2010年5月2日日曜日

□近況の報告□

 おひさしぶりです。社会の生活に戻って2ヶ月がたちました。
 いろいろなことがあります。人と触れ合う機会が多いだけ、自制力が大切です。特に旅で鋭敏化した神経ではそうです。数ヶ月どころか、1年、2年は裕に見ていかないといけない気がしています。

 自分が体験した「感覚の世界」、「旅の世界」も、より注意深い言葉でまとめるために、いましばらく「書く」という活動からは身を外そうと思っております。社会では“社会の”テンポがあるので、自分だけよければいいということにならないのは当たり前です。でも旅では限りなく自己の感覚世界に集中していましたので、その癖がなかなかとれず、苦労しています。

 今日は『こども時代』の続きを一気に公開いたしました。
 決して書き物全体としては読みやすくなく、一貫して少し「重い」空気が流れている気がします。「まえがき」に書いたように、これは僕の人生の一側面でしかありません。僕の捉えた、もっとも自分らしい表現をしたつもりではありますが、この僕ですら(!)、いつまでもこの『こども時代』に書いたような認識を持っていたいとは思わないのです。これからはできれば、楽しかったこと・よかったこと・すばらしかったことについて覚えていたいですね。(^-^)
 『今できる不食総括』も、この『こども時代』も、書き物の完成度としては「低い」という気がします。細部の細かいチェックはしていませんし、何より短時間で頭というより心が集めてきた言葉を殴り書きした…、という感じです。
 それでも…、今の自分としてはこのネット上でできる最大限の自己表現であると思っているので、がさつですが公開させてもらいました。

 これからは「言葉選び」、「正確さ」を執筆において追求して行きたいと思っております。
 たくさんの読書や知識の獲得によってその辺を改善したいと目論んでいますが、まだ本当に、「社会生活」への順応だけで… かなりの時間がかかってしまいそうです。

 『慌てるでない。よいものは、ちょっとずつ…。
 最近MSNなどのホームで出ているジョージア缶コーヒーのフレーズが、好きですね。(^^)

 それでは、みなさんもお元気で…

とも

『こども時代』 執筆の動機 2

―今日、まだ僕の体は脈打っている…― 
 2007年1月の脱走は、社会的に見れば絶望の結果だが、「不食」探求という意味では「門出」ともいうことができる。もちろん、当時は「絶望」という感触が圧倒的だ。「これで新に不食に向き合うことができるぞ」 などとはみじんも思っていない。当時は、「自分が自分を否定し切らないように」することで精一杯だった。たとえば、突如として起こる 「あのビルの最上階からポンッとジャンプするだけで…」などという発想に、意識が「奪われない」ようにすることで精一杯だった。少し町に出れば、たとえばそういうことで自分の精神異常を外に出さないことでたいへん疲れてしまうのだった。

 成田空港から大韓航空で飛び立った時は、ひとまず安心をした。憎しみや恨みに駆られて、自分の手が何をするかわからなかったからだ。チケット購入日から離陸までの数日間、心がブレずに目的を果たせたことに、その時安堵を感じていた。
 スイスに着いて間もなく例のダンサーと出会いがあり、彼のもとで1ヶ月生活したが、ホモセクシュアルという性分が自分には合わず、やはり放浪するしかなくなった。自分がホモセクシュアルになることや、そのダンサーの元で何かできることはあるかということを考えてはいたが、そういうことになった。
 心ない装備で放浪していると、気が緩んでスイスの親戚を訪ねた。そして親戚の助けを借りて仕事を探し、農場に住み込みの仕事を見つけたが、それも案の定、ダメだった。ある日、無断で農場を抜け出し、15kmほど歩いた先の川で足の裏を切って、農場へ引き返した。「頼りにならない」(独: "unbelastbar..." ) と言われ、「スイスもあとにする」という気持ちを親戚とその農家に伝えた。
 2007年4月の終わりにアルプス北側のスイスを出発してから、「無銭徒歩」の旅は始まった。「無銭」という言葉自体当初の僕は知らず、自分のことは「打ちひしがれた放浪者」だと思っていたが、旅は数多くの出会いに恵まれた。その出会いが、一つ、また一つと経る度に僕の中に「自尊心」とか「喜び」といった人生で最も重要なものを、養ってくれた。言ってみれば、それは「東欧」の人々が、養ってくれた。特にスイスを発って80日、3ヶ月生活を共にしたセルビアの、貧しい農村の人達だ。

 680日に渡る東欧19カ国と地域の旅によってなんとか「絶望」を克服した僕は、また日本に戻ってきて、今度は日本を同じように旅している。日本はセルビアとはまるで違う世界であり、ここに集中していると向うのことはどんどん忘れていってしまうのだが、できればそうでない自分でありたい。特に、お世話になったセルビアには、今後プレゼンテーションの道具を持って『100学校巡り』というのをやりたいと思っている。 つたない自分のセルビア語だけど、外国に行けない貧しいセルビアの子供達に日本や、僕の知る世界のことを紹介できたらいいなと思う。

―今回の執筆の目的― 
 「書く」ことは、僕の趣味だと言えそうなくらい、僕は言葉(とくに日本語)を心の指針にしてきた。高校の頃から人に話せないことを文章にまとめることで気持ちの整理整頓を始めた。それが思った以上に役立って、夢中にもなってしまうので、書くことが好きという感想を抱くようになった。反面、定期的に言葉の世界にとらわれるようにもなった。
 本来言葉は、人の気持ちを伝える手段に過ぎないはずだが、言葉の世界に溺れてしまうと言葉が「先走って」しまって、聞こえはいいが肝心な中身が伴わない言葉を使ったりする自分がいた。特に自分が持っていた外国的な資質を日本語で表現しきろうとすると、どうしても変な言葉になってしまったり、ドイツで覚えたある感情を日本語だったらどういうだろうなどという、自己感覚の多元性によく悩まされた。
 それでも「日本語」という言葉に馴染みも深まるにつれて、高度な表現もできるようになり、心の持ち様も日本的になった部分も多いと思う。しかし今日でも言葉は心を通訳しきれないものであり、ドイツや、マレーシアで覚えた感覚は心深くにしまわれて、滅多に扱わないものも多い。

 純粋に「不食」思想を究めるなら、「書く」必要はない。むしろ一人で静かに、断食を追及するべきだ。この5ヶ月間はそれをやっていたつもりだ。心を捉えるために、自分のために書くが、書いているうちに次第に言葉にとらわれるようになり、ある時バッサリと書いたものを捨てる、そんな5ヶ月間だった。 でもここに来て 『社会に自己発信してみよう』と思うようになった。日本とヨーロッパで800日を越える旅の話は沢山あるし、どうも最近はただ歩いていることにあまり進歩が感じられなかったからだ。「思い切って社会を前に自分を打ち出してみた方がいいのかもしれない…」、と思った。

 しかし社会に対する「自己発信」に取り組むということは、僕の心の持ち様としては大変な変化だ。これまではより純粋な「不食」探求の旅だった。むしろ、「余計なこと」、たとえば「観光」とか、時間を使う出会いとかは慎む姿勢だった。ありったけの精力を「不食」探求に傾けるためだった。
 数年前の僕に言わせれば、「自己発信」なんて生意気なことはするな…、というところだ。しかし、月日の経過で、「絶対変わらない」と思っていた気持ちが、変わってきた。

 2006年前後に僕が打ちのめされた「絶望」の根幹を一言で表せば、「カニバリズム」(弱肉強食の原理)だ。この世の原理とは、『強い者がさかずきを交わし、弱い者はいずこかへ消滅する』
 自分が生きるためには他をのけずり落とすしかないのが、この世界。漁師が海で魚をとって食べるのもそれだし、アメリカがイスラーム過激派組織と対立するのも、それだ。結局どんなにきれいに繕ってみたところで本質はそれなのだ。そう見えない美しい世界がこの世にあるとすれば、それはあなたが騙されているということだ。
 この事実に僕は、深く、深く、失望した。少なくとも親に見せられた世界は、そうではなかった。
 「自分が生きるために他が、極端な話、死ななければならないのか!」
 「そんな世界に生きていたいとは思わん!」
 「死んじまって、いいよ…、ほんとに。」 
 そして戦争は絶えず、自然は破壊し、人口を爆発させながらも、「地球にやさしいガソリン」だとか「差別のない社会」などと言っている人間があほらしくてしかたなかった。そして、もう、何もしたくなくなったのだった。

 ところで、それなら僕はこれまで一体何を見せられて来たのだろう?
 20年間の人生で、この世の過酷さに気付かないというのも変だし、大人になってから現実に直面して「ショック」を受けてしまったのには他の人にはない何かがあったから、もしくは他の人にはある何かが自分にはなかったからだと言えないか。
 そんな客観的な自己について旅の前も最中もよく思いをめぐらせた。そこでどうしても一遍、自分の「こども時代」を振り返る必要に駆られた。
 特に「文化」というものをキーワードに、日本にいても日本人に見えなかったらしい自分の素質とか、なぜ自分は幼少の頃から人一倍活発でいたずらなども絶えなかったか、とか、「人間」そのものについても色々と考察を深めた。そして今回社会への自己発信としては、「子供時代」を徹底して振り返りたいと思うのだ。幼い頃から「違い」に関して苦労して、いつも「でも僕は…」「でも僕は…」と自己主張せねば済まなかった僕の「子供時代」について…。

(―生い立ち―略)

―「強く」なければいけない― 
 「生きるならば、強くなければならない。」―――「絶望」は乗り越えたが、なんとなく生きることを選択した僕が今日突きつけられている課題だ。
 子どもの頃は清らかだった。いたずらっぽかったが穢れはなく、天使のようであったとすら思う。それも僕の場合は長かった。周りの友達が着々と現実的な、シビアな物事の見方を身に付ける中、まだ僕は、「夕日に染まる入道雲の美しさ」とか、「今朝の夢の世界」に漂っていた。
 僕には、中学生の頃、「反抗期」らしきものがなかった。19歳頃から始まった親に対する「反抗」は、ある意味今日も続いていて、とても長引いている。出せなかったものが溜まりに溜まってしまったのかもしれない。だがどうも僕は、最初の数年間は、決定的な「反抗力」を示すことができなかった。中学生だったらバーンッと家を飛び出しては警察に連れ戻されても、「口も利かない」とか、親も困ってしまうような反抗力を見せたりして、親もそれでびっくりして態度を変えて、事は済んでしまったりするが、僕の場合は非常に“柔らかく”、そして“やさしかった”。当初は、「気付いてくれ。そして態度を改めてくれ。」という期待のもとに大きな反抗は示せなかった。自分が「気付く」ように親も「気付いて」くれると思っていたのである。
 しかし、あるものはあるのだ。あるどころか発散が遅れているせいか、僕にはどす黒いものが溜まっていた。父の部屋にあるものを、パソコンから机から、「何から何まで庭の池にぶち込んでやろう」とか、「庭木の目立つものを根元から切り倒してやりたい」という衝動が度々襲ってきたが、それだけで終わらず、他の恨みにも飛び火して「大爆発」になることを恐れた。致命的な傷が関係に残ることを感じて、いつも自分を押し殺していた。そうして劣情・激情を抑制している自分を自分で尊くも思った。
 しかし、怒りや憎しみは抑えても抑えても、キリがなかった。親とは別居していても、度々親を訪ねては、少しずつ、発散せずにはおれなかった。「発散」と言っても、僕が溜め込んでいたものに比べたら大した暴力にはなっていない。怒鳴るので収まらなかったときはふすまを打ち抜くとか、せいぜい窓ガラスを割った、それくらいである。

 一年や二年が過ぎても、親に関しては、何も変わらなかった。「正当な発散」によって心が楽になるまでは、大変な時間が流れた。暴力ではなしに「日本からいなくなる」という形をとった2007年の1月、初めて少し仕返しが出来たようで、心は「軽快」した。ヨーロッパで感じた「自由」・「解放感」・「幸せ」は、それゆえでもあっただろう。しかしそれでも、親は大きくは変わらなかった。ただ親は僕の言うことには慎重に相手をするようになったくらいである。
 ヨーロッパ2年間の旅を経て帰ってきても、親の理解度というものには虚しいものがあった。おそらく父も、母も、なんで智裕が反抗するのか、今日もほとんどわからないのだ。「こんな親だったら息子が自殺していなくなってしまうわけだ」と過去を振り返って、思った。
 今年の5ヶ月間の相模原も、親に同情して送った日々だったが、予想以上の理解の欠如が、発覚した。「この親は…子供がどれだけ犠牲になっているか、気付いていないんだ…」
 2008年の10月、僕は丸9日間の完全断食旅に成功し、帰る相模原では「次なる断食に挑めるんではないか」と思っていたが、それ以上にまた悩んでしまった。それもけっこうなもので、相模原を出て放浪の身となってからも、次なる断食はすすまないほどだった。9日間の断食を可能にしたヨーロッパ最後の幸福感は5ヶ月の相模原を経てまるで、過去のものとなってしまったのだ。

 「親とはもう、話して通じる次元じゃない。」
 そう夏ごろ思った。話して気持ちを伝えようとするだけお互いが辛い思いをする。だからようやく、27歳になってやっと「親からは離れる」ということが全肯定できそうだ。それは言い換えれば、「独立する」ということかもしれない。

 『親を前にもしっかりと自分を打ち出し、「強く」あらねば、そしてそうあることを“誇り”とするくらいでなければ、この世では生きてゆけない。』   

『こども時代』 執筆の動機 1

 「こども時代」― 執筆の動機  (2009.12.18 旅日記より)
 
 ■■■長いですが、以下が『こども時代』を書くと思い立ったときの日記です (当時「まえがき」のつもりで書いています) ■■■


 ここは静岡県「熱海」の数キロ手前、海岸沿いの廃業となったレストランのテラスである。ここ2日くらいいよいよ冬らしく冷え込んでいて、体を温めるために日光浴をしている。テントをかやだけ張って、適度に通気しながら、適当な温度を保つ。

 今日は12月18日で、「日本無銭徒歩の旅」は173日目だ。6月29日に地元「相模原」を出発してから山口県「下関」を経て再び関東地方に戻ってきたというところだ。距離にすると推定2850km、一日平均で16.4km歩いていることになる。今年1月までのヨーロッパの「無銭徒歩」とを合わせると、旅の総距離は間もなく10,000kmになる。
 なんでこんなにも歩いてきたのかと思うと、自分でも不思議になる。別に「歩く」ことが好きなわけでも、「旅」が特別好きな訳でもなかった。率直に言うと僕は『居場所を失った』から歩き始め、気付いたときには旅が深まっていた。
 「旅人」というのはおこがましいかもしれない。「放浪者」とか「流浪人」と言った方が僕には合っているかもしれない。「お金を持たず」、食べ物は「自然界」か、「人が捨てるもの」しかないからだ。ブルガリアでは毎日50個も60個もクルミを食べ、オーストリアから西の世界では可食ゴミの多さに感動した。セルビアでは野性のフルーツに、それまで感じたことのないような「幸福」を感じ、カビの生えたパンに心とおなかが温まった。日本では、今日、コンビニエンスストアというヨーロッパ以上のゴミの豊かさに甘んじている。

 「無銭徒歩」は、絶望から始まった。僕はスイス人の母と日本人の父を親に持つが、スイス以外の海外生活が長く人間的に「日本人」には育たず、大学を中退後の僕の人生は急坂を転げ落ちる様だった。2006年はその「どん底」という年で、「自殺」願望を始め精神が異常な活動を始めるのが自分でも分かった。ついに働くこともできなくなり、親に生活支援をもらうようになった矢先、バックパック一つで日本を飛び出した。2007年1月のことだった。
 母の祖国スイスで3ヶ月間できることを試したが、ダメだった。チューリッヒではスイステレビ局専属のプロダンサーに出会い、彼のところで居候したり、次に助手として働いた農場の主はきさくで面白く、馬が合いそうだったが、それらの貴重な出会いも生かすことはできなかった。自分は何をやってもダメだった。精神の底からまるでエネルギーが出なかった。もうこれ以上人に迷惑は掛けられないと思ってスイスも後にすることにした。
 
 2007年4月末、「無一文」になる覚悟を決めて、残り数ヶ月のパスポートで僕は「歩き」出した。
 僕の経験した「絶望」は、実際にどの程度のものだったかは分からない。「そんなに大したことではなかったのかもしれない…」と最近考えたが、20歳頃から始まった「自分の」人生との奮闘は、たしかに「精一杯」の日々で、僕には「夏休み」はおろか「友人関係」も「若者らしい遊び」も、ないも同然だった。その4、5年間は、周りの誰よりも本気で生きているという自負心だけは本物で、それなのに一向に好転しない人生に、次第に気力を失っていった。「悲観的」になり、「何をやってもダメだ」という自己暗示が強まっていった。そして実際に自分が、その思いの喰いものになった。
 つい最近得られた一つの答えは、「絶望」当時の僕の「精神年齢」は低かったかもしれない、ということだ。当時24歳の僕だが、心が無垢でずるいことは嫌いで、清らかな人間ではあったと思うが、世の厳しさに立ち向かうだけのタフさはなかった気がする。また「日本人」というよりはどちらかといえば「西洋人」であった僕の心は、日本人の心にも十分歩み寄れず、「誤解」や「偏見」、不十分な理解などを携えていた気もする。
 
 ちょっとやそっとではどうにもなりそうにない深い問題に、当時「責任」の追及をした。そしてその結果、僕は「親」を憎んだ。「親がおかしいのだ」という思いは20歳頃にもあったのだが、親の言っていることはほとんど当てにならないばかりか、彼らが子供に教えたことは結局は自分らがいいようにするための教えであったと思うようになった。親を疑うという醜い自分の心に、疑いに疑いを重ねたが、その思いは強くなるばかりだった。今年に入ってからもその検証は続いていた。そしてやはり「人に好かれなければ何もできない」お人好し人間にしか育ててくれなかった親を、「実社会に対して手ほどきをして見せてくれなかった」親を、また憎んだりした。
 もっとも、国際結婚の家族の問題は「扱いづらい」のは確かだ。文化の、洗練された眼鏡をかけて初めて検証できる問題も、片親が異文化出身ということになるとうかつなことは言えなくなってしまう。その当人を傷つけてはならない、と配慮するならば。文化Aでは至極当然なことも、文化Bではそうでもなかったりする。根気ある人間でも「こんなのやってられない」と思ってしまうのは、異文化の絡む問題では無理がない。よって国際結婚の家族は、どうしても「孤立しがち」である。自分達だけの、ユニークな家庭を築くというロマンはあるけれども、それも限度というものがある。「ムーミントロール」の世界だったら、それでもいいかもしれない。あそこだったら、親が好きなように子供を育てても差し支えなさそうだ。ムーミン一家以外に家庭もないからだ。


―失望の中で飛びついた思想『不食』―
 2004年11月のとある日、僕は3年間通った大学をやめることにした。22歳だったが、できることを尽くした大学生活がちっともよくならなかったため、「肩書きというものにしがみついても自分のためにならない」と判断した。不安もあったのだが、大学での僕は「勉強」もできなくなっていた。単位を取るために勉強するということは納得しなくなっていた。
 そして自分の直感とかセンスを信じて何かやっていった方がよいと思って退学すると、ちょうどその時に
 
 『「不食」―人は食べなくても生きられる― 山田鷹夫著 三五館』
 
 という本に出会った。「人は食べなくても生きられる」だって?とんでもない話だが、僕はすぐに本を買ってきて、むさぼるように読んだ。「一日に、青汁一杯だけで元気に生活する人もいる」ということは聞いたことがあったけれど、その山田氏の本は「食事を全く摂らなくても人は生きられる」と言っているのだから、まさに「とんでもない」本だった。
 しかし、読んでみると、その本は理屈とか難しい概念を羅列した宗教本などとは全く正反対に、著者のセンスによって直感的な言葉で書かれていたので、非常に読み易かった。読み終えた感想にも疑いはなく、そういう「境地」というか、「潜在能力」が人間には眠っているということを、僕は信じるようになった。そして時間がたつにつれますます自分自身が「不食」を追及してみなければすまない気持ちになった。
 
 ここで言っておかなければならないと思うのは、この「不食」との出会いには、1つ、「フィルター」がかかっていたことだ。著書「不食」は、自分自身が広告か何かで見つけたのではなかった。実は「父」が、新聞の広告でそれを発見した朝、僕はたまたま実家に帰っていて、その場に居合わせたのだ。この事実はこれまであまり気にしてこなかったが、もし、自分一人でその本に出会ったら、これほど夢中にこの思想を扱うことはなかったかもしれない。前述の青汁生活者の話も父から聞いた話しであったし、僕の「断食」に対する興味関心は、幼い頃お寺に断食修養に出掛けて腹ペコになって帰ってきた父の面影も強い。
 なにはともあれ、大学というものがなくなり、その友人関係や塾講師のアルバイトもなくなってポッカリと空いた僕の頭のスペースには、この「不食」という思想が居座るようになった。初めはあまり大々的に「不食」を考えることはしないようにしていたが、他にやることも見つからなかったので次第にその存在感が増していった。そして自分の食生活を変えたりいじったりしているうちに食事に関してより大きな疑問が沸いたりして、仕事もやめて徹底して食事に向き合ってみたい気持ちになった。もっとも、僕は大学時代に奨学金を借りていたため、その返済が、月々2万円、なされなければならなかった。


―大学中退から絶望までの2年間―
 「不食」と徹底的に向き合うために「無銭徒歩の放浪者」となるまでは約2年間あった。最初の1年間は「不食」を意識しているだけで精一杯だった。そして「不食」思想に夢中となっている自分を他人を前に出すことは、あまりできなかった。「キチガイ」とか「変人」扱いを受けることを恐れていた。そしてスイスや京都に行ってなんとか「大学」に代わるものを探すのだが、コレといったものが見つからず、ますます「不食」だけが際立って見えるようになった。
 「不食」を知ったことを、「悪い呪いにかかった」と恐れたのもこの頃だ。でも過去数年の自分の人生に対する尽力に対して、それに見合ったふさわしい取り組みがあるとすれば、それは、「不食」思想であった。それくらい実は、大学を辞退したことは「挫折」だった。過去の自分を裏切ることはできなかったので、時に恐れながらも、僕は「不食」の研究を深めていった。食事に関する常識を覆して、「不食」独自の食事感覚(哲学)を養った。
 友人もなく、仕事は半日だけのアルバイトかアルバイト派遣スタッフでやりくりしていた僕の生活は、ますます孤立し、「こんなことしていていいのだろうか…??」という不安が頭を悩ませた。そして何度も職場を替え、アパートを替えしているうちに、とうとう社会生活が難しくなった。職場で人に会っても話すこともないし、話したくもない。お金だけ必要だから仕事だけしたいけれど、それではどうもマズイ。馴染み切れていない日本の社会に対する嫌悪が増したり、孤独がエスカレートして精神がむしばまれるようになった。
 みじめな有様を受け入れて、「あぁ… 人生下り坂だなぁ…」と溜め息をついてみても、後戻りはできなかった。プライドが、それを許さなかった。

 「僕はまっすぐ生きてきた。人をけなしたり、傷つけたり、人目を盗んで悪さを働くこともなく、極めて誠意的であったし、高校時代も家族の慣れない日本での生活や、「学業」に専念するために遊び心を捨てて頑張っていた。学校では「恋愛」よりも「友情」の方を大切にし、生活のより基本的な部分を重んじた。「真面目」だった。何も狂っちゃいない…。自分はいつでも本気で生きてきたじゃないか!「不食」との出会いは必然なのだ。もしかしたら自分が数少ない選ばれた「有志」なのだ…。」

 そう前向きに解釈する様にした。「妄想」も抱くようになっていた。「第六感」というか、目に見えない世界に、本や人の話を基に意識を向けるようになった。そうして「自分だけ」の世界が育まれていった。
 「自分の感覚を信頼すること」。感覚が「面白い」とか「興味深い」と判断したら、あまり迷わずやってみる自分があった。知識の詰め込みという勉強方法に、疑問を抱いた大学時代があった。「自主性(主体性)」や「個性」を重んじる外国人の文化研究者についていた影響もあるだろう。
 「何を採り、何を捨てるか。」 広大な精神活動をどう統制するかという問題に、まるで子供のような基本的なレベルから見直しをした。親に教わった人生観はほとんど捨てて、自分自身のものを創り上げることに取り組んだ。その中で根拠の伴う思想と、そうでない「妄想」との間を、行ったり来たりした。
 「不食」に出会ってから2年間は、大いに錯乱した。「人は食べなくても生きられる」という前提が、人生観を根こそぎ植え替えてしまったのである。極端な話、自分は山で仙人になることもできると、思うようになった。「食べもの」に対する依存が解除されたら、それこそ「何だってできる」ような気がした。インドの修行者のような数々の超人的な妙技も「身近」に感じるようになった。その最たるものは、「ババジ」という聖者で、何千年も25、6歳の若さを保ち、身体を自在に物質化・非物質化する能力を持った伝説の人物である。かのイエス・キリストと共に働いたとも聞いたことがある。僕はそこまで、「人間という生き物に秘められた可能性」を信じるようになった。

 そうやって非常識的な世界に入り浸るにつれ、考えるだけではなくて自分も「非凡」の領域、言い換えれば「狂気」とも呼べる道に踏み出さずにはおれなくなった。その世界に「とりつかれて」しまった自分は、もう、行くとこまで行ってみるしかないのだった。下手に中断しては、それこそ夢を奪われた「ろくでもない」生き方しかできない気がした。「廃人」にしかならないだろう、と思った。

 大学の中退からはしばらく右往左往したが、ついにそこまで考えが行きついてしまったということは、「大学中退」がそれだけ大きな「敗退」また「喪失」だったということだ。学生時代は集団に英語を教えるという塾講師のアルバイトがはかどっていたので、必ずしも失望的ではなかったが、漠然とした「不透明」感が生活にはあった。「地に足がついていない」という感覚があった。
 2006年3月、僕はアルバイトをしていた京都の運送会社に無断欠勤をし、10万円を持って放浪に出た。同年9月には子供時代の思い出が詰まるマレーシアへ、日本を出るために航空チケットを買うが、どたんばになってキャンセルし、そのまま地元から宛なき放浪に出た。そうして3度目か4度目になる2007年1月の脱走は「成功」して、それがヨーロッパで「無銭徒歩」というそれまで知りもしない旅へとつながった。

『こども時代』 まえがき

まえがき  

 2010年3月1日、急遽僕の「無銭の歩き旅」が終わりました。 
 ヨーロッパの2年間、19カ国―7000km―に加え、一昨年6月から日本を同じように歩いていましたが、新潟県長岡市でひょんなことから神奈川に戻ることになりました。

 3月1日午前3時頃、長岡市内を歩いていたところ、警察官に声を掛けられ、取調べを受けました。警察官が声を掛けたのは僕の格好が薄汚かったからだと思います。無銭の旅でも、洗剤くらいは持っているのですが、真冬の新潟では服を洗う場所もなく、干す場所もなく、洗濯物は溜まっていて、一番きれいなものを着て町に出ていました。しかし、ひげは伸びていましたし、履いていた靴は自作の「タイヤチューブ」製でした。 
 西洋風の容姿と薄汚い格好では、目をつけられても無理もないかもしれません。 
 警察署で取り調べを受けた際に神奈川の親に連絡が入り、親が迎えにくることになりました。情けなくも、それが925日に及ぶ1万キロ超の旅が終わることになる切っ掛けでした。

 この書きもの 『こども時代』 は、僕がなぜお金も持たずに1万キロメートルも旅してしまったか、その動機や背景的なものを明らかにするものだと僕はとらえています。 
 ヨーロッパから2年ぶりに日本に帰る時、『今できる不食総括』という旅の記録を書き上げましたが、どうもそれだけでは事足らない気がしていました。「旅」も重要ですが、旅につながる背景も同じくらい重要だという気がしてなりませんでした。 
 そうして今年、2010年1月にまとめたものがこの 『こども時代』 です。 
 どんな人の人生もそうだと存じますが、人の過去というものは“計り知れない深み”を持っています。そう思わない人がいるとしたら、それは気付いていないか、まだ気付く時でない、何かの最中にあるということだと思います。僕はたまたま二十代半ばで人生の節目に立ったので、自分のそれをよく見渡すことができる地点にいます。いまにも仕事か、新しい課題に専念したら、周りも見えなくなるかもしれません。それは、仕方がありません。
 
 この執筆は、半分「自己満足」のようなものです。それは、家族も、日本も、お金も捨てるというところまで自己を追い詰めた「こだわり」、又、人生体験が捉えた僕の半生の姿です。しかしこれだけ書いたとしても、(!)、そこに現れているものは人生の一側面に過ぎないようです。例えば兄妹から見ましても、僕の人生はだいぶ違って見えるようです。 
 しかし、前著『今できる不食総括』とこの『こども時代』、もしくは自称の 『大学卒業論文』(2004)をもって、どのようなものが僕を「絶望」まで追い込み、予期せぬ旅を実現したか…と言うことは、十分にわかっていただけるのではないでしょうか…

 絶望も、過ぎてみれば我が人生の財産です。「絶望」と一口に言いましても、十人十色です。僕の経験したそれは大したことはなかったのかもしれません…。あるいは自殺してしまう人はもう本当に何もできなくて死を選ぶのかもしれません…。 
 僕はまだ「歩く」という選択肢を持っていました。それがまるで新しい人生を見つけてくれたのです。

 この自己満足の書きものを読んで下さる読者の方々に、深い感謝の意を表しまして、ご挨拶とさせていただきます。こんな若僧の体験話が、貴方の人生を充足しえるならば、著者としてこれ以上に嬉しいことはありません。

―――3年前、スイスから歩き出した、ちょうど同じ日に
著者小川智裕/Karol

『こども時代』 36(ラスト)

絶望
 当時は肉体をたしかに刺激する「食事」や「自慰」が、かろうじて癒しだった。自分が達成していた大学時代の栄光も崩れさり、父との喧嘩や、家族との激しい対立は自分が悪かったと思うようになった。 生きていることが虚しい。
 生きているだけ辛い。
 世の中が下らない。
 『どうせみんな、自分のいいようにしか生きていないのさ。
  そんな自己中連中の集まりだ、社会なんて。
  「自己中」を、「自己中」に見えないようにするテクニックを磨く人間が成功する。くだらねぇ!』
 『親だって、僕の元気さをうまく利用していただけさ。』

 予感に翻弄される日々が続いた。
 ただ同じような日々が流れた。すべてのことは大体予想できていて、起こっても何の新鮮さもなかった。あれでは、生きている意味が本当になかった。自己監視の悪魔が、心の中には巣作っていて僕の神経系統を牛耳った。
 「あそび」がなかった。あそびたいとも思わない。今更あそぶなんて、ばかばかしい。そう思った。

 『僕は本気で生きてきた。それでも結果はこうだった。
  これで、今できることを尽くしても何も変わらず、まだ最後まで惨めになっていくようなら、死んでやろうではないか、こんな世界。。。
  それまでの世界だった、ということさ。』


今日
 今日で、日本や家族を捨てる覚悟で日本を飛び出した日から3年がたつ。
 その3年間(約1100日)のうち900日を僕は旅した。歩き旅としてはゆっくりだが、その距離は日本とヨーロッパ19カ国を合わせて10,000kmに達した。旅を経て見えてきたものはただならない。まだとても筆舌に尽くせない。これからゆっくりと、一つひとつを言葉にできたらな、と思う。
 今思えば、今こそはっきり分かるが、僕の魂の性質や生まれ持った境涯からして、2006年の「絶望」は必然だった。親に教えられた信念体系、価値観、人間などを、持ちうる全生命力で生き抜き、限界に挑む他にすることはなかったのだ。もしそれを怠って後回しにしていたなら、僕には一向に晴れ晴れとした人生なんて見えてくるはずはなかった。
 こうして限界まで登り詰めたところで、パカッと、木の実が割れる様にして僕は「新しい自分」を発見した。それがなんだかまだよく分かっていない自分である。次も新たな限界を見定めて、僕は突進していくのだろうか?

 「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
 走り出す思考の中で僕がすべきことは、ただちに思考をやめることだった。
 そんな考えずに、「今の自分自身を楽しめばいい」という、誰でも持っているような余裕が、僕にはなかった。家出や、家族との対立に負い目を感じていた僕は、どうしようもなかった。子供の頃に試行錯誤があまり許されなかったのに、大人になってから「失敗せずに」歩めるはずがなかったのだ。父との喧嘩も、家出も、そして家族との激しい対立という闘いも、失敗だと思ったら、それをそのまま認める必要だった。

 生気盛んな子供は、あまり親が面倒を見ないと、「偏屈」になる。たとえば、手持ち無沙汰を、家の柱と見つめ合って、柱と話すようになるのだ。そうすると子供はどんどん内向的になり、親に「自分を出せなくなる」のは必然だと思う。
 しかし、何にしても、僕も家族も、大事には至らなくてよかったと思っている。
 一度憎しみに染まることを許したら、僕の手は何をするか知れたもんじゃなかった。「犯罪」も、こわくない。
 だがもし「犯罪」をしてしまったら、その時こそ僕は、自尊心のかけらもなくなってビルから飛び降りただろう、首にナイフを刺しただろう。

 自己を嫌う自分が強くなってきたら、もうほとんどそれとの戦いで、生命力を使うようになってしまう。これは、放っておけない。ただちに手を打ちたいものだ。そこから逃げる方法は、僕のように、捨てうるすべてを捨てて旅でもするか、自己を嫌う自己に徹底的に向き合って、その自分を「負かす」ことです。不可能ではありません。キーワードは「愛」とか「喜び」です。自分の心を純粋な喜びや愛で満たすことが自分に許せるならば!、別に僕のように何年も旅しなくてもいいのです。


■■■ おわり ■■■
 執筆期間: 2010.1.1 - 2010.1.20
 タイプ:    2010.4.25 「終了」 

『こども時代』 35

症例 2
 飛蚊症の呪いもひどかったが、「思考が勝手に走り出す」というような体験もあった。意味のわからない、狂った思考が頭の中で勝手に展開されていく。2つの有りそうな例を思いついたので書いてみたいと思う:

 A― 頭の中に1つのイメージが思い浮かぶ。
    なにやらそこに何かの機械と牛に与える干草がある。
    リアルな牛舎で、人がその機械に干草をかけ、真面目に働いている。
    干草は機械によってほぐされて出てくる。用途はそれだけの機械である。
    秋に機械によって圧縮され、束ねられた干草はたしかに固まっているが、それを牛に与える前にほぐすのは、人かもしくは牛が自分ですることだ。
    「機械でやる必要がない。」
    「全く意味がわからない。」
    しかし、頭はまじまじとそういうシーンを扱う。

 B― 雪印乳業のチーズのコマーシャルに昔、
    「スライスチーズは雪印♪」というキャッチフレーズがあった。
    ある時、「フランスベッドは雪印♪」と、僕の頭に思い浮かぶ。
    なぜかは分からない。特に意味はありそうにない。
    だが思考はそれから更に話を続ける。
    『分からないよ?「雪印」がフランスベッドを生産しているかもしれないよ?そうだとしたら、どうだろう…。』
    頭は僕にそう問いを投げかける。

 面白みがあるわけでもない、ただ不条理で無機質、何の価値もない発想が起こっては意識を奪われた。そして、こういう意味のわからない自動的な思考に限って無視しようとするとその話が余計に強く印象付けられた。ひどい場合には後で複数回同じ光景やイメージを見せられることもあった。そうなるといよいよ「自分は気が狂っている」と思いかねなかった。僕は「このような思考が頻繁化すれば、自分の思考をコントロールできなくなる」という不満に襲われた。
 
 自分の内面的世界が異常を見せる一方で、家族に対する僕の理解はかなり進んでもいた。その時僕は24で、実家を飛び出した19の時から少なくとも4年はたっており、その間に家族についてたくさん研究していたのだ。実家に帰れば、家族の一挙一動が気になった。ほんの些細な言動でも、僕の目は見逃さなかった。実家で目の前に展開される映像は、僕の頭の中とほとんど変わりがなかった。家族一人ひとりの言動が、手にとるように分かる気がした。
 それだけに失望もした。兄や一番上の妹Yが社会に出たときに経験しなければ済まない苦労が僕にはよく見えて、哀れで痛ましくて、しかたがなかった。兄妹にとって明るい、若者らしい時代などまるで見えてこなかった。


症例 3
 「思考が走り出す」という現象は、健全な思考の中でもよく見られた。 たとえばある日、父の頑固さが気になった。その頑固さはどこからくるのか、僕にはそれなりの見当があった。例えば母の、父に対する配慮不足(独り歩き)から、例えば今の塾生や兄妹達の自分勝手から。例えば家族の不理解から。
 父一人を見ると、そのどんな性質も、決して解くことのできない問題とは思えなかった。むしろ、家族でも、一人ひとりを見ると決して難しくはなかった。問題は僕が一人ひとりの人間的傾向のもとに、自分を監視するのと同じように家族を監視していたことなのだ。
 父の頑固さが気になれば、そのことが兄妹などで話題になった時に、僕はそれに絡む特定の問題を、日常生活の中からピックアップして話し意識の共有を試みた。家族、特に兄妹では、家族について、父さんについて、母さんについて、生活塾についていくらでも真面目な話が挙がった。心の優しい兄妹達は、自ら進んで小川家族の問題を深くそして真剣に扱うのだった。
 そんな中で、僕は日本を飛び出す時まで「話しによって」問題の解決を図ったのだが、そこには手順に大きな間違いがあったことには意外と気付いていなかった。少し脱線するが、話してしまいたいと思う。
 「こども時代」の中で書いたが、小川家や、親の経営する寄宿塾を取り巻く大部分の問題は夫婦の不通によるものだった。おそらく、母が夫婦間にとどめておくべき問題を子供と共有し始めた昔に、兄妹には家族について話す習慣が生まれた。それが家が寄宿生活塾となって、より多面的な問題が生じた時に兄妹は無意識にそこに飛びついたのだ。これが「過ち」の始まりだった。もちろん両親には子供が“無謀にも”「家族について」議論を交わしていることについて配慮はなかった。ないどころか、そんな関わりを求めるところすらあった。
 絶望の当時、僕はだが、最後の最後まで、言葉による家族の「意識統一」を目指した。その中で、思考の迷宮に入り込んで疲れ果てて、何もできなくなってしまった。
 
 「父の頑固さは、母のここが変わればよい」と思えば、それを母に共有した場合のことを考えた。「おそらくこんな意見が返ってくるだろうなぁ」というが分かった。そして一つひとつの場合において何が言えるかを、それまた詳細に考えた。それは当然、父と母にとどまらず、兄妹や、寄宿塾生を考慮に入れて、時には彼らも交えて検証を続けた。
 月十万円程度のお金をアルバイトで稼ぐ以外は、たっぷりと時間を、思索に費やした。時には家族の問題からとんで、自分自身や、哲学や宗教の教えとして検証を続けた。家具も風呂もない、閑散とした六畳一間のアパートで、膨大な執筆を行った。精神的に病んでいたため、食事はみだらになり、風呂に入らない日がつづき、睡眠時間も長かったが、起きている時は進んで執筆に向かった。
 家族の問題について、ありとあらゆる切り口から検証を試した。2006年はだが、そうして得られる斬新なアイデアや、理解も、あまり出なくなっていて、僕の腐心に対する家族の無知や無関心が辛かった。 アイデアや知識、理解が充実するにつれ、家族の問題一つを取り上げれば半自動的に理論が展開するようになった。それは、もし「小川家」という学問があったとしたら、それを究めた学者みたいに、理論を展開できるのだった。
 思考はまるで映像のように、次から次へと展開した。しかし、どう展開しても、どれだけ展開させても、希望的なものは見えてこなかった。10回考えれば7、8回は悲観的な結論が出た。2,3回はうやむやになって、放棄した。稀に希望的観測が得られたが、消え去るのも時間の問題だった。
 「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
 真剣に一歩一歩確認した理論も、希望の見出せない結果に終わってしまうと、その努力は水の泡と化し、意気消沈した。

『こども時代』 34

飛蚊症という名の「呪い」
 「家出」と家族否定は僕にとっても大きな負担だった。家出は歴然とした「負い目」だった。
 父と喧嘩して兄のアパートに転がり込んだ頃、視界に異常を感じた。視界の真ん中に大きなゴミが浮いているのだ。大学一年次はパソコン技能を急速につけなければならず、授業も大変で、目を酷使していた。「飛蚊症」と呼ばれる、視細胞の眼球内の浮遊は、それ自体問題はないのだが、急激に発生する場合は失明の前兆という場合がある。とにかくその頃から、目に浮かぶゴミが急発生して、これには僕は不安を覚えた。眼医者に見てもらって「網膜はきれいですよ」との優しさのこもった言葉をもらっても、僕の不安はなくならなかった。
 飛蚊症(視界のごみ)は、ある特定の精神状態の時に強く意識され、それが気分を左右した。2003年になっても2004年になっても、「家出がいけなかったのだろうか。あの、父との喧嘩がやっぱりいけなかったのだろうか。」 と不安になる時があった。何かに熱中していると、視界のごみは見えなくなるが、休んだり、気持ちが消極的になると、とたんに気になって、しかたなくなるのだった。
 絶望の只中にいる時は飛蚊症によく「ノックアウト」された。ふと朝目が覚めた時に、ゴミが意識されたり、目ぶたが重かったりすると、それだけで落ち込むのだ。それはまるで「呪い」のようで、抵抗できず、自己嫌悪を促した。
 痔によって便に血がついていれば、「ハァ。。。目も、腸も一人暮らしになってからの食生活のつけが回ってきているんだ。早く手を打たなければ。」と、食生活を変える(自制する)余裕なんてないのに頭はそう考えて心を砕いた。


症例 1
 2006年頃の僕の精神活動には次のような症状が認められた:
ケース
  1 
 「コンビニに行こう」と思っていたら、僕の始めたことは皿洗いだった。 (1時間とかたった後で思い出す)
  2 町に出たのに、一番したかったことがどうしても思い出せない。    
    思い出そうとすると「ブロック」もかかっていて、仕方なく家に帰る。
    (家に帰って一段落した頃やりたかったことを思い出す。)
  3 (2の他例) あるいは、一番したかったこと(例えば「本屋で本を買う」)を自ら否定してしまう。 (理由をつけて「本は買うべきじゃない」と思う)
  4 ラーメンを食べに行こうと思っていたら、急に「マクドナルド」という内なる声がして、マクドナルドに行き、満足せずに帰ってきて、コンビニに食べものを買いにいく。

(僕の場合、公の面前では変な行動は出なかった。自立心が強かったためと思われる。これらの症状はすべて自分自身で感じうるものだ。)

 人は何かのこだわりや、信念によって「心」に反発し、し続けると次第にこうなるのかもしれない。僕の場合世間体や名誉は捨てても、自立心は手放さなかったため人の迷惑になる前に日本を飛び出した。しかし、そうでなくすべてを放棄して精神的異常をそのままにしていると、きっとこの先に「精神病」があるのだ。
 ケース2に挙げた「ブロック」についてだが、これは本当に不可解な現象だった。思い出そうとしても、素直に思い出せないのである。それはあたかもアプローチが拒否されているような感覚で、精神が、まるでそっちのことを見れなくなってしまう。時々体験するそんな異常現象だったが、これは恐らく、普段から「心」というものに素直に従わないつけが全く別個の精神活動において現れてきたものだ。
 ケース3についてもこれに似ている。普段から自分を疑い、自己批判や監視が過ぎると、全く別個のそれまで普通にできた精神活動に同じような現象が起こる。しかしこれは、全くもって迷惑な話で、単純明解な欲求までがフィルターにかけられ自動的に疑われてしまうのだ。自分の中に、別個の人格があるのではないか…と思いかねない。
 ケース4について。これもケース2や3に準じている。しかしこれは、最も困ることで、自分の欲求のコントロールを失うことを意味している。「ラーメンだ」と思っていた心は、マクドナルドに行ったことによって無視され、しまいにはコンビニに行くことで余計にお金も使ってしまう。心は自分が何を欲しているのか見失って、しまいには「あれもこれも」とねだる状態になる。「声」というのはその抵抗できない性質から、そう感知される。思考の余地がないのだ。 次に、これの延長とも考えられる症状を紹介したいと思う。

『こども時代』 33

第三章 絶望の記憶Ⅰ


精神分裂質
 絶望について記憶を手繰ることは、本当はあまりやりたいことではない。今日僕が希望を持って生きているのは「それを忘れている」からであり、下手に思い起こすことは危険ですらあると思っている。
 しかし今回、「こども時代」を書くにつれてあまり無理なく過去の精神状態を思い出し、いくつかの有力なメモを作成することができた。それは絶望の精神の一部でしかないかもしれないが、以前だったらこれだけ思い起こすことはできなかったと思う。

 2006年、仕事以外は自分のアパートに籠り、友人もなく、することもなかった僕は自分の精神を観察するようになっていた。
 「!?、今のこの希望の感触は何か!、どこから来たのか。」
 「なぜあの時は邪念に邪魔されたのか。」
 「こういうところで自分に逆らってみたら、どうなるか。」、云々。自分で自分を「監視」していた。
 そんな中で頭が勝手に思考を始めたり、予想もしないことを発想するような症状があり、それを僕は、精神活動が「分裂」しているのではないかと思うようになった。そのつながりで僕は精神病に興味を持ち、「分裂病」の入門書を買ってみた。
 分裂病の定義や専門的な解説部分はほとんど頭に入らなかったが、患者の症例や行動に関してはなんだかよく分かる気がした。完全に自分の世界に入ってしまい、「奇行」に走る患者、一見普通に見えて人をだまし、激しく同情や、怒りや、喜悦に浸る患者。まったくもって交渉の余地がない、認知系統の異常を持った患者…。なぜ多くの患者が自分自身によって狂気を生きなければならなくなるか、僕はわかるような感じがした。
 ヴィンセント・ファン・ボッホは、晩年に分裂病になっていたらしいが、買った本の冒頭には彼の言葉が載せられていた:
 「他に手段があったのなら、何も進んで狂気を選ぶことはなかっただろう。」
 僕は自分自身の精神異常は必然だと思われたため、この言葉に深く共感した。

 異文化の、心はまるで別次元を生きているような両親に育てられた僕には、もともと「分裂質」の傾向があったかもしれない。全く同じことでも、父に言われた時はAで、母に言われた時はBであるというような、一見ルールのない、複雑な世界に生きていた。
 二十歳前後からの「自己改革」にも原因があるかもしれない。親に教わったものを根底から疑い、世間一般人の感覚を身に付けようと躍起になった僕は「自分を打ちこわす」ようなこともした。弱い自分をわざと絶望に立たせるような、そんな行動をよくとった。
 自分が感知しうる世界は心広く、訳隔てなく受け入れるよう努めた。それは西洋と東洋という二大文化だけでなく、社会、風俗、女性、男性、子供も老人も、この日本で、とにかくすべてを対象にした。「僕は大学生であるから…」とか、「そういうのには興味がないから」という絞込みはしないで、できるかぎり感性を開いた。そこまでしようと思った動機には、「神様」を求める気持ちや、「真理」を知りたいという強い欲求があった。「自分の人生を捧げてでも…!」という思いがあった気がする。言い換えれば「楽しい人生」・「豊かな人生」・「幸せな人生」というような現世的な願望には興味もなかった。

 「自分という人間はまだまだこんなものではない!」
 「今認識している自己というものは、「いいかげん」にできたものかもしれない。」
 「感覚を意識的に改造すれば(心に沿っていけば)、全然違う人間にもなれるのかもしれない…!」
 恋愛で大きく変わった経験もあって、そんなことを思っていた。そしてだが、意識的にこれまでとは違う行動、目線、体の使い方などを試しているうちに、自分らしさというものが薄れていった。体を動かすことが好きだった自分が、しだいにそうでもないと思ったり、ある人のタイプが嫌いだと思っていたのがそうでもない気がするようになった。それは、感性の「拡大」、人間の深まりのようにも感じたが、長い年月で培った自分の素養を台無しにすることでもあった。たとえば自分の長所であった「優しさ」とか「礼儀正しさ」というものを僕は、どんどん捨てた。
 2006年の僕は「分裂病」であったのかどうかは分からない。しかし当時僕にあったのは分裂病でも何でも、親のすねをかじってしか生きられないくらいならば、死んでやろうじゃないかという気持ちだった。


自己改革と生存的危機感
 親(家族)を否定し、自己改革を行い始めた2002年頃からは、度々動物的な、生存的危機感に襲われていた。「こんなことして大丈夫か?」という自然な不安を押し殺して自分を追い詰め、駆り続けたからだ。自分の信念体系を大きく崩してしまうと、それはたとえば「生活」を大きく変えるのと同じことで、生命にとっては大きな負担だ。2006年にはその突如として襲ってくる生存的危機感も、定着し、精神的危機感に拍車をかけていた。
 僕が自己の内面に入り込んで籠ってしまったのには、親の教育の影響ももちろんあると思う。例えば親は僕ら子供に「それは本当なのか?」「たしかなのか?」「自分を十分疑ったか?」というような問いかけが過ぎた。子供だから、あまり考え過ぎても却って不健康なのだが、親はどちらも、しきりに熟考を僕らに促していた。大人になってから、人はもっと直感で動いてみなければならないものなんだということを、僕は自分で体験的に学んだ。特に「旅」ではそれが何より大切なことだった。自分のセンスを生かして使ってこそ、人は本当に貴重な学びを体験するのだ。僕の親は子供自身のセンスや理解というものに目を向けなかったため、僕らも子供として余計に自分達の感覚には自信がなかったと思う。
 たとえば、こんなこともあった。自分達には分かりにくい日本の映画などを観て、人が感動するシーンがいくつかある。しかし日本と接触不足であった自分にはその多くが分からない。映画を楽しむ以前の段階なのだ。しかし、友達は中学生にもなればドラマなんかの登場人物の心理がかなり分かって、それに触れて楽しむ。しかしそれが分からない自分は(こういうシーンではこう感じなければならない。)とか、自分の感受性を操作する傾向があった。あるいは誰かに何かをもらって、大してうれしくなくても、(ここで喜べなければならない。)と思うのだった。

『こども時代』 32

子供から飯を奪ったら
 一昔前だったら子供を育てたというだけでも立派だと言われたんじゃないだろうか。子供と向き合う時間や与えるごはんを用意するだけでも一苦労な時代である。
 しかしつい50年前にはあったそんな時代が、めまぐるしい変化を経て、今日はワケがまるで変わっている。今日子供に飯を与えられない親がこの日本にいるだろうか。むしろ今日の親の関心は、子供を塾にやれる金はあるか、大学までやれるか。多くは経済的問題に集約されている気がする。
 ところが、「子供に飯を食わせる」という課題がなくなってしまったわけではない。一人の人間が1日100円、コンビニのアルバイト(10分相当)をすればとりあえず飢え死にしないという豊かな時代となって、人々は食べものの有り難さを忘れているだけである。

 しかし人から食べものを奪ったら、人が食べものに飢えたら、たとえ日給1,000円でも、人は働くだろう。丸一日働いて家族を食わせる食糧しか手に入らなくても、人は働くだろう。食べものとは、それくらい大切なものだ。
 同様に子供から飯を奪ったら。子供は何でもするにちがいない。学校に行けなくても、友達と遊ぶ時間がなくても、小さな体と小さな頭で、生存のためのできる限りを尽くすに違いない。親に尽くすに違いない。

 これほどではないが、僕の親はこれに似たことを家庭で行ったと僕は感じている。それは兄妹の中でも特に僕が苦労した「食べものコンプレックス」だ。親は、「食べものが毎日あるだけで、感謝しなければならない」「(食べものに関して)贅沢は言うな。」「あるもので満足しなさい。」… と言った。しかし僕は「飢え」続けた。食べものは確かにあったが、違う食べものに飢えていた。「みんなと一緒である」という一体感、安心感に欠かせない、条件としての食事だ。もう少し具体的に言えば、おべんとうに白米と赤いうめぼし、かつおぶし(おかか)やウインナー、コロッケ、そしてミートボールを持っていくことであった。
 親は自分が偏った食事で二度大きな病気をしたために、その教訓としてまた滋養として「玄米菜食」を家庭に採用したのだが、僕には自分がそこまでする理由が全く理解できなかった。苦しいだけであった。でも親がそうと決めるからには従うしかなかった。それが子供の心にとってどんなに理不尽で、自虐的で、苦しくても、親がそうと言うのには逆らえないのだ。外へ一人で出ていっても生きてはいけない身だからこそ、どこまでだって自分を犠牲にしうるのだ。

 僕を含め上の兄妹は特に「おひとよし」に育った。親が喜ぶような生き方をすることにだいぶ専念してきたからだ。僕自身今日でもまだその傾向があるかもしれない。ところがこの世というものは、そういう人間にとっては「酷」だ。きれいなことばかり言っても、やっても、生きてはいけない面を持っている。「強く」なければならない。(生存)競争に立ち向かっては必死に闘い、自分を磨いていかなければならない、時には仲間の足を引っ張ってでも自分が生きなければすまない、それがこの世界だ。人はそこから目をそらしたがるから、そうでない社会や環境をつくろうとするけれど、根底にあるのはいつの時代も、過酷な原理だ。
 僕ら小川の兄妹がいち早く身につけなければならないのは、いかにしたら抜け目なく器用に利用されずに生きられるかという処世術だ。


結論
 (「こども時代」のために用意したメモには、まだいくつか、重要な憎しみ(親に対する)が残っている。しかし、省略したいと思う。親を弾劾することがこの執筆の目的ではないのだ。それはそう簡単に消えるものでもないから、刺激的なことをむやみに載せることは控えようと思う。察しのよい読者ならば、僕の経験した憎悪の“輪郭”を汲み取って頂けたと思う。ただし、第三章「絶望の精神」においては十分なメモが用意してあるので、「絶望」について詳しく書きたいと思う。)

 親は「冒険家」だったと、前に述べた。結婚し、子供をつくること自体が大きな 冒険だった。冒険であったから、当然、そこには危険が伴った。「幸せな家庭を築きたい」と願う夫婦にはまずないだろう危険が僕の家族にはあった。その一つが、僕の経験した絶望だ。まだまだ、これからもこの家族を困難は待ち受けているだろう。冒険者である以上、困難はつきものだ。
 しかし、今こうして、自分の半生を振り返ってみて思うことは、「僕はこの親を選んで生まれてきた」ということだ。この飽くなき挑戦者でありロマンチストである2人を僕は選んで「生まれてきた」のだ。彼らだったからこそ経験できたこともある。
 人間として生まれてくる以上は、誰にだって不具がある。ある人は金持ちに生まれるが、人間関係が欠乏し、ある人は目が見えないが人を癒す存在となる。またある人は病気で早死にするが本物の愛や神様に出会う。

 日本を無銭で飛び出す前に自分の完成や、完璧性を求めてやまなかったころ、こんな気付きがあった。 

 『み~んな未熟。  事件、事故、不幸、戦争、殺人…。これらは絶えない。日常茶飯事だ。  それがニンゲン。  その中で生きるなら、「どう生きるか」を考えなければならないんだな…。人間は失敗をするもの。へまをしてなんぼ。』

 精神的にボロボロだったけれど、それは確かな大きな気付き(悟り)だった。
 「人間である」ということ。悟りは、一朝一夕には来ないということ。親の教育の影響で、せっかちに「大悟」を求める自分が人生とは「人間を楽しむ」ことでもあるのだと後に悟らされた。

 この世の醜さや不条理を嫌って死んでいっても、それでは神様が何のためにこの世界をつくられたのか、分からなくなってしまう。
 見方によってはこの世は美しい。青い地球と大自然、多種多様な生物たち。人間たち。朝が来れば日が昇り、夜がくれば月は輝いている。その美しさは、人間が生きるための「おとり」ではない。人間を喜ばすためのものだ。
 そんな「人間」を生きながら、いかにしたら「神」に近づけるか。それが僕の新しい人生のテーマであると、今日思っている。


 P.S.
 父一人では子供は生まれなかった。
 母一人でももちろんそうだ。
 二人がいたからこそ自分は生まれた。
 二人がいたからこそ自分は絶望した。

 「子供をつくる」とはそういうことかもしれない。
 我が身には背負えないなにかを、子供は必ず背負うて生まれてくる。
 我が身を超えて生き行く命の、「人生課題」だ。
 そうやってこの世の命はつづいてゆく。
 けなげに、ひたむきに。そうではないか。

『こども時代』 31

家族に認められたい
 家族と「共依存」的関係にあった僕は、確かに大学時代自力で「成功」しても、それを認めてくれる家族が必要だった。それは元彼女とか友人、たとえ恋人でもだめだった。そもそも僕には次なる彼女をつくる心の余裕もなかった。家族、父、母、そして兄や妹でなければだめだった。
 ところが、前述した様に家族の僕の奮闘に対する理解は本当に乏しかった。それで僕は、200万円の貯金でのこり少ない大学生活を、ゆったり、やりたいことやって過ごすという気にはならず、まだ挑戦をつづけた。
 ちょうどその頃、僕は「不食」思想に出会った。
 ―人は食べなくても生きられる―
 たしかにそれは、運命的な出会いだった。「不食」を知ってしまった以上、元の生活には戻れなくもなった。社会の中で、ただなんとなく自分のできる仕事をして、結婚して、子供を育てて…という生き方にまるで興味がなくなってしまったのだ。
 大学時代に超能力者Iさんに会ったことや、本を通して岡本太郎などの熱き先人らの生き様に魂が揺さぶられるのを経験していた。僕はもう、おとなしくはしていられなかった。


転落
 大学をやめてからはだが、人生は急に下り坂になった。スイスに行く前に、軽い気持ちで寄ったマレーシアで50万円を騙し取られた。「いかさまトランプ詐欺」というやつで、日本人の心の弱みを熟知した、マレーかフィリピン系の行為即妙な詐欺師だった。警察と手を組んで、詐欺師の家をつきとめようとしたり、電話でうまく詐欺師をおびきよせて、警察に捕まえてもらえないかなどと必死に考えたが、しまいには自分の命の危険を感じて、命からがらスイスへ飛んだ。
 本当は日本に帰るべき、精神状態だった。マレーシアの空港を出る時には長かった髪を坊主頭にし、サングラスを掛けて、飛行機が離陸したときには心底ほっとした。
 向かったスイスでは案の定「失敗」した。詐欺の当惑が抜けなくて、雇われた職場でも自分を十分に発揮できなかった。貯金をむさぼり食うように、物価の高いスイスで数ヶ月過ごした後、とうとう限界が来て日本に戻った。
 日本に帰ってからは、「違う日本を見よう」と思って京都に行ったが、元の調子を取り戻すことはなかった。失敗を重ね、惨めになるにつれて自尊心もなくなっていった。家族に認められることはもちろんなく、僕の大学時代の確かな成功は見事過去に葬られてしまった。「また塾講師に返り咲くか?」とも何度か思ったが、そんな後ろ向きな選択はよくないと思った。「行くとこまで行ってやろう」と、思っていたかもしれない。
 京都で勤めていた半日の電線配送の仕事を無断で休み、放浪に出た。三日目にアパートに戻った時には、そこに母がいた。僕はそれで地元相模原に帰ることにしたが、それからはもうボロボロだった。京都から相模原へ戻った10ヵ月後には、また日本を飛び出していた。



 四編  総論


結果しか見ない親
 子供の心を十分に知らない親は、僕の大学時代の成功も、そしてその後の奮闘と苦悩も知らなかった。特に僕などは大学から「自慢するためではないから」と、一人黙々と精進したのだが、それが見えない親はいつまでたってもすげなかった。
 ヨーロッパ7000kmの旅を終えて帰ってきた時にはやっと、親や家族の僕に対する態度が変わっているのが分かった。2年間の旅や断食の実績が僕を絶望から救い上げてくれたが、その時、 「(こんなにばかすか子供を産んで…)息子の一人くらい自殺で失っても、不思議じゃない親だな…!」 と思った。思えば子供の頃も、自分らが限界になる前にはほとんど気付いてくれず、あえぎ声をあげたら初めて手を打つというような親がいたような気がする。

 親への憎しみを言い出したらきりがない。
 たとえば我が家には「ゆとり」がなかった。『子供時代 関係的貧困 情報不足』のところでも触れたが、子供の頃の僕らはいつもどこか焦りの中にいた。母が夫婦関係で補えないものを必死になってカバーしようとした、そんな影響もあるだろう。僕らは母によってもたぶんにせかされていた。
 大人になってから僕は、よその人間が自分とは比べものにならないほどゆとりの中にいるのかもしれない…ということに気が付いた。そして自分の家族での在り方を否定しながら、生活に「ゆとり」を呼び込もうとしたが、なかなか大人になってしまった自分を変えることはできなかった。
 母は昔から、つい焦るところがあって、その焦りの中でいかに精一杯動き回るかということが大事なのだと僕らは無意識のうちに学んだ。「焦らなくて済むように」とか、「よく全体を整理して…」という余裕の在り方は、あまり美しくないと思われた。M教道場の奉仕でも、家の掃除でも必死になってやることが一番なんだと、そんな教育があった。
 おそらく母の持っていた焦りの性分は、自分自身の家族で、五人弟妹の長女として大変だった頃の名残りだろう。母の性格的な「軽さ」も、母の未発達の部分であると思われる。
 しかしそれに対して父という人はしっかりと世間並みの「ゆとり」を知っていて、また採用している人でもあった。父は昔から、自分が子供の頃から、十分なゆとりの中でぬくぬくと育ったのである。
 僕は妻や子供達の焦りを見ながらも、まるで知らんぷりをし続けた父を深く憎らしく思った。

 父にはたとえばもう一つ、すごく自己中心的なところがあった。
 日本人だったらふつう、相手を見てから話すものだ。相手が何をしているか。気分はどうか。話し掛けてもよいかどうか。どう話し掛けられそうか。そして大丈夫そうだと分かって初めて言葉を掛けるのが日本人ならではのきめ細かな感覚だと思う。しかし父は、自分の妻や子供が外国風であるのをよいことに、また主としての権威を誇張して、そうしないところがあった。
 相手の意向を伺いもせず、突拍子もなく自分の話を始める父。家族は皆、これに参っていた。日本に定住し、寄宿生活塾の中でもよくそうする父がいた。
 マレーシアやドイツの頃だったら、西洋的な心でもって、あまりそれも気にしなかったが、日本で父に日本人らしくないことをされてしまうと、さすがに僕らも反感を持った。父も含めて家族一同、大変な時期だった。
 やはり夫婦の意思疎通の不足が一番の問題だが、今では父がそうであったワケも、理解できる。家族を前に「父」であるために、父は日本人として一人前であることも捨てなければならなかったのだ。決して父が察しの悪い人間だったというわけではない。決して父が他人の顔色をうかがえない欠陥の人なのではない。家族生活の中でひょっとしたら無意識にもそうなってしまったのだ。
 

『こども時代』 30

兄妹
 大人になってから、仲がよかった兄との関係は、悪くなった。僕が恋愛や一人暮らしを通して自分の世界を深め、父との喧嘩で家族の在り方を全否定したこともあるかもしれない。
 大学一年の夏休みに、兄と二人で自転車旅行に出た頃から、兄とはある根本的なところで分かり合えなくなり、それからはずっと対立し続けた。
 僕が訴えていたことは自分のことだけじゃなくて、兄妹のことでもあったが、それはほとんど伝わらなかった。

 ある時から、兄貴の心の構造は、自分以上に「西洋的だ」と思うようになった。大胆に自分を改革した僕に比べて、兄は無難に昔ながらの性格で大学生活を送り、社会へ出ていった。しかしそれから、兄は引越しと転職を繰り返し、落ちつきのない生活をしている。
 「心が多分に西洋人だからだ」 そう、僕は思っている。楽天家で、パワーがあり、大きな夢を持っているから元気にやっているが、いかに自分達が文化の混合によってハンディを負っていたかということは、兄にも気付いてもらえたらと願っている。特に「もう親のために生きてはならない。僕らの時代が来たんだ」と、僕は言いたい。

 一番上の妹は高校の終わりに「妊娠」し、今日シングルマザーをやっている。もうじき3歳になる男の子は、誇れる健康優良児だ。実家で、親と一緒に生活している。
 妹は昔、どこかぱっとしないところがあった。やんちゃな男兄弟の下に育って、あまり女の子っぽくもなかった。もの静かで、自分が薄く、こだわりを見せない不思議な妹だった。その彼女が妊娠した時は、それは「絶望」と時期が重なり、「親の関わり不足が原因だ」と思ってやまなかった。「人工中絶」を当然視するような相方の親と、中絶に反対する自分の親の間で、妹は苦しんだ。
 「みやがれ!お前達の手抜きがこういう形で出てくるんだよ!」
 と僕は、親に言いたかった。妹は苦しんだが、僕が日本を飛び出した後には元気な男の子を産み、今日も元気に生活している。


◆「共依存」
 周りの子に比べ明らかに恵まれず、関係的貧困に苦労し続けながらも、なぜか僕は親をはじめとする家族との関係が諦められなかった。
 2006年、僕が最も苦しんだ頃に親の決定的な不理解が露呈した。父も、母も。しかし僕はそれを憎みはしても仕返さなかった。例えばこんなことがあった。
 寄宿生活塾に入ったK君を僕はよく相手をして彼の大学受験のサポートとして家庭教師もやった。しかし父とKについて意識を十分に共有することができないことや、自分自身の内面的トラブルもあって、僕はKの家庭教師をやめることにした。塾講師の頃のタフさはなく、Kのわがままにも耐えられなかった。そしてしばらくしてKが塾をやめた頃、父にこう言われた。
 「これで(君も)どんだけ手をかけなければ子は育たないか、わかったでしょう。」
 子供達の教育に、最も手を掛けないのは、他でもなく父だった。
 同じく2006年、僕はチャンスさえあれば親や、家族の変なところを、言葉で伝えようとした。それは幼い頃からの、家族への誠意の表し方だった。
 ところが、僕もしつこかったのだろうか、母はある時、しびれを切らしてこう言った。
 「ともひろのいいかげんな成長の段階には付き合ってられない!(ともひろのいいかげんな成長は相手にしない!)」
 僕には、家族を攻撃する気持ちなどなかった。むしろ自分に見えていることを伝えたいと思う、家族への忠誠がその根っこだった。しかしそんな心を母も、まるで感じていなかった。

 幼い頃から僕は進んで皆の前で話をした。うれしかったこと、いやだったこと、楽しかったこと、つらかったこと。それは聞いてもらいたかったというのもあるかもしれないが、そうやって家族とコミュニケーションを図ることが好きでもあった。「自分を出す」という点では僕は、兄や妹よりも慣れていた。
 大学一年の終わりに父と喧嘩をして家を飛び出した僕は、劇的に自分というものを、社会で試すようになった。経済的に親から独立し、塾講師をやったことなどはその最たるものだ。
 ところが、家族はそんな僕の奮闘に「気付かなかった。」
 父との喧嘩から2年10ヶ月。僕は大学中退を決したが、その間に学んだものはとても多かった。家族を「否定」し、自分の感覚を養うことに専念したその時間は、本当にたくさんのことを習得した。それまで表層的な理解しかなかった日本や、日本人というものに関して、塾でたくさんの子供達と触れ合ううちに多くのことを学んだ。経済的逆境を自力で乗り越え、大学卒業のための単位も大して残っていなかった。
 そんな僕は、親や、家族の在り方を否定しながらも、時々帰った実家ではありのままの自分を出し、家族が、寄宿生活塾として「こうしたらよい」と分かるところは母や兄妹などに伝えようとした。そうすることがなにより、子供の頃からの家族を前にした僕の役職みたいなものだったからだ。
 「家族を否定しながらも家族を思ってアドバイス」
 一見、妙なことだが、僕は一人暮らしが軌道に乗っていたため、その自分が勝ち得たものを「自慢」ではなく、純粋に分かち合おうと思っていたのだ。

 これにはだが、母も兄も、もともと距離のあった父も非常に「冷ややか」だった。僕は、あえて昔ながらの「智裕」で話をしているんだ…。なぜ相手にしてくれないのか…。そして、「いつまでも子供のままである」自慢や自己主張の好きな智裕とでも思って、2006年でさえ皆は、僕を軽くあしらったのだ。
 きっと、「恋愛」や「一人暮らし」を通じて、僕が一人「まい進」してゆくのが恐ろしくもあったのだろう。「この智裕は、どこまで一人でやっていってしまうのだろう…。」 父との象徴的な喧嘩で飛び出していった僕が生活や人生に成功したら、それは家族にとってはショックになるのだ。それこそ僕が望んでいることではなかった。
 大学3年次の秋には、だが、僕は「次なる」挑戦へと買って出た。大学をやめてスイスに行くことだった。

『こども時代』 29

情けの民と合理主義のゲルマン
 異文化に関してはあとひとつだけ触れて終わりにしたいと思う。 スイスドイツ人は、いわゆるドイツ人の固さは控え目だが、同じゲルマンの民として日本と比較したいと思う。

 僕が大学をやめて23か24の頃だったと思う。基本的に挫折の中をさまよっていた僕だったが、時には少し開き直って新しい目で日本を見る自分がいた。仕事も大学時代の塾講師から派遣アルバイトスタッフ(引越し、軽作業など)や2tトラックの運転手と、ランクが落ちていた。そんな情けない惨めな自分を仕事仲間を前には苦笑いしてごまかしてみた。プライド高きゲルマンの心ではとうていできないことだ。すると驚いたが、不思議と仕事の仲間が寄ってきたのだ。自分の弱みや失敗をありのまま出してしまうことで、人間関係がうんと楽になる気がした。
 「失敗しても、それを隠さないで出してしまうと、不思議とうまくいくんだな。」
 そんなことを思った。まだ見知らぬ、日本の処世術だった。対してドイツやスイスではどうかというと、失敗を、頭をぺこぺこして苦笑いしてみせれば、 (情けないヤツだな)と思われるだけである。職場だったら、 (なんだその態度は!)と思われて、 「責任をとってもらおう。」と、言われてしまう。だからドイツなら、失敗をしても、どう失敗したのかを真面目に話し、これからはどうするのかということを共有しようとするのがまっとうな在り方だ。
 日本だったら、どう失敗したかを真面目に延々と話されても、上司はほとんどめんどくさくて 「うるさい!要点だけ短く話せ。」 と言いたいところだ。したがって社会では自己管理がきちっとできていて、堂々としていると認められ、よい思いをするのがドイツだ。

 もうひとつ。町を歩いているとする。
 なにやら不審な人物が、建物の陰に居る。日本だったら、「何あの人。早く行こ。」 というのが普通だろう。変なことが起きる前にいなくなってしまえばいいという心理だ。また仮にその不審者が「困って」いたとしても、 「関わり合いになりたくない」と思い、見ても見ぬ振りをするというのが普通だ。それが日本では、難を避け、足をすくわれずに器用に生きるための基本だ。
 では、日本では不審者は自由なのかと言ったらもちろんそんなことはないのはご存知の通りだ。町には必ず、そういう人物を取り締まる人間がいる。警察でなくても、地元の人間がうまくそういう人間にアプローチし、事情を調べ、それに応じて対策を講じる。警察なしで済んでしまうことも多い。
 ゲルマンはどうするのかと言えば、意外と暇な人間が町を歩くついでに不審者に声を掛けたりする。「変なことを企んでいるんじゃないだろうな?」という気持ちをぶつける。それで不審者が奇行に出れば、それはすぐさま警察沙汰だ。近隣の人々も、(不審者がいる!)と思ったらすぐ110番する。自分達でどうにかしようとはあまり考えない。「そういう時こそ警察の出番だ」と思っているのだ。
 でも不審者も、厳しい一般人の目で見つめられてしまうと、ふつう悪いことはできなくなる。それくらい向こうでは個人が、社会を代表して判断力を行使できる。それでもそれに反して何かやらかせば、不審者の処罰は厳重で、一般人の抱く恨みも尋常ではない。
 ドイツ人にももちろん 「関わり合いになりたくない」という心理はある。でも人々は関わることも日本人ほどには恐れていない。向こうには個人の権限が歴然とあって、関係したくなければ 「関わるな。」と言えばそれで済むのだ。日本だとその点人間関係というのはイイカゲンなもので、相手の弱みさえ抑えておけばいくらでもちょっかいを出せる…ということがある。したたかな人間が善人の弱みに付け込んで、益を引き出す。だから 「変な人とは関わり合いになりたくない」と日本人はとかく思うのだ。「情け」を重んじる日本人ならではの弱みかもしれない。



 三編  『共依存』


精神的に近すぎる関係
 僕が15歳になる頃まで海外を転々とした僕の家族は「孤立」していた。マレーシアでもドイツでもそして日本でも地元との交流はあったが、決して深くならなかった。そして家族内でも異文化による関係の難しさから、つながれる者とは深いつながりを求めるようになった。それは母の指揮のもとに団結した兄、僕、妹Yと、母のつながりだ。
 前にも述べたように、僕と兄はとても仲のいい兄弟だった。一番上の妹Yは僕と5歳離れているため、遊び自体はあまり一緒にならなかったが、母の下には一緒になって団結した。そして僕らはこの母という人物に支えられて、母をこよなく慕った。
 しかし、そんな関係は「近すぎる」のだった。兄妹が何を思っているのか、母はどんな気持ちでいるか、言葉を交わさなくても分かる感じで僕らはお互いを認識し合った。「自分の感じることは兄妹も感じている。」 そんな一心同体の心を僕は大切にしていた。それが母を支え、また僕らを支えていた。
 テレビ番組を見ても、抱く感想はみな、似たり寄ったりで、あまり独自の感性を発揮することはよくないとさえ思われた。しかしそれでは家庭内でもあまりに窮屈なので、中学生にもなると僕は、静かに自分の世界に入ることも多くなった。妹も、どうも行き場がないように見えた。
 兄はだが、長男として兄妹をまとめるのが好きだった。大人になってもその癖が残っていて僕は個性や個人の尊厳の大切さを主張したりした。
 母は、自分の人生を僕らの教育に捧げる中で、しだいに夫婦関係よりも子供との関係に力を入れるようになった。その中で、母の、父に対する不満や悩みのようなものも、僕らも一緒になって考えるようになった。そしてそれは、気付かぬうちに他のことにも派生して、母の好き嫌いそのものを自分が引き継ぐような結果を招いた。僕はある面で自分自身の感性を発揮することを恐れ、母や兄妹にどう思うか聞いてみないと心が落ちつかないような、そんなところがあった。
 24で人生に絶望した時、僕はだいぶ自己を、小川家で育った自分を、社会で試し、経験を積んでいた。でもそれでもうかなり傷ついて元気を失っていた。「この小川家の人間が、そのまま日本の社会に出ていくと、どうなるか。」 兄妹を思うと、目が暗んだ。
 大学の一人暮らしから日本や日本人について多くを学んだが、母が自分を守るために持っていた東洋人に対する部分的なさげすみは、僕からも抜けきらなかった。たとえば母は、女性問題をよく訴えた。「日本の女性は虐げられている」「かわいそうだ」「立ち上がらなければだめよ」というようようなことをよく口にした。母ほど激しくはなかったが、僕も女性が自分を出さずに、お世辞やその場凌ぎの言葉だけ言って去っていくのを見ると、哀れだという気がしていた。

『こども時代』 28

◆「直球」の母といつも「変化球」の父
 西洋人の「愛」の観念と、日本人の「慈悲」の観念はおおよそ違うと思う。それはイエスの説いた「愛」と仏陀の説いた「慈悲」との違いで説明できるだろうか?
 ヨーロッパを旅した時に、ヨーロッパ人は「与える」ことが好きな人達であると心底思った。無銭の旅人である僕を前にやれ「コーヒー飲んでいけ」・「服は要るか」・「まだ何か欲しくないか」、など率直に聞く人ばかりだった。決して「裏心」があるようではなかった。たとえそう見えるような時でも、そうではなかった。

 母がそれとまったく同じ心で、僕らを育てた。「与える」時は、決して裏があるわけではなく、純粋な愛として僕らは受け取っていた。それでよかった。
 しかしそれが、父や日本人とのやりとりになると、その同じ方法ではうまくいかないのを経験した。たとえば大学時代、塾講師をしていたとき、生徒を慕って何か与えても、なかなか笑顔が返ってくることは少なかった。「日本人には与え方というものが重要だ」ということは分かっていても、心が西洋人な自分はそれをあまり深く考えることができなかった。たとえ教師と生徒という間柄でも、「貸し」や「借り」といった概念が早くも子供にはあるのだった。だからよほど純粋に「与えたい」という気持ちを表現できない限り、生徒は快く受けとってくれないのだ。
 対して父の「与え方」、そして「関わり方」は大概「含み」というものがあって、そこに注意を向けるということを母からは学ばない僕らは、よく分からなかった。それでも父は父で、直球を投げることはほとんどなく「変化球」を投げつづけた。


表を見る西洋人と裏を見る東洋人
 西洋の映画を見ると、「表情の豊かさ」が目立つ。怒りや不安、喜びや楽しさ、なんでもない一介の個人の表情を、これほど豊かに表へ出す民族は他にないかもしれない。特に「顔」というものは西洋人は大切にしている。常に顔はあげて、ネガティブな感情は顔に出ないように気を遣っている。
 対して日本では、あまり顔を上げていてもおかしい。この国では西洋人ほど個人の顔というものは重要じゃないのだ。日本人が見ているのは顔よりも心であり、裏の方だ。
 たとえば、人の安易な言葉掛けにはまず下心を疑うのが日本人だ。日本では西洋ほど気楽に人に話しかけることができないのはそのためだ。言い換えれば日本人に気持ちを伝えるには気持ちがしっかりとこもっていなければならない。気持ちはあっても、それがうまくこめられないならば、表現できないならば、「気持ちはない」とされてしまうのが日本人の厳しいところだ。

 僕は大学の頃から、喜びでも表現の仕方を変えて、日本人流に「含み」を使ったりして表すようになった。それが妹などにはうけたが、母に関してはその頃からやりとりもぎこちなくなってしまった。嬉しいなら、まずそれを顔に出して、興奮を表しながら話すと西洋人にはよく理解されて、対して日本人には喜びと興奮は出さないで、言葉選びや表現方法によってそれを感じさせるのがいい。まるで違うルールである。


あげるだけあげる西洋人とあげられてもあげない東洋人
 僕の体験上、西洋と東洋の違いを挙げ出したら、きりがない。
 「与えること」を「愛」と直結する西洋人は与えられるものならいくらでも与えたいと思う。「愛」はいくら与えても害にはならないからだ。ところが東洋人は「与える」ことを必ずしも「愛」とは考えない。「甘やかす」という観念が強いんじゃないだろうか。「愛」はいくらあってもいいのはたしかだが、「甘え」はそうじゃない。だから与えるのもほどほどにするのだ。
 「甘え」という心理も、日本人を語る上での重要なキーワードだが、西洋の場合、「甘えん坊」というのが少ない。それは西洋人が早くから子供に「自立心」を養い、子供自身が自制し、そうする子供を大人も褒める。人が何か恵んでくれるのを待っている(甘えている)という心は西洋人からすると醜いものであり、自立心の欠如として戒められる。反して東洋ではそこで「情け」が働く。あまり立派な振りをしている子供を見るのは好かないのも東洋的かもしれない。

 子供の頃の僕の感覚からすると、父はケチであった。「ケチ」を越えて、「自分や家族のことを好きじゃないんじゃないか」とも思っていた。与えられる限り直に与えてくれる母に対して、父の不干渉や「変化球」的な関わりは、どうにも理解できなかったのである。ところが後になってから、父の教育観にはこういう考えもあったのかもしれないと思うようになった:
 『子を崖から突き落とす獅子(しし)』
 中国の民話に、子供を強くたくましく育てるために、自分の子を崖からわざと突き落とす親獅子の話がある。崖から突き落とされた子は致命傷を負ってしまうかもしれない。それでも親はそれが自分にできる、最良の教育だと考えるのだ。「密接に関わる親という身分だからこそ、教えられることを教えておかなければならない…」というのがこの話の味噌だろう。今日の近代的な家族はこういう考えをもつ親も少ないかもしれないが、西洋にはまず見られない教育観だ。

 父は昔から、父なりの「愛情」を持っていたが、それが僕には通じていなかった。僕はスキンシップや会話などに西洋的なスタイルを父から求めていた。僕にとって向き合いには西洋も東洋もなく、母から教わった「西洋」しかなかった。でも父は歴然とした日本人だったのである。
 中学生時代に早くも僕が「孤独」を好きになったのはそんな親との関係的貧困が大きいと思う。

『こども時代』 27

M教の意味
 小川家でのM教信仰の意味についても旅の中の流れる思考の中で、何度も扱った。宗教の信仰を始めた理由については、前述したように親からこれといったものを聞いていない僕だが、それは、父の、「家族に関わるための手段」でもあったのではないかと考えるようになった。祖母が当時祖父の介護で苦労していたことや、父よりも母が先に入信したことは聞いている。しかし最も熱心であったのは父であり、父にとってM教がなければ、一体、家族とどんな関わり方をしただろうか、ほとんど想像することができない。宗教がなければ父はもっと露骨に「自己」を出さなければならなくなり、それは妻の施す教育とは衝突し易かった。でも宗教という権威の力を借りることによって、そのたしかに尊い教えと、自らの日本的資質を兼ね添えて、家族で自分を生かすことができたんじゃないだろうか。
 それくらい父は、妻や子供たちを前に、自分が出しづらかったかもしれないとある時思った。日本人の、自分を引っこめてゆく遠慮深さと、謙遜の心が、悪気はないが堂々と自分流を出している妻を前に行き場を失ってしまうのは理解できる。僕が幼稚園か小学校の頃は、特に勇ましくて頼もしい、そんな母がいたのを覚えている。
 もちろん父には、信仰自体に対する興味もあったのだろう。でもどうもそれだけではなかった。M教は家庭で父が自分を発揮するためにも大いに貢献したのだ。
 更には、M教は、子供を「大人しく」、「いい子」にするという意味でも役立っただろう。先述したように、父と母は、あまり子供一人ひとりには深く関われない夫婦だった。できる限り自分達を困らせない子供にしておかないと、結婚自体が問題になりかねなかった。宗教なしでは親子関係もより純粋な「情」のぶつかり合いになり、そうなると意識の共有が乏しかった両親は対処しきれない可能性が出てくる。親が自分たちの弱みを出してしまったら子供だってそこにつけ入って反発する可能性がでてくる。そんな事態を親は危惧していたかもしれないと思う。
 そして宗教によって「よい子」を育てることに成功した両親は、心優しい子供達によって後に「支えられる」ようにもなっていった。



 二編  『異文化』


異文化
 文化には、人間関係のルールみたいなものがあって、それをどれだけわきまえているかということで、外国人、日本人、更には東京人、関西人など細かな分別がなされる。日本人は「島国」という性格があり、外国との交流がヨーロッパ人に比べると少なかった民族だ。スイスというあの小さな国も「自」と「他」を峻別する厳しい目を持っているが、それでも日本人の異国とか、異質に対する敏感さに比べたらうんと緩いだろう。
 近頃はぱったり見かけなくなったが、僕が幼稚園の頃は自分の茶色い髪や大きめの目をみて瞬時に「がいじん~!」と口に出す子供がよくいた。しかも「外人」というときまってアメリカなのだった。しかし、時代も変わって世界に対して日本の認知度も高まるとそれに呼応するように日本人も異文化に対する抵抗をなくしてきている。
 それでも、それでもだが、日本人には世界に類を見ない独自の世界観がある気がする。それをしっかりと継続している。それによって日本人はするどい観察力と巧妙な手法を用いて、自他を区別することができる。しかしそれが非常に厳しい基準によってなされるため、僕自身も日本人になろうとしてもなかなかなりきれない、高いハードルを見つめてきた。これがたとえばアメリカとアフリカ、ドイツとフランスなどであればうんと困難が少ないような気がするのだが、浅はかだろうか。
 なんにせよ、日本人の洗練された世界観とは、西洋の精神文化とは全く別次元のものだ。一旦その目で世界を見たら、西洋人の原理はたちまちわからなくなる。逆に西洋人からしたら、日本人の原理が不思議で仕方ないだろう。
 そのことを僕は自分の親を通して、痛いほど感じさせられてきた。「他の国際結婚の子供もこんな苦労をしているのだろうか」と疑わしくなるほど僕は2人の違いによって迷宮に生きてきた。

『こども時代』 26

学びとは「無心」のこと
 大人になると、人は「失敗」に対して寛容ではなくなってしまう。「友達にメールを送ろうとしていたが、忘れて、他のことをやっているうちに友達から連絡が来て、友達を待たせていた…」というような、たとえばそんなミスが、自分に許せなくなる。
 僕自身がまさにこれで、早くから自分の犯した失敗に対しては恥や自己嫌悪、後悔が強かった。ところが、大学一年の父との喧嘩にしても大学の中退にしても、本当はまだまだ失敗をして、僕はそこからできる限り純粋に、色んなことを学び取らなければいけなかったのだ。しかしそれを妨げたり、過度に問題視させたのが「大人としての」プライドだった。僕は有能な人間だ。「器用」に生きたい。無駄はできる限り避けたい。時間を最大限に生産的に、有効に使いたい…。今思えばそれは「頭」でしか生きていない自分でもあった。

 旅をしてから分かってきたことだが、人は、「無心」である時に最も深いレベルの学習をしている。「これを勉強すればこういうことが分かる様になる」とか打算的な考えがあるうちは人はあんまり学ぶことができない。そうでなくて、大人でも子供でも、純粋な心で我を忘れるくらいに何かをやっている時、本当に血肉になる学びが進んでいると、僕は思う。ある時ふと、無心の自分は「何をやっていたのか」ということに気付く。
 これは、子供ならばまるで当たり前に日常的にできていることだが、大人になるととても難しくなる。失敗を過去に忘れ去るということがなかなかできなくなる。生活や仕事に追われて、自由を見失ってしまうからだ。試行錯誤は面倒臭くもなる。無理なのではなく生産性がしきりに問われるようになるから、そうなのだ。

 僕は子供の頃、友達のようにのびのびとできなかったので、あまり「失敗を通して学ぶ」ということができなかった。「体験的学習」とか「試行錯誤」があまり許されず、早くから「頭」によって自分を統制していた。大人になってから僕に本当に必要だったことは、子供の頃に戻って「失敗を通して学ぶこと」だったが、プライドはそれを許さなかった。
 「無心」でいられる時間が多ければ多いほど、子供は心の豊かな人間になれるのではないか。

 小川家の子供の特徴として、昔、「兄弟ならところ構わずふざけられる」というのがあった。兄弟で盛り上がっている時は、周りのことなんか、どうでもよい。それより兄弟関係を楽しみたい…。それは中学生になろうが、高校生になろうが、変わらなかった。それは今思えば、それだけ心がまだ無邪気で、子供だったのであり、まだまだそういう経験が必要だったのだ。頭は親の真面目さにより色んなことを学んでいたが、心は相応に成長していなかった。心が成長するためには、もっともっと「無心」でいる時間とその学びが必要だった。
 両親の結婚は、ある意味で西洋と東洋の衝突だった。母も父も、強い自我をもつ人間だったからだ。そのせいで子供は心―精神年齢―がなかなか伸びなかった。


5人兄妹の意味
 父と母の夫婦としての交流は、随分早くに限界を経験していたと、いつからか僕は思うようになった。父と母の心のでき方の違いや、自分自身が2人から全く別の性質を期待されたという経験もあって、僕は大人になってから親の夫婦関係に大きな疑問を持つようになった。
 そしてある時、ふと到達した理解は、「子供がいるから2人は結婚を維持することができる」という、容赦ない親批判だった。そして、「小川家は、「家族」としては実は脆いもので、これまで子供を含め皆が必死になってやってきたからなんとか維持ができたのだ」と、僕は考えるようになった。

 もとより父と母は兄ができてから結婚しているが、僕の後には3年とか4年の間隔で妹が順々に誕生した。親は、子供をどんどん作ることを通して、家族をもっともっと愛そうとしたのかもしれない…。本当は、子供のためにも、2,3人でやめてゆったりとした家庭を築くこともできたはずだが、そうはしなかった。どんどん新しい成員を招き入れることで、子供達を通して家庭を豊かにしようという考えがあったのではないだろうか。
 僕とは12歳離れた一番下の妹が4歳になる頃、親は寄宿生活塾を始め、よその子供達も招き入れるようになった。そのような背景には、「個人」よりも「集団」としての豊かさを模索した親の姿があるような気がするのだ。
 かつての「大家族」―――それは現代人が失いもした人間関係の豊かな空間であったことは確かだ。おじいちゃんやおばあちゃんのなにげない関わりが子供の基本的な人間性を育んだ。「不登校」とか「ひきこもり」という社会現象が現れたのも、少子化や核家族化の進行と密接な関係があると思われる。
 しかし、それでも親は自らの夫婦としての不具を棚にあげて子供を前には多大な権力があった。話によって理解させるというよりは、口答えのできないキツイ言葉と雰囲気によって父は家族をまとめるところがあった。友達が親に平気で反発しているのを見るが、自分はそんなこと間違ってもできなかった。やっぱりうちはどこか変だという気持ちも僕はもっていた。
 集団的な豊かさを追求する反面、「個人」はおろそかになった。精神的に幼いままだった上の兄妹は、本当はもっと親とのレベルの高い交流が必要だったが、家によその子が入るにつれ、親の意識は僕らから外れ、そちらに向くようになった。
 やはり、親はあまり個々の子供に深く関わると、夫婦の文化的・人間的差異がまた浮き彫りになるのをおそれたんじゃないか。よその子ならまだしも、実の子に対して親が衝突するのは、子供の情も絡んだりして家族の絆に問題を起こしかねない。だから親はあえて子供には関わらず、自らを別の仕事で忙しくしたのである。最も前提にあった問題はだが、やはり夫婦としての不通だった。

『こども時代』 25

父はあくまで父
 家族が日本に本格帰国するまでに大きくなった3人は、だいぶ西洋的な人間になっていた。とは言っても特定の国はなく、ドイツや母親を通じたスイス、宗教を通じた日本やマレーシアなどが混在した、独特な人間だった。それは決して日本人的ではなかった。
 生活塾としてよその子供が共同生活をする中で育った4人目、5人目の妹達は、だが、その中で必然的に日本人になっていった。心のいくらかを海外に残してきた様な上の兄姉の生き様に比べると、彼らの方がはるかに落ちついていて要領がよかった。妹らにももちろん別の苦労があっただろうが、でも、僕には見ていてホッとするぐらいのものがあった。
 しかし、日本に定住するにつれ父が本来の自分を発揮するようになると、僕などは却ってそんな父を憎らしく思った。

 「なんでこれまで出してくれなかったのさ!なんで今更この人は自分を出すんだ?!」
 「僕がどれだけお父さんとの基本的な関係に飢えていたか、知らないのか?!(憎悪)」
 「もう憎しみはどっぷりとたまっちまっているよ!苦」

 すべて心の叫びだったが、本人を前に明示したことはなかった。そして、うんと後になってからだが、日本人のことが分かる様になった時に、なぜ父がマレーシア時代など、寡黙で自分を出さなかったかが分かった。
 父は日本人としても、「洗練された」人間だった。それをスイス人と結婚したからといって簡単に変えることはできなかったのだ。それを変えようとしても、却って問題が生じると思ったかもしれない。第一、父の日本語教師や、寄宿生活塾といった仕事は父だからこそできた仕事でもあったのであり、それが自分を崩して、妻の西洋風に合わせていたら、家族の生計もどうなっていたか、わからない。
 母が、子供達の教育でフルに自分を発揮し、そこに父の入る余地はなかったのかもしれない。いずれにしても家計を支えていたのは父であり、父はその中で、いかにしたら家族の中で自分を生かせるかということを考えていた…のではないだろうか。


子供時代 関係的貧困 情報不足
 幼い頃を母の心に生きた自分だが、それでも存分に母の世界を味わうということは、できなかった。まず決定的な要因は、母は日本語を使っていたこと、そして、スイスに住んでいなかったことだ。時折、スイスのおばあちゃんからクリスマスなどに送られてきた胡桃や、旅行などで食べることができたチョコレートなどを、僕らは、非常に有り難がって食べた。食べものの見た目や味を通じて、僕らはわずかにスイスを感じることができた。
 かといって、なら日本ではどうだったかと言えば、早くからあった食生活の厳しさと、父親との不通などで、こっちはもっとひどかった。第一章にも書いたように、僕は日本というものに恐れを抱いていた。代わりと言っては変だが、小学校の頃僕がだいぶ心を浸したのが「マレーシア」とその人々、食文化、自然や気候である。
 僕ら兄妹は、だいぶ長いこと、父からも母からも文化的な、自分のアイデンティティとなるような関わりが持てなかった。自分はスイス人であるとも、日本人であるともなく、帰属の意識が曖昧で、宙ぶらりんだったのだ。子供にはピュアな心と、好奇心、吸収力、成長力などがあるが、それらを十分に発揮することができなかった。友達がやっていること(ファミコン、テレビ等)が許されなかったことも大きな理由だ。
 代わりに僕らを満たしたのはM教の教えや活動、そして比較的「文化」とは関係なく扱うことができる、社会問題などの大人のテーマだった。小学校のとき父の話で夢中になったのが、例えば「AIDS」だった。「AIDSとはどういう病気か」「かかるとどうなるか」「どうするとAIDSにかかるのか」… 父が借りてくるドキュメンタリー番組などを早くから一緒に見たりした。話の核心を理解することはできなかったが、それでも映像や時々汲み取れる内容が新鮮な刺激になった。

 そして僕らは、早くから「立派」でなければならない傾向があった。小学校中学年の頃にはもう4人兄妹であったし、母も父も海外での生活や仕事で、決して余裕がなかったのだ。友達はもっとぼんやりとしていても平気だった。自分のうちだけせめて何かやることを見つけないと、「お風呂掃除してー」とか、「ちょっとお鍋みててちょうだい」と、声がかかるのだった。だからあんまりぼんやりする時間はなかった。特に小学校の頃はそうだ。
 父はそうでもなかったが、母は何かやりながらもよく家族全体を伺っていて、僕が遊んでいても、夢中になっていないときはよく声をかけた。それは必ずしもお手伝いとか注意ではなくて、母も時間の許す限りそうやって一緒に考えたり、アイデアをくれたりするのだった。でも僕はあまり邪魔されたくなかったので、熱中できる何かを積極的に探した。
 親に対する「甘え」は、兄妹も早くから卒業していた。時には甘えたい思いもあったのだが、僕など威勢がよかったため甘えるのは恥ずかしいという感情を教えられていた気がする。本当は子供としては、威勢のよさも褒められ、でも弱い時はそのまま受け入れられる、そんな「ゆとり」が必要だったが…。そんな「ゆとり」を持つということを、僕は大人になってから社会を見て、初めて学んだ。

 「欲しいものが手に入らない」とか「知りたいなんでもないことも知れない」というのもあった。友達だったら海外でも毎週買ってもらえていた「少年ジャンプ」なども、うちにはなかった。兄はマンガにすごく興味を持っていたので、通学バスの中でよく友達に借りて読んでいたのを思い出す。テレビ番組も友達ほど見ることはできなかった。
 概して僕らは子供時代に「忍耐」とか「熟考」といった精神力を試された。その度が過ぎて僕の場合、大人になったとき自虐的になったのだが。M教の活動にしても、親の教育にしてもだいぶ忍耐力をつけされたのは確かだ。「与えない。ちょっと飢えるくらいがちょうどよい。」そんな教育観が父にはあったらしい。

『こども時代』 24


 兄妹は幼い頃は圧倒的に母によって育てられた。父は朝から晩まで仕事で、家には母がいて小さな子供の世話をするという、ごくごく普通な、夫婦の役割分担だ。幼児は、母性を強く欲する、ということもある。父は初めは、お金を運んでくるだけのような存在だった。母は教育にはスイスドイツ語は使わず、日本語を使った。しかしそれも結婚してから学んだものなので表現力は乏しかったし、漢字まではあまり覚えなかった。日本語を使っても、心はスイス人なのだった。幼少に受けたスキンシップや、しつけは、よって西洋的だった。父はその事実は認めても、立場上あまり口を挟むことはできなかっただろう。
 小学校高学年にもなると、僕らの日本語は母よりも上手になった。しかし言葉の重みは母にあったから、母の日本語がどんなに間違っていても逆らうということはできなかったし、そもそも心の優しい母には逆らいたいとも思わなかった。僕らは、特に上の兄妹の頃は、母の日本語をよくよく受け入れて、また、その曲がりの日本語を外で使う自分達すらいた。

 母の日本語が「変」だと、直す努力をして欲しいと思うようになったのは高校生の頃だった。家族が日本に帰化し、家が寄宿生活塾となった時に非日本的なものにはあまり寛容ではいられなくなったのだ。母はそれまでの自分を通そうとしたが、子供や塾生のの圧力によって少しずつ後退していった。そして家族には上の兄妹が昔親しんだ母の醸し出す空間はなくなっていった。代わりに父が「人格的なもの」を発揮する様になった。ある時、「もう昔の小川家はないんだ。」と父は平気な顔でそういった。それが小川家の「喪失」であると感じたのは僕だけではなかったはずだ。しかし2番目の妹になると、その新しい空間ですくすくと成長した。「日本にうまく溶け込んでいるように」僕には見えた。
 母も一度、家に帰りづらく思っている兄や僕を見て、「こんな風になるなんて、これまで作ってきたものが台無しだ。悲しい。」というようなことを明言した。そうは言われても、父と母が始めた新しい国での、新しい仕事なのだから、僕も、切ないながらも、「どうしようもない」「必然だ」と思った。塾が、より多くの子供を受け入れるためには、家の空間をより日本的にする以外に仕方はなかった。でもやはりそれは「強引な」父の強行戦略であったと思う。たとえそれが仕事のためであったとは言っても…。
 
 大学入学の頃だろうか、父が素を出しているのが見られるようになって、僕は内心驚いたことがあった。
 「あのお父さんが、こんなに楽しそうにしているぞ…!?」
 「こんなことを、軽く口にしているぞ…!?」 エトセトラ。
 大人になりながらも父親関係にしていた僕は思ったほどだった。それは、言い換えれば、日本に住み、日本の子供を前にして初めて見せる父の人間性だった。しかし僕はまもなく父と大喧嘩をして、実家は出ることになった。
 兄妹が小さかった頃は母が家庭を牛耳っていたと言えるかもしれない。父は、厳しく、真面目で、遊びにはあまり興味のない人だという印象が強かった。時々、日本人の集まりなんかで父が腹から声を出して笑うことはあったが、それは日本人といるからそうなんであって、家族といる時はあまりそうならないんだと、そうしたくないんだとも思っていた。もちろん少年の僕に言わせれば家でも同じように、大きな声を出して笑ってほしかった。
 しかしそれが、父が家庭で十分に自分を発揮できなかったことが、やはり夫婦関係の貧困さだったのだと思う。母は母でもちうるエネルギーや感性をフルに働かせて家庭を回していた。父は父で決して楽ではない海外の仕事と、家族全体を傍から見守った。父は、母の素質や教育観を自分が介入することで踏みにじることがないように、あえて距離を置こうともしたのかもしれない。よって家庭では父が何か言えば、母はあまり物を言えなかったり、また母が何か言えば、父は黙るという風に、交替交替で自分らを発揮していたような気がする。夫婦としての「連係プレー」はあまりできていなかった。
 母はほとんど無意識にもスイス(西洋)感覚を子供達に教えこんだ。「日本流」に合わせるために自分を殺す限界も感じていただろう。そして後になってからは子供を巻き込んで父に反発することになった。

 母は頭脳人間ではなく「アーティスト」だった。感覚が優れていて、ギターを初め、何でもアドリブでやってやってのけてしまうセンスがあった。それだけに身軽でどこか軽い性格でもあり、アフリカなど世界全般に興味があって、「冒険家」でもあった。スイス人は近隣諸国に比べ閉鎖的で慎重、思慮深い民族だが、母に限ってはそうじゃなかった。父と出会った時もそうだったんじゃないかと勝手だが、思うのだ。中学校を出てすぐ職業訓練校に入った母は、あまり頭はよくなかった。それがばったりチューリッヒで、日本からの高学歴ビジネスマンに出会うと、自分とはまるで対極のような人間にきっとすぐにほれ込んでしまった。父の秀才さ、落ち着き、要領のよさ、かっこよさ。そして異国のにおい。まだ見ぬ極東の世界…。
 そうしてくっついた2人には、いつの日か子供ができた。それが、兄だった。

 父はともかくとして、母が結婚前に地球の裏側から来るような異文化の人間と結婚をするということがどういうことなのか、十分な理解があったとは思えない。その点に関して母の意見を僕は聞いたことがない。しかし母は非常に心の開けていた人で、異文化に対してふつうの人が抱く不信感や疑心をまるで持っていない人だった。そして何でも純粋な心で接するので、却って異国の人にも好かれていたんではないかと思う。
 でも結婚生活が落ち着いてくると、人間の、文化に根差した深い違いが、明るみに出てくるようになった。「なんでこの人はこうなんだろう…」と何度か考えているうちに、とんでもない深いところから、とうてい掘り出せないような深いところから、その原因を発見するのだ。それは母の場合、自分だけじゃなくて、元気に育てた自分の子供が学校や友人関係で苦労をする、そんな事を通しても経験しただろう。

 初めはオープンだった母も、次第に自分のルーツを意識し、納得できない東洋人の考え方などには対抗も示すようになった。それは、社会に対してだけではなく実の夫に対してもそうなった。
 「うちの親は本来夫婦でとどめておく問題を、『子供と共有』することで、子供をも夫婦の問題に巻き込んでいる。」と大学の時に僕は思った。一人暮らしが長くなって自分を客観視するようになったときに、自分の父への憎しみは母親によってアレンジされた偏見でもあったことに僕は気が付かされた。
 母はある時は、夫よりも子供を心の拠り所にするように見えた時期があった。僕らに、こう打ち明けたことがある:
 「まだN(兄)しかいなかった頃ね、Nもお母さんも病気でぐったりしたの。そこにお父さんが帰ってきて、ちょっとNの面倒を見てほしかったんだけど…。お父さんは相手にしないでベッドに入っちゃってね。その時思った。この人と一緒にいる限り、私は病気にはなれない!ってね。」
 確かに母は、お化粧も最小限で、立ち振る舞いも女性にしては力強かったし、教育では時々、男のような威勢を感じさせたなと、後で思った。母は母で父性を発揮して、「全面的に」子供を教育するつもりだったのかもしれない。

 冒険心や、夢に身を任せるようにして日本人と結婚した母は、「異文化」がいかに大きな違いであるかを後になってから知ったと思う。



 5人弟姉の長女として育ち、あまり長く教育を受けられなかった母に対して、父は非常に恵まれた、教養のある人だった。兄弟は一人姉を持ち、当然ながら小川家の跡継ぎの本命だった。子供の頃には距離があり、大人になってから日本を知るのと平行して父を知るようになった僕は、今特に、父がいかに思慮深い人間であるかがわかった。それは今日でも、時に父と対面することを通して新しく見えてくるのだ。そんな僕の、父との関係だ。
 高校に入ったかどうかの頃、僕は父が中学校時代に書いた日記を読ませてもらったことがあった。思いを寄せる異性について書かれていたそれは、中学生とは思えないような表現力、そして感情の豊かさだった。僕はそれを読んで、自分が書いている日記に劣等感を覚えたような気もする。というか、当時はまだ見えない父の人間性だけに、評価を下すのは難しかったが、今思えば、やはり父の精神年齢は自分の高校時代と比べるとはるかに高かった。日本の祖父母が満遍なくよく育てたんだと思う。
 父は現役で上智・慶応・早稲田などの大学に受かり、ドイツ文学科に入った。大学卒業後、商社に入り、ドイツに出張して、そこで母と出会った。その後も日本語教師や寄宿生活塾という仕事を経験して、政治・経済・文化・宗教など、多方面の関心の廃れない人だ。

 僕が小さかった頃は家庭では今日ほど陽気に自分を出さない父だったが、前述したように父には妻に対する配慮があったり、父自身の、深い思惑もあった。
 だけど父は思慮深いからといって、決して安定型ではなかった。母と同じで、「冒険家」・「挑戦者」の根性であると僕は思っている。いろんな仕事にチャレンジする所や、自ら仕事を見つけては自分に課していく積極性は、用心深い人ではあっても、決して安定型ではない(と思う)。父はお酒を飲みながらテレビを見るとか、知人と呑みに行くことをしない。酒は普段はビール350mlを食事の時に開けて、それでおしまいである。ゆったりと、生活に深く根を下ろすことはしない。いつ何時も動ける人だ。

 父と母の結婚は、双方にとってちょっとした「冒険」だった。決して生活の安定しているカップルの、「幸せな家庭を築きたい」という結婚ではなかった。「これからどうなるんだろう。」「どんな家庭が生まれるんだろう。」ということが2人とも見えない、そんな興奮染みた結婚だった。
 でも父は、国際結婚に対する見当は母以上にあったと思う。簡単ではない結婚だけれど、「いちず」な妻だし、肝心なところさえ抑えておけば、大事には至らないという父ならではの自信があったと思う。
 積極的に自分を出し、子供を育ててゆく妻に対し、主として、最も基本的なこと以外は妻に場を譲り、自分は少し引っ込んで陰から支える、そんな父がいた。しかしあまり妻だけに子供を任せても「子供は人間的に何人に育てるのか」、という問題がやがて浮上した。子供らが妻の人間性を強く引き継いで、家庭で自分の、日本人としての在り方を出すのが難しくなったのだ。
 「子供があまり自分のことを理解しない。」「理解しないどころか、妻の感覚によって、勝手なことをするようにもなっている…」
 しかし一概に妻の教育に問題を挙げることは夫婦としての問題へと発展する可能性があるため、父はだいぶ長いこと、自分を殺して家庭全体の幸福を見守った。僕の年齢でいえば15歳頃、家族が日本定住をするまで、そうだったんではないだろうか。
 いつだか、大人になってから、父がこんなことを話した:
 ◇僕がお母さん(妻)に見えていることはクレバス*1のようだ、と、結婚して間もないころ思ったよ。その中(底の見えない氷の割れ目)を見ようとすることは、「危険」だと思った。「覗くべきではない」と思った。 (*1「クレバス」…アルプスなど高い山に見られる、春先に山の雪が解けて生じる、氷河の割れめのこと。表面は人がまたいで渡ることができるような幅でも、割れめの底はどれだけ深く、広いかはわからない。)

 「もう少しお母さんに合わせられないのか」という疑問が僕などにあった頃、何かの折に父は、そう訳を説明した。僕はこの説明では納得しなかった。父はそれ以上語ろうとはしなかった。

『こども時代』 23

 第二章 裏のこと
 一編 親・家族・国際結婚

兵庫で見た保母さん
 昨年の11月、兵庫を歩いていた時、高砂の近くで2、3人の幼児の面倒を見ている保母さんがあった。僕は歩き始めて2、3時間の一回目の休憩だったが、その公園での保母さんと子供らのやりとりが、見ていて新鮮だった。
 別に保母さんを見ることが珍しかったわけじゃない。それまで日本の生活で、いくらでも幼稚園や保育園の光景を目にすることはあった。でもかつては目に留まらなかった何かが、この時には目に留まった。それは僕には経験のない(ないと言っておこう)、「日本人女性の子供との関わり方」だった。
 「自分もああいう風な(ごく普通の)保母さんに育てられていたらな…」
 ――日本というものが僕にとってそう「難しく」はなかったに違いない、とその時思った。僕は幼稚園だったが、母というスイス人を見て、それに触れて、そこから学んだのだ。保母さんと、子供らの具体的なやりとりはよく覚えていない。ぽかーんと、自分の世界に入っている幼児らに、保母さんはしきりに声をかけ、注意を喚起し、一緒に遊んでいた。たぶんに、ヨーロッパ人にはない関わり方だ。僕はすごく新鮮なものを感じ、自分がいかに西洋人の心を教えられていたかということを悟らされた。
 「スイス人」というよりは「日本人」としての自覚で、日本の教育を受けて育った僕だが、この「日本」というものにはたいへんな苦労を経験した。


つめたい流し目と無視
 少ないマンガや日本のドラマを通して日本人の心の機微が分かる様になる中学生まで、僕は自分と学校の友達との「不調和」に苦労した。学校では、自分が元気に遊んでいると、なんともなしに冷たい視線を向けてくる子や、声を掛けても無視する子がいた。僕にはそれがどういうことなのか、訳がわからなかった。わかろうとはもちろんしていたと思うけど、わからなかった。口で聞いてみても、答えを聞くことはできなかった。それが、マレーシア人や西洋人にはない、僕にとっては「日本人特有」と認識される性質が、気掛かりで、また恐ろしかった。調子のいい時は意外とそういう経験は少なくて、調子の悪い時、周りを意識する余裕のない時は、特にそれを味わうのだった。
 無視まで行かなくとも、ある決定的な瞬間に冷たい流し目を見るだけで、(何?!!)(何がいけないの?!!)と気を煩った。それでも僕は自分にできる最大限の元気と、明るさと、楽しさを追究して生活していた。朝起きてから、夜寝るまで、そうだったと思う。でもそれは、生憎、周りにとっては必ずしも望ましいものじゃなかった。それより僕ははるかに「母親にとって」望ましい息子だった。
 
 高校や、大学になっても、時々そういう体験をした。西洋人の心だからこそつめたい視線や無視の態度は「異様」で「不可解」だった。そういうことをする人に対して、(私のことが気になるなら、正面からかかってこい!!)と、ほとんど腹立たしく思った。そういう行動自体、軽蔑し、弾圧したかった。
 日本を好かない外国人の気持ちを聞けば、それは痛いほど分かった。僕自身が自分の中から「日本」を、追い出しそうだった。この世界でも珍しい深く洗練された精神文化の残る国を。


父と母の関係
 「国際結婚」の家族を、僕は自分以外にあまり知らない。日本の一般の人に比べたら、国際結婚の家族と触れ合う機会は多かったかもしれないが、そのことを別段意識して付き合っていたわけじゃない。そして、「国際結婚」と一口に言っても、相手方がヨーロッパ人なのか、アジア人なのか、アジアのどこなのか、韓国か、中国か、…こういうことでまるで違ってくる。結局、「ユニーク」だとか、「変わっている」ということで片付けられてしまうのが、国際結婚の現状だろう。
 ところが、じゃあそれで親が好きなようにやっていいかと言ったら、もちろんそんなわけはない。子供が、母方であろうが父方であろうが、「自立」し、社会に巣立っていけるよう育てるのが親として変わらぬ使命だ。
 この点で僕の親はいいかげんだった。今日、5人兄妹のうち上の3人にこれが顕著に現れている。父も母も、子供の立場に立つ余裕がなかった。父と母の夫婦としての意思疎通の程度ではそれが無理だった。

2010年4月9日金曜日

『こども時代』 22

休学
 大学で休学の措置をとった僕は、多くの時間を一人で過ごした。親友と呼べる友達もなかった僕は友達から連絡をもらうことも少なかった。休学すること自体、いちいち人には話さなかった。
 恋愛で変わった自分のこと、父との喧嘩のこと、一人暮らしが始まったこと… その半年かそこらで一変したすべてを整理するために、自然と一人になった。大学をやめることも、この時はけっこう考えた。自分は確かな目的意識があって大学に入ったわけじゃない。「大学には行っておいた方がよい」「できればいい大学に」と周りは言うから大学を受験し、入学した、そんなもんだ。年間110万円はかかる学費の手配に汲々としてなんとか卒業資格が取れるくらいなら、やめた方がいいのかもしれない…。この時に、そこまでの考えはあった。でも一度やめたら戻りにくいことや、短い間に生活を変えすぎるのは危惧したため、「できるだけ慎重に」と思った。
 大学を続けるにしても、やめるにしても、その決断は2年次の終わりまで猶予があった。しばしの余裕が、生まれた。

 同6月には「スイスパスポート」を作った。そう、休学中にスイスに行こうと思ったのである。国籍は日本のも持っているが、その時はまずスイスパスポートが作りたかった。大学をやめてスイスに住む可能性も、考えていないわけじゃなかった。
 渡航費をつくるため、東京で自転車便の仕事をした。面接の時には「どれくらいの期間やるのか」について、何と言ったか覚えていない。出入りの激しい会社だったが、半年とか、一年とか、本当はない気をあるように見せていたかもしれない…。自転車便をやろうと思ったのは、サークルの仲のいい友達がやっていて自分にも興味があったからだ。7月、8月、9月と2ヶ月半ほど家庭教師と平行して仕事に明け暮れると、あっという間に費用は溜まった。9月中旬から3週間、マレーシアとスイスを訪ねた。
 この頃もなにげに元彼女のことが頭にあった。別れてから一年が経っていたが、大学に行けば彼女を見かけたし、時々はメールのやりとりもあった。スイスに行けばもう彼女と会うことはなくなるだろう…。そんなことが頭にひっかかったりした。いろんなことに関して何をどうしたらよいか分からなかった。
 懐かしのマレーシアや、初めて一人でスイスを見てくると、心も和むものがあった。それで、だいたい、「まだ大学はあきらめない」、特に「金銭的な理由でやめてたまるか。」と思った。


なぜ生きるのか 何をやっていくのか 「迷子の子羊」
 「恋愛」によってそれまでの価値観や世界観が崩れ、父との衝突によって慣れ親しんだ家庭から見事に切り離された僕は、まるで「迷子の子羊」だった。高校の最後から自分の感覚を試すようになり、その未熟なセンスではとうてい「器用」に生きることはできなかったが、不本意な、心をしいたげるような数年間の果てにはそれでも踏み出さざるを得なかった。
 
 食生活も、肉や、スーパーの甘いお菓子や化学調味料のものを食べずにはおれなかった。それが自分の体には悪いという考えがあっても、欲望には逆らえずうやむやにも食べた。
 M教も、大学生になってからやめていた。「手かざし」に欠かすことができないお守りを道場に返しに行き、道場長を前に「やめます」と言った。迷いなくやめることなど不可能だったが、もう、自分の直感を実行するしか仕方がない自分だった。 
 『自分の中に毒を持て』 岡本太郎
 『今ある自分を打ちこわせ』 余暇三千雄 
 いかにも激しい、気になる題名の自己啓発本を手当たり次第読み耽って、書いてあることを実践した。僕は人生に希望を見出すために、それまでの自分を実質「こわす」ように生きた。恋愛で垣間見た清らかな世界にも支えられながら…。

 大学2年次の終わりに、塾講師のアルバイトを始めた。安定した収入と、教えることのレベルアップを図っての挑戦だった。
 アパートもそれまでより1.6万円安い、2万5千円のところに引っ越し、復学の準備を整えた。大学の2年目は、「波乱万丈」という感じだった。その後も決して楽だったわけではないが、精神的にはこの頃より落ちついていた。




(以上 第1章 表のこと ) 

『こども時代』 21

◆「家出のあと」
 買ったばかりのノートパソコンと、少しの洋服を、バックパックに詰めて、僕は自転車に乗った。元彼女のところに行きたいような気もしたが、無難に兄を頼ることにした。50kmくらいだろうか、夜中に自転車をとばして、兄貴を訪ねた。兄も池袋でこれ以上安いところはないという様な、みじめな部屋を借りていたが、メールを送った僕に都合をつけて、待ってくれていた。僕は途中どういうわけか道路で派手に横転し、片腕がまともに動かせなくなるほどの怪我をした。動揺と、興奮にまみれて我を忘れて走っていた。
 幼い頃から兄は、優しかった。なにかあった時は父や母よりも兄が頼れる人だった。秘密を打ち明けられるのも、友達というより兄だった。それは海外を転々とした家族ならではのものもあるかもしれない。
 「父とあそこまでやってしまった僕は... もう帰れない。」
 そう強く思ったことを、兄に話した。
 兄が演劇かなにかのサークルでいなくなる時は、僕は静かに部屋で待っていた。最初の数日は、怪我でほとんど動けなかった。
 それから一週間くらいかその間に、僕は「一人暮らし」をすることを決め、大学の生協で部屋を探した。そう迷ってもいられなかった僕は、同じゼミで仲がよかったAの並びの棟に部屋を借りた。引越しや契約費用はどう処理したかよく覚えていないが、自転車で運べそうなものは、自転車でけっこう運んだ。引越しのために割りと早くまた実家に顔を出したが、父とは顔を合わせなかった。家庭教師のアルバイトは1、2回くらい休んだかもしれないが、振り替えで補ったりして、仕事は仕事で大切にした。
 僕の春休みは、引越しと、気持ちを落ちつけて2年目の準備を整えることで、終わってしまった。

 恋愛によって方向づけられた僕の大学生活は、父との喧嘩によって更に具体的に、方向づけられた。例えば、実家から通えば下宿費や食費はあまりとられず、ドイツへの留学も夢ではなかったが、それは一人暮らしの確定によって却下された。そして、大学2年目からは3年間、自分で学費を用意しなければならないので、バイトを続けることは必至だと思われた。
 大学をやめることも考えた。でもそれは「自分に負ける」ことを意味する気がして、とりあえず一人暮らしで頑張ることにした。
 家庭教師の2人ではお金が足りないと思った。奨学金制度は充実していたから借りること自体はいくらでもできたが、少なくとも自分の生活費は自分で賄い、奨学金の給付はそのまま貯金に溜まるようにできたらよいと思った。同クラスの友達が居酒屋のバイトに精を出していて、月12万円とか稼ぐのも見ていたから…。


◆「転機」
 「金欠」を恐れた僕は家庭教師の他に大学近くのバーミヤン(中華料理レストラン)の厨房で働き始めた。家庭教師と合わせて「十万円」を一つの基準にして週3回程度のシフトを入れるが、5月の終わりにはギブアップした。
 「無理だ、これは...。」
 途方に暮れる、自分がいた。そして、やむをえず「休学」することにした。「休学」には、どうせもう払ってしまった半期分の授業料以外にお金はかからなかったのだ。ただ静かに少し落ちつける時間が必要だった。大学のみんなは相変わらず活発な様子で、そうでない、この先どうなるかもわからないような不安定な自分が、意識されるのも辛かった。高校の頃やっていた10kmジョギングを思い出して多摩川まで往復のマラソンに出た。高校の時ほどもう体は軽くなかった。ある時は雨の中あえて出ていって、人のいない多摩川の河川敷で悔しさを叫びに替えた。ずぶぬれの自分だった。
 バーミヤンはやめたが家庭教師は続けた。英語を主として「教える」ことにやりがいを感じている自分がいた。大していい教え方ができたとは思わないが、プリント作りなど、授業準備には時間を惜しまなかった。

 6月になって、知り合いのつながりでちょっとした出会いがあった。親と交流があった静岡のお寺に保養に行かせてもらった時に、人に見えないものが見えるという女性に会った。「ちょっと言葉がキツい人でね、合う人、合わない人がいるんだけど…」 そう柔らかく、お寺で母親のように世話をしてくれたKさんが、説明してくれた。
 Iさん(超能力者)は、Kさんとも重なる、自分の親よりは少し年上の人だった。会ったとたんに、「うかつなことは言えない」ということがわかった。僕は割と、年配の人とも気軽に話をする方だったが、Iさんに限っては言葉が出なかった。家具や飾りものの美しい一軒屋に一人で住んでいるようだったが、心に刻み込まれるような力強いお話の後には手の込んだ、ほとんど上品な食事をたくさんもてなしてくれた。
 個人的なことについて、いくつか貴重な教訓を頂戴したが、中でも印象的だったのは、「今を生きなさい」という彼女の言葉だった。
 「先のことは考えないで今、目の前にあることを命一杯やっていってごらんなさい。「今」、「今」よ。」
 自分の話をするか、Kさんと少し言葉を交わす以外は、Iさんは僕に言うことはあまりなかった。言われたいくつかの言葉は、強く頭に焼きつけられて、それから2、3年間、僕の「指針」となった。
 その年と次の年に合わせて2、3回Iさんを訪ねたが、ある時は一対一の、僕はただ聞いているだけの1、2時間の後に、親に宛てて、「素晴らしい息子さんです。息子さんのこれからが楽しみです。」と、なんだかわからないが嬉しい手紙を打ってくれたこともあった。僕はというと、むしろ悲観的で、将来に対して不安の方が圧倒的だった。

『こども時代』 20

なんだか分からない原動力
 恋愛に持ちうるすべてを賭けていた僕は、学費のための奨学金も恋愛や大学生活のために使っていた。「学費は一年目だけ出せる」と親に言われていた自分は、恋愛にかかるお金もたいへんだった。バイトをすると言ったって、そう簡単なことではなかった。
 お金の心配をして、大学生協に応募した家庭教師の仕事が、夏休みに始まった。そして後期も始まるが、彼女と別れた自分は、「果たしてそれでよかったのか」と、「もっとねばるべきだったんじゃないか」とか、しきりに考え悩んでいた。大学の友人関係だって「適当に」ならざるをえなかった。
 
 たとえば大学で食べる食堂のごはんにしたって、本当は僕にとって「ただならない」魅力だった。巨大な食堂には中華、イタリアン、和食、マクドナルド、何から何まであった。しかも外とは比べものにならない安さであった。おいしかった。昼はほぼ毎日食堂だった。さすがにもう親には、とやかく言われない。食べたいだけ食べられた。
 でもそんな「食べもの天国」一つをとっても、忙しい自分には十分に楽しむことはできなかった。昼休みに1時間時間があったとしても、頭は「次はこれをしなければ」と始終考えているので、食事はみんなと同じテンポで済まし、次のことをやりに学部棟へ戻った。はっきり言って、「ゆとり」を奪われた人間だった。そんな自分に気付くのもだいぶあとになってからだが…。

 そんな無謀な生活状況でも、恋愛を経た自分には内なる炎が燃えていた。その新しい「炎」を自分は正当に扱うことができないだけで、決して無気力なのではなく、むしろ何でも当たっていくような気概があった。
 一年の後期には2人分の家庭教師と大学の勉強のだいたい2つに絞って生活していた。サークルも少しはやっていたが、てきとうだった。空手部に入るとか、ドイツ語を勉強するとか、海外旅行とかはいつのまにか無いに等しくなっていた。自分の生活の全体感がつかめない、そんな時期だった。
 この年のおおみそかの夜には一人軽装で雪をかぶる丹沢山に登った。どう扱ってよいのか分からないエネルギーを、そんな奇抜な行動で発散した。


家出
 そんな経緯では自然なことだったかもしれない。後期も終わって春休みに入ると「家を出る」と決することになる父との喧嘩が起きた。
 その夜は、父が早々と一人でお鍋を食べ始め、残った魚の骨を鍋のふたに置いたのが、僕は気になった。「そこに置くべきではないと思う。」と、僕は辛口で指摘した。それでも相手にしない感じなので、しょうがなく自分が専用にお皿を取ってきた。父は「ありがとう。」と言ったが、僕は自分がいいように使われているとしか思えなくて、「そんな『ありがとう』ぶっとばしたいくらいだ。」と言った。「なんだと!?…」父は箸を止め、おわんを置いた。
 父を前には子供の時から不器用にしかしゃべれない自分があったが、この時もとっさに浮かんだ「ぶっとばす」という言葉が、適切かどうかも考えられないまま、口を突いていた。「そんな『ありがとう』いらない。」と言っていれば、まだ話の余地が残っていたかもしれない。
 父は立ち上がって「ちょっとこい」と明らかな怒りを見せた。ところが、僕にはその、今思えば日本の「男」の、怒りの表し方が通じなかった。僕が父に対して怖いと感じることは理由がわからない「沈黙」や、「認められていない」ことで、怒りではなかった。その頃には体力的にも負けない自信があった。
 今度は僕が父を相手にしない感じで、ただ佇んでいると、父はこたつの横から僕を蹴ってきた。すぐに火はつかない自分だったが、父と向き合っているうちにそれなりに本気になった。憎しみというほどの強烈さはなかったが、それまで、こどもの頃から溜まっていたいろんなものをこの機に出してしまいたいと思った。取っ組み合った時、父の腕には力が入っていなかった、という記憶があるが、僕は父を玄関に放り投げた。それで父は動かなくなった。おなかの辺りを打ったようで、あえぐ声を出していたが、僕にはそれが本当なのか疑わしかった。父ははうようにして階段を登って自分の部屋へひっこんだ。
 しばらくして、僕も落ちつかないので、「これで自分は気が済むんだろうか?まだし足りないんじゃないか?」と思った。そして階段を登って、暗闇の中に横たわる父に向かって、「ぶっ殺してやろうか?」と冷静に言った。父は、「やれ!」と力強い声で即答したが、そこまでする気は僕にもなく、僕は何も言わずに階段を降りた。
 (いけないことをしてしまっただろうか…!?)
 (とりかえしのつかないことを、僕はしてしまっただろうか…!?)
 不安にかられ、当惑しながら荷物をまとめて、家を飛び出した。「もう家にはいられない。」そう思った。

 僕と父とのコミュニケーションの悪さは、どうにもならなかった。この時も少し状況が変われば、家を出ていなかった可能性は高い。一歩間違えると、「天と地の差」…。そんな父との関係的難しさが、僕をいつまでも悩ませた。
 家出をして一人暮らしになっても、僕の頭からは父を含めた、家族のことが離れなかった。僕は自分の恋愛とか、人生を、半ばあきらめた。友人がしているような、夢見るような大学生活を捨てて、僕は内に籠もり、細々と大学を続けた。

『こども時代』 19

大学受験
 学校の成績はよかったが、自分の実力では国公立大学の受験は厳しいということがわかると、推薦入試から検討をし直した。その始めの一歩が指定校推薦だったが、これはおしくも成績上位者にとられてしまった。それでもその学部を諦める理由はないと思ったので同じく推薦入試として同じ学部や、他大学の同系統の学部などを調べた。慶応大学なども見たが、時間的な余裕がなかったため、指定校と同じである中大総合政策学部を受験することにした。受験書類の作成には時間がかかり、受験自体に少し自信がなかったため、いちかばちかという感じだった。
 ちょうどその頃、一緒に農業大学を志望していた友達から、小学校で級友だったKが交通事故で重態だということを知らされた。キャンパス見学か何かでばったり会っていたK君は、それほど仲がいいという訳ではなかったが、僕は「これは…。」と何かに気付いたように思った。
 病院を訪ねると、通学中にはねられたというKは、ぼんやりとした意識でほとんど身動きがとれない状態だった。
 僕はM教の手かざし、「お浄め」をした。人前で、M教でない一般人を前に手をかざすことはそれまでほとんどしたことがなかった。マレーシアでガキ大将だった時や、ドイツで虚弱だった友達に手をかざしたことがあったが、大人を前に信仰告白をして、「手かざしをさせてもらってもいいですか」と願い出たのは初めてだった。
 毎日のように通い、50分から1時間のお浄めをするうちに、Kの容態はどんどん軽快していった。ある日は突然、見違えるように一気に元気になったりもした。命に別状はないということが分かる頃になると僕は受験に集中し、それからはほとんど会うこともなかったのだが、勇んで直感に従ったという経験が僕の生活に新鮮な空気を届けてくれていた。「上昇気流」という感じで、大学推薦入試も調子よく受験することができた。12月には合格通知が届いた。
 
 中大に合格すると、それで、中大に入ることにした。父には「慶応大学受けてみないのか」と言われたが、僕は受験料のことを気にして、また、一般受験で受かる自信もなかったので、「いい」と返事した。
 進路が決まると、とうとう気が緩んで、学校の試験勉強には手がつかなくなった。「これでなんとか高校も、卒業だ…ふぅ。」 学校の試験の度に2週間前から試験勉強に打ち込むことに「疲れて」いた。休みが、必要だった。

 それでも春休み前には東京のとある「モデル」の事務所に応募しに行った。高校でのモテるという体験から「モデル」になることができるかもしれないと思ったのである。若者ファッション雑誌の代表である「メンズノンノ」には多数のハーフのモデル達が出演していた。モデルになったら、これまでの「金欠」ともおさらばできるかもしれない…と思った。子供の頃からの金品に恵まれない生活がひもじかったのは確かだ。そうしてファッション雑誌を買って、服というよりモデルをチェックするようになったのだが、大学が始まると、それどころではなくなった。事務所に支払った10万円(登録料)はそのままに、それ以上何かすることはなかった。


大学 迷いと初恋
 大学に入学すると、やはり世界の違いを感じた。高校は「ひどく平凡だったんだなぁ」と思った。英語が得意な学生が多かったため、世界に開けている感じもあった。それまで触れたこともなかったIT関係も力の入った学部で、キーボードの打ち方から、一から学んだ。もし将来世界に羽ばたきたいと思ったらやることはたくさんあったんだと気付かされ、少し焦った。でもそこには「やるべき」と思われることがありすぎてどれを採ったらいいのかさっぱり分からなかった。たとえば「スポーツ」も捨てきれていなかった。小学校の時にやった「空手」とか、ドイツで熱中した「陸上」も本格的な環境でやってみたい気がした。もちろんバイトもして海外旅行とか、懐かしのマレーシアを訪ねるとか、願わくばドイツへの留学なども興味があった。
 しかし… どれに的を定めてよいのか、わからない。目の前にあることに向き合うだけで精一杯なのだ。

 入学早々、一応のクラス分けがあったが、その交流会で一人、気になる子がいた。なんだか分からない未知の魅力を彼女は持っていた。1つ上の先輩がアレンジしたその交流会では「みんなと1分間トーク」だかなんだかいう親交ゲームがあり、早速僕は自分の関心を彼女を前に表した。高校では間違ってもやらなかったことを僕はやった。
 それからぎこちなくも、3ヶ月間の長い前戯(? を経て、僕らは付き合うことになった。後で分かったが僕が彼女に感じた魅力とは、磨かれた「女性らしさ」、もっといえば色気であった。彼女は僕の前に付き合っていた男性が僕より10歳も年上で、なるほど大人っぽいわけだった。その落ちつきとか、大人な感性に、僕は憧れも抱いていたかもしれない。大学入学から2日目か3日目だったその親交イベントで彼女に目をつけてからは、僕の大学生活は自動的に方向づけられた。周りを顧みる余裕はなかった。
 毎日は、彼女のことに最大限神経を張ることで過ぎていった。週に3回あって、もっとも友達のできやすい英語のクラスも、僕はてきとうにつきあって、それで前期は終わった。
 この、「好きな異性」というものが僕をどれだけ刺激して、魅了して、僕の人間自体を変えてしまったか、今思い返してもすごい。夜も眠れない日々だった。対して自分の高校生活はひどい不完全燃焼だったと思うようになった。そして、しだいに僕は内面の、大きな変化に耐えきれなくなって、後期には彼女から「離れていった」。彼女はその訳を知りたそうではあったが、説明しても無理があった僕は、自然と距離を置くようになった。

『こども時代』 18

本当の勉強を、知らない
 高校1年生の秋にバスケ部をやめてから、学校の成績はほぼトップになった。一部先生に好かれないような経験もしたが、5段階評価で4.6~4.7だった。しかし「実力」という点から見ると、大したことはなかった。僕は学校の定期試験に重きを置きすぎていたのだ。数学ができる、と思った自分は、生物専攻で理数クラスに入ったが、全国模試でも受けると大して得点はできなかった。
 ただし生物と英語には力が入った。生物は受験科目では使わなかったが、三年生の一学期には国公立の入試問題を解くことができた。ぶ厚い問題集をそっくりそのまま、ノートに転写したのだ。英語は、自分が外人肌であるだけに、できなきゃおかしいという思いもあって、実用語としての学習に取り組んだ。試験問題はミスも出たが、ドイツでドイツ語を学んだ感覚で発音やスピーキング能力を意識して勉強した。
 しかしそれでも僕は本当の勉強というものを知らなかった。全国大会に出場するサッカー部が、暗くなっても血汗流して練習に打ち込むように勉強も「熾烈な戦いである」という認識が欠けていたのだ。学校自体が競争や緊張感の薄い学校でもあった。僕はそういう点で本当の受験勉強を知らなかった。
 
 M教の信仰生活は下火だった。家に外部の人の出入りも増えたため、手をかざすこともうんと減った。親も昔ほど説教することはなくなった。もう高校生だったからとやかく言わなくなっていたというのもある。時々「道場」にも行ったが、昔からM教は好きじゃなかったため、信仰からは離れていった。


実はまだ確認できていなくて‥
 高校3年生になった頃、少し精神的な異変を感じた。不本意な、自分を縛るような生活に心が疲弊していた。思うと、そのころは全然楽しくなかった。生活の全体感が、マレーシアやドイツと比べるとみみっちくて、中身がなかった。自分では生活が充実するように、最大限のことをやっているつもりだったが、思いを寄せてくる異性を拒み続けることや、これといった趣味や希望が見出せない年月がつづくと、さすがに精神的に限界となった。
 一つには、その頃、射精体験が済んでいなかった、ということがある。体は健康体で、夢精は経験しても、世間が言うような男性としての能動的な営み(自慰)がなかった。肉を摂らない、家の食事の影響という可能性も高い。
 高校3年生の夏に、家に自分一人となった時があって、その時初めて、アダルトビデオを借りてきて、挑戦した3回目に射精ができた。好奇心から、その場で持っていた顕微鏡に精液を乗せて、自分の目で確認するとそこには無数の活発な精子があった。それを経ると、精神的にガラッと変わるものがあって、農学系志望だった自分は突如挑戦に出た。3年生の2学期に、進路を変更して学校に来ていた指定校推薦に応募した。
 
 射精体験を済ます前だっただろう。一度ベッドに寝ていて奇妙なところに意識がシフトするというような体験をした。なにかそこでは、感じるものが人間的ではなくて、体験した後でも、言葉にならない。それから定期的に、頻度の差はあるが、その「かなしばり」のような体験をするようになった。「かなしばり」というと「何かにとりつかれて体の制御が奪われ、動けなくなる」というイメージがあるが、自分のは少し違って、動くことはできるが、そのシフトした状態はすごく気持ちが悪いため、自分に還ることに必死になる、という感じだった。しかし数を重ねるにつれ、時にはその状態を、あえて観察するということもできる様になった。それは今日でも、時に体験している。しかし観察してもそれが我に還った時に「言葉にできない。」体験した感触も我に還ると急激に忘れていく。だからある時、それは「人間の認知系統ではないのではないか」ということを思った。なんなのだろう、いまだ謎の現象である。

『こども時代』 17

心は多分に西洋的 日本的な情に動かされず
 大人しい僕であったが、友人関係はあまり充実しなかった。学校では毎日バスケをしたりする仲間がいたが、一緒に町へ出たりすることはほとんどなくどこか虚しかった。友達ってのは、もっとふざけれて、盛り上がって、勢いのあまりちょっといたずらしちゃうくらいのイメージがあったので、中学校も高校もそうでないまま終わりそうであるのが、なんだか「ちがう」感じがした。それでも「それが日本なんだ」と「日本ならではの楽しみ方を探せばいい」と、そう自戒する自分がいた気がする。高校生にはなっても、日本での自分の、正当な生かし方がまだ十分に分かっていなかった。僕に必要だったのは、まだまだピュアに、子供っぽくてもいいから自分を「出して」、感覚を磨くことだった。そんな余裕、なかったのだが…
 僕の心は、海外生活や、最も濃密に触れた母の人格から学びとった最低限のものでこの頃も生きていた。それは多分に西洋人的な心で、日本的な心とはそぐわない面も当然あった。表では立ち振る舞いに少し気を遣っていれば日本でも生活できないほどではなかったので、「それでとりあえずは満足しなければ」と思っていた。
 しかしそうやって僕には本当に心が通じ合う友達というのはできなかった。そんなことが少しずつ、後々に暗雲を投げかけていた。


寄宿生活塾
 変わって自宅は自宅で、安泰ではなかった。高校入学前には2コ上の、紙を金髪に染めたヤンキーが入ってきた。僕は部屋をシェアし、慎重に相手をしたが、何を間違ったか6月頃には彼のギターのスタンドで頭を殴られた。顔に血がつたる、まるでマンガみたいなことが起きたが、それでその子は実家に返された。
 続いては高校1年の秋頃だったか、明らかに僕を意識した、美人の女の子が入ってきた。一体彼女のどこが悪くてうちに入れているんだと、考えれば疑いきれない性格のいい女の子だったが、僕にとっては負担だった。このEさんは、実に1年半くらいうちにいたが、僕は彼女に心を開かなかった。もし恋に落ちても、同じ屋根の下で、親が認めるはずもないし、第一、うちは「自立支援」が仕事なのだ。兄が日本に帰ってきた時、彼女と兄はくっついたが、案の定、それによって兄は家を追い出され、合格した東京の大学の近くの下宿に入った。

 高校3年生の頃には2コ下のなまけ者のS君を調教しようとして失敗したこともあった。彼は何ヶ月経っても態度を変えず、余裕があるのに精進しようという気を見せないので、話はできた僕が諭そうとしたが、これはどうにもならなかった。
 僕の家には昔から、「明るく元気にいい子であろう」という様な、暗黙の了解があった。顔を上げない子、人の目を見て話せない子、答えない子、返事ができない子、それらはすべて即精神的な疾患だとするような見方があった。多分に母、スイス人の感覚だ。それをそのまま日本で、子供に適用したところで、うまく行くわけがなかった。このS君は小柄で頭もよさそうには見えなかったが、道理にそぐわないことには一人ででも抗する力があった。一度、僕は彼が生意気に思えてならなくて、離れ部屋の柱に彼の手を縛ったことがあった。それが正しいことであったか父も母も構わなかったが、S君は、縛られても「平気」であった。結局僕自身が悪いことをしているような気になって彼の手綱をほどきに行った。「僕がバカを見た」というような結果に終わった。
 塾の生活はなにげに大変だった。大学受験の際にはモデルとなっていたH塾の塾長から大学への推薦状を書いてもらえたが、もし「日本を享受する」ということを考えれば、僕の置かれた環境には無理があった。

『こども時代』 16

四編 『青年期』(高校1年生~家出まで)

高校入学早々 ちやほや
 ドイツから日本に帰ってきてからそうだったが、高校に入ると自分はものすごく目立ち、女の子にもすごくモテることがわかった。僕は兄妹の中でも顔立ちが西洋的で、特に鼻は成長期を経て高くなった。まつげはもともと長かったし、目も西洋的な二重の明るい目だったが、小学校でもドイツでも大してモテるというわけじゃなかった。それが高校入学からえらく変わって僕は次第に自分の肉体的美を意識するようになった。
 僕はドイツの時に読んだバスケットボールマンガ『スラムダンク』に憧れて、長身も生かしてバスケ部にも入った。それで昼休みも同じクラスの仲間と体育館でバスケをするのだが、一学期は毎日のように体育館の入り口に女の子が数人、顔を出した。
 「また来てるよー、ロペ」 バスケをしながら友達がひやかした。同期にはアメリカ人のブロンドの女の子がいたり、その他にもクラスにかわいい子がいたが、僕は恋愛というには早すぎるものがあった。大人しい性格ではあっても心は実は、幼かったし、なにより日本に十分に「慣れて」いなかったのである。下手に調子に乗ってバカをしても後々が思いやられた。自分には小学校で苦い思い出があるのだ。
 ドイツからの帰国時に「慎重に。」と決してからはそれは大学まで継続され、結局高校でも彼女はできなかった。それはほとんど「申し訳ない」ほどで、後で期待を寄せてくれていた女の子には罪悪感を抱いたが、「慎重」であることが、高校生としてやるべきこと(主に勉強)を優先することが正しいと思われた。

 バスケ部では中学校で体が鍛えられている連中と「体力」、とくにスタミナの差が目立った。今思えば食生活の影響もあったかもしれないが、ドイツで地域の陸上クラブに入っていたものの、日本の学校にある部活動の活発さは比べものにならない気がした。仲間達が、必ずしもそういう活発な部にいたかはわからないが、僕はよくバテて、ウェイトトレーニングルームに引っ込む日が続いた。足に無理が生じてか、筋肉ではなく腱が痛んで走れなくなった。夏の合宿や遠征を経て体が少しずつ改造されてくると、たしかに体は変わり、あまりバテなくなった。しかし、バスケ部に集中するだけで他のことがおろそかになってしまうほどだったので、やむなく部活はやめた。


◆“やはり勉強を頑張りたい”― 
 ドイツで高校卒業資格試験を目指して一人で頑張っている兄や、自分の高校時代を振り返って一日5~6時間勉強したという父もいてか、僕は部活をやめてから「やっぱり勉強をしっかりしたい」と思った。
 入学直後の県下一斉テスト(英国数)では学年順位が21位で、一学期の成績もバスケ部で一位か二位だった。高校の偏差値自体あまり高くなかったのだが、それでも中学校の大部分の勉強が抜けている自分がそこまで得点できてしまうと、やっぱり勉強をしようと思った。
 バスケ部をやめてからは成績が伸び、バスケ部の代わりに週に二、三回10kmジョギングと腕立て伏せ(150~200回)をした。それはスポーツを諦めた自分に対してなぐさめ程度にしかならなかったが、それからは高校三年生まで安定した高校生活を送った。時にはまたマンガとかも描いて自分なりの夢の世界を探求した。それまで苦手だった読書も高校から始まり、日記はよくつけていた。
 同じく帰国子女で威勢がよく、性格がどこか似ていたKには「バンドをやらないか」と誘われ、ギターにも手を出してみた。母がギターを弾く人であったし、音楽も洋楽が好きだった僕はそいつに煽られてイギリスのロックバンドOASISのカバーをやった。「文化祭」にも出場した。

『こども時代』 15

いとこのS君とよくつるんだ
 中学校3年生の時には、昔はあまりうちには来なかったいとこのS君が、不思議とよくうちに遊びに来ては一緒に遊んだ。お互い高校受験を控えていたが、勉強はほどほどで、古ぼけたCDプレーヤーでビートルズを鑑賞したり、熱帯魚を飼ってみたり、訳もなくいろんな店に行ったりもした。それはそれで、控え目だが、楽しい時期だった。
 学校ではほとんど嫌われることもなく、かえって思いを寄せてくる女の子がいた。その子がまた人気の子たちのうちの一人だったので、どうやって彼女の気持ちに応えたらいいかすごく悩んだが、結局、会話もできないまま卒業を迎えた。当時僕の身長は178cmくらいあったが、クラスでは3番目だった。やはり小学校までの圧倒的な体格差はこの頃にはなくなっていた。なくなっていたどころか、中学校の厳しい部活で鍛えられている連中には体力負けした。「大人しいキャラクター」に落ち着くのが自然なようでもあった。

 勉強も、悪くなかった。最初の中間試験では5教科合計で393点(500点満点)をとり、調子もよかった。しかし高校受験には、自分が授業を受けていない「歴史」や、理科であれば「物理」などの単元も入っているため、「帰国子女」として入れる高校を探した。
 中学校では、特に男子は気だるそうにするのが流行ったが、自分はどうもそうする気になれなかった。第一、なぜそうするのかも、僕はよくわからなかった。ただの力の出し惜しみ根性だ、下らないじゃないか、と思った。それで、たとえば掃除などはついつい一生懸命やってしまうのだった。見せ掛けだけでもモップをバケツにつっこんで、掃除をいかにしてさぼるかを考えるのは、基本的に理解できなかった。そんなことしているより思い切って体を使って、しっかり掃除した方が自分にもいいだろう、と思ってやまなかった。後になってから、なぜ日本の子供達がだるそうにするのか、訳がわかったが…。


倍率2/10 帰国子女枠で近くの平凡な高校へ
 「わたくし立にやる金はない」と言われた僕は、併願校はなく帰国子女枠がある公立高校一本だった。でも、事前の新聞に掲載された倍率は10人枠で8人、そして実際に受験したのはたったの2人だった。おそらく親は僕が合格する自信はあったのだろうが、僕は最後の最後まで安心できなかった。
 中学校3年生の冬には父の次の仕事というのもわかるようになった。それはなんと、自分の家を宿舎にして引きこもりや不登校の自立支援をする「寄宿生活塾」というものだった。父と母が、日本で、学校に行けない子・心の病んだ子などを受け入れて共同生活をし、僕らもそこに一緒に生活をする…。親の決めた仕事であるから、自分がどうこう言う資格はなかったが、「すごいことだな」とは思った。
 年の明けた頃には実家を増築した。自然素材だけを使った木の家で、塾のモデルとなった小田原の寄宿生活塾の手配で、木を切り出すところから手伝ったりした。神奈川県足柄の山だった。 

『こども時代』 14

兄と一緒にドイツに残りたい
 中学3年生の夏に兄をドイツに残して一家は帰国した。父は、次の仕事を考えており十年間近く勤めた日本語教師をやめることになった。日本語教師の仕事は短い任期で移動するため、家族の生活が一箇所に落ちつかないことをさすがに心配したのかもしれない。家族を日本に残して単身赴任をする気はなかったと、いつだか父は言っていた。
 兄がドイツに残ったのは、ドイツの現地校資格である「アビトゥア」(高校卒業試験)を取ったらいいという親の考えだった。父と二人で早めにドイツに行っていた兄は勉強に熱心で日本人中学校では非常に成績がよかったが、家族と離れて独りになってからは学業の調子は崩してしまったようだった。
 僕はドイツにも馴染みきれていなかったが、小学校6年生の時の日本での苦労と比較すると「ドイツに残りたい」と思った。その意思表示には親も少し考えたのか、返事まで少し間があったが、どういう理由だったか忘れたが、僕は親や妹達と一緒に日本に帰ることになった。
 日本帰国が決まった頃に母が「泣いた」ことがあった。よほど、ドイツでの家族生活が気に入っていたのだろう。僕も、マレーシアの時ほどではないが、ドイツから日本に帰ることがさみしかった。
 
 日本に帰る途中で、懐かしのマレーシアに寄った。クアラルンプールや住んでいた近所の訪問、島のリゾートにも行ったが、「懐かしい」というよりは、マレーシアもドイツもさよならしてしまうことがさみしかった。それだけ来たる日本という世界に緊張があった。
 中学3年生の2学期から僕は地元の公立中学校に転入した。


中学校、日本にいたら「荒れて」いた?
 ドキドキした心で、少し恥じらいも感じながら、2年半ぶりに学校の仲間と対面した。成長期を経て、みんなもすごく変わっていた。僕はいとこのS君のおにいちゃんが使っていた制服を譲ってもらって、みんなと同じような袖や肩幅の小さい制服で通学した。
 小学校6年生の時に級友とケンカしたり、自分の奇抜な言動が嫌われるという経験をしていたので、この時は「次の失敗は人生を暗くする」と、肝に銘じて慎重に出た。
 中学校はお弁当で、玄米のご飯や野菜中心のうちのおかずを恥ずかしくは思ったが、マレーシアの時のようにおびえるほどではなかった。ただだまって顔はあまりあげないで弁当を平らげた。クラスには自分を出す子と、大人しい子とあったが、下手に自分を出すとクラスの権力関係に抵触することになるので、目立つキャラクターでありながらも、僕は恥かしがり屋になった。
 そうやってなんとか、一部の荒れている連中にも目をつけられずに卒業までやり過ごすことができたのは、ドイツの現地校で自分が達成したことや、海外生活の経験を自分の強みとして、またプライドとして堅持したからだと思う。本当は、日本は日本で、流行の最先端をゆく学校でも一番力のある連中と絡みたかったが、そんな自分は抑えて大人し目のキャラクターを被ったのだった。中学校、高校はマイペースなB型だとは思われず、よく「Aでしょ?」と言われる自分がいた。
 しかしもし、後から思ったことだが、ドイツには行かず日本で中学校に入学していたら自分はどうなっていただろうか。小学校6年生の時の、納得できないうっ憤が、抑えきれず「爆発」してしまったのではないか。そんなことを思う今日である。ドイツの学校で、言葉も分からないような状況から、2年そこそこの間に学校の勉強についていけるようになった、そんな自分の実績と自信をプライドにして、嫌なやつは軽くあしらうことができた。しかしそれがまた、のちに“日本的なもの”を軽んじる自分にもつながってしまうのだった。

『こども時代』 13

工作趣味
 お小遣いを一番つぎ込んだのは工作道具だった。のこぎり、万力、釘、ネジ、ベニヤ板…。 木を使っていろんなものを作った。兄が一度日本に帰国した時にTAMIYA製の電池ボックスやスイッチ、プロペラなど買ってきてもらってラジコンみたいなものをつくってみたり、ライト兄弟が乗った様な風に乗るプロペラ機(小型)をつくったこともあった。自分で遊びを考えたり、創作というものを親は僕らに奨励した。
 マレーシアでは欠かせなかったファミコンも、ドイツのテレビには接続ができなかったため、できなかったが、それは大して気にならなかった。ドイツの友達はファミコンはやっていなかったというのも大きな理由だろう。
 地下室で黙々と一人で工作しているのも好きだったが、兄妹、特に兄とは他にもいろんなことをやった。「モノポリーゲーム」を材料に、自分たちで創意工夫をして、より面白いオリジナル・モノポリーを作ってみたり、近くのうっそうと茂った空地へ行ってはモグラのようになって地中秘密基地を作った。それは完成しないまま終わってしまったが、地面を掘って出てくる土を、炭鉱のトロッコのような台車(自作)で運び、土まみれになりながら地中の道を作ったのだった。兄とはその他にも卓球や、湖公園でのアイスホッケーなど実に色々一緒にやった。海外を転々とする生活だけに兄弟の絆は強かったが、特にドイツでは兄と意気投合していた。
 中学生にもなって秘密基地とは、どこか子供っぽかったかもしれないが、僕らはそれを夢中になって楽しんでいた。親友であったC君を除いて学校以外で級友と遊ぶことはほとんどなかったので、友達が普段何して遊んでいたかはよく知らない。当時ドイツではファミコンに代わるようなものとしてパソコンのゲームがあったが、そうでもなければ友達は町に繰り出していたんだと思う。おおよそ自分とは違う遊びであったことはたしかだ。男女が絡み始める年頃で、僕はまったくそれがなく、男友達と仲良く明るくしているのを見ると、「お前はホモか?」と言ってくるやつもいた。
 それでも僕なりに好きな子がいた。ギムナジウムに転入して一目で好きになったが、彼女と自分のあまりの違いにアプローチすることはできなかった。彼女は他の男子にも、年上の男子にも人気があったし、なにより家庭の事情とかお互いのバックグラウンドを想像すると、近づくのは到底無理があると思えた。変に近づいて拒絶されたらもっとつらいと思った。結局ドイツの2年3ヶ月でつき合った女の子は一人もいなかった。


M教の道場は月1回、ブレーメンへ
 M教の信仰はドイツでももちろん続いた。ただ、道場が遠かったため、道場通いはなくなり、月に一度だけ最も重要な祭事に参加した。よって信仰生活は少し下火になった。家ではまだよくかの「お浄め」の交換をしたが、宗教の話もマレーシアほど盛んには挙がらなかった。信仰生活も落ち着いたという感じだった。食生活もそれに沿うように緩やかになった。週に一遍はラザニアとか、ラーメンとか、けっこう普通のものが食べられた。普段の食事もパンが多く、肉類はなくてもチーズやバター、ジャムがあって、ガッツリと食べることができた。
 外食はマレーシアのように安くはいかないのでほとんどなかった。「ドイツ料理」に対する羨望はあったが、うちの食事で昔よりは満足していたんだと思う。こうして思い出してみると、ドイツの2年間はあっという間だった。


休みはスイスへ スキーでもスノボでもなくそりに夢中な僕と兄
 休みには家族みんなでスイスに旅行した。スイスのおじいちゃんおばあちゃんや弟妹の多かった母方には日本よりもいとこがいた。しかし標準ドイツ語とスイス人のなまりにはかなりの違いがあって聞いている向こうはこっちの言っていることが分かっても向うが何を言っているかはほとんど分からなかった。ヨーロッパ2年間の旅を経てやっと少し耳が慣れたが、やはりドイツとスイスは「別世界」という感じだった。
 小学校5年生の夏に実は一度スイスに旅行したが、相変わらずスイスの自然の美しさには目を見張るものがあって、牧場や木の家はものすごい憧れを掻き立てた。母方の祖父母は日本に帰国する前後に亡くなってしまったが、おばあちゃんちで食べるスープや、ドイツとはまた違うパンなどに意識を集中した。スイス人の生活には深く落ち着きがあった。本当は、もっともっと、スイスに触れたかった。スイスに住みたいと、もちろん思っていた。ふつうの子と違って、自分の帰属意識、アイデンティティの模索がまだ続いていた。
 一度クリスマスパーティーかなにかに参加した時に雪が深々と降って、デュッセルドルフでは滅多にない40cm~50cmが積もった。ドイツに帰るまでの数時間くらいの間に僕と兄は夢中になってソリで遊んだ。もう体が大きくてギリギリだったが、ハンドルがついていて「操縦」が可能だった。おばあちゃんの家のすぐ前の、斜面の牧場だった。
 僕は、兄妹の中でも僕だけだが、大学生になってから何度かスイスを訪ねた。母の妹にあたるおばさんが部屋を貸してくれ、もてなしてくれ、「ヨーロッパの歩き旅」までには3回僕はスイスを訪れた。スイスに住もうとしたこともあった。でも、大学時代には既に色々と内面的な問題に悩んでいて、すんなりスイスに行って落ち着くということはできなかった。心が既に複雑になっていた。

2010年4月3日土曜日

ブログ休止のお知らせ

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「社会生活」への復帰に際して、生活に集中するため、ブログを一時休止したいと思います。
申し訳ありません。
社会に対する発信よりもとりあえず生活の安定が優先のため、そうさせて頂きます。m(_ _)m

『こども時代』の連載は続けます。

よろしくお願いいたします。

とも

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2010年4月1日木曜日

■出会いの不思議…

~高橋さんという人~

 3月30日午前10時ごろ、僕は耐えかねて仕事を投げ出して家に帰った。

 高橋さん(仮名)との向き合いが限界になった。


 高橋さんとは、すごい人だ。
 プライバシーに触れるため、ここでは存分に語ることができないが、僕は14日間B(運送会社)で働いて、リーダーよりもマネジャーよりも、実質大切な人だった。僕が今向き合うべき、出会いというようなものだった。この間他にも何人かのドライバーさんとトラックに乗った僕だが、もっとも印象的で興味深いのは高橋さんだった。


 高橋さんは拘束時間の長いBに、往復3時間の通勤時間をかけて相模原にやってくる。朝8時前に出勤すると、夜11時までの仕事は普通で、それから1時間半かけてほとんど山梨県まで帰宅する。朝も1時間半かかるから、それでは寝ている時間などほとんどない…。

 事実、高橋さんは2時間半か3時間くらいしか寝ないのだと言った。一日15件前後の家電配送をこなしながら、体は疲れているのに、それしか眠らない。食事をしながら時に箸を握ったまま眠っている、とか、風呂に入ったまま寝て、家族に風呂で寝るのは「危険」だと、言われているのだと言っていた。


 そこまでして「働く」理由は何かと、僕はある時訊いた。自分の子供たちを養う必要があるのだと高橋さんは言った。「経済力」というものが、大して重要とは思えない僕に比して、高橋さんは経済力は重要なのだと言う。今の嫁さんには月10万円の生活費を入れているのだとか…。前の結婚で生まれた子供たちの養育費にもいくらか回しているらしい。
 子供を持っていない僕には経済力の重要さは分かりにくかった。なるほど「現実問題」としての経済力の重要さは理解できないわけじゃないが、僕には、高橋さんの精神力がどれほど強靭であるとはいっても今の生活の様子を伺って、心配をしてしまった。

 高橋さんは僕より10歳年上で、もうそんなに肉体的に無理ができる年齢ではない。それだのに睡眠時間まで削って、体を酷使して働いている。Bは、そうでなくても皆長い労働時間で眠そうな顔をしているが、高橋さんの表情からも疲労の蓄積は一目瞭然だった。

 『(この会社では)みんなそうなのだから…』
 としてしまえばそれまでだろう。でも僕にはそれが「しょうがないことだ」とは思えなかった。20代の若者ならまだしも、高橋さんに限っては切に無理を感じた。腹を割って話しをすれば、するほど…。

 「なんでそこまでして働くのか
 僕は14日間働いて一向にぬぐえなかった疑問がそれだ。
 お金が稼げることはありがたい。それは確かだ。毎日少なくとも「1万円」は金が溜まるという充足感。しかし、早くも一週間くらいでその価値は疑わしくなった。

 「そんなに金は必要なのか??
 Bの一ヶ月の休日は平均5~6日だという。ドライバーが一日14,000円稼ぐと仮定すれば、一ヶ月で35万円になる。しかし、一家4人としてその収入が、どれほどの意味を持つのだろう?

 日本はその高度経済成長期から豊かであればあるほど良いという人生観を、多くの人は何の疑いもなく信奉してきた。日本経済が低迷して20年が経つ今でも経済的富裕さにたいする反省はあまりなされていない気がする…。


 高橋さんを過労が蝕んでいるのが見えた。高橋さんの持ち前の精神力、意志力ではそれはやむをえないようだったが、僕の個人的な望みとしては高橋さんにうんと楽をして欲しかった。自己に課すハードルを下げて、自分(からだ)を大切にして欲しいと、切に思った。神経痛や皮膚に関して悩むのだとも言っていた。

 高橋さんの人生経験はすさまじいものがあった。3年近く旅をして出会った人の中でも最も強烈な人物だと言えるのかもしれない。もう旅ではないのだが… それを書きたくてもちょっとプライバシーの関係でここに書くことはできない。いずれにしても運送会社で働くような、人間の器ではないのである。そして密かながらも、計り知れない可能性を持っている人だった。その能力の高さと、置かれている現状の過酷さという、激しい対照性。。。 それが“強烈な人物”として僕の意識をつかんで、離さなかった。
 その対照性そっくりに、僕はあるところで高橋さんと非常に心が通い、また非常に対立的でもあった。ユーモアとか、人生観・興味関心は似通うものがありながら、仕事に関してはあまり噛み合わない。相性がよいようで悪い。「仕事」であるから、仕事力としては僕は高橋さんとあまり合わない感じであった。だが、仕事以外の面ではとても意気投合したのだ。でもそれが却って仕事を邪魔したし、仕事がはかどらないと僕も疲弊した。
 一緒に仕事をした3日目から、僕は高橋さんがわざと時間を喰っているように思えた。他のドライバーだったら15分くらいで家電機器の説明を終えて帰ってくるところ、高橋さんは、やけに時間がかかった。それが配送の時間を遅らせ、時間が遅れると僕は焦り、焦ると無駄な動きやミスをするようになった。そんな仕事の仕方がどこかであほらしかった。高橋さんと乗ると、疲れが人一倍強かった。13日目の仕事あがりが日付をまたいだのも、それだ。

 なんで高橋さんは説明にそんなに時間がかかるのか、僕は分からなかった。
 「やる気がないのか」、と思った。「僕以外の助手の時もこうなのだろうか」、と思った。
 さらには「僕のフォローが足りないのか??」と思った。

 でも、13日目などは丸一日仕事をして、1分たりとも僕は自分の時間を持たなかった。仕事から意識を外さなかった。昼の休憩時間はなく、トラックの移動中でも僕は地図や伝票のチェックをしていた。それでも仕事は日付をまたぐまで、終わらなかった。

 「なんだこの仕事は」
 そう思わざるをえなかった。「こういう仕事なのか?  いや、そんなはずはない。」これは、高橋さんがのぞんだ仕事だ。早くあがろうと思えば、あがれたのだ。高橋さんがそれをのぞまなかっただけだ…。13日目が終わったとき、僕は疲れきっていた。疲れが無意識となって、かえって元気そうだったかもしれない…


 13日目、30日になっていたが、僕は家に帰ってもすぐ眠らなかった。むしろコンビニで食べ物を買い、家ではインスタントラーメンをつくり、インターネットもブログもやった。もう、やけくそだった。明日のために寝ることなどしたくなかった。31日には休みをとる予定でもあった。自分の生活を犠牲にする、限界だった。
 それだけ「疲れて」しまったのも、高橋さんという人が僕にとって強烈な人だったからだ。高橋さんが人生に対して持っている壮大なビジョンや、野心、可能性などに対して、僕は釘付けだった。その計画に、自分が関わりたいと思った。しかし、仕事とそれはまったく別問題だった。

 30日、午前10時半ころ、配送の一件目にして早々30分以上出てこない高橋さんに僕は「失望」した。
 なんでこんなに遅いんだよ!!またすべて悪循環に陥るのが見えた。その日もまた一日、高橋さんのペースで僕があたふたやらなければならなくなるのがわかった。
 ごめんだった。
 僕はおかしいとしか思えなかった。高橋さんは、わざと時間を使っているようにしか、わざと配送を遅らせるようにしか思えなかった。その理由はわからなかった。

 日付が変わるまで働いて、僕の給料は14,500円前後。はっきり言ってそんな価値はなかった。2万円もらえるならやってもいいかもしれない、というレベルだった。あまりに疲れすぎた。
 そしてやはり思った。ここまで長時間、自分を拘束して働く意味はないと。ここまでして1万数千円を稼ぐ意味はないと。

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 まだ今回のことは消化しきれていないのだが、大きな反省点が一つある。
 社会では「不食」をはじめとして、自分の非凡な精神活動について、話してはいけない。
 ということだ。昼間に作業着のまま家に帰ってきた僕に父が声を掛けて、事態を報告すると、そういう結論に至った。

 『どんなに正直で、かつ丁寧だとしても、「不食」は語るな。社会の人間は理解しない。』
 『人と違う世界を持つ者は、その扱いに間違いが許されない。』
 『人と違う世界を持っていても、「人」であることに変わりはない。社会で生きていくならば、一般人でなければならない。』
 『神はそこらじゅうにいる。奇跡はそこらじゅうに起こっている。でもそれを扱わないのが、変な話この社会であるのだから、そこではそこのルールに従って、扱うべきではない。』
 …。

 僕は昔から、子供のころから、自分の体験したことは正直に打ち明ける人間だった。喜びと、驚きと、感動を込めて…。それが兄妹や親をはじめとして多くの人間を喜ばせることを知っていたから、ずっと言葉を使って、自分の体験を表現してきた。しかし、その『非凡さ』・『奇異さ』が強くなってくると、あるところからは話してはならない領域に入る。話すことが決してプラスにならないケースがある。そこを僕はまだよく分かっていない。僕は自分が体験したことは他人も理解できると思い込んでいる、と、父はおととい言った。


 「脱走」を繰り返す自分。
 常識的立ち振る舞いができない自分。精神の分裂質や、長い一人旅、文化混在がその原因だが、社会で生きるならそれを元にもどさなければならない。世界を封印して、一般人に還らなければならない。
 …

2010年3月30日火曜日

限界か

 3月30日午前0時42分、13日目の仕事が終わった。これまでで一番遅い仕事あがりとなった。

 ただいまの時刻は午前3時34分。家に帰って来てから寝ずに食事やインターネットをやった。まだ寝ていないから感覚では今日だが、昨日の午後には危機が訪れた。
 「今日で仕事やめようかな…」
 ドライバーのSさんに言った。仕事の真っ最中だった。

 そのときは気を取り直して頑張った。Sさんとは最後まで仕事を続けたが、僕は限界に達していた。

 ブログには僕が働き始めた運送会社の内情はほとんど書いていない。だからまともな内容は今更書こうと思えば大変だ。
 
 社会生活のひずみ。簡単に言えば、(単純すぎるかもしれないが)僕は昨日の午後それに直面した。
 <人は縛られなければ生きられない運命なのか>
 <人は制限の中でしか生きられないのか>
 …
 そんな、『自称卒業論文』(2004)の中にも書いた内容が、ふたたび現れた。Sさんとの関わりの中でである。Sさんが僕に余裕を与えずに絶え間なく干渉する中で、僕は昨日の午後上記のようにこぼした。仕事を今日でやめようかな、と。

 理由は、Sさんの意地悪な干渉だった。Sさんは僕を自由にしてくれなかった。僕の仕事のテンポ、やり方を基本的に受け入れていなかった。僕は四六時中10歳年上のその人に「操作」されていた。

 操作に耐えがたくなったのは「お金をつくる」ことの意味が、早くも薄らいだからだ。薄らいだというか、努力に対する報いとしての1万数千円の価値は、日を経るごとに減っていった。
 だが採用されるために「週5日~6日は仕事します」と言ったのは自分だった。そしてこの不況の中、選ばれて採用された自分だった。
 でも約2週間働いて、どうもバランスが崩れた。毎日のように11時を回る帰宅。
 不食思想の紹介による会社の仲間の異常な興味関心やうわさ。僕が最初の二日間一緒に乗ったのもSさんで、風俗店の店長をやっていたこともあるその人は、強烈な人物だった。下手に関わることは危険だとすら思った。

(つづく)
⇒次の日記に譲ります
 
 

2010年3月27日土曜日

仕事十一日目

 午前6時半起床。昨晩の就寝は午前一時だった。
 家についたのが十二時でインターネットを開いてお風呂に入ったらあっというまにその時間になった。

 今朝は頭痛がすこし。
 昨晩家に帰ってきてから、食べるつもりはなかったが、時間がたって野菜が味を吸ったおいしい煮物があったので思わず食べた。食事と睡眠時間の少なさが「頭痛」を引き起こす。

 24日は一日休んだ。日記にはいろいろと書いたのだが結局タイプするまでの時間はとれなかった。
 25日、26日と働いて、今日がある。
 
 一日休んでからは、落ち着いて仕事ができるようになり、この二日間は気持ちよく仕事ができた気がする。大きなミスもなく、「助手」として十分機能していたんではないだろうか。

 24日に書きたいことは多かった。会社について。仕事について。仲間について。
 でも、思った。人間、たとえどんなに時間があったとしても、「書く」ということは追いつかない。言葉で人間の行動がすべて述べられるとしたら、逆に、人生とはどんなにつまらなくなってしまうだろう。僕らは今生きていることに意味がある。どう生きているかを記録することに意味があるのではない。
 そして、言葉の持っている限界…

 一日一日、一万円ずつお金が増える。


 ありがたいことだ。



 I wish you a good day.
Tomo

2010年3月23日火曜日

仕事八日目

 午前6時12分起床。昨日よりも、また少し早く目が覚めた。相変わらず目覚ましはない。欲しいと昨日寝る前に思ったけれど、ないものはない。遅い時間でもあったので、家族に聞くつもりもなかった。<明日は寝坊したりして…?>と思ったが、ちゃんと起きた。寝不足感覚は、いうまでもない。

 昨日はこの仕事を始めて一番遅くなった。午後11時30分の仕事あがりだった。
 でも疲労感は連日より少なかったかもしれない…。「慣れてきた、仕事にも仲間にも…」と言えるんじゃないだろうか。今日で連勤六日目となるので、週休1日で働くとすれば明日は休みになる。<忙しいので出てくれ。>と言われれば、出ると思うが、今は休みたい気持ちが強い。靴下や携帯電話などが買いたくてしょうがない。(笑)

 仕事では日々落ち着く傾向があるけれど、まだまだマイペースの僕がいる。
 集団に、チームに溶け込んでいない。日本語的な表現を使えば「ウいている」という感じか。笑
 まあ、この顔この目鼻立ちで日本で「ウ」かないことは無理だろう。もう、無理なんじゃないか??今考えていることは、「ウく」ならどう「ウく」かということだ。笑 難しい課題だと思っている。
 人にはよく話すが、東欧で僕が居心地がよかったのは、自分の外見が周囲の人間と比較的溶け込んでいるということだった。「目立たない」・「特別扱いされない」ということがこんなにも心地よいものなのかということを、僕は25になって初めて体験した。それまで生活したドイツ・マレーシア・日本ではいずれにおいても僕は目立つ人間であった。

 仕事をしながら、よく思うことがある。日本人は、雰囲気の中、場の空気の中に生きる民族だな、と。それを僕は日本を絶望で飛び出すまでかなり「完成」させたものがあったけれど、ヨーロッパに行ってから、それをするまで僕は「日本人」である必要はないなと思うようになった。言ってみれば、それは自然なことなのだ。日本で育っていないから非日本的であることは、自然の至りだ。
 ただこの日本という国において、特にこの東京圏においては異文化を「寄せ付けない」、洗練された高度文化が存在している。そこで異文化を抱えることは試練だと言える。特に一般人としては。世界に名を馳せる「日本の中心」でもあるだけに、その厳しさは尋常じゃないと思う。外人となるか、日本人となるか、それともパーソナリティとなるか。
 しかしパーソナリティとなったときにはなんでもない日本を感じることはできなくなるだろう。


 …なんか、惰筆になってしまっている気がする。苦
 もっといい内容がポジティブな内容が書けたんじゃないか?汗 今日も一日がんばろう。

2010年3月22日月曜日

仕事七日目

 運送の仕事は休日が特に忙しく、この3連休は本格的だ。朝目が覚めたのが6時23分。一瞬、7時23分(出発時刻)と間違えて、きもち焦った。
 目が覚めた時はまったく起きたくなかった。疲れが取りきれていない。今日は運送会社(Bとする)の7日目の出勤だが、きっと初日以外疲れを引きずらなかった日はないだろう。目覚まし時計によって「起きる」。緊張感によって「起きる」。あるいは、起こされて「起きる」。
 
 昨日は実に11時20分まで仕事した。茅ヶ崎市の15軒の家にテレビや冷蔵庫、洗濯機などを宅配する。一つひとつの作業はそれほどの重労働ではないが、相模原からの往復で一日15軒回ると、必然的に10時くらいになってしまう。おまけに昼の休憩という、契約には見込まれている時間は存在しない。僕が「不食」思想を、会社の人達に話しているせいもあるか、この6日間の勤務では昼ごはんさえ取らない感じだ。酷な仕事だ。一日約 12,000円(90ユーロ?) を稼ぐためにそれをするということ…。
 戦後本格的に「経済主義」になった日本の(国家)理念、日本人の見つめてきたものを、つい考えてしまう。

 昨日は『希望』について考えてみようと思ったが、実際はまだまだ仕事に負われて、余裕がなかった。「希望を語る」必要性を切実に感じたが、昨日はそれ以外のまだまだ向き合うべきことに追われた。まぁ、仕事6日目ではしょうがないかもしれない。

 希望とは何か。今朝は少し時間があるので、あと10分くらい話せる。
 僕が得た、絶望のふちから生まれた希望は、簡単には表現できないけれど、「不食」―人は食べなくても生きられる― という信念(確信)にあると言っていい気がする。これを、恐れながらも信じようとしてきたこの5年数ヶ月が僕に様々な素養、才能を恵んでくれた。不食を信じてこそ実現した10,000kmの旅が、様々な感覚を育ててくれた。それがなんなのかを今後の人生で、明らかにしていく。
 今言えることは、「信じること」の大切さだ。信じない人間は何もできない。信じる人間に未来がある。希望がある。信じることができなければ、信じられる範囲での生き方しか人はできない。「不食」で言えば、「人は食わずでは死ぬ」と信じれば、それは「それ相応の生き方しかできなくなる」ということだ。
 ところが、「人は[食わず]でも生きられる」と信じる気概は、また相応の生き方を実現する。!それがすごいことだ。「非常識」だと排除してしまう人間には、絶対に見えない真理が、そこに存在する。 
 それを僕は「見た」から、それを語ることが「希望を語る」ということになると思う。

 さて。あいにく時間で、行かなければなりません。
 今日もよい一日を。 ☆
 

2010年3月21日日曜日

仕事六日目

 6時45分起床。
 5時間半の睡眠。若干頭痛を感じる。
 やはり昨日は少し無理したか…。昨日は結局寝たのが1時過ぎだった。気分が良かったため、ネットをサーフしていたら、あっというまに1時をまわった。

 目覚まし時計がないのだが、体は6時半前後で自然に起きる。
 慣れた生活リズムではないはずなのに、ついこの前までは決まっていなかったのに、なんでだろう。やっぱり緊張感だろうか。

 朝ごはんは食べないで出るだろう。
 本当は社会生活に戻るために、しっかり朝食を摂りたいと思うのだが、頭痛がある以上おなかに負担はかけたくない…。

 「☆希望☆」とは何か。
 そのことを考えながら、今日も一日過ごしたいと思う。

 『一人でも多くの人が、今日も貴重な一日となりますように…。』

ーーーーー♯

仕事五日目夜

夜11時半。帰路についた。
警察に自転車の名義確認で捕まって、20分くらい遅れての帰宅。仕事が終わったのは今日は10時半だった。
仕事ははかどった。「見習い」としてではなく一人前の仕事を期待されてこそ、動ける。どうも僕は昔からそういう性分だ。「人に教わった通り」とか、「決まり」を押し付けられると、しんどい。僕はB型だが、人一倍マイペースだとも思う。

「働けること」、「稼げること」がうれしい。
5日間で6万円近く稼いでいる。おばあちゃんからの援助を含めれば持ち金は10万円以上だ。

お金の使い道を考える。
とりあえず必要なのは、靴下と服。次に携帯電話。次に「?」
ここまでしか決まっていない。
3月1日に相模原に帰ってきてからの実家での生活費を親に出そうとは思っている。4.5万~6万円の間で考えている。

明日も出勤だ。
家電配送は繁忙期を迎えている。会社の役に立ち始められるように、頑張りたいと思う。これまでは会社の役に立っている気があまりしない。

今日は、「希望」について考えた。
僕は、もっと自分の「希望」―HOPE―について語らなければいけない気がした。
真面目で硬く、きわどい極限を表現するばかりでなく、もっと僕のもつ夢について、語っていかなければいけない!!

さて。僕は寝る人だ。
まともに食べていると8時間は必ず睡眠が要る。
食べる生活と今の仕事では、家に帰ってすることは寝る以外にほとんどない。残念だがそれが現状だ。
でも、これからどんどん日記を書いて行きたいと思う。とどまらない。常に歩む。
明日は生まれ変わるのだ。明日が来たら、その僕は今日の僕ではないから。
人間には「今」しかない。過去や未来というのは人間の創造物であって実在ではないと、そんな気がしてならない…

おやすみなさい。★

2010年3月20日土曜日

仕事が始まって五日目

3月15日に運送会社の配送助手の仕事が始まってから、六日がたちました。

今回の「社会復帰」の背景を発表してから日記など書いていこう…と思っていましたが、意外と時間の余裕がなく、暇をみつけてどんどん書いていかないと内容が溜まりに溜まってしまいそうです。
 それで、『こども時代』の連載中ではありますが、日記を挟んでいくこととしました。

今日は仕事に入って五日目です。
今日から一人前の仕事を要求されます。ドライバーと2人で、繁忙期の家電配送を丸一日やってきます。

お金が稼げることは、本当に有り難いことです。
どれだけありがたいことか、自分の基準を見失ってしまうと、傲慢に陥ります。
きっと、たとえ日給が3000円でも、僕は働くと思います。
それが一日1万円以上(残業数時間含む)もらっているのだから、その「有り難味」はよくかみ締めなければいけません。

さて。短いですが、もう出勤なのでここまでにします。
みなさんも、よい一日を。☆

2010年3月19日金曜日

『こども時代』 12

2010.1.4
流行りのものは高すぎ!
 自分は5人兄妹であったせいもあるだろうが、ファッションに周りが目覚め始める中、僕らは服にしても靴にしても必要最低限のものしか買ってもらえなかった。体は成長期に入って急速に成長し、カッコイイ服を着たかったが、級友と比べると地味な服しかもっていなかった。親はファッションにお金をかけることはとても勿体ないことだと、人は見てくれより中身だと、僕らには説諭した。
 日本の学校で「自分はどう見られているのか」ということをすごく気にしたせいもあるのか、僕はでもけっこうスタイルのことが気になった。たとえばドイツ人に比べて短い自分の足が、気になった。スイス人はドイツ人と比べて若干小柄で、足も短いかもしれない。クラスではイスに座ると余裕のある座高だが、ひざの高さを見ると、自分より背の低いのが高かったりした。クラスでは大きく、力も負けていなかったが、どういうわけか身長と足の長さは気になりっぱなしだった。
 背が高いことを誇りにした小学校時代があったからかもしれない。一学年上、本来自分が入るであろう学年を見ると自分より背が高いのがゴロゴロいた。背だけでなく力や運動能力も僕は引け目を感じていた。それで、「大きくなれ、大きくなれ」と、自分に念じていた気がする。かのピーパー先生はもちろん大の憧れだった。大きいからと言ってひょろっとはしていなくて、ピーンと張った背筋と大きなブーツでどしっどしっと歩くのである。それでいて心はすごく優しいのだった。


◆「孤独」との出会い。『あしたのジョー』
 ドイツの冬は生き物の気配が途絶えて、さびしかった。町に住んでいたのでさほど自然を見ていたわけではないがそれでもドイツの冬には独特の憂うつな雰囲気があった。北緯で言うと「稚内(わっかない)」よりもはるかに北にあるデュッセルドルフは、日照時間の変化が大きく、夏は夜10時まで明るいのに、冬は4時には暗くなった。冬は長く、日光浴をしてもほとんど温かくならなかった。
 毎日片道一時間かかる通学の時間や、馴染みの薄いドイツという世界では自分の「孤独さ」を感じた。友達はそれなりにいたが、1年や2年くらいで居心地がよくなるはずもなかった。「居心地」という点ならかのマレーシアがドイツや日本よりもよかったかもしれない。そしてドイツで自分を見失いそうになった時はアルバムを見てマレーシアの思い出に浸ったり、日本の思い出に浸ったりした。
 日本語の補習校にはちばてつやの「あしたのジョー」があって毎週借りてきては夢中になった。東京下町のあてなきさみしい青年が、酒飲みの元ボクサーに才能を買われて、ボクシングを始める。そしてボクシングの頂点まで登りつめて燃え尽きる。男子にとっては不朽の名作だと思う。なによりも僕は、主人公の孤独なジョー(矢吹丈)に自分を重ね合わせていた。「もう、誰にも頼りにならずに生きてやる」そんな情感が切実だった。
 ラテン語で「能力」を意味する「ファクルタス」を題名に、天涯孤独の宇宙飛行士のマンガを描いたのもドイツだった。宇宙船の謎の事故により一人の少年(主人公)と乗組員だけが生き残り、旅を続けるが、しまいには頼りにした乗組員も自分を裏切って自殺してしまう。たった一人になっても生命を命一杯燃やそうとする少年の物語だった。絵はさほどうまくなかったが、ストーリー設定にはだいぶ熱が入っていた。
 ブランコに揺られながら、ただぼんやりと夕日を眺めるために、家の近くの湖公園に足を運んだ。兄とは相変わらず仲はよかったし、親や妹達ともなんら変わりなく接していたが、僕は孤独を感じ、また孤独が好きにもなった。静かに物思いにふける、そんなひとときが好きだった。

 だが、ドイツの自然にも「里」を探した。自分は日本人であるという自覚はあいまいだった。そう胸を張って言えるほど日本を知らなかったし、日本に関することには距離感を感じていたのも確かだ。そして少しばかりドイツにも心を預けて、日本に帰国した。

2010年3月17日水曜日

『こども時代』 11

馴染みは意外と早かった
 母親の心を受け継いでいたためだろう、僕は授業にはまだついていけなくても早くからクラスに居心地のよさを感じた。それは「私はこうだから。」とか、「あの人はそうだから。」といった個人的な事情や、個性の違いはあって当たり前とするドイツ人の気質があったためだ。それが、自分のたしかな違いからは目を逸らせ、「自分を出す」ことにつながり、それが気持ちよかった。
 1年目だったと思うが、ミニサッカーをしていた時に納得のできない何かがあってみんなを前に不満を表明したことがあった。だいぶ怒っていたと思う。しかし、それが友人関係の決定的な傷や汚点にはならず、1日たてばヤンかグリシャが「トモ、今日の放課後はサッカーやる?」と普通に聞いてくるのだった。
 ドイツ人からすれば、人が時に感情的になって不満や怒りを表すのは普通であり、それは受けて流せばよいという考えがある。一時集団を乱したからといってそれがすぐ変なうわさとか、当人のマイナス評価にはつながらないのが西洋かもしれない。僕はそんな、みんなの不思議な寛容さに癒され、みんなを前に怒鳴るようなことは、したくなくなった。


なわとびやゲーム、数学では自己アピールも
 日本の学校で身につけたちょっとした芸やあそびが、僕の自己アピールに役立った。なわとびなどはドイツ人は下手くそで、僕が「二重跳び」なんかをして見せるとみんな感心した。その他には紙一枚あればできる色々なゲームも、暇つぶしには役立った。「棒消しゲーム」、「ブロックゲーム」、「○×」、エトセトラ。向こうの生徒はあまりそういう遊びを知らなかった。でもやってみると、面白がって、それがうちらの間で習慣にもなったりした。
 数学は日本の教育の方が進度が早く、一学年下に入っていたせいもあるかもしれないが、それにしても易しかった。日本に帰った時に勉強が遅れないように、日本水準の問題集を買って勉強したりした。
 英語のレベルには当惑した。マレーシアで少し英語ができたとはいえ、5年生から始まるドイツの英語教育ではもう、けっこうな長文を読まされた。更には、7年生となった最初の9月からは第二外国語がスタートした。フランス語かラテン語を選択するのだが、生物に興味があった僕はラテン語を採った。ドイツ語、英語に加えてラテン語と、「強行カリキュラム」になった。ドイツの成績評価は6段階で、1が一番良く、6が一番悪い。一般の生徒は「5」が2つか「6」が1つあると「落第」で、同学年をもう一度やらされることになる。僕は体験入学生であったため、7年生、8年生にあがる際、基準が除外された。
 ラテン語の初めての試験では僕は「5」を取った。生徒が座りきれないほどいる授業で、授業がいまいち分からなかった僕は単語の意味を2つ3つ書いたくらいでテストが終わってしまった。先生が、年配の、教頭先生でもあったから、「こりゃなんとかしないとまずい」と思って、自分で本屋にラテン語の文法書を買いに行き、独学した。説明がすべてドイツ語なのでわかり易さは低かったが、それでも何か得るものがあって、次のクリスマス前の試験では「3」をマークした。ドイツ語もろくにできない僕が結果を出すと、そのフォンローバート先生は感心して、みんなの前で僕の大変さをアピールしてくれた。それからはラテン語が好きになり、だいたいいつも「2」をとるようになった。

2010年3月13日土曜日

『こども時代』 10

 三編 『思春期』 (中学1年~3年生)

またまた新しい、斬新な世界
 それはあくまで母さんの古郷の「近く」であるだけで、「古郷」ではなかったが、同じゲルマン民族の世界として僕は小さな子供のように目を開いて人々を、町を、建物を、自然を、眺めた。日本とも、マレーシアともまた違う世界がそこにはあった。マレーシアや日本を引きずってきたところでどうしようもない。僕ら兄妹はまた、成されるがままに、ただ純粋な心でドイツを迎えた。
 耳にする言葉は自分にとって3つ目となる、ドイツ語。初めはもちろん、何も分からない。日本でもっと一生懸命勉強しておけばよかったが、それもちょっと無理があった。ドイツに着いてから現地校(ギムナジウム)に行くまでは少し時間があった。2週間か3週間くらいあったと思う。その間に、久しぶりの兄といろんなみやげ話を交換したりして一家団らんを楽しんでいた気がする。兄や父を通じて、さっそく、ドイツについていろいろなことを吸収した。
 僕の通うことになった学校は家からは十数キロ、兄の通うデュッセルドルフ日本人学校の近くにあり、日本人学校とも交流の深い学校だった。僕は日常会話もできないほどだったので、「体験入学生」とでもいうのだろうか(独:Gastschueler)、一般の生徒とは違う扱いだった。学校には他にも日本人や日本人とドイツ人のハーフの子がいたが、別のクラスでほとんど交流はなかった。ただドイツの1年目と3年目は日本語の補習校に通ったので、そこでは毎週土曜日だけ、自分と同じような境遇の仲間がいた。 
 初登校の日は、今でもよく覚えている。たしか父につれられて学校の職員室へ行くと、1m90いくつあるんだという巨大だが優しそうなピーパー先生に会った。父は「じゃあこれで」という感じですみやかにいなくなってしまった。1限目は「美術」。美術クラスにつれていかれ、それから2年半一緒になるクラスに対面したが、僕は、それが何の授業なのかすら初め分からなかった。5、6人でまとまったテーブルに僕も座り、2、3人の大人し目の男子生徒達と会話を試みた。それから休み時間に仲良くテニスボールサッカーをすることになる仲間だ。
 学校は日本の学校のように掃除とか、朝の会とか、クラブ活動はなく、午後1時には下校だった。昼ごはんはいつも家に帰ってから食べた。授業は1日6限、日本の学校と同じようなものだが、20分程度の中休みを除いては10分から5分の休み時間しかなく学校自体はとてもシンプルだった。ただし、昼過ぎに家に帰っても、おちおち遊んでいる気分じゃなかった。早く授業が分かるようになんないとやばいぞ、と思った。
 休日には1時間で4000円とかするレベルの高い先生からドイツ語を習った。しかし、もちろん、「言葉」の問題であるから数ヶ月でどうにかなるものじゃなかった。1年たってようやくいくつか、頑張ればついていける授業が、できた。


クラス旅行 男の子と女の子がキスしちゃう?
 ドイツの2年数ヶ月で一度だったが、そのピーパー先生の時に5泊くらいのクラス旅行があった。僕はまだドイツ語がほとんどできなかったが、この旅行の思い出は今でもとても心を和ます。
 「友達」と呼べるほど親しい子はまだいなかったが、基本的に社交的である自分は、誰とも分け隔てなく交流した。下手な子よりも僕の方がみんなに対してオープンだっただろう。朝食に毎回出されるヨーグルトで、僕はふざけて、みんなが食べないものを少し太ったC君の前に並べた。初め反発したC君だったが、後には彼が僕にとってドイツ時代一番の親友になる。みんなで行ったスイミングプールでは、1メートル90越の先生と取っ組み合って遊んだが、当時160cmを越え、クラスでも一番大きかった僕も、ピーパー先生には投げられてしまった。
 僕の入ったクラスは厳密には一学年下だったため、僕は大きい方だった。ドイツの3年目(15歳)になると、次から次へと級友には背を越された。
 印象的だったのは、夜のディスコだった。ちょっとキラキラした照明をつけて薄暗くし、音楽をかけたくらいの空間だが、そんなものにそれまで触れたこともなかった僕はびっくりした。クラスで人気の男の子と女の子が、抱き合うようにしてキスしているのを見た時もびっくりし、それ以上その地下の部屋にはいかなかった。音楽に合わせて体を踊らせるということも決して不得手ではなかったが、それまでしたことがなかった。カルチャーショックみたいなものだった。
 クラスの女の子の何人かが持っていた色気にも内心びっくりした。発育の早い子は胸も大きくて、その強い刺激には打ちのめされていた。そんな、大胆な西洋人女性に魅了されるのは、母親が西洋人だからというのはあっただろう。日本では本来、女性は貞淑で口数も少ないのが望ましい。母をはじめとして西洋の女性は堂々と「自分を出す」。それが色気の方面で自分を出されると、僕は参ってしまった。
 このクラス旅行の頃はまだ成長期に入っていなかったので、自分の子供っぽさを出すことができて、それがまた楽しい思い出へとつながった。

2010年3月12日金曜日

『こども時代』 9

小6 日本帰国 「給食」が許される
 父の当初の予定任期「3年」が1年延びて4年間マレーシアに住んだ後、僕らは日本に帰国した。父の次なる任地は「ドイツ」であることも間もなくわかり、暫定的な日本での生活が始まった。
 地元の小学校には小学1年生の時に同じクラスだった友達も残っていて、みんな大きくなっていた。それでもやはり日本のことはよく分からないので、友達以上に周りのことに目がいって落ち着きもなかったと思う。転入当初はみんなに好かれ、学級長にもなったが、5、6月の修学旅行では早くもケンカがあった。それはまた、例によって「自分を出す」生意気さに、クラスのやんちゃな男子が反応した。
 日光の観光中に、バスの中で、「外人」というようなことを言われ、僕は日本人だと主張すると「どう見たって日本人じゃない」と言われ、手がとんだ。狭いバスの中なのでとっくみ合いになる前に周りが介入したが、それはまた「納得できない」くやしい出来事だった。
 日本に来るや、いとこのS君が主将をつとめる少年野球部にも入ったが、そこでもちょっとした不和が生じたことがあった。祭りか何かに友達と出掛けた際、花火合戦をしている時にどういうわけか僕は敵の方についていた。野球部のコーチである人が一人やってきて、「いけないよ」といわれてそれでそれは済んだ。
 小学校6年生は、そんななぜか分からない周囲と自分の不調和に一番苦しんだ時かもしれない。本来明るく遊びっぽくて元気な僕の性格も、発揮できなくなっていった。僕は少しずつ内向的になった。

 反面、学校ではみんなと一緒に給食を食べることが許され、父が早くもドイツに飛んでいなくなると、家の食生活も少し緩くなった。そして日本で手に入る食材もまだマレーシアよりマシで、「食事」に関して世間との「違い」に悩むことは、減った。それよりもやはり、この頃は自分の威勢のよさばかりではどうにもならない学校や世間との関係に悩んでいた。
 身体能力にもかげりが感じられた。依然として体も力も強い方だったが、気力は落ちていたし、成長期の友達にはやっぱりかなわなかった。

 小6の夏には3人目の妹も生まれた。12歳の年齢差があったので、母と一緒になって赤ちゃんの成長を見守った。妹が3人いたので3回子守を経験してそれが知らずと「兄妹愛」とか「家族愛」を深めていた。
 次に向かうドイツでは、現地校に入るということになった。それが純粋に自分の意思だったか、せかされての決断だったか微妙なところだが、母の母国語に近いドイツ語を学ぶことには大いに関心があっただろう。でも日本にいる内から通った渋谷の語学学校ではうまくいかなかった。
 ドイツで僕は「孤独」を愛するようになるが、このときも、渋谷への行き帰りの電車や、父のいない生活、友達の少なさなどは、どうしても意識を自己の内面へと向けるようになった。
 小学校の卒業式も日本で終えると、僕ら家族5人は父と兄に合流した。久しぶりの再会がうれしかったし、なにより僕は、「次なる新しい世界」に多大に期待した。

『こども時代』 8

小4 「ガキ大将」、生徒会「書記」当選
 K.L.日本人学校にも馴染み、体も成長すると僕は調子に乗り始め、小学校4年生の時には「ガキ大将」となった。いつも5人~8人くらいの、同じクラスの男子を引きつれて、メンコ、コマ回し、ドロケイや、ドッヂボールなど、ありとあらゆる遊びをした。自分がそれだけの仲間を惹きつけたのも、身長150cmの大きな体と、抜群の運動能力、そしてもともと備わっていた遊び好きの性というか、エンターテイナー性が説得したんだろう。この時の担任の先生は女性で、大人しい子供が好きそうだったが、僕のような活発さにはうまく対処できなかったような気がする。それで本来「たたいておくべきところ」をたたけなかったから、先生を圧倒するようなこともし、僕はますます調子に乗って、本領を発揮するようになった。そんな風に思う。
 一度仲間をひきつれて普段は中学生が遊ぶバスケットコートに行き、移動式ゴールにみんなでよじのぼった。リングは前に飛び出している分、後ろには重りがしてあって、バランスが保たれている。しかし3人も4人もリングボードまで登り詰めるとバランスが、崩れる。幸い、それは学級か何かの時間で、リングの下には誰もいなかったため惨事には至らなかった。バスケットリングは僕らの重みで揺れたかと思ったら一気に前倒しになった。ガーンッという音とともにリングはぐにゃりと曲がってしまい、上に乗っていた僕らも転落した。下に生徒がいたら、これは取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
 その調子で僕は、小学6年生と5年生がになう、生徒会の「書記」に立候補した。日本人学校は色んな面で特殊だったが、その選考にもまるで選挙のようなシステムがあった。立候補した生徒は、お弁当の時間を使って各クラスに行き、体育館での演説を経た後に全校生徒によって投票が行われるのだ。立候補者には推薦人もつき、この時非常にまっとうな山口君という級友がついてくれたため、僕は見事「書記」に当選することができた。
 しかし結局僕は幅を利かせすぎていたため、小学5年生のクラス編成では見事に仲間達から切り離された。僕のガキ大将時代に終止符が打たれた。きっと担任の先生の策略だった。


小5 マレーシア最後の一年
 信仰生活やクラス替えの影響で5年生からはけっこう「大人しく」なった。学校も生徒数の増加による新校舎への移転があったため、いろんな意味で新しい生活になったのだ。新しい転入生もどっと入ってきていた。
 小学5年生にもなると、成長期に入る子もいるからだろうか、僕の強かった体や力も、周りに対してそれほど大きな違いは感じられなくなっていた。それは肉を食べない食生活の影響もあったかもしれない。進級して間もなくの運動会では相変わらずリレーの選手に選ばれていたが、サッカーのうまい子や、腕力のある子も出てきていて、自分も自然と大人しくなっていった。
 でもまだ友達に対して腰が高かったのか、小学3年生の時には仲がよかったアソウ君の仲間からからかわれることがあった。自分ばかり出して「生意気」だと思われていたのかもしれない。「ガイジ~ン♪」とか、何かバカにすることを言って素早く逃げてゆくのだが、一度、度が過ぎるので、足の速いそいつを、くたばるまで追いかけて、おなかの上にのっかって何発か殴ってやったことがあった。
 直後、それを知ったクラスの仲間が 「お前サイテーだな!!」 と言ってきたのだが、そこで僕はむしろ抗弁するように、「お前に差別される苦しみが分かんのかよ!!!」 と、感情的に、くやしさをあらわして言い返した。すると繊細だったそいつは 「そうか。」と後ずさりした。感情表現が苦手な僕だったが、その時は自分をしっかりと打ち出していた。
 その頃にはだいぶはっきりと、自分の物事の感じ方や、人間関係の持ち方が、友達とはチガウことを意識するようになっていた。何で「ちがうのか」、どこが「ちがうのか」は分からないまま…。

『こども時代』 7

小4 おじいちゃんのお葬儀で一時帰国
 4年生のとき、日本のおじいちゃんの容態が末期になって、僕らは日本に呼ばれた。祖父は僕がまだ幼少の頃に脳いっ血で倒れ、半身不随になって車いす生活を送っていた。「ぼけ」も出ていたのでおばあちゃんは一人での看病に参ってしまい、一度マレーシアにも呼んだことがあったが、いよいよ時が近いとされ、家族全員で帰った。
 おじいちゃんとの思い出は、残念ながら、ほとんどない。物心がついた時は既に心身衰弱した車いす生活だったからだ。自分で立っている、元気なおじいちゃんの姿はアルバムの写真でしかしらない。
 祖父は、戦時中は兵隊としてグアムなどに出兵し銃弾を足に受けたりしながらも生還した、数少ない兵士の一人で、小川家では唯一の男でもあった。結婚が遅れたため、父とはだいぶ年齢差があった。
 
 恥ずかしいことに、僕は当時、おじいちゃんのことを心から思う気持ちはほとんどなかった。日本に帰ることをどこか「建前」的に思った。きっと、「父」の心が分からなかったからだろう。僕は父は厳しくて怖いだけでもっと人間的な部分、弱い部分を見ることがなかった。それは実に、大人になるまでそうだった。そんな自分は飛行機にのって日本に帰れることをただ喜び、祖父に関することは適当につきあう感じだった。お葬式では皆と一緒に泣いたが、祖父との関係によって涙したのではなくて親類が一人いなくなったことが悲しい、そんな程度だった。
 
 2年ぶりの日本は楽しかった。いとこのS君にも会えたしおばあちゃんにもらったお小遣いなどではファミコンのソフトやマレーシアでは買えないプラモデルなどのおもちゃを買った。吐く息が白くなる日本の秋を体験することも新鮮だったし、昔の思い出を追いかけながら、2週間程度の日本を、楽しんだ。S君の母であるおばさんは、学校がない僕に、家に誰もいない時は玄関のカギの場所まで教えては、「ともちゃんいつでもファミコンやりに来ていいからね」と言ってくれるのだった。S君がどう思うかもあまり気にせずに僕は誰もいないおばさんのうちでファミコンをやったものだ。
 自分にとって「日本」とは何かということが、この頃まだよく分からなかった。父の祖国であり、自分の帰りつく国でもあるということがどういう意味なのか、まだよく分からなかった。父との関係的な距離は歴然としたものがあって、母親に気に入られるままの自分を生きていた僕はほとんど「日本」というものを考えてみなかった。「大きくなったらスイスに行くんだ」と、言葉も話せないくせに軽く思っていたかもしれない。とにかく「日本」とは、僕にとって、「なんだか知らないけどある」、そんなものだった。日本を「ふるさと」とする精神的なつながりは、「希薄」だった。


◆「道場」通い
 小学校と共に始まったM教の信仰は、マレーシアに行っても続いた。神道や仏教に性格の似ている日本発祥の宗教だが、マレーシアのK.L.(クアラルンプール、首都)にも、しっかりとした道場があった。道場長は中国人だったが、マレー系を除いて中国系とインド系の信者が大勢いた。だがインド系は少なかった。時には頭にターバンを巻いた、あれは何教なのだろう、明らかに別の信仰がありそうな人もいた。マレー系がゼロに等しかったのは、マレー人はムスリムだからである。(ムスリムは基本的に改宗を許されていない。)
 週に一回はこの道場に通い、「お浄め」と呼ばれる神様の光の受光・施光をしに3時間から4時間使った。主に体に御光を頂くのだが、それが一人40分~50分かかり、10歳以上で3日間の集中研修を経ると自分も手をかざすことができる様になり、受けて、手をかざせば簡単に2時間くらいになる。小学校4年生の終わりに、僕も兄に次いで手をかざすことができるようになり、信仰生活は盛んになった。
 月に一度は「月並祭」という祭りがあって、中国人の英語で賜るその教えや奇跡の体験談などをほとんど頭に入らないが、(苦笑)我慢して聞いているのだった。自由参加だが、水曜日か木曜日には午後7時の御神殿の閉場の後にトイレ掃除や、道場全体の掃除に通った時期もあった。平日の8時とか、ほとんど9時まで、そうして神様の役に立っていると思える活動をすると、自分が偉く、清らかになった気もし、なんともいえない幸福感に包まれたことがあった。
 マレーシアの頃は家でもよく「お浄め」の交換をした。お母さんとやったり、お父さんとやったり、妹にやってあげたり、その時々に必要だと思われる人が御光を受けた。本当は、毎日この御光を受けることが奨励されていたが、さすがに毎日はできなかった。一度受ければ40分とかじっとしていなければならないので、僕は好きじゃなかった。それでも、十分に遊んだ後など、落ち着いて、家族とおしゃべりをしながら受ける「お浄め」は、悪くもなかった。お浄めの時間は、私語は慎むべきだが、完全無言であることはむしろなくてそれは食卓と同じように家族的な交流の場にもなっていた。
 M教を通じて学んだことは計り知れない。精神的な鍛錬、集中力や信念の養成、道徳、愛、人間性の学び…。僕は明らかにこの宗教を通じて信仰的人間になった。19歳で、自分から辞退して世間一般の世界に飛び出したが、決して実利主義、実在主義にはなれなかった。
 M教は僕にとって、「日本」との接点でもあった。信仰的に非常に日本人の心に近いのである。創始者が日本人であるから当たり前かもしれないが、僕がどんなにマレーシアに浸って「外人」になっていても、この信仰があることで時にはキュッと自分を引き締め仏性の世界というか、内なる静寂の世界に目を向けることができた。
 「組手(くみて)」と呼ばれる、自分から手をかざすことができる状態になると、その頃から、僕の心も急に一成長した。幼稚園の頃からあった自分の「粗暴性」が、収まり始めた。

『こども時代』 6

アソウ君ちでファミコンとマクドナルド
 小学校3年生になったとき、アソウ君という仲のいい友達ができた。後であまり仲良くなくなってしまうが、当時は毎日一緒にお弁当を食べる仲だった。彼はどちらかというと大人しい子で、僕が「あれやろうぜ」「これやろうぜ」と振るタイプだった。
 この彼の元でたしか初めて「お泊り会」をした。クラスが一緒だった3年生の間に3回位お泊り会をしたかもしれないが、その度に僕はファミコンに没頭した。ある時は夜中の3時頃までファミコンをした。さすがにやばいと思って寝にいくのだが、ファミコンでなければそんな時間まで起きてはいられなかっただろう。アソウ君の親は広間で僕一人がファミコンをやっていることに気付いていたと思うが、優しいおばさんで、そっとしておいてくれた。
 ファミコンに対する執着は「飢え」という感じのレベルだった。アソウ君は優しかったから僕に思う存分やらせてくれるのだが、思うとその飢えは、「みんなと同じことができない」「みんなと自分は、どうやっても違う」という疎外感、孤独感の表れだったのではないだろうか。流行りのゲームの話ができなければ、付き合えない友達も多い。流行りのテレビ番組を見ていなければ友達の話題に入れない…。まだ小学生だったから、その傾向はまだ少ないが、それでも違いすぎる自分に苦労していた。
 大人になってから、僕は自分の中に十分な日本のルーツを見出せずにもがいたが、もし子供の時にもう少しファミコンの世界に浸り「追求」することが許されていたら、僕はその経験をベースに日本で落ちつくことができたかもしれない。ファミコン(ゲーム)が表現する世界は限りなく魅力的だった。
 アソウ君ちで食べたマクドナルドも、そのお泊り会を鮮明に思い出すことができるほど、印象的だった。僕の父はマクドナルドを嫌うべきNo.1の飲食業界といわん人で、マレーシアに飛ぶ前にマクドナルドを食べたことは一回あったか、ないか。もちろん父の承諾のもとではない。そんな僕にとってマクドナルドは却って「憧れ」だった。「ふーん、こんな味がするのか。」とかみしめながら食べていたにちがいない。そのメニューについてきたマクドナルドキャラクターのおもちゃを使って、その後も家でよく遊んだ。
 夜が明けると、「あ~あ。夜も明けちゃった。」と思った。「あとは朝ゴハンを食べてちょっと遊んだら、もうお別れだ…。」「帰りたくない。」「ずっとここにいたい…!」 
 家族が車で迎えに来て、M教のK.L.道場に向かうことになった時、家族といることがいやだとはっきり思ったことを覚えている。親、特に父に対する「反抗心」も芽生えていたような気がする。アソウ君ちで洗った、くつ下かなにかのうちにはないにおいが、愛しかった。

熱帯の生き物たちに釘付け
 生き物に対する興味関心は、幼稚園の頃からあった。庭で大きなカマキリとクモをつかまえてきて無理矢理争わせたり、いとこのS君がたんぼからアマガエルを捕まえてくると自分もカエルが飼いたくて仕方なかった。
 そんな僕が生き物の王国である熱帯に飛んで黙っているわけがない。カエル、トカゲ、イグアナ、ヘビ、アリ、カブトムシ、巨大バッタ、…どの生き物にも色々な思い出がある。ぺタリングジャヤでは道路の脇を流れる溝にもグッピーが生息していた。家には必ずヤモリがいて、明りに寄ってくる羽虫を狙って至るところで見られる。「ケッケッケッケ」と、まるで妖怪がいるみたいに鳴くのも、ヤモリだ。蟻の種類も豊富で、アゴにかまれるとかなり痛い赤い蟻や、ハチのように針を持った危険な蟻、四角い変な頭をしていてくさいにおいを出す蟻など、蟻だけでもほんとに見ていて面白かった。学校の草むらにはよく30cmくらいのトカゲがいて、首元を抑えて持ち、バッタなどを近づけるとしっかりと食べた。
 家ではミドリガメを飼った。初めて買った時はおたまじゃくしを用意して与えるのだが、食べるのを観察するのが楽しくてしかたなくて、その日のうちに食べるだけ(11匹)与えてしまったのを覚えている。3cmくらいの小さなカメで、「11匹も食べちゃって大丈夫かな?」と思ったが、大丈夫だった。リゾートの海では、何度かウミガメにもお目にかかった。こちらはシュノーケルで深くは潜れないけれど、足にはひれがついている。めいっぱい泳ぐとかなりスピードが出る。何度かそれでウミガメを追いかけたが、とても海の生活者にはかなわなかった。
 海では、よくサメもいた。サメといっても1mくらいの小さなものだが、初めて見た時は、あの刺すようなえげつない表情に、心臓が飛び出しそうだった。仮に襲いかかってきても、こちらはなにもできないのだ!でもどうやら、リゾート客が海水浴を楽しむ様な海域では、「ジョーンズ」のような人食いザメは出ないらしい。
 マレーシアも最後の年、小学5年生の時には、学校のゴミ置き場にいた1m近い、ウロコのザラザラした重たいイグアナにとびついて、捕まえた。その場にあった袋か何かに入れ、もって帰ろうとすると、先生だったか誰かが大きなプラスチックの水槽をくれて、それに入れて持ち帰った。帰りのスクールバスの止まるロータリーで、みんながびっくりした顔で見てくるのが、誇らしかった。
 は虫類、両生類を中心に強い興味があって、将来は「生物学者」になることを夢見た。
 暇な時は、は虫・両生類の図鑑を見ているだけでも、色々と夢が浮かんできてあっというまに時間が過ぎるのだった。

『こども時代』 5

休みはエメラルドグリーンのアイランドリゾートへ
 父は倹約家だった。現世的な豊かさを享受することにはあまり興味がなく、それよりも、「あるものでいかに最大限生み出すか」や精神的豊かさの方に関心があった。家は質素な食生活で食費はあまりかからないはずだし、お給料も良いに違いなかったが、子供にモノを与えるのはよくない教育だという考えもあった。
 だが、物価が安いマレーシアでは、休みにはよく「海のリゾート」へ、3泊4日とか4泊5日とかで赴いた。ポートディクソン、クアンタン、パンコール島、カパス島、プルハンティアン島、シブ島、ペナン島。他にもあったかもしれない。マレーシアの大自然に身をさらし、地球に自分が生きていることの不思議さや神秘に触れるような時間もあった。宇宙の「根源」というか、神様のようなものに触れる機会があったとすれば、僕にとってそれは「マレーシア」となるだろう。いいようのない安らぎや幸福感を、僕は浜から見た大きな青い空や眩しい太陽の光の中に感じていた。マレーシアの風のにおいや感触、雨のぬくもりや雷雲の黒さに、「心のふるさと」を思うことがある。
 リゾートにいる時は、さすがにリゾートの食事が一日三食、許された。欧米人向けになっているリゾートの食事は大概セルフサービスのバイキングで、朝食ならウインナーソーセージやたまごやき、コーンフレークの数々、ジュース、普段は食べられないクロワッサンにバターをたっぷり塗って腹にきっちり収めては、海へ一目散に飛び出していった。昼も、夜も、たっぷりと食べた。
 また思い出深いのは、リゾートへ向かう行きと帰りのワゴンだった。父は、休もうと思えばバスでも利用できたと思うのだが、だいたいいつも何十キロも何百キロもファミリーワゴンを走らせて、途中で出店のフルーツを買ったり、風景を楽しみながら、困った時にはにわか仕込みの父のマレー語で、警察官や現地の人と交流しながら旅行した。(余談だが)父は主にマレー人に日本語を教えるという仕事のため、マレー語にも人一倍関心があったと思う。車の中では外を見ているのに疲れたら父のかける70年代80年代のポップソング(日本)に耳を傾けたり、寝たり、兄とふざけ合ったりしていた。
 この頃には兄妹も4人になっていて、兄がイヤになったら(笑)妹をひざの上に座らせてお母さんの代わりに面倒を見たりした。
 高価な日本食は滅多に食べなかったが、家族での外食は、けっこうあった。M教の道場の帰りには中国系の、日本で言えば「つくね」とか「ちくわ」のような肉に野菜がはさまっているおでんのようなものを、6人分どっさり買って家で食べるのが習慣化したり、家の近くではよくインド料理を食べにいった。現地の食べものは肉も普通に使われていたが、マレーシアではそうやって外食することも週に一回くらいあった。ただし家では厳格に食事の難しさを説教する父がいた。だから僕らも外食しても純粋に食事を楽しめないことも多く、申し訳程度に食べることも多かった。小学校高学年になる頃には、マクロバイオティック法による食べものの健康不健康がだいたい検討がつくようにもなっていて、例えばソース焼きそばを食べてもこのソースには「食品添加物」がいっぱい入っていて、それは基本的には体に害があるんだという理解で、「食べない方がいい」と思うようになっていた。そしてだが内面では体の感じ方との違いに気を揉むのだった。


おやつは3枚の食パン
 午後三時か四時頃スクールバスで家に帰ると、よく食パンをそのままかじった。親はクッキーとか、ポテトチップスとか、チョコレートなどは用意しなかった。時々お母さんが作ったケーキなども黒砂糖の味付けであったりたまごをほとんど使わなかったりで味気なかった。それでも何か腹に収まればと、兄や僕は市販の食パンを3枚くらい台所からとってきて、「ドラゴンボール」でも読みながら食べるのだった。何もつけない食パンも、それはそれで、おいしかった。
 テレビやマンガに関しては、うちはやはり厳しかった。マンガ本はドラゴンボール以外にジブリが少しあったが、それ以外に何かあっただろうか。よく覚えていない。同じ部分を何度も何度も読み返して、セリフを覚えてしまうくらいになっていたのは覚えている。
 読書は、僕は嫌いで、読んでも「父に言われたから」とか、けっこう無理をしていた。本は読んでも頭に入ってこないので、友達など、なんであんなに黙々と読めるのか不思議で、また悔しくもあった。
 テレビは当時は衛星放送などもちろん無く、見てもビデオに撮ったジブリか、時にジャパンクラブという所で借りてくるビデオ、それくらいだった。小学3年か4年になって買ってもらえたファミコンも、週末に2時間しかできなかったので、僕らはだいぶ時間を持て余した。友達がやっていることの多くが自分らはできなかったため、僕らはだいぶ想像力を働かせて自分達で遊びを「つくった」。
 その一つは「マンガ描き」だ。自分で自由にストーリーを考えて、紙にマンガを描く。小学4年生の時に兄が始めた「スーパーメルちゃん」というマンガに刺激されて、自分もマンガを描いた。兄のように絵はうまくなく、短気でもあったのでなかなかまとまったものが出来なかったが、この「マンガ描き」は高校生になるまで兄貴と一緒に続けた。しかし、絵に関しては、僕はどうも上達しなかった。兄ほど関心がなかったのだとも思う。

 ファミコンが買ってもらえた時は、驚いた。ある日突然、家に帰ると、テレビの所で父が何かやっているので見に行けば、有り得るかな、見慣れない本体ではあったが確かにそれは「ファミリーコンピュータ」だった。「ファミコンで夢中になると、癲癇(てんかん)になるぞ。」とか「ファミコンをやっているとバカになる。」というようなことを言っていた父が、「ファミコンも、面白いもんな…」と言った。
 僕や兄は、一気に「ハイ」であった。マレーシアの華僑の技術者が、きっと違法的に様々なゲームを1カセットに収めた「22 in 1」というカセットが、僕らの初めてのゲームソフトだった。その日は思う存分やらせてもらえ、たしか次の日曜日まで毎日2時間くらいできたが、どんどん時間は減っていき数ヶ月後には「金土日で2時間」で安定した。
 学校の友達らはすでに性能が1ランク上のスーパーファミコンやゲームボーイに走っていたが、この出来事には大いに喜んだ。ちなみにご近所はというと、隣家のCは一人っ子だったが、ゲーム機(ファミコン)をもらったのは僕たちよりも遅かった。マレーシアを去る時にスーパーマリオブラザーズ3を、安く売ってあげたことを覚えている。
 それからというもの兄と僕は月30リンギット前後のお小遣いを溜めてゲームソフトに使うようになった。TAMIYAの「ミニ四駆」もファミコンと並んで近くのデパートに置いてあったが、どちらかといえばファミコンのためにお小遣いを使った気がする。ミニ四駆は一台30~40リンギット(1000~1300円)した。ファミコンソフトは100リンギット前後だった。
 ロールプレイングゲーム(RPG)では、どうしても時間がかかるため、一週間に2時間じゃあみじめだった。でも父にそれを相談する余地はなかったので、、ある時は真夜中に起きて、心臓をバクバクさせながら音量をゼロにして暗闇の中でファミコンをした。バスルームを挟んだ隣りの部屋から親が出てきたら、まず「アウト」だ。父に怒られることはなによりも怖かった。それでも、僕は危険を冒した。
 「真夜中にファミコンをしたい」ということは兄には話して、最初付き合ってくれたが、その後兄は来なくなった。

『こども時代』 4

弁当がほんとうにつらい
 K.L.日本人学校には給食はなかった。弁当屋さんは来ていたが、僕の親がそれを許すわけもなかった。したがって兄と僕と父は、マレーシアで得られる限られた食材からさらにマクロバイオティック法に適ったものだけ弁当に持っていくことができた。しかも作るのは「弁当」という文化をあまり持たないスイス人の母だ。
 1991年には2人目の妹が誕生し、お手伝いさんを雇った時期もあったが、母にはとうてい、美しい弁当を作るような余裕はなかった。だから時には中華鍋一杯につくった焼きうどんを、そのまま弁当に詰め込んで、昼にふたを開けると一面にうどんだけがはし入れの跡がくっきりつくほどぎゅうぎゅうにつまっていた。友達のコロッケやウインナー、おかかのふられた美しい弁当に比べて恥ずかしくて仕方がなかった。大人になってから、弁当さえ普通であったら僕の友達関係はどんなに充実しただろう…!と、悔しさに沈んだ。
 毎日の弁当の時間がいやで仕方なかった。早く昼休みになって外に行きたいと思った。食べなくても済むなら食べたくないとすら思ったかもしれない。完全な、「コンプレックス」であった。

 先日読んだ大平光代さんという、自殺未遂や極道の妻を経て弁護士になった女性が書いた本の中に、日本らしい「お弁当の時間」の描写があったので、記憶の限りで思い出して書いてみたいと思う。 
 弁当の時間: 
 「今日はパン?」 
 「うん。母ちゃん今忙しいねん」 
 「でもみっちゃんのお母さんきれいでいいなー」 
 「うちなんかクソババアやわ」 
 「キャハハハ!」 
 
 3人か4人で食べるお昼の楽しそうな中学生の会話である。イメージとして、こんなシーンであった。この、「今日はパン?」と、他人の弁当について何ともなく聞けて、それが別の話題につながる、そんな会話の中に、和みがある。特に日本人の場合はそうだ。でも、ここでパンはパンでもインドのナンをお弁当に持っていっていたら、会話は上記のように進んだだろうか?いや、「何それ~?」と、パンに注目が集まってクソババアなんて冗談は出なかったのではないか。
 僕が日本人学校で経験したのは弁当の違いのせいによる、友達との必要以上の距離感だった。「それなあに?」と友達に、素朴な質問を受けても、これこれこういう理由でうちはこれを食べるんだと、言うことができなかった。なぜなら、父は一時は世間一般人の食べるものを毒だとか、激しく嫌ったからだ。その感情をそっくりそのまま僕が出せば、友達には嫌われるのが目に見えていた。
 説明ができないどころか、僕は何年もの間、弁当について問われることを恐怖し、畏縮し、非常な緊張状態に陥っていた。でも弁当さえ過ぎれば、音楽でも、国語でも授業が待っていて、休み時間には命一杯想像力を働かせて遊ぶから、なんとか取り返しがついていた。


日本人学校に通っても、なかなか日本人にならない
 学校は日本人学校だったが、引っ越して間もなく近所の子供達とも遊ぶようになった。マレー系、インド系、中国系。言葉はマレーシアの公用語である英語となったが、初め、自己紹介とまでに交流した2コ上のCの家族には「知っている英語を言ってごらん」と言われて、「red」とか「flower」とか思いつきでカタカナ言葉を述べたのを覚えている。もちろん英語は話せなかった。母の母国語、スイスジャーマンはどうかというと、これも、母は日常では日本語を使うようにしていたため、全く話せなかった。
 この一人っ子のC少年とは、よく遊んだ。じきに現地人の英語の先生に英語も習ったため、気付いた時には簡単なことなら英語で意思表示できるようになっていた。日本人学校には小学生から週一回か二回、英会話の授業があったが、僕はもちろんよくできるクラスに入れられて、ディズニーの映画鑑賞など授業というか遊びというか、楽なクラスに入っていた。

 近所の子供達との遊びは楽しかった。家はぺタリングジャヤという、マレーシアでは比較的裕福な人が住む丘陵地域にあって、坂道を使って「スケボー」などに夢中だった。時には親に1リンギット(30円前後)をもらって1キロか2キロ離れた商店へ行き、投げたり、ねじったりするとぱーんと火薬が鳴るばくちくを買ってはCと探検したりしていた。Cに好きな女の子がいるというので様子を伺いに行ったり、意味もなく人の家のベルを鳴らしては走って逃げたり… Cに限らず近所には常時4、5人子供が住んでいて、彼らともよく遊んでいた。
 そんな、現地人との交流もなにげにあって、学校では必要最低限しか「日本人」にはならなかった。「遠慮」の心とか、「自分を抑える」という日本的な自制心はM教の信仰からも学んだが、自分自身はどちらかといえば自分を全開にして正面で向き合うような西洋的な社交術の方が好きだった。
 それはきっと、そういう方を好んだ母親という存在の影響もあったに違いない。
 日本人学校ではきっとエネルギーが強くて、悪気はなく個性を発揮するこの少年を、「まったく、本当に困ったやつだ」とか「親はこの子に何を教えているんだ」と思った先生方もいたことだろう。
 反面、やはり、級友関係は苦手の意識もあった。弁当のこともあるが、集団的「和」を重んじる日本人にとって「個性出しマクリ」の僕は扱いづらかったに違いない。学校の「文化祭」とかで協調関係が問われる時も、自分では命一杯みんなで楽しくやろうとするんだが、日本的な「和」には、ほど遠い有り様だったと思う。