは彼らのあり方で結婚の維持に精一杯だったから、「変わる」なんてもってのほかだった。そして僕が発狂寸前になってヨーロッパに脱走していながらも、何ヶ月も音信不通になっていながらも、彼らの心を揉めたのは「私たち、本当にそんな悪いことをしてしまったのだろうか?」というちょっとした疑問だった。ひそかに僕の正当性を恐れながらも、結局自分たちの要塞に閉じこもり続けた。自分たちも変わろうとは思わなかった。この再会後の5ヶ月もである。


しかたがない。

「不食」思想など、一般的な感覚で受け入れられないのもわかる。
でも僕は僕の命を最大限に燃やす権利がある。僕の持ちうる可能性を最大限に追求する権利がある。僕はもう奴隷を生きなくていい時期だ。とてつもない可能性を見出した2008年だった。いまこそ不本意の生活で忘れてしまっているが。

命を咲かす。
泣く。それこそ号泣だ。
笑う。地がゆれるまで。
叫ぶ。燃えたぎる命の表現。
人と感じるということ。
人と根源に触れるということ。
そこにこそ本当の生命力がある!
そこでは何でもできてしまう!
そんな体験を、遅かれ早かれ再開したい。



///



「M」さんはあやうかった。正直あやうい人だった。
でもむりもない。あの人には僕の本心なんて垣間見えてもいなかった。僕が家族と接するために本当の自分を閉ざしてしまっていたせいもあるが。


///


無銭の旅だから、いつまたここに戻ってくるかわからない。
これで出発前の挨拶としたいと思う。


それでは!!

2009年6月28日日曜日

●●● 旅立ち ●●●

旅立ちがきまった。

家族との交流に、見切りをつけた。
みょうにち、「無銭徒歩」の旅が再開する。

家族と関わらないということは、家族に「期待」しないこと。鷹さんの言葉でいうと「愛で家族を縛らない」ということ。

「不食」 を確信した僕。
「お金がなくても生きられる」 ことを確信した僕。こんな人間がまともに生きられるはずもない。

「不食」を100%確認しなければ。
邪魔されない、静かな場所で。

「漸減」食で行こうと思っている。ヨーロッパではかなりすぐ断食に入ったが、そうでなくて今回は最後には「紛食」にして、腸内のシステム変更を意識して 3週間 はかけて完全断食に入ろうと思う。完全断食に入ってからも無理に食べないようにとはしない。おそらく平気だと思うが、妙な症状が確認されたときはその辺の草や木の実でも食べようと思う。

どちらに向かうかというのは気分に任せる。明日出発時の気分に任せようと思う。

長野や岐阜、そして日本海側に行ってみたいと思う。
その更に先は海外も考えている。日本を十分回ったら、世界に興味の冷めない僕は中国にでも飛ぶだろう。
お金を作る手段は路上でパフォーマンスでも、音楽でも、般若心経でもやるだろう。

知恵は、開ける。
2007年1月30日(前後)、日本から脱出したときもそうだった。
2007年4月28日、スイスから無銭放浪に出たときもそうだった。
知恵が後から、開けた。

でも僕の思想は「不食」にはじまり、狂気の域。
2年間、慎重に模索していった。

その2年間で十分な「自尊心」が培われたから、今年の1月日本帰国を決意した。

そんななりゆきだった。


大体昔っから「変わったことが好き」な僕だ。
小学校・中学校は自分の多方面の「ちがい」に苦労し、「ふつう」になりたかったが、大学で挫折してからはありのままの自分を認めるようになった。そうするしかなかったんだと思う。
でもそんな僕にも「変わったこと」には勇気が必要だった。
無銭で日本を飛び出すという狂気には、やっぱり危機感を覚えた。


家族が直面するであろう問題には、心配する。
心配してきたからそれらの問題の多くを経験した僕がアドバイスできないかと思ってやってきた。
でも僕のアドバイスを聞きだすほどに家族の僕に対する信用はなかったし、それは僕の「思いやり」や同情がほとんどだった。家族も当然、努力を要した。

親は非常に盲目であった。
救いがたいほど自分のやりかたに自信を持っていた。それでよいと思っているのだから、それでやってもらって、いくとこまで行ってもらうしかないのだろう。



兄は実家には滅多に帰って来ず、家族との接点はほぼ母だけになっており、自分の夢のために最大限のエネルギーを注いでいる。千葉でヤギを飼っているが、ついこの前は数を増やすため、愛知県へとヤギをもらいに行ったという。

妹(22、シングルマザー)は日々「子育て」に一生懸命だ。実家で主に母の手を借りながら男の子を育てている。その子を育てるというだけで今後20年の彼女の生活は方向付けられている。子供の存在というのは最大の「安定」材料なんだなと思った。自分自身の人生を棚上げして、子のそれのために身を捧げるという。

妹(18)は音大に入り、ピアノや音楽に没頭している。小川兄妹の中では彼女が一番要領がよくて「世渡りが上手い」。反面だいぶ自分の世界に生きており僕とは心が通じないことも多い。しょうがないか。

妹(14)は小川家が家族として一番「崩れた」時期に育っていて、家庭内が不安定だったために非行・反抗傾向が強い。僕が2006年絶望に陥ったころ、一番それを分かったというか、僕を応援しようとしてくれたのが彼女で、そのせいで僕は存在として彼女をだいぶ引き付けた。彼女は彼女でいずれ「独立」しなければならないのだが、精神的に必要以上に近づいたことが変に作用しなければいいと思っている。


親父はこの6月、一緒に作業してきた中でいろいろと興味深いことを口にした。
彼の「休まらない精神」、独善、それらが導くであろう、将来。あまり明るい将来はない。まず父が自分が他人の空気を読めない人間なのだと、それは一種の「障害」なのだと素直に認められたら、変わる可能性はあるが、そうでもなければ彼は「20代から続いている」自分で行き詰めるだろう。大方、そこで終わるだろう。

母は愛情たっぷりの人間だった。父よりは人を愛し、だから今度は「愛される」番になる。でも子供を、父との関係不全のために私的に利用した部分は否めず、それは彼女にとってもこれから、だれと一緒にいようと彼女自身の挑戦となるだろう。正直さというか、本当のコミュニケーション方法というか。



何週間か前、「大学時代の奨学金の返済」は僕の義務ではないと「迷いなく」思ったことがあった。父の無責任「教育」感覚、母の偽善。それは僕が「躓き」、社会のレールから「放り出される」最たる要因だった。僕は父と母のために生きていたのだ。自分の喜びのためというよりは。父と母から相応に愛され続けなかったら、「崩壊」する訳だ。

自分を愛する。
そういう時が来た。自分の生きたいように「今しばらく」生きるのだ。自分の知恵を開くために『自分を』生きる。

日々何もすることなく85になる祖母は、さみしいが、僕にどうすることもできず、ひょっとしたら、今回が最後になる。旅に出たら、自己の道の完成のために数年は帰って来ないだろう。帰ってこないどころか、インターネットや電話による連絡もなくなるかもしれない。自分を家族で縛らず、家族も僕で縛られないためにはそうする可能性が高い。
インターネットや電話という手段は、元来の『旅の意味を薄めてしまった』と個人的に思う。歴然たる距離と時間が人と人とを引き離したから、それがもたらした意味がこんにちの旅では、いったい、どれだけ残っているだろう?イスタンブールで、世界一周をしている旅行客の中で、“カッコいい”旅人、“本物の”旅人というのはやっぱりあまり、いなかった。それだけ、今の人にとって「旅」とは娯楽的なものになっている。時代が変わっている。
話が逸れた。

 

2009年6月27日土曜日

「意識」の更新

「今」を完成度高く生きれば...
  そうでない人間にひっかからない。

「過去」や「未来」とはニンゲンの創造物だなと思う最近がある。

どれだけ多くの人がそれらに囚われていることか!


「意識」を常に更新する。
それは今に生きるということだ。それが自分なりにできれば、きっと、「悩み」などなくなってしまう。冗談ではなく。

僕は今、人生で最も厄介であった親や兄妹と共に生活している。この連中と問題なくやっていけるようになれば、人間関係で邪魔を受けることはなくなるだろう。そう期待している。

2009年6月26日金曜日

農作業も終わる「?」

今日はもう26日、あと数日で6月も終わる。
父には7月も「やりたければ手伝ってもよい」というような言葉をもらったが、7月からは仕事を探す予定である。スポットでやることはあっても、毎日やるようなのはなくなるだろう。

1ヶ月間、父とよく交わった。
「よく交わった」とは言い過ぎかもしれないが、なにしろ父と僕の関係というのはもともと「希薄」なものなので、この1ヵ月の共同作業はよかったと言えるだろう。

父のそっけなさなどまともに相手していたら一緒に仕事なんてできるもんじゃない。
僕は父とはまったく違うロジックで動いていれば、過去の「型」にはまらず、一緒にいることができる。決して楽ではないが、「焦点」を父一人に絞ってしまえば却って父が疲れるだろう。
ときたま僕は「バカ」になる。「愚鈍」になる。あるいは疲れてなくても疲れたようにする。それでちょうどよい。

家族のある程度の「信用」を勝ち取るというのは大変なことだ。
過去が過去だけに、かもしれないが。
「不食」どころか家族には「旅」の話すらまともにできない。旅の最後に書いた10万字の書きものも、「自己満足」以外にどんな意味があったろう?と思ってしまう。

明日から「睡眠」・「食事(体重)」の記録を掲載しようかと思う。

2009年6月25日木曜日

仕事日和

今日は曇り一日、仕事日和だった。
今日は一日畑で仕事。
トマトの手入れ、葱の手入れ、ニンジンの床作り、草むしりなどをやった。

農作業というのはシンプルだ。時間に駆られるよりも植物一つひとつと交流しながら仕事は進む。僕は農業などまともに勉強したことはないけれど、「農業」とは何かを考えると人間の生き方が浮かび上がる。機械化した農業は僕からすればもはや「農業」ではない。それは自然を精神的なものというよりはモノとして、ただ「形」として食べ物を生産する、ちがうものだ。

食べ物とは何かということをよく考えてきた。
そして僕は「精神的滋養」という重要な観点を見つけた。実際に、この肉体行動としての「食べる」ということがどれだけ実質的な「生命エネルギー」を生んでいるだろうか?実は「それらが自分たちのエネルギーを生んでいる」と思い込んでいるだけで、私たちは極めて「惰性」という性質で食事を摂っているという事実がある。

僕の連続した完全断食は、10日間だ。
「不食」という思想の真偽を確認したとは言い切れない体験レベルだ。
でも今はこれまでの食事研究によって、「不食」―“人は食べなくても生きられる”―を「信じ切る」ようになっている。

体験的確認が今できないでいるのは身体的問題よりも社会的問題にある。食べないで生きるということが社会生活で何を意味するか、そこにある。

///


7月から掲げる目標について、考えていた。
『仕事をまた探し直す』
1月終わりに日本に帰ってきてから、2回仕事に就いた。仕事と言ってもアルバイトだが、2月3月都心の警備会社で、4月を家庭教師と個別指導塾の講師をやった。
事情があって始めてはやめ、始めてはやめた。その事情とは、簡単に言えば自分の、「社交性」の問題や、家族との折れ合いの問題から。。。
2007年4月、スイスから歩いて旅立ってから2009年1月までのうち、イスタンブールとセルビアの合計5ヵ月間を除いて、僕は露天の下の一匹狼だった。社会に属さなかったというか。それで生活感覚がかなり変わったのだが、それが社会生活に戻る上で邪魔をしている。
 真っ先に挙げられるのは、「過敏性」だ。旅では日々まさに「野性動物のように」周囲に神経を張り詰めた。その名残で自分が求めずともキャッチしてしまう他人の情報や、社会での自分の立ち振る舞いはどうしたらよいのか分からないことがあり、細かいところで結構人間関係がギクシャクした。今だってそれは多少あると思う。

 自分に見えてしまう他人の情報。
 それを見て見ぬ振りというのが嫌いで、時にそれを表したが、大概それで「失敗」をした。
「見えても「見えない自分」を演じなければだめである。無理なく。」
 最近の認識だ。でもそれが結構難しそうだ。
 自分の感覚を人を見るために集中・練習させれば、一種の占い師か、スピリチュアヒーラーにもなれると感じている。でも何も急ぐ必要はないと思っていて、別の事に時間と労力を使っている。
 そして...家族と社会生活を送ることで僕の感受性も抑圧している。

 でも結局は『切り替え』の早さ、迷い無さかなと思ったりする。
 自分と言う人間はそうでなくても発想やアイデアが世間とずれている。でも学習力はあるから仕事もすぐ覚えるのだけど、そこであまりにパーフェクト過ぎてもいけないので、「手を抜く」必要なんだが、その抜きどころが分からないのが僕だった。それで無理をしてしまって、結局仕事はやめている。やめた理由はそれだけじゃないが。


 またつづく。。。

2009年6月24日水曜日

雨 休み

 今日は雨のため作業は中止となった。代わりに明日が作業日となる。朝はかなり本格的に降っていた。外に出ないのは懸命だと思う。勇んで田んぼの草取りをやってもいいけれど、昼にはあがるしかないだろう。

 僕は農業というのはすばらしい仕事だと思っている。「自然」との呼吸を合わせた生き方が多かれ少なかれそこにある。日本の大都市の人間が忘れているのは他でもなく宇宙人ではなく地球人としての自然との交流だ。花見をしたり、休みに登山にいったりキャンプをしたりすることが自然との交流だと思っている人は多い。それも交流の一種ではあるだろうけど、日常では何をやっているかと言えば雨天を憎み、風に帽子を取られることを不快に思っている。ここに、文明人間、都市人間のどうしようもない誤解、救いがたい誤解がある。
 昨日ラジオでこんなことを言っていた:
 「雨ばかり降っても困りますけどねぇ…」
 「水不足の地域もあるそうですから。」
 「“空の水道が調節できればいい”んですけどね、そうはいきませんねぇ…」

 ちがう。
 今に人類がすべて自分達の望むままに世界を動かしてごらん。雨の降り方、台風の進み方、火山の活動、季節の調節、云々。そこに「安らぎ」はない。自然の災害回避や農作物の確保が難なくできるようになったら、安らぎを得るかって言ったら、そんなのせいぜい一世代の喜びである。次の世代はそれが当たり前の世界に育つから、それがそうでなくなった時の脆さといったらない。
 今の子供達が甘やかされているというのは他でもない。精神が貧弱になっている。困難に立ち向かうなんてバカのやることだと思っている。賢く抜け目無く生きようとしか思わない。人間として、冷めた生き物だ。

 東京は特にすごい。
 ここに住む人間はある意味で人類(高度近代文明)の最先端を歩んでいると思うけれど、同時におかしさの最先端を歩んでもいると思う。ある社会の人間の精神がある程度以上「独走」した時、何が起こりうるか。このわずか50年の間に生活を激変させ、そこになんともなく寄りかかるようになっている人間が、今のシステムが壊れたときの混乱といったら、恐ろしい。
 僕はだから、この世界に組しない。
 堂々とふつうに「後れた」生き方をする。そして身の回りの人間には僕のとらえるあるべき自然生活を提唱する。

 

 気づいたら猛脱線していた。(いつもだが)
 7月から新しい挑戦をしようと思っているが何にするか、考えている。断食もいいし、仕事を探すのもいい。今考えている。

 とりあえず午前中、ここまで。

///

 午後7時過ぎ。
 午後は昼寝をした。
 3時間くらい寝たかもしれない。怠けるのを楽しんだ。何もしないを楽しんだ。

 上に書いたのを読み返せばずいぶん突き詰めてるなと思った。
 僕は「アンチ文明社会」という立ち位置をとっているけれど、都会生活を嫌ってはいない。「好まない」に過ぎない。 「時計」と「約束」と「仕事」に追われる生活を好まないに過ぎない。それが好きな人はそれをすればいいと思う。


 妹の話を少ししたい。僕には妹が3人いるが、その一番上、5歳下の妹だ。
 僕が大学をやめ自分の内面でひどく苦悩したとき、妹が「妊娠」をした。当時はまだ高校生の彼女だったが同校の男の子との間に子供ができた。僕の親は「中絶」を嫌っている(倫理的に認めていない)。妹はまだ、自分で判断がつけられなかった。男の子の親は「中絶が当然だ」という考えだった。完全なる対立だった。

 2007年4月、妹は男の子を産んだ。名前は「じゅん」だ。
 去る4月「2歳」になり、非常に「元気に」「健康に」育っている。妹はシングルマザーのため、実家で生活している。週に何回かはアルバイトにも出ていて、その間はおばあちゃんが面倒を見ている。彼の方はうわさによればインドに行っているというのだが…
 でもつくづく感じるのは、「子育て」は大変だということだ。妹は今自分の人生をじゅんのために全面的に捧げている。見ていてすごいことだ…と思う。

 という僕自身は「恋愛」のれの字もない。今は気配もない。僕は20ごろからすっかり家族のことを扱うのに精一杯だ。そりゃあ、彼女を作って町へデートしに行ったり、同居したり素敵な生活を送ることだって望めばできることだ。でも親や兄妹のことを放っておいてそういう勝手をする気には、ずっとならなかったし、今ではヨーロッパの旅を経てぜんぜん違う生き方にも興味がある。かつては憧れでもあった世間一般の「若者ライフ」が、今の僕には魅力がとんとない。

 概して、「若き時代」をとことんまで「犠牲」にした僕だ。いまさら過去の憧憬を追いかけ直すつもりはない。今は、今見える希望を追いかけていくことだ。

 今の希望とは…
 「夢に燃えている」という感じではない。
 今の生活が「有望」だという気もしない。まさに『模索中』だ。
 夢を語るのも悪くない。でもそれで夢に酔ってもしょうがない。今は時にきらめきのように見える可能性を慎重に吟味していく時だという気がする。大きなことをしない。大きなことをしない方がいい時かもしれない。

2009年6月23日火曜日

農作業6時間、あとは?

今日は「火曜日」。毎週火曜日は父が育てている無農薬野菜の宅配の日だ。



今年から父の会社「だいかぞく」の食糧生産が始まった。

田んぼが8.5反(?)、一年目は「50俵」(60kg×50)の米の生産をもくろむ。野菜づくりも行うが、人手が足りないため、今は週に半日だけ畑をやる。

父のポリシーには『むのうやく』がある。農薬を、「使わない」。だからおかげで田んぼも畑も「草」がすごい。特に畑は「どうしようもない」状況になっている。ねぎが草むらに文字通り「呑み込まれて」いる。

今日はそんな畑で昼まで、大豆の苗植えと、キャベツの草むしりをやった。



一週間前にも同じ宅配の日で畑でだいぶ働いたが、一週間で辺りは見事に「一変」した。草の生長が“おそろしい”。

父はもうギリギリのところでやっている。本当にギリギリである。

数週間か前、父の目を見たとき、「危ないな」と思った。目はとかくその人を語る。父の目は、精神が休まない、精神を蝕む様子だった。

数週間一緒に仕事をした中で、父の表情も時にはうんとよくなった。笑顔が顔全体に行き渡る日もあった。



父に農作業を手伝ってと言われたのは6月5日頃だったと思う。もう今日は23日、3週間は経った。

僕にしては、過去の父との関係を思うと、よく続いた。



意外だったのは、僕にもまだ、父という人物を深く「知る」余地があったことだ。

2007年1月に日本を飛び出した時は、父に「見切り」をつけていた。十分に「知った」つもりであった。ところが帰ってきて今、父のことがもっとよく分かるようになるとは…  2007年、自分が日本での可能性を否定したのは自然だったのだが。。。



父は優等生だった。上智大学を出て、商社に勤め海外に飛び、日本語教師をやったり、この11年間は寄宿生活塾というものを実家で営んだ。10年おきにユニークな仕事へ転職した。僕が小学校の4年間と中学校の2年半をマレーシアとドイツで過ごすことができたのは父の仕事のおかげだ。
しかし父と僕の関係というのは、薄かった。
小学校時代は父の意向が知れずに、いつもビクビクしていた。父は僕にとって「冷たかった」。

でも自分がこの日本で社会に出て行ってから、少しずつ憎かった父が分かるようになり、逆に母との関係が壊れた。父とはちゃんと近づくことはなかったが(父が人を近づけない)、父のことは日本の社会を見ることでかなり分かっていった。

しかしそんな父も、今となっては哀れに見える。
かれこれ7年くらい、僕は親に対立して「注意」を喚起してきたが、彼らの向かっている方向は僕が絶望するほど想定した、まさにその辺だ。違うのは、今僕には希望があり、ちょっとしたことでは僕は動じなくなったことか。

父は若いとき、食生活の乱れで病気になり手術をした。30過ぎには蓄膿症の手術で嗅覚を失った。
父と話していて感じるのは、なぜ鼻が利かなくなったのか、その理由だった。「嗅覚」というものが人間の感知能力においてどんな役割をしているか、そのことを最近考えされていた。
呼吸で必要な酸素は、口からも鼻からも摂ることができる。でも自然な呼吸とは鼻息であり、口息ではない。運動したときくらいが、大量の空気が必要になって、口呼吸をする。でも蓄膿症の人は常時から口呼吸の傾向がある。鼻の中に外の空気を「通さない」。

その意味は何かと考えていた。

母は早くから父との関係の問題を子供たちと共有した。
僕は次男だが、上の兄妹が中学校にあったころにも母の父との不和は結構知っていた。母は「隠さない」人なので堂々と子供たちとそういう、夫婦でとどめておくべき悩みを共有した。
それは日本に落ち着くや父の支配力の方が優位になっていったが、母が訴えていた問題は確かに存在した。「日本はこう」では収まらないものが、あった。

最近よく分かったこと。
父は「空気」を嫌った。「空間」というか「雰囲気」というか。
人がいる空間にはさまざまな「空気」がある。職場の空気、家庭の空気、部活動の空気、先生の空気・・・ 職場でも上司の期限がよい時、仕事がはかどっている時、全体がまとまっているとき、まとまっていないとき... そういう「空気」がある。
父はどういう訳か、そういう「空気」に同調することができない。同調したがらないとも言えるかもしれないが、僕にはそれが父は苦手だからそれをしないと見える。
それが「鼻」のことと関係する気がしてならない。
「病気」が先か、 「こだわり」が先か。

僕は病気というものは治らないものはないと思っている。
治さない結果病気に「命を取られる」ということはあっても、それはさまざまな要因があって治療が阻止されたケースである...と考える。
だから父の場合も、父自身の問題が鼻に出ているのだと僕は考えるのだが...。

でもここで言っておかなければいけないと思うのは、病人が治らないのは、非常に多くの場合に、本人がそれを望んでいないということが言える。たとえば、「肝硬変」。酒が、タバコが、食生活、運動不足などがそれを引き起こしているとは告知されても、本気でそこにタックルし、治癒を目指す人は、実はすごく少ない、ということ。
重病をおうた多くの人の心理は、「あぁ...これまでの生活が恋しいっ!」「いいお医者さんよ、金出すからなんとかしておくれ」「薬は何がいいのか?」と、他力本願である。まず自分が自分の病気と向き合うという姿勢が必要でも、それが多くの人はできない。これまでの生活がなくなることに、精神的にまいってしまって...

///

話がそれた。

父がこれから会社を運営するに当たって、疑問は尽きないが、僕は今、そんな父の弱さを見て見ぬ振りでどこまで家族と向き合っていけるかということを考えている。

「6月一杯のお手伝い」というのが最初の父の話だった。
7月からは「やってもやらなくてもよい」という感じだが、新しいことを始めるなら、まもなくチャンスだ。

何か、大きめの目標を掲げようか。。。

2009年6月22日月曜日

不食の「師」、山田鷹夫氏とのやりとり

2004年11月、僕は鷹さん(山田鷹夫)の著作『不食―人は食べなくても生きられる―』に出会った。

以来2007年1月、日本を無銭で飛び出すまでの僕の人生は右往左往、何をしてもだめだった。

2007年1月、とうとう行き詰まって日本を飛び出し、数ヶ月後には母の国スイスも飛び出した。
そうして僕の人生は、「開けた」。

2009年1月、希望を持って日本へ帰国し、以来家族と一緒に暮らしている。

2009年6月、山田鷹夫氏と直に連絡を取り始めた。
ソーシャルコミュニケーションサイト、「ミクシィ」でだ。

そして当然ながら(?)、鷹さんと僕の感性が取っ組み合っている。
僕の社会生活をひっくり返した、僕の人生観をひっくり返した、「不食」という思想。
「不食」を知らなければ今ごろ僕は生きてはいないといえるほどのものが、この思想との出会いにはあった。そしておそらくそれは、「鷹さん」の「不食」的生き方だから、そうだったのだ。これが他の、「ジャスムヒーン」とか「森美智代」さんとの出会いだったら、僕はこうなっていない。そもそも「生きていない」可能性が高い。

その「鷹さん」だが、彼は最近「セックス」をテーマにしている。
鷹さんは『不食』のあと『断眠』、『超愛』と、人間の三大欲求(食・眠り・性)をテーマにした本を出されている。その最後、「セックス」とテーマにした『超愛』が、今現在でも鷹さんの主たるテーマである。

だがここで僕は、「無理」が生じた。
僕は「性」に関して、疎遠だ。鷹さんの『超愛』も読んだけれど、観念的に彼を追いかけることはできても、正直、ここまでは「不食」で精一杯であった。

『超愛』だって追体験ができないわけではない。
今の状況が、追いつかないわけだ。鷹さんとつながったことだけで十分刺激的で、ここから自分のセックスも探究を始めるとなると、「今は…無理。」、と感じる。

今僕は何をやっているのか。
今僕は家族を愛するために「普通の」社会生活を送っている。
鷹さん自身は「捨てた」という、『家族愛』を僕は抱きかかえている。
「(僕がやっているのは)無謀なことだ。」と時に先の長さに気が遠くなりかけながら...

また日本を飛び出した時のように、すべてを「捨てれ」ば、僕にも無理なく「セックス」追究の余裕が生まれる。もう「セックスしなきゃおかしい」年齢になっているし。

///



今日も一日父の作業を手伝った。

昼前から雨が降り始め、午後は雨の中田んぼに米ぬかを撒いたり、無農薬田んぼの草取りをやった。大空の下、風雨荒れる田んぼの中で。



「輪廻転生」という概念がある。
人は絶えず「生」を繰り返しているという教えだ。そうやって人は、人類は、そしてこの地球は何をやっているか。僕はそうやって「生命全体」として、とてつもない大きな規模で「いのち」というものを享受しているんだと思う。
そう思うとき、僕は他の生命がいとしくてたまらなくなる。抱きしめて、そいつの運命がどうであれ
『俺とお前はどこまでも一緒だよぉ!!!』
と叫びたい衝動を覚える。旅ではしょっちゅうだった。旅では人前でもよく涙した。この日本が「妙に」冷めているのだが。

それで僕は親に対して愛しさを抱く。
家族のために時間を使っている。
自分の人生を「後回し」にしている。ひどく「後回し」にしているが、それは僕の中でのバランスがちゃんとあるようで、世間の常識はあまり構わない。
かわった家族なのだ。でも本当はすばらしい家族なのだ。

2009年6月21日日曜日

「小川家解析」 その1

連日父と一日共に動いて、父を知る。
同様に、母も知る。

いったい、この二人がやらかしたことは何か...!
二人とも、自我が強かった。「自分」が強かった。
『あなたはこう?でも私はこう!』って早いうちから分裂していた。
そして結局彼らがやったのは、夫婦としての機能不全を子供で解消するというようなこと。父が子供に「1」!と言ったら今度は母が「-1」!と言った。母が「2」!と子供に期待したら父は「-2」を期待した。
そうして子供の元気が続く限り子供を翻弄した。
僕は兄妹の中でもっともエネルギッシュだったから、当然か、もっとも振り回された。もっとも邪魔された。

連日の親との関わりで、その辺のことがいまだに「ほとんどわかっていない」親がいることが、わかった。
では親がやってきたことはそんなに「ひどいこと」だったかと言えば、「ちょっとまって...」と思う。
彼らは彼らなりに「愛情」を持っていたし、世俗に流されずに宗教や哲学や倫理的な教育を早くからやって、僕らの「独自性」をはぐくんだ。
「父と母」―彼らはセックスを究めなかった。セックスという分野はあまり探求しなかった。それよりも、この特異な家族、非常にユニークな「小川家」の形成を、自らの使命として維持・発展に寄与した。その心は「伝わってくる」。

でも僕が19で初めて彼女ができたとき、かつてない密接な(心の)交流を経験した。彼女とはスキンシップもなく別れてしまったが、彼女がみせた「感受性」は自分の親がごまかしていた本来の「男女の通じ合い」という、そのものだったと思う。僕はそこでやはり「畏れた」。心が通じ“すぎる”のを、畏れた。

東洋人の父と、スイス人の母。
この二人の人間的「隔たり」というのはすごい。
僕が精神分裂質に悩んだのは不思議じゃない。
日本人にも西洋的な人間はいるし、西洋にも東洋と共鳴する人がいる。でも二人はどういうわけか結局は自分のオリジン(起源)を重視し、「異質」同士でぶつかるようになった。母は西洋的なものを求め、父は日本的なものを求めた。「振る舞い」や「善悪」の判断に及ぶまで...
両親が見事に「間逆」を向いた。何かあればお互いに邪魔し合い、時には傷つけあう関係になっていった。

そんな家庭には当然「不健全な」空気が溜まる。
今こそ子供がだいぶ発言力を持っているけれど、一昔前はひどかった。言葉通り僕など、「振り回された」。父の気分によって、また母の都合によって。

不健全な空気が、僕より12も年下の妹などに影響している。昔は、僕が小さかったころはこの家族にも独特の平和があったけれど、それがない今、それが壊れ始めてから大きくなったその妹は、少なからず犠牲者になっている。

話が逸れた。
(最近は無理をしているのだろうか、話が逸脱する)

両親はひょっとすると、自分たちのやっていることに気づいていなかった。
ただただ「自己を信じて」、最善を尽くして子供5人を教育した。
その「理解のなさ」は、最近、驚く。
よくまぁ僕があれだけ「おかしく」なってもこの二人は微動だにしなかったな...、と、『驚く』。憎しみを克服した自分はそれはそうと認められるが。

///


昨日だか、おとといだか、『40年間変わらぬ人間』ということを思っていた。
人間はある一つの自分で確立すると、それで平気で40年生きる。もっとかもしれない。
僕の父親がそうだと、そんな気がした。
「本当に、父は「変わっていない」んだ」
「これでよい」とした自分を10代後半から行き続けているような感じがする。

(どうも調子がおかしい。
 このまま続けてもろくでもない気がするので中断...)
アデ。

どうして相模原にいる?

命を燃やして生きるなら、「旅」がある。無銭徒歩の「旅」がある。



それが多分、僕がもっともこの命を燃やす方法だ。

「金が無くなる」から、生きていくための物資の管理や、瞑想による精神修養、精神世界の開拓(超能力等の研究)、もちろん「不食」も進む。



でもそれを今は葬っている。

それは「家族を愛そう」としているためだ。親を、妹を、兄を家族として愛そうとすることに命を捧げているからだ。



僕は過去にこの家族に訪れる大体のことが分かったとき、「絶望」した。

妹は高校生で妊娠してしまったり、兄は外国的資質で日本という社会に溶け込めず、母と父の人間的な致命的な隔たり、自分が自ら葬った過去の栄光・遺産。
死んでよかった。

無銭の放浪を終えて2年ぶりに日本に帰ってきてからやっぱり自分は間違っていなかったということが分かった。自分で思っていた以上に自分は正しかったということがわかった。親は僕の純粋な反発を受け入れたら最期、親として、あるいは家族として機能できなくなるということを本能的に分かっていたから僕の言っていることには耳を貸さなかった。耳を貸している振りをして、どうにか僕が静まるのを待っている、それだけだった。

親には憎悪がわいた。
今にも親父の部屋に突っ込んでいって、パソコンや仕事の書類関係をすべて二回のベランダから池にぶち込む衝動を、何度も抑えた。
良き母、温厚な母の衣を来て、どこまでも「分かっている振り」をする母を「ショック」を受けるまで突き飛ばしたかった。精神的にも。物理的にも。

そうしてついに2007年の1月、やむにやまれず、日本を飛び出した。
「憎しみ」を乗り越えるために。
「人間」を超えるために。すべて「なかったこと」にするために。

自然農、福岡正信先生の人生観が手伝った:
『なかった。
 最初は何も なかった。』

何もなかったならば、「憎しみ」を作ったのは自分だ。
最初は「何もなかった」のだから、それに立ち還ればいい。
「楽しみ」も同時に、「消去」、できる限りの、すべての「リセット」だ。

肉体的な死を迎えるか、それとも、他に道はあるのか。
「不食」思想を含め、キチガイの思想を心の拠り所にした。でも自分がキチガイだとはしないようにした。あくまで謙虚にあるように努めた。

そして少しずつ、世界が拓けた。
セルビアで奇跡的にパスポートが発行され、イスタンブールで日本と再会した。そして「心の友」に、次から次へと出会っていった。自分の未開の能力の存在を認め始めた。自分のというか、「人間」の。

トルコから東は、行かないことにした。
命をもてあそぶべきでないという考えが生じて。
そして10ヶ月ほどかけてスイスに戻り、張り合いはなくなってきたので、「日本に帰ろうか」と思った。「張り合い」というか、人生のバランスというか。

そして日本に帰ってから5ヶ月がたとうとしている今だが、
多少の失望は起こった。それでもまだ僕がここ実家にいること、その全体性に動く余地を見出してきたから、ここにいる。ここ3週間くらいは朝から晩まで父の農作業を手伝っている。


僕にはこだわりがない。
27という年で「就職しないのか」と言われるけど、立派な職業に就こうなんて考えはない。その気になればドイツ語や英語を使ってのよい仕事も夢ではないが、それ以上に『自分の精神世界を生かす』生き方、多少「金」は少なくたって、精神を満たす生き方をしようと、思っている。最悪、家族が今の僕を扱えず、僕の見地を軽んじてさげすもうものなら、東京のホームレスと一時「たむろ」してもいいと思っている。僕は乞食のような汚らしい格好をしたことはないけれど、あえて汚くなる必要はないけれど、そういう連中とたむろすくらい訳はない。
僕の関心は、どうして今の自分で「清い」生き方ができるか。
「清い」というのは、「汚さない」というか。
自分の魂からまず、世界をよごさない。けがさない。できるものなら汚れを吸い取る。スポンジのように吸い取って、消してしまう。それがこの今ここの世界でどれだけできるか。
この世界は、特にここ日本の首都圏では、「神」はいらない。「神々しい存在」が、要らない。社会自体がそういうものを葬っている。却って「望まない」。
だから「神」も、無理には現れない。

「神」はそこら十にいる。
それを見ようとするかしないか、基本的にはそれだけだ。
都会の人間はそういうものに期待する気持ちをどこかで持ちながらも、それを宗教でもなければ全面的に出すことを恥じ、畏れ、閉じ込めている。自ら自他の神聖を葬っている。

だらだらだらだら。。。

2009年6月19日金曜日

僕の仕事は何か。

誰でも仕事を持っている。お金を稼ぐための仕事ではなしに、もっと広義の生きている上での仕事だ。

あなたにしかできない仕事がある。
絶対にあなたにしかできない仕事がある。
実はもうやっているし、これからもやっていく。

仕事がなくなったら、死んでゆく。
仕事がなくなったら、この世界にいてもしょうがないから、死んでゆく。
それは悲しいこともあるけれど、大体において必然だ。それをどう説明するか。

従来霊能力者がこういう世界を扱ってきた。
彼らに働いた「力」はなんだったか。
どこからその「力」がきたか。

そんなことを旅の最後の数ヶ月、テーマにしていた。
とりあえず十分な自尊心や自信をつけたから、日本に帰ってきた。

日々父と取っ組み合っている。(充実度は低いが...苦笑)

2009年6月18日木曜日

休みの「木曜日」が終わる

「木曜日」は父の指定の休日だ。それでも父はよく作業をするが、今日は最近の疲れもあって、一日けっこうゆったりしたようだった。

最後の投稿が15日ということは、2日空いたということになる。
16日、17日は父の手伝いで一日が埋まった。
今日18日はのんびりした。
明日からまた、スタートである。

今日は銀行のATMに預金残高を確認しにいった。
先日「携帯電話」を解約したため、なんと解約料で9,500円も取られ、ポケットマネーがやばい。

大学時代に借りた奨学金の返済が1月に2万円弱あるのだが、先月から親に負担してもらっている。
「お金」に興味がない僕は「国民健康保険」も「国民年金」も納めていない。
ヨーロッパの2年間はもちろんそうだから、もう3年くらいその状態だ。

社会を一度完全に捨てた、僕だ。
そこに戻るにはやっぱりそれなりの時間・努力がいる。
「果たして戻るのだろうか?」とも時々思う。

僕に向いた仕事とはなんだろう。
小遣い稼ぎだったら、けっこう何でもある。
でも生涯ずっとアルバイトというのは考えものだから考える。
「ヒーラー」としての活動を夢見るけれど、何をどうやったらよいのか、わからない。
2000円もらうのか、20000円もらうのか、200000円もらうのか、それとももっとも理想的に、何ももらわないか。無銭放浪者を生きるか。

今はまだ、ただ家族と一緒に生活をするだけである。

2009年6月15日月曜日

家族の不信

一つ前の日記を書いた後、晩ご飯を食べた。




そこで家族、とりわけ最近父のお手伝いばかりで交流の乏しい(それでも日常的に会ってはいるが)母や妹達の、僕に対する「不信」が明らかになった。


それは言い換えれば「不食を確信している僕」に対する疑いである。




晩御飯は残りものを使った簡単な焼きうどんだった。


しかし量が少なく、後はどうするのかという話になった。


すると「足りない分はミルクがゆ(母がすっぱい梅ジャムといっしょにデザートとして作ったもの)だね」とY(一番上の妹)は言った。


それに僕は:


「えー。そんなんだったら僕食パン買いに行くよ。」




この発言に思わぬ二番目の妹(M)の突っ込みが入った。


『ともちゃん、「食べ物にはこだわりが無い」って言ってたじゃん…』




たしかに。


僕は食べ物にほとんどこだわりがない。


でもこの妹の発言は、僕の不食思想に対する根本的な不信から発していた。


でもではなぜそう言ったのか。


僕が不満をもったのは「十分に食べられないから」ではない。


炊事をやる女性陣(父と僕が今の家族の「男性陣」であるのに対して)のいい加減さだ。


そういう意味での


 ―えー。そんなんだったら僕食パン買いに行くよ。―


だった。




その後、上の妹Yや母からも僕に対する不信がちらほら伺えた。


僕が父との農作業でどれだけはかどっていても、家に帰ったら妹や母を「やさしく相手してやらねばならない」という、無理。


僕が家族を統率すれば大方問題はなくなるが、そんなこと親が認めるはずもなく…。




皆、多くの人間は、食べることで自分の生きるエネルギーを培っていると思っている。でも実は「精神的滋養」、これも食べ物とよく結びついている。上のMの勘違いは生意気だったけど、僕はそう言ったことで、言ってみれば、


 ‐それなら、お前(達)の愛情なんか要らないよ。自分で補うさ。‐


という気持ちを表明した。


 「精神的滋養」・・・これは自分の近い人間関係で、大切なものだ。僕は今、かつて憎んだ自分の家族と、関係を修復する狙いで実家で生活をしている。それで、家族とその「精神的滋養」の補い合い(家族としての愛し合い)を試みるのだけど、難しい。ほんとうに難しい。




 日本に帰ってきてから6月下旬で 「5ヶ月」となる。


 どんだけこの「不信の家族」を「信用・信頼の家族」とすることができただろう。はっきり言って達成感は薄い。




 母がどれだけ自分の子供達を知らなかったか、分かった。


 父がどれだけ自分の子供達を観察してこなかったか、分かった。


 僕が2006年、あれほどの「狂気」に陥っていながらも!!!




 ある意味、馬鹿な親である。


 盲目な親である。


 哀れなくらいに。




 親は自信過剰であった。


 あまりに自分達の「教育」に自信があって、省みること(子供の身になって)が少なかった。



今日も相変わらず。。。

父の作業を手伝っている。

ただいま午前11時35分。
今日は小麦の収穫をし、実家の倉庫にから干しするため、収穫した小麦を実家まで持って帰ってきた。
だからちょっと、ネットを開くチャンスをつかんだ。

昨日は疲れていたので結局日記がかけなかった。
書きたいことが結構あったにもかかわらず。

車の運転中、煙草を吸ったが、感度が高かったのでクラクラした。
そして不意に「なんで『飲酒運転』はだめで、『喫煙運転』はOKなのか」という疑問を持った。
正直、クラクラした僕の頭は注意力が落ちていた。
感度が高い状態は煙草でも酒でも、それこそ食い物でさえ、注意力を落とす。
「法律」というものの奇妙さを感じた。


昨日は草ぼうぼうの耕作放棄地を、田んぼに変えた。
びっしりと、田んぼ内に密生している雑草を延々とむしった。
そしてあるとき突然、「時空」がとんだ。
そして「妙な」感覚が僕の意識を埋めた。
ちょっと今はこのことについて詳しく書いている時間がない。
でもその感想を言葉にすると
「僕は小川智裕という人間を生きているが、同時に、あるいは本来はここの(この世界の)者じゃない。」

という感じだった。
高校時代から、この突然起きるこの現象を経験している。
それがなんなのか、知りたい。
また今晩つづけよう/

///


午後7時半。
18時過ぎに帰宅した。

ほっと一息ついて「ミクシィ」や「メール」のチェックを行う。
先日、うちの親が営んでいた寄宿生活塾の元塾生「けいすけ」からメールが入ったが、案の定、彼は変わっていなかった。相変わらず人を探る・挑戦する白々しい態度。彼は『日本での生活に行き詰った』というが、もし本当にそうなのならば僕の示した厳しい姿勢に、すぐに抗したりしない。 すぐに抗するだけの力が、あるのだ。

もうにっちもさっちも行かなくなって、藁にもすがる思いで、何かに身や判断をゆだねるしかない状況―「行き詰まり」。そう考えると、彼が僕を前に示した態度は「行き詰まる」というにはまだ早い、悩みの内だった。まだまだ‘行き詰める’余地がある。彼の苦労もただならないが、それは人間としてより大きくなるための試練と考えることができる。僕の知り合いにはそういう連中が多いが、若いうちに相当の苦労を積む人間というのは、相応に将来が「期待できる」。でもそれは楽な道ではない。「楽」の間逆、苦悩の淵だ。でもそれが結果的に「人」を鍛え上げる。
楽して生きようなんて思ってくれるな。
この世界に生まれて来たからには、ある意味で「死ぬまで勉強」だ。死ぬまで精進し続ければならない。それは楽しみと捉えることもできると思うけど、いつもじゃない。
先日会った元塾生のY君やH君も、同じだ。彼らの人生も相当きついはずだ。でもそれだからこそ僕は彼らに同情するし、一緒に「苦労」を乗り越えて行きたいと思う。順風満帆な人間には僕は興味がない。

///


昨日僕の身に起きた「現象」について。
田んぼづくりの途中、僕の意識が「とんだ」。
「時空がとんだ」と上に書いたけれど、それが適切な表現かどうか、改めてみると考えてしまう。

それはある時突然来た。
「あれ?!!
 … これはもう一人の自分だ。普段の顕在意識にはない、もう一人の自分だ。」
そんなようなことを感覚的に捉える。
そしてもう少しそこを探検していると、これが決して心地よくないのだが、むしろ「苦しい」のだが、そこを探っていくと、そこにもう一人の、まったく別の「たましい」である自分を認める。

高校の頃初めてその領域に入るのを経験し、当時はひどく不快だった。
それは眠りの浅い寝始めや寝起きに突如としてよく起こり、当惑した。
なんだこれは。
なんだこの感触は。
と。

慣れるうちにその領域を探索するようになった。
これがまた「気持ち悪い」。非常に「奇妙」。
本来の自分でない、この世界で二十数年間慣れ親しんできたこの身体とそこに宿る魂と違うもの、まったく別の認知系統なのだ。恐ろしくもなる。

昨日の草取り中、突如として「それ」が起こった。
なんでもない次の瞬間にそこにシフトした。
一気に「すべてを忘れる」。
すべてがすべてではないが、今自分はどこで何をどうしていたかということの細部が見事に忘れ去られる。ぶっとぶ。
自分は田んぼで、父と助手のTさんと三人で泥に生えた草を引っこ抜いていた。
そのときの前後関係、状況は見事に忘れる。ただ手は惰性で、草をむしり続けながら。

自分がどんな人間であるかということでさえ、これを経験したあとは微妙に分からなくなる。
「自分とは誰?」
そんな質問がなんともなく浮き上がる。
そんな質問とやりとりして「それ」を多く経験していくうちに、僕はただ自分をありのままに生かされるままに生かすようになった。それは「自分で選択する」というよりは「世界に選択してもらう」、身を委ねるという生き方だ。多かれ少なかれは。

その領域をなんと言ったらいいのか、わからない。
言葉で表現しようとしても、それを体験した直後であっても(!)それがなんであるか、言葉にならない。何か、自分の認識手段がそこでは人間的ではないのだ。
よくわからない。
これからもっと深く見つめて行きたいと思う。その領域は、安易に入ると非常な不快感(言葉にならない不快感)を覚えるのだが、それがなんなのか、突き止めたい。僕の意識の活動の無視できぬ現象だ。
だがひとつ言えるのはうまく出入りすると、この世での自分の意識が見事に「生まれ変わる」ことだ。これはすさまじいものがある。まだ数回しか体験していないが、うまくそこを処理すると、かつてないほど新鮮な意識で目が覚める。「天国」を生きているような晴れ晴れしさを獲得する。やることはなんでもない「いつもと同じもの、生活」であってもだ。(!)
とりあえず今言えるのは、多くの場合そこは「不快」の世界ということだ。
この不快の元(根源)は何だ?

一度その領域に入るとそれが2、3日精神活動に影響するが、今日もまだ微妙にそこに近いところにいる。今晩にもまた意識的にそこに入れるかもしれない。

2009年6月14日日曜日

濃い一日。

今日は田んぼの草刈り一日、夜は妹と僕の一緒の誕生日パーティー、パーティーの後には元塾生(寄宿生活塾)のY君とH君の再会があった。

寄宿生活塾というのは、1998年、家族がドイツから帰国してから今年3月まで親が実家でやっていた、簡単に言えばひきこもり支援の生活塾である。

H君は早くから両親をなくし、中学校くらいから何年か、僕の家族と共同生活を送った。
Y君も同じだが、彼の場合は親の教育のせいでまともに義務教育を受けられず、不登校となって、数年間僕の家族と居た。

何の連絡もなくY君はやってきたので、相談があるとも言うので、一緒に散歩に出掛けた。帰りがけ、Y君に「H君を訪ねてみようか」と振ってみると、無理もなさそうだったので、一緒にH君のアパートを訪ねた。
そしてそこでは意外とすんなりH君に会うことができたので、12時過ぎまでおしゃべりをした。

僕の正直な感想:
「みんな、人生大変だ。」
Y君もH君も僕よりいくつか年下で、自分の進路のこと、就職のこと、悩んでいた。
この不況の時代、僕自身も含めて、「お金」のことは大変だ。
そんな感想だった。
Y君などはお金も何も気にしないで、「放浪」ということに興味があるようだった。おそらく僕がヨーロッパでやったような事にだ。

父の手伝いでは今日はひたすら田んぼのあぜの草刈りをやった。
父が今年稲作をする田んぼは何枚もあって、草刈だけでも大した量だ。それを今日、父が別の田んぼで田植え会をやっている間に、父の助手のTさんや父の会社の会員(出資者)の方々とやった。

強い太陽に照らされて、一日だけでだいぶ日焼けし、仕事それ自体は難しくないが結構疲れた。

明日も父が出るなら、ついていく。
僕は最近「飽食」の日々なので、睡眠時間もバカにならない。
これはヨーロッパ人の体質なのだろうか、まともに、欲に任せて食べると、9時間の睡眠時間が要る。
そう、一日の4割近い時間を、大して気持ち良くもない「睡眠」という時間に浪費する。
もったいないことだ。

少食が認められる環境があれば、喜んで「不食」へと向かう。
でもそんな環境、ない。すくなくとも今僕が向き合っている物事の中では、ない。
自分の環境を、どう「創っていくか」。
大きなテーマだ。

2009年6月12日金曜日

「タイトル」が一番悩む。

ブログでもメールでもいつも悩むのが、初めに書かなければならない、「タイトル」。
考えるのが面倒くさいのでこれからはそういう時あえて上のように書こうかと思う。笑

今日も一日、19時過ぎまで父と田んぼの作業であった。
田んぼの「補植」と、雑草取り、除草剤(米ぬか)散布などである。
それなりの仕事をこなしての「帰宅」は、うれしいものだ。

仕事中は、またいろいろと思うことがあった。
今朝はまた親の口論があったので、その時はきっぱりと
「...「離婚」すれば? サポートするよ。」
と二人の前で明確に言った。
二人は、『噛み合わない』。もうとっくに限界は来ている。
午前中は田んぼの中で、熱い日差しを背に浴び、冷たい水に足を浸しながらそのことなど考えていた。午後は父の仕事のやりかたにすこし不満も持ったりしながらも、なんとかしっかり仕事はこなし、きれいな夕日の中、気持ちよく帰った。

帰ってから「ミクシィ」を開くと、何日かぶりに鷹さんのページを訪問中、なんと鷹さんからマイミクの申請があった。「そこまでしてくれるなら」、と、即座に「承諾」、鷹さんがマイミクとなった。鷹さんと連絡をとって数日後、僕が鷹さんのマイミク(3人中)の一人、男としては一人目として入っている。。。(!!)
まあ、これはつかの間かもしれない。用がなくなれば、鷹さんも僕も、お互いにつながっている必要はないのだし。でもおそらく、このお付き合いは当分続く。鷹さんが東京にやってくる際には、きっと会いにいくだろう。それは僕にとっても「重要」なことだ。

そしてもうひとつ。
かのケイスケからEメールが届いていた。
「行き詰った」 と彼。
僕は今のところすぐには無銭旅行はしない、海外にも出ないが、彼は「世界を見てみたい」のだという。
適当に相手をする。

仕事がしたい。
すぐに金ができる仕事が。
月末が怖い。

2009年6月11日木曜日

今日は木曜日(6/11)

おっと!
そうだ今日は僕の誕生日ではないか。祝27。上の日付を書いたときに気づいた。

「木曜日」は父の一応の休日。そして今日は「雨」。今日は農作業は休みかもしれない。

今は月末の料金のため、まただいぶ仕事を探す気になっている。
そして雨であっても工作小屋での作業はできる。やることは絶えず絶えない。


昨日「M」さんについて書いてから、また考えることがかなりあった。
「表」を出さない、「M」さん。
「裏」がやけに感じられる、Mさん。
先日鷹さんの日記にも書かれてあったけれど「表」と「裏」がない人間。それが他でもなく僕の目指し、完成してきた姿だ。Mさんの裏は何か。大体想像つくけれど別に知りたいと思わない。ただし今の彼では僕は関係は続かないだろう。不自然だからだ。
しかしこのMさんという人との触れ合いは、また非常な教訓となった。


ヨーロッパに出てから、変わった僕の感覚。
世間は実はこの2年間でそうも変わっていないらしい。
でも僕が変わったから、同じ世間も違って見え続けている。
世間の人間の興味関心は、ほとんど僕のと重複しない。
僕は彼らの世界に生きていない。
同じ場所に肉体的に存在しているだけで、精神世界はまるで違う。
そして、今の自分が数年前の絶望に「返り咲き」せず、こうして粘り強くいられることがすごく嬉しい。「借金返済」とか計画は思ったように進んでいないけれど、生活の「全体感」はよい。

///

午前9時半。
今日は仕事に出なかったため、そして雨で朝をゆったり過ごしてしまった。
父は普段とは違うこぎれいな格好をして車でどこかへ出て行った。家には妹と甥のジュン、そして僕だけである。

朝飯から結構食べた。
父が手配してくるおいしいお米と母の焼くパン、そして数々のおかず...「楽しんだ」。
父の新たな挑戦と、寄宿生活塾をやめた実家は経済的に厳しいが、どうも「食事は豊か」で、僕個人的には疑問である。でもうまいことは確かで、付き合い半分食欲半分でいつもよく食べている。
「断食」もしくは「少食」では精神が「研ぎ澄まされ」、意識は澄みきる。あのとき以上の幸福感はないと思う。
でもまた一方で、なんでもない凡人、シャバで人間としての欲望に溺れるのも悪くない。両方知っていることに意味がある。

そんなわけでのんびりと朝を過ごした僕は、却って出だしをとちった。
そしてなんとなくコーヒーをつくり、広間で長いすに腰掛けながら家族のアルバムを見た。
マレーシア時代(1990-1994)、ドイツ時代(1995-1997)、そして親が寄宿生活塾を始めた1998年前後である。
心をぬくもりが満たした。とくに「マレーシア時代」。
その感動を明記せんとばかりまたパソコンを立ち上げ、書き付けている。

なんていい時代だったんだろう。なんて幸せだったんだろう。
今の両親の結婚の危機とくらべると、あの頃が恋しい。過去に未練はないが、「あの頃はよかったなあ」と感慨に浸った。

人生は止まらない。
今も昔もあるけれど、常に「変化」し続けている。
変わらないと思っているのは人間の頭だけだ。僕はむしろ進んで、「僕は変わり続けていく」と思っている。「変わらないなんてありえない」と思っている。
いつか「変わりたくない」と思う時はくるのだろうか。

///

午後12時過ぎ。
父に頼まれていた倉庫のひさし作り(木工作業)の途中。
工作は小さい頃から「好き」で、自分は器用だと思っているが、実際に最近手をつけている作業はさほど「上手」でない。それはなぜかと言えば、上手にやるだけの「価値」がないから、だ。
機能性で十分。だから「間に合わせ」、「気休め」で作業している。

作業をしながら、まだ自分の脳裏を行ったり来たりしていたのは、Mさんのことであった。
Mさんはそういえば、父の会社に少なからず「投資」をしてくださっている人で、父の会社にとっては「重要人物」である。
しかし僕はあまりそういう意識はなかった。
「無い」と言うのは、ご本人が「自分から」「喜んで」支援している感じだったからだ。
しかしそんなこともない。
昨日は父が借りる農機倉庫の契約書にMさんが「連帯保証人」として印を押してくれていた。

父のやろうとしていることは僕にはまだそうはっきりは見えない。
父は非常に考えの深い人だから、そう簡単にはこちらもわからない。
ただ思ったのは、「そうだ...、Mさんは父にとって大切な人なのだ」ということだ。

僕は去る2月、このMさんが家にいらした時に、不注意に「不食」について語った。
それはそのときの状況からして僕も「引くに引けず」、会わされたという感じだったのだが、結果的には前述したように、非常に無理な形で関係が始まった。それが、変な芽となって成長している。
『自分の撒いた種は、自分で刈り取る』
僕のMさんとのささいだが、ただならない関係で僕が悩むか否かは僕がこの芽吹いた種をちゃんと世話してやるか、どうかだ。
ちゃんと世話してやれば、まだ芽は正常に発育する。
手を抜けば、それが後にどんな「木」になるか、危ういところだ。

つい二日前、父が会社のパートナーとして信用していた山梨のファームが、「妙な展開」になっていることを聞いた。
なんと、そのファーム(農場)が土地を地主に返してしまうかもしれない、、、というのだ。
つい数週間前、父と一緒に田植えをしにいった、白州の「理想郷」だ。
いったい、どうなっているのか。
僕には僕の見ていた範囲内で、何が起こっているか考えることがあるけれども、ここでは控えておく。

ともかく、Mさんとの関係、僕がこれまで「大したことない」と思っていた関係が、注意しなければいけないことに気がついた。僕の関わり方一つで父とMさんの関係もいかようにも変わる。
人間には「皆」、そういう影響力がある。
この60億の世界人口の中での塵のような存在の自分だが、実は、この自分がすべてを運命付ける力を秘めている。僕はその力にヨーロッパの旅行中に気付いたけれども、なに、これは僕だけのことではない。考えがたく思う人もいるかもしれないが、一人の人間が、実はこの宇宙のすべてを動かし、すべてと密接に繋がっている。

僕は今年の1月にヨーロッパの歩き旅から帰ってきたが、その最後の一ヶ月に前述した『今できる不食総括』という書きものをした。
それは10万字を超え、4月にやっとタイプをし終わったが、それを書いたものすべてを渡した唯一の人が、「M」さんである。最近ネット上で鷹さんとは別の「不食者」とつながって、その人にはメールで送ったが、それ以外には誰にも渡していない。よく自分の書きものを読んでもらったおばにも、途中までしか渡していない。

Mさんとの関係に自分のエネルギーを投資するか、というところである。

2009年6月10日水曜日

今日の感想

今日も父の仕事を手伝った。
朝8時から夜6時半くらいまで、今日はひたすら田んぼの「補植」と「雑草退治」をした。

父は昨秋、「会社」をつくった。
安全な食と自然環境の再生をもくろむ、共同体づくりを目指す会社だ。

今年はその一年目であり、父も大変である。
今は米や野菜をつくることに日々血汗流している。
そんな父を僕は今手伝っている。



今日は作業を手伝いに来てくれた年配の人と、交流があった。
「M」さんとしておこう。
僕がヨーロッパ2年間の放浪から帰国した直後に、「不食」思想の共有をだいぶ試みた人で、それからしまいにはこのMさんが、今のところ「今できる不食総括」(10万字)を渡した、唯一の人になっている。
「今できる不食総括」とは僕のヨーロッパの放浪をできるだけ詳しく書き表したものだ。

この「M」さんだが、実はちょっと気になることがある。
 
⇒心が、通じない。

「心が通じない」のは、最初に「不食」を共有した状況が無理だったこと、そして「父」とのつきあいの延長として、軽い乗りで「今できる不食総括」を渡してしまったことが、いけなかった。
「不食」を無神経に話す人間はおかしい。
でもそのようなことを僕はこの「M」さんを前にしてしまったのだ。

いけない。
今日は3時間か、4時間か、この年配のMさんと田んぼで仕事した。
おしゃべりのなかで、Mさんから変な質問が多発した。
答えるに困る、僕。
(ふつうこんな若僧に、あなたのような立派な年配者が、へりくだって質問攻めするか)
正直そこにたち込めていた空気は、奇妙だった。
「この人は僕を探っている」
そうとしか、思えなかった。悪いが、本当にそうとしか思えなかった。
そして、ちっとも本当の親近感は沸かなかった。
「M」さん、僕の境遇が、あなたに「見えますか」?
僕の歩んできた道が、あなたに想像付くでしょうか。


明日もおそらく農作業だ。
父は休みを取るかもとは言っているが。
僕は今月末までにかなりに出費があるので、お金になる仕事がしたい。仕事を探さなければ。

2009年6月9日火曜日

父のお手伝い再開

今日は一日、父の仕事を手伝った。

今日は畑と、午後は実家で、売ってしまう車の掃除と、少しの木工作業をした。
「たくさん働いた」という感じではないが、それなりには「やった」一日だ。

昨日か、父から田んぼからの脱走(6/5)について質問された。
『どうして無断で、仕事を投げ出して、裸足で帰ったのか。』
常識的行動とキチガイの境がある。君がやったことは後者の部類だと、父は言った。

認める。自分でもそれは分かっている。
話をしている内に、色々なテーマが挙がったが、最後に判明したのは:

『僕と父の関係に寄る “コミュニケーション能力の低さ” だった。』

既存の関係では、僕と父はコミュニケーション能力が、低かった。
ちょっとなんかあれば、互いにとげとげした態度を取り合った。昔から、そうなのだ。

しかしそれが話でなんとなく共有されると、父はそれ以上何も言わなかった。話題は変わり、皆(そこにいた父・母・僕)の意識は分散していった。



そうして...今日。
朝はまた7時過ぎに起き、父と軽トラックに乗った。

僕の使命は何だろう。
いつもそれを問うている。
それは最近というか、日本に帰ってきてからは短期的な使命が多い。
ひとつのステップを終えると、次のスピリットを自動的に呼び込んだ。そして今日、日本に帰ってきてからやく「4ヶ月」家族を前にはより安定した人格を保つことができている。これがうまくいけば「小川家での僕」として、定着させることができる。

2009年6月8日月曜日

6月8日 父について

 今朝実家が寄宿生活塾だったときにつかっていたホワイトボードに父から伝言が付されていた。

 【智裕へ
  今日もしんどの田んぼで手伝いよろしく。
  当てにしているよ。 父より         】

 しかし例の脱走の際、足の裏を怪我して、昨日剪定で指を深く切った僕には田んぼ作業は向かない。
 「ちょっと無理があるなぁ」と思いつつも、今日は行くのだろうか?
 先日、「脱走」は田んぼの作業中にあった。
 どう説明したらよいか分からないが、簡単に言えば「嫌気が差し、その不満に耐えることに意義を見出せなかった。」  というか。そんな僕はそのしんどというところにある田んぼから自宅まで約10km(想定)、「裸足で」帰った。足の裏の怪我とは、小さいがそのときにできたいくつかの擦り傷だ。3箇所膿んでいる。

 先日、携帯電話の解約手続きをした。
 もう自分の中で旅に出ることが決まったためだった。
 しかしそこで例の「お声」が掛かり、父の仕事を手伝い始めたのだが...

 それも例によって(?)「投げ出し」となった。
 これは果たして、家族のためになっているのだろうか。

 結論から言う:
 「僕は父と、親子でありながら、親子らしい近さはなかった。でも大人になって、日本の社会で生活するうちに、父という人間が理解できるようになり、心的に近づいたというまでだ。」
 「それに代わって母とは密接な関係があったが、それは不健康でもあり(近すぎた)、日本に同化する過程ではその感覚も邪魔になった、はねつけた。」
 『父は子を知らなかった。(母もまた然り)』
 
 父は僕に対して、あまりに距離を感じてしまっている。だから安易に近づけない。安易に近づくことを、危険視さえしているだろう。そして僕の掲げている「不食」思想とか、精神世界の探求は基本的に相手できない。
 
 じゃあなんで僕はここ、実家にいるのか。
 僕がいることは基本的に彼らにとって、「挑戦」となるのに。

 僕は家族を愛するために帰ってきた。
 自分が勝ち得た希望をできればシェアするために、帰ってきた。
 でもそれは、せつないが、ほとんどできない。
 時間を掛けて、交流をたくさん持って、僕を「観察」してもらって、そうやって関係を修復するしかない。
 
 「観察」する人間なんて、僕に言わせれば「不信」の塊だ。
 でも残念ながら、ほとんど人がそうである。時間を掛けて、他人のあらゆる行動パターンを総合分析(意識的・無意識的問わず)して、「この人はできる」とか「この人なら頼れる」って判断する。
 僕は、そうじゃない。それが難しい。僕の生活を難しくしている。

 書きたいことがこういうことだったか、ちょっと違う気がするが、また後で続けたいと思う。

2009年6月7日日曜日

6月7日 一日空いて。

庭木の剪定をしている。
庭の木はどれも枝が伸びてしまってどうしようもない。

でも一つ何かに手をつけると父から母からまったく正反対の文句がつくから、やりにくい。
というか、何もやらないほうが「賢い」、というか。

昨日は父の農作業を手伝っていたが、「過去のパターン」にはまり込んだとき、なんともなく、仕事を「投げだした」。どうも僕は、「我慢ができない」症になっている。それを家族を前には悪いとも思わないところがあって...

「6月いっぱい手伝って」と言われたから、こうして実家に居る。
その間インターネットでは「不食」の山田鷹夫さんとやりとりが始まっている。これはただならない。

「家族のために」と思うから、実家にいるけれど、それが一体どれほど全体として、「小川家」として意味を成しているかと言うと、疑問はある。

とっとと「自分の道」、「不食」や精神世界の探究に我が時間を投資すべきかもしれない...
さて。 剪定の間の10分休憩だが、また終わったら続けたいと思う。

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6月8日 午前2時

変な時間に起きている。
おととい農作業から脱走をしてから肩身が狭い。(皆が居るとき自分はひっこんでいる。)

昨日は剪定とおばあちゃん宅前の柵作りをやった。
それなりに働いたが、父の助手よりはゆったり過ごした感じ。

山田鷹夫氏のミクシィでのやりとりで夢中になっている。
「やりすぎだ」と思う。無理もないかもしれないのだが…

2009年6月5日金曜日

雨の一日 畑とたんぼ

どうやら梅雨入りしたらしい。
よく雨が降っている。
もはや太陽が恋しいくらいで。自分が植えた苗のことを思うとね。

6月いっぱいは父の仕事を手伝う。
7月からはまた仕事を探すかもしれない。
いったい僕はどれほど自分を切り替えていることだろう。
5月頭の脱走は、結構な「リバウンド」だった。
無理を重ねてしまっていたし、それで家族外の人間にも「迷惑」を掛けた。
家庭教師でのF.サダテル君。
TOMASでの山本君、山口くん、他。
でも6日間(?)放浪して帰ってきてからは「平然と」生活を送っている。あまり過去に「とらわれ」がないのだ。自分を支配する特定の人格(スピリット)は、用がなくなると次のものに取って代わる。
目的は、家族とできるだけ「接する」ためだ。
僕が家族に伝えたいものはたくさんある。
それらを見せるのは一度に一つしかなく、したがって一つひとつ最も優先のものを見せた後は、次のものを見せるために次の人格を採用する。「呼び込む」というか。だから僕の様子は傍から見て決して「落ち着いていない」だろう。
どうも僕はそういう人間なのである。子供の頃から気の変わり方は激しかったが、2006年に分裂的危機を経てからはむしろ積極的にスピリットを交換するようになった。それが、「僕は“こういう”人間だ」というのがない、という意識を生む。
その場その場で100%入ってくるスピリットを生きてしまうからだ。僕の言動はすべてそのスピリットが決める。
Multi-spiritedness (日本語は検討中)という言葉を最近新たに意識している。
意識の『切り替え』が最高レベル(?)に頻発すると、人は分裂的危機を「乗り超える」。意識の切り替えはスピリットの出入りであり、そこに「忠実」であると、スキルアップしたときになんの迷いもなく最善のスピリットを招待することができる。
それは一種の神業だと思っている。普通の人にはできないから。
僕が喪失した「生きるための希望」を取り戻すことができたのは、そういう能力が「開発」されたからだ。
今はとりあえずMulti-spiritednessという言葉を使う。【多くのスピリット(魂)によって働きかけられる者】、という意味合いだ。日本語は、これから検討したい。もちろん、そういう概念がすでにあるかもしれないので、それも調べながら…。
既存の精神世界の研究もまだまだ勉強しなければならない。
でも今の僕にあるのは、止まることのない無限の叡智の泉、だ。それをこれから適切な言葉で表現していきたい。
とりあえず自分のことを、ひとつの新しい言葉で認識することにする。
精神分裂質を超越したところに現れた、非凡な「才能」だ。

2009年6月4日木曜日

今日は休日だったが…

今日は休日だったが、決して「休んだ」という感じじゃなかった。

惰性的に食事は続き、体は動かさず、特に意味のあることもしないで、終わった。

大部分の時間は、そうだ、ミクシィの山田鷹夫さんの日記へのコメントや、自分のミクシィ編集に費やした。それは、「意味がないこと」ではなかったな。

明日からまた父の農作業手伝いをする。
気持ちよくやれたらな、と思う。

「不食」の山田氏は、凡人からすれば怖い人だろう。でも僕はあまりそう感じない。確かに最初のコメントの時にはどういう言葉を使うか、結構「迷った」。僕は言葉で迷うことは稀なのだけど、さすがにかの「不食」著者山田鷹夫となると多少の緊張は避けられなかった。

身体は、連日の飽食で こき使われている。
間違いなく、健康を害しているし、老化現象も促進しているだろう。
早く「小食」で納得してもらえる空気が家族内に欲しい。
それはどれくらいかかるだろう?


流れる、ままに。

分裂質について その2

 昨日は「分裂病」もしくは自分の、社会生活の厳しいほどに発達してしまった「過敏性」というか、「落ち着きのなさ」についてここで考えてみたかった。
 でも結局、そのときの発想に任せて書き殴っていったら、最初に意識したものとは違うものが仕上がった。決して、悪くは無いのだが。

 自分が「分裂病」ではないにしても、精神的に「分裂質」であることは、親も認めている。親、少なくとも父は、それが両親の人間的隔壁又は違いに寄るのだろうと言ってもいた。そうだ。何も僕は自分で好んで分裂質になったんじゃないやい。

 でも実はその「分裂質」という性質、そこほど困ってはいない。
 自分がそうなったことが納得できている上に、逆に言えば自分は、「分裂病」相当の精神的逆境を乗り越えてきたと思う節もあり、生活でも、これといって障害はないからだ。ただ今問題なのは仕事につけないことだ。1月終わりにヨーロッパから日本に帰国してきてから、いろいろな仕事(アルバイト)を試してきたが、どうも仕事で「安定しない」。
 日本に帰ってきたのには少々の借金を返済するという目的があったから、それができないのは自分でも「面白くない」。
 なんで仕事ができないか、だが、たぶん、自分で思うには2年間の放浪そして「不食」思想の定着が、僕が『どう生きるか』を分からなくしているんだ。元の生き方はできないし、新しい感覚で社会に根を張るにはそれなりにどうしても、時間がかかってしまうらしい...。
 しかたがなく、旅をしたい、旅をすべき思いも抑えて、あえて時間をとってゆったり構えるようにしている。その必要性は無理に問わないで...

 
 

 今日も父の農作業を丸一日、たくさんやってきた。
 今日は昨日と違って気を害することもなく、むしろ父と仲良く、仕事仲間達とも一緒に田植えをやった。思ったほど仕事はできなかったが、頑張ったのは確かであり、良い一日だったと、思う。

 「明日は休みな...」と 父には言われた。
 僕はやってもよかったが、そう言うなら…と、一日違うことに時間を使おうと気持ちを入れたまでだ。もう一度仕事を探してみようか?


 今日はとうとう、「不食」の著者山田鷹夫さんのミクシィページにコメントを入れた。
 僕のような「不食」狂(教)の人間が彼に連絡を入れるというのは、ただならない。僕も自然とこれまでの、不食と出会ってからの4年半のすべてを出さずにはおれないのが目に見えているからだ。
 そして。
 僕のコメントに対する山田さん(以後「(露天の)鷹さん」とする)の反応は温かくて、それはすごく嬉しかった。僕の中での「不食」を、鷹さんを前に提出しよう。こんなにある意味でわくわくすることはないかもしれない。


 日々いろいろあって「旅」は棚上げ。
 決しては却下、決しては却下の日々が続く。
 これも必然なのだろう... あまり面白くないのだが。

 また。
 

2009年6月2日火曜日

分裂質と取っ組み合う。

只今午後9時。
今日も1日、父の農作業の手伝いをしてきた。

「6月一杯手伝ってよ」と言われての仕事だが、精神的にアップダウンが激しい1日だった。
父の手伝いではそれも不思議じゃあない。
前にも手伝いに行って、昼には早上がりしたことがあった。
父の相手は簡単じゃない。
今日は彼のどういうところが煩わしかったかよく覚えていないが、何しろ相当な反抗期が過去にあるからそれがまだ多少尾を引くのだ。
―「こき使う」
そういう父の癖、人の扱い方が「嫌」だった。もちろん、自分自身がそう扱われるのも。
―「いいように使う」
そういう癖もまた、嫌だった。自分は社長だから、自分がやる分にはいいさ。でも気になったのは相変わらずの、他人に対しての、そっけない言動。
...
そんなことを意識して仕事しているうちに、気分が沈み、「投げ出したい」思いにもなっていた。
「帰って、残っている金を使って、コンビニの食べ物を頬張ってやる。」
とか。

僕には「投げ出し」の癖がある。
それを食べ物で解消することが多い。
日本に帰ってきてから、旅の時より煩わしい、ごちゃごちゃした生活になったが、その鬱憤を晴らすのにも、食べ物がよく使われる。

僕にとって「家族」とはとんでもないくせものだ。
基本的には家族が好きだから、できれば愛したいから、家族に貢献しよう、自分の人生は後回しにしよう、と思うのだが、まだ、その程度というものがよく分かっていない。世間の同年代とは、僕は比べものにならないほど家族に関わってきたが、それも家族の団結や和を夢見てだ。どうも僕は、「ひとり立ち」して不思議でない年頃に、まだ家族のことでだいぶ頭を使っている。同情か、愛情か、使命感か、よく分からない。ただ家族に「縛られている」とか「とらわれている」のは事実だ。
そういう自分を無理に変えようとは思っていない。

話が逸れた。
「投げ出し」を僕はなぜするのか。
それはコンスタントな自分という人間が、定まっていないからだ。
「自分はこういう人間だ」というのが、実はまだあまり決まっていない。20頃、それまでに作られていたそれを崩し、だいぶ根本的なレベルからその再構築を試みたから、その影響もあるだろう。あとは、父と母という、まるで南極と北極を象徴するような「別人間」の間で育ったから、安定した人格が育たず、大人になっても不自然にそれをいじくっていた...。

人間という生きものの、とてつもない広い領域を見ながら育ったのは、疑いがない。
多種多様な人間を見て育ったのは本当で、その影響も、僕の中で人格形成に遅れを出していると思う。日本だけだったら、あるいはドイツだけだったら、マレーシアだけだったら、あるいは仏教だけだったら、イスラムだけだったら、キリスト教だけだったら...、一体どんだけ楽だったろう!!

父と母というぜんぜん違う人間の狭間で育った僕は、「分裂質」を負った。
大学で今一度本格的に「日本人」になろうとしたことが、「日本人でもスイス人でもない」、そして「日本人でもスイス人でもある」という複雑な精神構造をつくっていった。

2006年、自尊心のかけらもなくなり、日本を無銭で脱走するまで、僕は完全に精神的病にかかったが、それは「分裂病」でなかったとは言えない。僕は自分が人のすねをかじって生きるようなのは許せなかったから、ちゃんと医者に診てもらわなかったし、たとえそうだとしてもそんなこと自分には認めなかった。だから気が狂う前に日本を「飛び出した」。

僕は2年間の無銭徒歩の旅で特異な新感覚を開発したのだが、それはどれほど本当なのか、自分でも実はよく分かっていない。テレパシー、予知(能)力、透視(能)力、...そのまったく新しく身に備わった感覚が何なのか、まだよく分かってはいない。
分かっているのは、あの脱走から2年半、自尊心を取り戻し、生きる希望を取り戻した自分が、かなり強い自分が、存在することだ。
そのなんだかまだよくわからない『新感覚』を追究することが僕の人生の夢であり、理由である。
僕はとんだ分裂病患者の進行的症状というケースは、考えられても、認めはしない。
そんなこと認めて、何か良いだろうか。
自分が精神病における「がん」に相当する分裂病患者と思ってよいことが、何かあるだろうか?

僕は今その新しい感覚の中で、「自己の広大さ」に目覚めている。
僕はこの世界のありとあらゆるものと『一つ』であるという意識が完全に目覚めている。これにはもう疑いない。その意識でもって、これからどうよりよく生きていくか。
それがこれからの僕の課題だと思っている。

2009年6月1日月曜日

いい加減な出発には、いい加減な発展が付きもの?

今朝7時前後。
父に畑の手伝いの約束をしたため、起こされたが、まったく行く気がしなかった。

行きたくなかったが、代わりに行く場所もないし、身体も動かす気がしなかったので、
そのまま眠り続けていると...:
「ともひろー。起きないと間に合わないぞー。」
と、もう一声掛かった。

それで「起きた」。
他にすることも無いから、自然に身体が動く感じで起床した。
急いで父(かその知人)が作ったお米の海苔と塩のにぎり飯を二つ作って、適当なボックスに入れ、タオルやメガネなど必要最低限のものを用意した。
コーヒーを飲み、8時前に「出発」。

軽トラックに父と乗ると:
「就活も大変だろうから、6月「仕事」手伝ってよ。」
と言われた。

父にはどう「旅」の決意を伝えるか、タイミングが掴めずに放置していた矢先の、「お声」だった。

その「お声」は、どこか嬉しかった。
頼られることの喜び、というのだろうか。
そして丸一日、畑でスイカやかぼちゃ、田んぼの手入れなどの作業をして、日が落ちる前に家に帰った。

「旅」の出発、どうしよう?
昨日はそのために携帯電話の解約手続きに行ってきた。
ただ気持ちは、今、「今すぐにも行く気はしない」のである。

僕は、こだわりがない。
旅に出たら「ブログ」は役立つだろうとの思いから昨日、アカウントを作ったが、恥ずかしい限りだが、さっそく意思変更になりそうである。

でも僕のこのブログ上での自己表現は、「旅」よりも広い意味を持った営みなのかもしれない。そう思う。
 僕は2007年1月に日本を「無銭」で飛び出してから、2年間ヨーロッパ19カ国、7000kmの放浪をし、その中では「不食―人は食べなくても生きられる―」という思想を実践的に掘り下げた。
 その2年間の放浪が暗示しているものは「不食」思想にとどまらず、ただならないものがある。
 そのただならない何か、が、今の僕の「生きる原動力」となっている。

 そしてこれからは、これまで以上に世の中に自分の認識を打ち明けていかねばならないという気持ちが出来上がっている。以前は「狂気」としてしか見れなかった「不食」思想も、平和的なアプローチができることを確信し、それを追究することに胸が高鳴っているのだ。

 アホなコメントは相手にもしないけれど、僕がこうしてインターネット上でこういうものを始めるからには、縁あって読んで頂いた読者の方々には自由に意見を付して頂ければ、と思う。それは間違いなく読者だけでなく僕自身の「血肉」になることも確信しているから、聞いて嬉しい感想だけでなく、疑問は疑問で正直に、不満は不満で正直に載せていただければ、と思う。でも「不満」や「批判」は、それが純粋でない限り心はすぐ分かるので、仮面は被らないで欲しいということは断っておきたいと思う。
 まあ、「ネット族」と呼ばれる種類の、多くの場合“ひねくれた”人間の言葉も、僕には興味がないから予め断っておこうと思う。

 また適当な日記になってしまったが、あしからず。