2011年7月15日金曜日

ブログを終わりにします

(7月12日記す)


 実家に戻ってから、父との話し合い(数十分)を経て「絶縁」ということに決まったが、日本の法律には「家族の関係を切る」というものは存在しないことも分かった。養子縁組ではそのようなものがあるが、自分は親の実の子である。親の戸籍から僕の名前を消すことはできないことを、今回の帰郷で知った。「絶縁」とは、言葉でしかないのだ。

 そのことで気持ちが定まらず、父とは絶縁しても、兄妹や母とは“つながったまま”ヨーロッパに行くような流れにあったが、そんなことでちんたらしていると、父が手を出してきたという訳だ。僕が父を信用していないそのままに父も僕を信用しない。僕が黙って実家にいるのは、父には気になって仕方がないのだろう。
 
 僕はふすまを打ち破って「出ていくよ」と言うと、すぐに荷物をまとめた。荷物をまとめながら、「絶縁書」を書こうと思い立ち、バックパックを玄関に下ろして、2~3分だけ時間をとった。「家族全員と絶縁する」という旨の決意文を書いて、居間のホワイトボードにマグネットではりつけた。


 日本の旅で考えていたことは多い。
 でも、それらをまとめている余裕はない。自分の中で「うまくまとまっていない」とも、言えるかもしれない。
 断食の記録も更新していない。

 
 6月20日に愛知県瀬戸市で1年間溜めた名紙(出会いや連絡先)をバッサリ捨てた。
 “大人としての”旅なんて、僕には意味なかった。僕は子供で旅していたのだ。でも、自分を守るために、大人の部分も出した。ヨーロッパ人として、ヨーロッパ的尊厳の所持者として。
 

 しかし、日本という精神風土にこの六百数十日でゆだねを覚えたのもたしか。日本人に対する僕の誤解や偏見が新しい目で日本を眺めたことでかなり変わった(改められた)のは確かだ。


 誠に勝手ながら、家族員の知るこのブログは終わりにするしかありません。日本を旅して、自分のことを多くの人に知ってもらえてよかったと思います。個人的な連絡はEメールthoughts-hardly-packed@live.jp までお願いします。
 
 ご愛顧ありがとうございました。



無銭徒歩行1,325日/17,000kmの旅人

               小川智裕Karol

2011年7月14日木曜日

家族と「絶縁」した

(7月12日記す)


 7月2日、相模原に戻った。昨年の再出発からちょうど400日だった。
 日本に帰ってから3度目の実家だが、これほど「戻ら」なければならないのは家族問題が終わっていなかったから、と思う。家族(とくに父)とは毎年のように摩擦を起こしながらも、戻っては離れ、戻っては離れを繰り返した。

 11日に実家を出たが、実家では相変わらず、刺激的な時間をすごした。
 初めは社会復帰を考え「屋根と住所を貸してくれないか」と聞いてみたが、断られた。それで、とりあえず家にある自分の荷物をきれいに処分して家を出ることにしたが、不慣れで刺激的な毎日ではなかなか思ったように片付けが進められなかった。
 そして“再び”自分(の精神)にとっての実家の危険さを感じさせられた。かつて「統合失調」を招いた親の両価的・両世界的関わりである。
 なるべく早く出るようにした。
 しかし、甘かった。


 父とは「荷物を処分したら出る 絶縁だ」という話だったが、昨日父から余計な注文がついた。

 『奨学金の返済をいついつまでにやるということを、紙に書いて置いていってな。…。…。』

 話し合いの時にはみじんも挙がらなかった事だ。

 「新しい話ですね…。」
 僕は、父から見て隙さえあればまだちょっかいや要求を出す父に呆れつつそう言った。
 「新しい話じゃないよ!!」
 と父。

 
 父は事の全体性は絶対に示さない。話をわかりやすくまとめるなんてことはしない。
 僕が母や妹の相手をすればそこに生まれる隙を突いて攻撃をしかける父。
 荷物を片付ける最後の数日間でさえ、好きにはさせない。
 (言っておくけどな。父だけだったらなんも苦労しないんだよ…!)
 問題は父と母が全く別個に僕の中に、「人格」を期待したことなのさ。落ち着いた人格が家族において定着しなかった僕は、大人になっても自分の性格をいじっては、変えたりしている。


 それが24の時「統合失調」に到り、危機的になった。
 命を失うことすら怖くないんだよな、そこでは。どうしようもない危機に面して、奇行に出るとか、霊に魂をあけ渡すとか、最終的な生命維持の形に乗り出すんだよな。統合失調では患者は「狂気」という名の安定を見つかるのだ。
 『全裸になって廊下でクソをする』
 そんなことを父に言ったことはあった。2006年だろうか。家族に「事」を伝える「手段」である。

 しかし僕は実際は狂気のかけらも出さずに、ヨーロッパに飛んだ。
 そしてヨーロッパ人の心によって幼い頃の自分の息吹がふき返された。心の拠り所の発見だった。


 「大学の奨学金返済の誓約文を」みたいなことを言われて、その心の白々しさと高圧ぶりに、僕は当惑しすぐさまその場から立ち去ろうとした。
 正気を失わないために。
 しかしまだそこで父が何か言い続けると、僕の足はふすまを打ちやぶった。

 「ばかやろう... 出ていけ!!!」
 父は怒鳴った。
 しかし僕の心は揺れない。1~2秒父をにらんでこう返した。
 「親父は僕のことなんかわからないんだよ。」
 「…」
 「出ていくよ。」
 静かに返答した。
 人は冷静に暴力を振るうこともできる。日本的な心には理解しがたいことかもしれないが。父の表に出ない卑怯さ(西洋人から見た卑怯さ)や、言葉の暴力に対しては、物理的な暴力が一番だ。日本のロジックを教わらなかった子供として、日本のロジックには西洋のロジックで対応するのが自然に思える。“和解などない”、戦争的対処法である。思えば、小学校の時だって僕は父からは「日本」が恵まれないから、貧困に苦労して母なる西洋的価値を日本人の前に持ち出していた。そうなのだ。


 今回の帰省で祖母からはいくらかお金をもらった。そのお金を有り難く使って、ヨーロッパに戻ろうと思っている。