2010年4月9日金曜日

『こども時代』 22

休学
 大学で休学の措置をとった僕は、多くの時間を一人で過ごした。親友と呼べる友達もなかった僕は友達から連絡をもらうことも少なかった。休学すること自体、いちいち人には話さなかった。
 恋愛で変わった自分のこと、父との喧嘩のこと、一人暮らしが始まったこと… その半年かそこらで一変したすべてを整理するために、自然と一人になった。大学をやめることも、この時はけっこう考えた。自分は確かな目的意識があって大学に入ったわけじゃない。「大学には行っておいた方がよい」「できればいい大学に」と周りは言うから大学を受験し、入学した、そんなもんだ。年間110万円はかかる学費の手配に汲々としてなんとか卒業資格が取れるくらいなら、やめた方がいいのかもしれない…。この時に、そこまでの考えはあった。でも一度やめたら戻りにくいことや、短い間に生活を変えすぎるのは危惧したため、「できるだけ慎重に」と思った。
 大学を続けるにしても、やめるにしても、その決断は2年次の終わりまで猶予があった。しばしの余裕が、生まれた。

 同6月には「スイスパスポート」を作った。そう、休学中にスイスに行こうと思ったのである。国籍は日本のも持っているが、その時はまずスイスパスポートが作りたかった。大学をやめてスイスに住む可能性も、考えていないわけじゃなかった。
 渡航費をつくるため、東京で自転車便の仕事をした。面接の時には「どれくらいの期間やるのか」について、何と言ったか覚えていない。出入りの激しい会社だったが、半年とか、一年とか、本当はない気をあるように見せていたかもしれない…。自転車便をやろうと思ったのは、サークルの仲のいい友達がやっていて自分にも興味があったからだ。7月、8月、9月と2ヶ月半ほど家庭教師と平行して仕事に明け暮れると、あっという間に費用は溜まった。9月中旬から3週間、マレーシアとスイスを訪ねた。
 この頃もなにげに元彼女のことが頭にあった。別れてから一年が経っていたが、大学に行けば彼女を見かけたし、時々はメールのやりとりもあった。スイスに行けばもう彼女と会うことはなくなるだろう…。そんなことが頭にひっかかったりした。いろんなことに関して何をどうしたらよいか分からなかった。
 懐かしのマレーシアや、初めて一人でスイスを見てくると、心も和むものがあった。それで、だいたい、「まだ大学はあきらめない」、特に「金銭的な理由でやめてたまるか。」と思った。


なぜ生きるのか 何をやっていくのか 「迷子の子羊」
 「恋愛」によってそれまでの価値観や世界観が崩れ、父との衝突によって慣れ親しんだ家庭から見事に切り離された僕は、まるで「迷子の子羊」だった。高校の最後から自分の感覚を試すようになり、その未熟なセンスではとうてい「器用」に生きることはできなかったが、不本意な、心をしいたげるような数年間の果てにはそれでも踏み出さざるを得なかった。
 
 食生活も、肉や、スーパーの甘いお菓子や化学調味料のものを食べずにはおれなかった。それが自分の体には悪いという考えがあっても、欲望には逆らえずうやむやにも食べた。
 M教も、大学生になってからやめていた。「手かざし」に欠かすことができないお守りを道場に返しに行き、道場長を前に「やめます」と言った。迷いなくやめることなど不可能だったが、もう、自分の直感を実行するしか仕方がない自分だった。 
 『自分の中に毒を持て』 岡本太郎
 『今ある自分を打ちこわせ』 余暇三千雄 
 いかにも激しい、気になる題名の自己啓発本を手当たり次第読み耽って、書いてあることを実践した。僕は人生に希望を見出すために、それまでの自分を実質「こわす」ように生きた。恋愛で垣間見た清らかな世界にも支えられながら…。

 大学2年次の終わりに、塾講師のアルバイトを始めた。安定した収入と、教えることのレベルアップを図っての挑戦だった。
 アパートもそれまでより1.6万円安い、2万5千円のところに引っ越し、復学の準備を整えた。大学の2年目は、「波乱万丈」という感じだった。その後も決して楽だったわけではないが、精神的にはこの頃より落ちついていた。




(以上 第1章 表のこと ) 

『こども時代』 21

◆「家出のあと」
 買ったばかりのノートパソコンと、少しの洋服を、バックパックに詰めて、僕は自転車に乗った。元彼女のところに行きたいような気もしたが、無難に兄を頼ることにした。50kmくらいだろうか、夜中に自転車をとばして、兄貴を訪ねた。兄も池袋でこれ以上安いところはないという様な、みじめな部屋を借りていたが、メールを送った僕に都合をつけて、待ってくれていた。僕は途中どういうわけか道路で派手に横転し、片腕がまともに動かせなくなるほどの怪我をした。動揺と、興奮にまみれて我を忘れて走っていた。
 幼い頃から兄は、優しかった。なにかあった時は父や母よりも兄が頼れる人だった。秘密を打ち明けられるのも、友達というより兄だった。それは海外を転々とした家族ならではのものもあるかもしれない。
 「父とあそこまでやってしまった僕は... もう帰れない。」
 そう強く思ったことを、兄に話した。
 兄が演劇かなにかのサークルでいなくなる時は、僕は静かに部屋で待っていた。最初の数日は、怪我でほとんど動けなかった。
 それから一週間くらいかその間に、僕は「一人暮らし」をすることを決め、大学の生協で部屋を探した。そう迷ってもいられなかった僕は、同じゼミで仲がよかったAの並びの棟に部屋を借りた。引越しや契約費用はどう処理したかよく覚えていないが、自転車で運べそうなものは、自転車でけっこう運んだ。引越しのために割りと早くまた実家に顔を出したが、父とは顔を合わせなかった。家庭教師のアルバイトは1、2回くらい休んだかもしれないが、振り替えで補ったりして、仕事は仕事で大切にした。
 僕の春休みは、引越しと、気持ちを落ちつけて2年目の準備を整えることで、終わってしまった。

 恋愛によって方向づけられた僕の大学生活は、父との喧嘩によって更に具体的に、方向づけられた。例えば、実家から通えば下宿費や食費はあまりとられず、ドイツへの留学も夢ではなかったが、それは一人暮らしの確定によって却下された。そして、大学2年目からは3年間、自分で学費を用意しなければならないので、バイトを続けることは必至だと思われた。
 大学をやめることも考えた。でもそれは「自分に負ける」ことを意味する気がして、とりあえず一人暮らしで頑張ることにした。
 家庭教師の2人ではお金が足りないと思った。奨学金制度は充実していたから借りること自体はいくらでもできたが、少なくとも自分の生活費は自分で賄い、奨学金の給付はそのまま貯金に溜まるようにできたらよいと思った。同クラスの友達が居酒屋のバイトに精を出していて、月12万円とか稼ぐのも見ていたから…。


◆「転機」
 「金欠」を恐れた僕は家庭教師の他に大学近くのバーミヤン(中華料理レストラン)の厨房で働き始めた。家庭教師と合わせて「十万円」を一つの基準にして週3回程度のシフトを入れるが、5月の終わりにはギブアップした。
 「無理だ、これは...。」
 途方に暮れる、自分がいた。そして、やむをえず「休学」することにした。「休学」には、どうせもう払ってしまった半期分の授業料以外にお金はかからなかったのだ。ただ静かに少し落ちつける時間が必要だった。大学のみんなは相変わらず活発な様子で、そうでない、この先どうなるかもわからないような不安定な自分が、意識されるのも辛かった。高校の頃やっていた10kmジョギングを思い出して多摩川まで往復のマラソンに出た。高校の時ほどもう体は軽くなかった。ある時は雨の中あえて出ていって、人のいない多摩川の河川敷で悔しさを叫びに替えた。ずぶぬれの自分だった。
 バーミヤンはやめたが家庭教師は続けた。英語を主として「教える」ことにやりがいを感じている自分がいた。大していい教え方ができたとは思わないが、プリント作りなど、授業準備には時間を惜しまなかった。

 6月になって、知り合いのつながりでちょっとした出会いがあった。親と交流があった静岡のお寺に保養に行かせてもらった時に、人に見えないものが見えるという女性に会った。「ちょっと言葉がキツい人でね、合う人、合わない人がいるんだけど…」 そう柔らかく、お寺で母親のように世話をしてくれたKさんが、説明してくれた。
 Iさん(超能力者)は、Kさんとも重なる、自分の親よりは少し年上の人だった。会ったとたんに、「うかつなことは言えない」ということがわかった。僕は割と、年配の人とも気軽に話をする方だったが、Iさんに限っては言葉が出なかった。家具や飾りものの美しい一軒屋に一人で住んでいるようだったが、心に刻み込まれるような力強いお話の後には手の込んだ、ほとんど上品な食事をたくさんもてなしてくれた。
 個人的なことについて、いくつか貴重な教訓を頂戴したが、中でも印象的だったのは、「今を生きなさい」という彼女の言葉だった。
 「先のことは考えないで今、目の前にあることを命一杯やっていってごらんなさい。「今」、「今」よ。」
 自分の話をするか、Kさんと少し言葉を交わす以外は、Iさんは僕に言うことはあまりなかった。言われたいくつかの言葉は、強く頭に焼きつけられて、それから2、3年間、僕の「指針」となった。
 その年と次の年に合わせて2、3回Iさんを訪ねたが、ある時は一対一の、僕はただ聞いているだけの1、2時間の後に、親に宛てて、「素晴らしい息子さんです。息子さんのこれからが楽しみです。」と、なんだかわからないが嬉しい手紙を打ってくれたこともあった。僕はというと、むしろ悲観的で、将来に対して不安の方が圧倒的だった。

『こども時代』 20

なんだか分からない原動力
 恋愛に持ちうるすべてを賭けていた僕は、学費のための奨学金も恋愛や大学生活のために使っていた。「学費は一年目だけ出せる」と親に言われていた自分は、恋愛にかかるお金もたいへんだった。バイトをすると言ったって、そう簡単なことではなかった。
 お金の心配をして、大学生協に応募した家庭教師の仕事が、夏休みに始まった。そして後期も始まるが、彼女と別れた自分は、「果たしてそれでよかったのか」と、「もっとねばるべきだったんじゃないか」とか、しきりに考え悩んでいた。大学の友人関係だって「適当に」ならざるをえなかった。
 
 たとえば大学で食べる食堂のごはんにしたって、本当は僕にとって「ただならない」魅力だった。巨大な食堂には中華、イタリアン、和食、マクドナルド、何から何まであった。しかも外とは比べものにならない安さであった。おいしかった。昼はほぼ毎日食堂だった。さすがにもう親には、とやかく言われない。食べたいだけ食べられた。
 でもそんな「食べもの天国」一つをとっても、忙しい自分には十分に楽しむことはできなかった。昼休みに1時間時間があったとしても、頭は「次はこれをしなければ」と始終考えているので、食事はみんなと同じテンポで済まし、次のことをやりに学部棟へ戻った。はっきり言って、「ゆとり」を奪われた人間だった。そんな自分に気付くのもだいぶあとになってからだが…。

 そんな無謀な生活状況でも、恋愛を経た自分には内なる炎が燃えていた。その新しい「炎」を自分は正当に扱うことができないだけで、決して無気力なのではなく、むしろ何でも当たっていくような気概があった。
 一年の後期には2人分の家庭教師と大学の勉強のだいたい2つに絞って生活していた。サークルも少しはやっていたが、てきとうだった。空手部に入るとか、ドイツ語を勉強するとか、海外旅行とかはいつのまにか無いに等しくなっていた。自分の生活の全体感がつかめない、そんな時期だった。
 この年のおおみそかの夜には一人軽装で雪をかぶる丹沢山に登った。どう扱ってよいのか分からないエネルギーを、そんな奇抜な行動で発散した。


家出
 そんな経緯では自然なことだったかもしれない。後期も終わって春休みに入ると「家を出る」と決することになる父との喧嘩が起きた。
 その夜は、父が早々と一人でお鍋を食べ始め、残った魚の骨を鍋のふたに置いたのが、僕は気になった。「そこに置くべきではないと思う。」と、僕は辛口で指摘した。それでも相手にしない感じなので、しょうがなく自分が専用にお皿を取ってきた。父は「ありがとう。」と言ったが、僕は自分がいいように使われているとしか思えなくて、「そんな『ありがとう』ぶっとばしたいくらいだ。」と言った。「なんだと!?…」父は箸を止め、おわんを置いた。
 父を前には子供の時から不器用にしかしゃべれない自分があったが、この時もとっさに浮かんだ「ぶっとばす」という言葉が、適切かどうかも考えられないまま、口を突いていた。「そんな『ありがとう』いらない。」と言っていれば、まだ話の余地が残っていたかもしれない。
 父は立ち上がって「ちょっとこい」と明らかな怒りを見せた。ところが、僕にはその、今思えば日本の「男」の、怒りの表し方が通じなかった。僕が父に対して怖いと感じることは理由がわからない「沈黙」や、「認められていない」ことで、怒りではなかった。その頃には体力的にも負けない自信があった。
 今度は僕が父を相手にしない感じで、ただ佇んでいると、父はこたつの横から僕を蹴ってきた。すぐに火はつかない自分だったが、父と向き合っているうちにそれなりに本気になった。憎しみというほどの強烈さはなかったが、それまで、こどもの頃から溜まっていたいろんなものをこの機に出してしまいたいと思った。取っ組み合った時、父の腕には力が入っていなかった、という記憶があるが、僕は父を玄関に放り投げた。それで父は動かなくなった。おなかの辺りを打ったようで、あえぐ声を出していたが、僕にはそれが本当なのか疑わしかった。父ははうようにして階段を登って自分の部屋へひっこんだ。
 しばらくして、僕も落ちつかないので、「これで自分は気が済むんだろうか?まだし足りないんじゃないか?」と思った。そして階段を登って、暗闇の中に横たわる父に向かって、「ぶっ殺してやろうか?」と冷静に言った。父は、「やれ!」と力強い声で即答したが、そこまでする気は僕にもなく、僕は何も言わずに階段を降りた。
 (いけないことをしてしまっただろうか…!?)
 (とりかえしのつかないことを、僕はしてしまっただろうか…!?)
 不安にかられ、当惑しながら荷物をまとめて、家を飛び出した。「もう家にはいられない。」そう思った。

 僕と父とのコミュニケーションの悪さは、どうにもならなかった。この時も少し状況が変われば、家を出ていなかった可能性は高い。一歩間違えると、「天と地の差」…。そんな父との関係的難しさが、僕をいつまでも悩ませた。
 家出をして一人暮らしになっても、僕の頭からは父を含めた、家族のことが離れなかった。僕は自分の恋愛とか、人生を、半ばあきらめた。友人がしているような、夢見るような大学生活を捨てて、僕は内に籠もり、細々と大学を続けた。

『こども時代』 19

大学受験
 学校の成績はよかったが、自分の実力では国公立大学の受験は厳しいということがわかると、推薦入試から検討をし直した。その始めの一歩が指定校推薦だったが、これはおしくも成績上位者にとられてしまった。それでもその学部を諦める理由はないと思ったので同じく推薦入試として同じ学部や、他大学の同系統の学部などを調べた。慶応大学なども見たが、時間的な余裕がなかったため、指定校と同じである中大総合政策学部を受験することにした。受験書類の作成には時間がかかり、受験自体に少し自信がなかったため、いちかばちかという感じだった。
 ちょうどその頃、一緒に農業大学を志望していた友達から、小学校で級友だったKが交通事故で重態だということを知らされた。キャンパス見学か何かでばったり会っていたK君は、それほど仲がいいという訳ではなかったが、僕は「これは…。」と何かに気付いたように思った。
 病院を訪ねると、通学中にはねられたというKは、ぼんやりとした意識でほとんど身動きがとれない状態だった。
 僕はM教の手かざし、「お浄め」をした。人前で、M教でない一般人を前に手をかざすことはそれまでほとんどしたことがなかった。マレーシアでガキ大将だった時や、ドイツで虚弱だった友達に手をかざしたことがあったが、大人を前に信仰告白をして、「手かざしをさせてもらってもいいですか」と願い出たのは初めてだった。
 毎日のように通い、50分から1時間のお浄めをするうちに、Kの容態はどんどん軽快していった。ある日は突然、見違えるように一気に元気になったりもした。命に別状はないということが分かる頃になると僕は受験に集中し、それからはほとんど会うこともなかったのだが、勇んで直感に従ったという経験が僕の生活に新鮮な空気を届けてくれていた。「上昇気流」という感じで、大学推薦入試も調子よく受験することができた。12月には合格通知が届いた。
 
 中大に合格すると、それで、中大に入ることにした。父には「慶応大学受けてみないのか」と言われたが、僕は受験料のことを気にして、また、一般受験で受かる自信もなかったので、「いい」と返事した。
 進路が決まると、とうとう気が緩んで、学校の試験勉強には手がつかなくなった。「これでなんとか高校も、卒業だ…ふぅ。」 学校の試験の度に2週間前から試験勉強に打ち込むことに「疲れて」いた。休みが、必要だった。

 それでも春休み前には東京のとある「モデル」の事務所に応募しに行った。高校でのモテるという体験から「モデル」になることができるかもしれないと思ったのである。若者ファッション雑誌の代表である「メンズノンノ」には多数のハーフのモデル達が出演していた。モデルになったら、これまでの「金欠」ともおさらばできるかもしれない…と思った。子供の頃からの金品に恵まれない生活がひもじかったのは確かだ。そうしてファッション雑誌を買って、服というよりモデルをチェックするようになったのだが、大学が始まると、それどころではなくなった。事務所に支払った10万円(登録料)はそのままに、それ以上何かすることはなかった。


大学 迷いと初恋
 大学に入学すると、やはり世界の違いを感じた。高校は「ひどく平凡だったんだなぁ」と思った。英語が得意な学生が多かったため、世界に開けている感じもあった。それまで触れたこともなかったIT関係も力の入った学部で、キーボードの打ち方から、一から学んだ。もし将来世界に羽ばたきたいと思ったらやることはたくさんあったんだと気付かされ、少し焦った。でもそこには「やるべき」と思われることがありすぎてどれを採ったらいいのかさっぱり分からなかった。たとえば「スポーツ」も捨てきれていなかった。小学校の時にやった「空手」とか、ドイツで熱中した「陸上」も本格的な環境でやってみたい気がした。もちろんバイトもして海外旅行とか、懐かしのマレーシアを訪ねるとか、願わくばドイツへの留学なども興味があった。
 しかし… どれに的を定めてよいのか、わからない。目の前にあることに向き合うだけで精一杯なのだ。

 入学早々、一応のクラス分けがあったが、その交流会で一人、気になる子がいた。なんだか分からない未知の魅力を彼女は持っていた。1つ上の先輩がアレンジしたその交流会では「みんなと1分間トーク」だかなんだかいう親交ゲームがあり、早速僕は自分の関心を彼女を前に表した。高校では間違ってもやらなかったことを僕はやった。
 それからぎこちなくも、3ヶ月間の長い前戯(? を経て、僕らは付き合うことになった。後で分かったが僕が彼女に感じた魅力とは、磨かれた「女性らしさ」、もっといえば色気であった。彼女は僕の前に付き合っていた男性が僕より10歳も年上で、なるほど大人っぽいわけだった。その落ちつきとか、大人な感性に、僕は憧れも抱いていたかもしれない。大学入学から2日目か3日目だったその親交イベントで彼女に目をつけてからは、僕の大学生活は自動的に方向づけられた。周りを顧みる余裕はなかった。
 毎日は、彼女のことに最大限神経を張ることで過ぎていった。週に3回あって、もっとも友達のできやすい英語のクラスも、僕はてきとうにつきあって、それで前期は終わった。
 この、「好きな異性」というものが僕をどれだけ刺激して、魅了して、僕の人間自体を変えてしまったか、今思い返してもすごい。夜も眠れない日々だった。対して自分の高校生活はひどい不完全燃焼だったと思うようになった。そして、しだいに僕は内面の、大きな変化に耐えきれなくなって、後期には彼女から「離れていった」。彼女はその訳を知りたそうではあったが、説明しても無理があった僕は、自然と距離を置くようになった。

『こども時代』 18

本当の勉強を、知らない
 高校1年生の秋にバスケ部をやめてから、学校の成績はほぼトップになった。一部先生に好かれないような経験もしたが、5段階評価で4.6~4.7だった。しかし「実力」という点から見ると、大したことはなかった。僕は学校の定期試験に重きを置きすぎていたのだ。数学ができる、と思った自分は、生物専攻で理数クラスに入ったが、全国模試でも受けると大して得点はできなかった。
 ただし生物と英語には力が入った。生物は受験科目では使わなかったが、三年生の一学期には国公立の入試問題を解くことができた。ぶ厚い問題集をそっくりそのまま、ノートに転写したのだ。英語は、自分が外人肌であるだけに、できなきゃおかしいという思いもあって、実用語としての学習に取り組んだ。試験問題はミスも出たが、ドイツでドイツ語を学んだ感覚で発音やスピーキング能力を意識して勉強した。
 しかしそれでも僕は本当の勉強というものを知らなかった。全国大会に出場するサッカー部が、暗くなっても血汗流して練習に打ち込むように勉強も「熾烈な戦いである」という認識が欠けていたのだ。学校自体が競争や緊張感の薄い学校でもあった。僕はそういう点で本当の受験勉強を知らなかった。
 
 M教の信仰生活は下火だった。家に外部の人の出入りも増えたため、手をかざすこともうんと減った。親も昔ほど説教することはなくなった。もう高校生だったからとやかく言わなくなっていたというのもある。時々「道場」にも行ったが、昔からM教は好きじゃなかったため、信仰からは離れていった。


実はまだ確認できていなくて‥
 高校3年生になった頃、少し精神的な異変を感じた。不本意な、自分を縛るような生活に心が疲弊していた。思うと、そのころは全然楽しくなかった。生活の全体感が、マレーシアやドイツと比べるとみみっちくて、中身がなかった。自分では生活が充実するように、最大限のことをやっているつもりだったが、思いを寄せてくる異性を拒み続けることや、これといった趣味や希望が見出せない年月がつづくと、さすがに精神的に限界となった。
 一つには、その頃、射精体験が済んでいなかった、ということがある。体は健康体で、夢精は経験しても、世間が言うような男性としての能動的な営み(自慰)がなかった。肉を摂らない、家の食事の影響という可能性も高い。
 高校3年生の夏に、家に自分一人となった時があって、その時初めて、アダルトビデオを借りてきて、挑戦した3回目に射精ができた。好奇心から、その場で持っていた顕微鏡に精液を乗せて、自分の目で確認するとそこには無数の活発な精子があった。それを経ると、精神的にガラッと変わるものがあって、農学系志望だった自分は突如挑戦に出た。3年生の2学期に、進路を変更して学校に来ていた指定校推薦に応募した。
 
 射精体験を済ます前だっただろう。一度ベッドに寝ていて奇妙なところに意識がシフトするというような体験をした。なにかそこでは、感じるものが人間的ではなくて、体験した後でも、言葉にならない。それから定期的に、頻度の差はあるが、その「かなしばり」のような体験をするようになった。「かなしばり」というと「何かにとりつかれて体の制御が奪われ、動けなくなる」というイメージがあるが、自分のは少し違って、動くことはできるが、そのシフトした状態はすごく気持ちが悪いため、自分に還ることに必死になる、という感じだった。しかし数を重ねるにつれ、時にはその状態を、あえて観察するということもできる様になった。それは今日でも、時に体験している。しかし観察してもそれが我に還った時に「言葉にできない。」体験した感触も我に還ると急激に忘れていく。だからある時、それは「人間の認知系統ではないのではないか」ということを思った。なんなのだろう、いまだ謎の現象である。

『こども時代』 17

心は多分に西洋的 日本的な情に動かされず
 大人しい僕であったが、友人関係はあまり充実しなかった。学校では毎日バスケをしたりする仲間がいたが、一緒に町へ出たりすることはほとんどなくどこか虚しかった。友達ってのは、もっとふざけれて、盛り上がって、勢いのあまりちょっといたずらしちゃうくらいのイメージがあったので、中学校も高校もそうでないまま終わりそうであるのが、なんだか「ちがう」感じがした。それでも「それが日本なんだ」と「日本ならではの楽しみ方を探せばいい」と、そう自戒する自分がいた気がする。高校生にはなっても、日本での自分の、正当な生かし方がまだ十分に分かっていなかった。僕に必要だったのは、まだまだピュアに、子供っぽくてもいいから自分を「出して」、感覚を磨くことだった。そんな余裕、なかったのだが…
 僕の心は、海外生活や、最も濃密に触れた母の人格から学びとった最低限のものでこの頃も生きていた。それは多分に西洋人的な心で、日本的な心とはそぐわない面も当然あった。表では立ち振る舞いに少し気を遣っていれば日本でも生活できないほどではなかったので、「それでとりあえずは満足しなければ」と思っていた。
 しかしそうやって僕には本当に心が通じ合う友達というのはできなかった。そんなことが少しずつ、後々に暗雲を投げかけていた。


寄宿生活塾
 変わって自宅は自宅で、安泰ではなかった。高校入学前には2コ上の、紙を金髪に染めたヤンキーが入ってきた。僕は部屋をシェアし、慎重に相手をしたが、何を間違ったか6月頃には彼のギターのスタンドで頭を殴られた。顔に血がつたる、まるでマンガみたいなことが起きたが、それでその子は実家に返された。
 続いては高校1年の秋頃だったか、明らかに僕を意識した、美人の女の子が入ってきた。一体彼女のどこが悪くてうちに入れているんだと、考えれば疑いきれない性格のいい女の子だったが、僕にとっては負担だった。このEさんは、実に1年半くらいうちにいたが、僕は彼女に心を開かなかった。もし恋に落ちても、同じ屋根の下で、親が認めるはずもないし、第一、うちは「自立支援」が仕事なのだ。兄が日本に帰ってきた時、彼女と兄はくっついたが、案の定、それによって兄は家を追い出され、合格した東京の大学の近くの下宿に入った。

 高校3年生の頃には2コ下のなまけ者のS君を調教しようとして失敗したこともあった。彼は何ヶ月経っても態度を変えず、余裕があるのに精進しようという気を見せないので、話はできた僕が諭そうとしたが、これはどうにもならなかった。
 僕の家には昔から、「明るく元気にいい子であろう」という様な、暗黙の了解があった。顔を上げない子、人の目を見て話せない子、答えない子、返事ができない子、それらはすべて即精神的な疾患だとするような見方があった。多分に母、スイス人の感覚だ。それをそのまま日本で、子供に適用したところで、うまく行くわけがなかった。このS君は小柄で頭もよさそうには見えなかったが、道理にそぐわないことには一人ででも抗する力があった。一度、僕は彼が生意気に思えてならなくて、離れ部屋の柱に彼の手を縛ったことがあった。それが正しいことであったか父も母も構わなかったが、S君は、縛られても「平気」であった。結局僕自身が悪いことをしているような気になって彼の手綱をほどきに行った。「僕がバカを見た」というような結果に終わった。
 塾の生活はなにげに大変だった。大学受験の際にはモデルとなっていたH塾の塾長から大学への推薦状を書いてもらえたが、もし「日本を享受する」ということを考えれば、僕の置かれた環境には無理があった。

『こども時代』 16

四編 『青年期』(高校1年生~家出まで)

高校入学早々 ちやほや
 ドイツから日本に帰ってきてからそうだったが、高校に入ると自分はものすごく目立ち、女の子にもすごくモテることがわかった。僕は兄妹の中でも顔立ちが西洋的で、特に鼻は成長期を経て高くなった。まつげはもともと長かったし、目も西洋的な二重の明るい目だったが、小学校でもドイツでも大してモテるというわけじゃなかった。それが高校入学からえらく変わって僕は次第に自分の肉体的美を意識するようになった。
 僕はドイツの時に読んだバスケットボールマンガ『スラムダンク』に憧れて、長身も生かしてバスケ部にも入った。それで昼休みも同じクラスの仲間と体育館でバスケをするのだが、一学期は毎日のように体育館の入り口に女の子が数人、顔を出した。
 「また来てるよー、ロペ」 バスケをしながら友達がひやかした。同期にはアメリカ人のブロンドの女の子がいたり、その他にもクラスにかわいい子がいたが、僕は恋愛というには早すぎるものがあった。大人しい性格ではあっても心は実は、幼かったし、なにより日本に十分に「慣れて」いなかったのである。下手に調子に乗ってバカをしても後々が思いやられた。自分には小学校で苦い思い出があるのだ。
 ドイツからの帰国時に「慎重に。」と決してからはそれは大学まで継続され、結局高校でも彼女はできなかった。それはほとんど「申し訳ない」ほどで、後で期待を寄せてくれていた女の子には罪悪感を抱いたが、「慎重」であることが、高校生としてやるべきこと(主に勉強)を優先することが正しいと思われた。

 バスケ部では中学校で体が鍛えられている連中と「体力」、とくにスタミナの差が目立った。今思えば食生活の影響もあったかもしれないが、ドイツで地域の陸上クラブに入っていたものの、日本の学校にある部活動の活発さは比べものにならない気がした。仲間達が、必ずしもそういう活発な部にいたかはわからないが、僕はよくバテて、ウェイトトレーニングルームに引っ込む日が続いた。足に無理が生じてか、筋肉ではなく腱が痛んで走れなくなった。夏の合宿や遠征を経て体が少しずつ改造されてくると、たしかに体は変わり、あまりバテなくなった。しかし、バスケ部に集中するだけで他のことがおろそかになってしまうほどだったので、やむなく部活はやめた。


◆“やはり勉強を頑張りたい”― 
 ドイツで高校卒業資格試験を目指して一人で頑張っている兄や、自分の高校時代を振り返って一日5~6時間勉強したという父もいてか、僕は部活をやめてから「やっぱり勉強をしっかりしたい」と思った。
 入学直後の県下一斉テスト(英国数)では学年順位が21位で、一学期の成績もバスケ部で一位か二位だった。高校の偏差値自体あまり高くなかったのだが、それでも中学校の大部分の勉強が抜けている自分がそこまで得点できてしまうと、やっぱり勉強をしようと思った。
 バスケ部をやめてからは成績が伸び、バスケ部の代わりに週に二、三回10kmジョギングと腕立て伏せ(150~200回)をした。それはスポーツを諦めた自分に対してなぐさめ程度にしかならなかったが、それからは高校三年生まで安定した高校生活を送った。時にはまたマンガとかも描いて自分なりの夢の世界を探求した。それまで苦手だった読書も高校から始まり、日記はよくつけていた。
 同じく帰国子女で威勢がよく、性格がどこか似ていたKには「バンドをやらないか」と誘われ、ギターにも手を出してみた。母がギターを弾く人であったし、音楽も洋楽が好きだった僕はそいつに煽られてイギリスのロックバンドOASISのカバーをやった。「文化祭」にも出場した。

『こども時代』 15

いとこのS君とよくつるんだ
 中学校3年生の時には、昔はあまりうちには来なかったいとこのS君が、不思議とよくうちに遊びに来ては一緒に遊んだ。お互い高校受験を控えていたが、勉強はほどほどで、古ぼけたCDプレーヤーでビートルズを鑑賞したり、熱帯魚を飼ってみたり、訳もなくいろんな店に行ったりもした。それはそれで、控え目だが、楽しい時期だった。
 学校ではほとんど嫌われることもなく、かえって思いを寄せてくる女の子がいた。その子がまた人気の子たちのうちの一人だったので、どうやって彼女の気持ちに応えたらいいかすごく悩んだが、結局、会話もできないまま卒業を迎えた。当時僕の身長は178cmくらいあったが、クラスでは3番目だった。やはり小学校までの圧倒的な体格差はこの頃にはなくなっていた。なくなっていたどころか、中学校の厳しい部活で鍛えられている連中には体力負けした。「大人しいキャラクター」に落ち着くのが自然なようでもあった。

 勉強も、悪くなかった。最初の中間試験では5教科合計で393点(500点満点)をとり、調子もよかった。しかし高校受験には、自分が授業を受けていない「歴史」や、理科であれば「物理」などの単元も入っているため、「帰国子女」として入れる高校を探した。
 中学校では、特に男子は気だるそうにするのが流行ったが、自分はどうもそうする気になれなかった。第一、なぜそうするのかも、僕はよくわからなかった。ただの力の出し惜しみ根性だ、下らないじゃないか、と思った。それで、たとえば掃除などはついつい一生懸命やってしまうのだった。見せ掛けだけでもモップをバケツにつっこんで、掃除をいかにしてさぼるかを考えるのは、基本的に理解できなかった。そんなことしているより思い切って体を使って、しっかり掃除した方が自分にもいいだろう、と思ってやまなかった。後になってから、なぜ日本の子供達がだるそうにするのか、訳がわかったが…。


倍率2/10 帰国子女枠で近くの平凡な高校へ
 「わたくし立にやる金はない」と言われた僕は、併願校はなく帰国子女枠がある公立高校一本だった。でも、事前の新聞に掲載された倍率は10人枠で8人、そして実際に受験したのはたったの2人だった。おそらく親は僕が合格する自信はあったのだろうが、僕は最後の最後まで安心できなかった。
 中学校3年生の冬には父の次の仕事というのもわかるようになった。それはなんと、自分の家を宿舎にして引きこもりや不登校の自立支援をする「寄宿生活塾」というものだった。父と母が、日本で、学校に行けない子・心の病んだ子などを受け入れて共同生活をし、僕らもそこに一緒に生活をする…。親の決めた仕事であるから、自分がどうこう言う資格はなかったが、「すごいことだな」とは思った。
 年の明けた頃には実家を増築した。自然素材だけを使った木の家で、塾のモデルとなった小田原の寄宿生活塾の手配で、木を切り出すところから手伝ったりした。神奈川県足柄の山だった。 

『こども時代』 14

兄と一緒にドイツに残りたい
 中学3年生の夏に兄をドイツに残して一家は帰国した。父は、次の仕事を考えており十年間近く勤めた日本語教師をやめることになった。日本語教師の仕事は短い任期で移動するため、家族の生活が一箇所に落ちつかないことをさすがに心配したのかもしれない。家族を日本に残して単身赴任をする気はなかったと、いつだか父は言っていた。
 兄がドイツに残ったのは、ドイツの現地校資格である「アビトゥア」(高校卒業試験)を取ったらいいという親の考えだった。父と二人で早めにドイツに行っていた兄は勉強に熱心で日本人中学校では非常に成績がよかったが、家族と離れて独りになってからは学業の調子は崩してしまったようだった。
 僕はドイツにも馴染みきれていなかったが、小学校6年生の時の日本での苦労と比較すると「ドイツに残りたい」と思った。その意思表示には親も少し考えたのか、返事まで少し間があったが、どういう理由だったか忘れたが、僕は親や妹達と一緒に日本に帰ることになった。
 日本帰国が決まった頃に母が「泣いた」ことがあった。よほど、ドイツでの家族生活が気に入っていたのだろう。僕も、マレーシアの時ほどではないが、ドイツから日本に帰ることがさみしかった。
 
 日本に帰る途中で、懐かしのマレーシアに寄った。クアラルンプールや住んでいた近所の訪問、島のリゾートにも行ったが、「懐かしい」というよりは、マレーシアもドイツもさよならしてしまうことがさみしかった。それだけ来たる日本という世界に緊張があった。
 中学3年生の2学期から僕は地元の公立中学校に転入した。


中学校、日本にいたら「荒れて」いた?
 ドキドキした心で、少し恥じらいも感じながら、2年半ぶりに学校の仲間と対面した。成長期を経て、みんなもすごく変わっていた。僕はいとこのS君のおにいちゃんが使っていた制服を譲ってもらって、みんなと同じような袖や肩幅の小さい制服で通学した。
 小学校6年生の時に級友とケンカしたり、自分の奇抜な言動が嫌われるという経験をしていたので、この時は「次の失敗は人生を暗くする」と、肝に銘じて慎重に出た。
 中学校はお弁当で、玄米のご飯や野菜中心のうちのおかずを恥ずかしくは思ったが、マレーシアの時のようにおびえるほどではなかった。ただだまって顔はあまりあげないで弁当を平らげた。クラスには自分を出す子と、大人しい子とあったが、下手に自分を出すとクラスの権力関係に抵触することになるので、目立つキャラクターでありながらも、僕は恥かしがり屋になった。
 そうやってなんとか、一部の荒れている連中にも目をつけられずに卒業までやり過ごすことができたのは、ドイツの現地校で自分が達成したことや、海外生活の経験を自分の強みとして、またプライドとして堅持したからだと思う。本当は、日本は日本で、流行の最先端をゆく学校でも一番力のある連中と絡みたかったが、そんな自分は抑えて大人し目のキャラクターを被ったのだった。中学校、高校はマイペースなB型だとは思われず、よく「Aでしょ?」と言われる自分がいた。
 しかしもし、後から思ったことだが、ドイツには行かず日本で中学校に入学していたら自分はどうなっていただろうか。小学校6年生の時の、納得できないうっ憤が、抑えきれず「爆発」してしまったのではないか。そんなことを思う今日である。ドイツの学校で、言葉も分からないような状況から、2年そこそこの間に学校の勉強についていけるようになった、そんな自分の実績と自信をプライドにして、嫌なやつは軽くあしらうことができた。しかしそれがまた、のちに“日本的なもの”を軽んじる自分にもつながってしまうのだった。

『こども時代』 13

工作趣味
 お小遣いを一番つぎ込んだのは工作道具だった。のこぎり、万力、釘、ネジ、ベニヤ板…。 木を使っていろんなものを作った。兄が一度日本に帰国した時にTAMIYA製の電池ボックスやスイッチ、プロペラなど買ってきてもらってラジコンみたいなものをつくってみたり、ライト兄弟が乗った様な風に乗るプロペラ機(小型)をつくったこともあった。自分で遊びを考えたり、創作というものを親は僕らに奨励した。
 マレーシアでは欠かせなかったファミコンも、ドイツのテレビには接続ができなかったため、できなかったが、それは大して気にならなかった。ドイツの友達はファミコンはやっていなかったというのも大きな理由だろう。
 地下室で黙々と一人で工作しているのも好きだったが、兄妹、特に兄とは他にもいろんなことをやった。「モノポリーゲーム」を材料に、自分たちで創意工夫をして、より面白いオリジナル・モノポリーを作ってみたり、近くのうっそうと茂った空地へ行ってはモグラのようになって地中秘密基地を作った。それは完成しないまま終わってしまったが、地面を掘って出てくる土を、炭鉱のトロッコのような台車(自作)で運び、土まみれになりながら地中の道を作ったのだった。兄とはその他にも卓球や、湖公園でのアイスホッケーなど実に色々一緒にやった。海外を転々とする生活だけに兄弟の絆は強かったが、特にドイツでは兄と意気投合していた。
 中学生にもなって秘密基地とは、どこか子供っぽかったかもしれないが、僕らはそれを夢中になって楽しんでいた。親友であったC君を除いて学校以外で級友と遊ぶことはほとんどなかったので、友達が普段何して遊んでいたかはよく知らない。当時ドイツではファミコンに代わるようなものとしてパソコンのゲームがあったが、そうでもなければ友達は町に繰り出していたんだと思う。おおよそ自分とは違う遊びであったことはたしかだ。男女が絡み始める年頃で、僕はまったくそれがなく、男友達と仲良く明るくしているのを見ると、「お前はホモか?」と言ってくるやつもいた。
 それでも僕なりに好きな子がいた。ギムナジウムに転入して一目で好きになったが、彼女と自分のあまりの違いにアプローチすることはできなかった。彼女は他の男子にも、年上の男子にも人気があったし、なにより家庭の事情とかお互いのバックグラウンドを想像すると、近づくのは到底無理があると思えた。変に近づいて拒絶されたらもっとつらいと思った。結局ドイツの2年3ヶ月でつき合った女の子は一人もいなかった。


M教の道場は月1回、ブレーメンへ
 M教の信仰はドイツでももちろん続いた。ただ、道場が遠かったため、道場通いはなくなり、月に一度だけ最も重要な祭事に参加した。よって信仰生活は少し下火になった。家ではまだよくかの「お浄め」の交換をしたが、宗教の話もマレーシアほど盛んには挙がらなかった。信仰生活も落ち着いたという感じだった。食生活もそれに沿うように緩やかになった。週に一遍はラザニアとか、ラーメンとか、けっこう普通のものが食べられた。普段の食事もパンが多く、肉類はなくてもチーズやバター、ジャムがあって、ガッツリと食べることができた。
 外食はマレーシアのように安くはいかないのでほとんどなかった。「ドイツ料理」に対する羨望はあったが、うちの食事で昔よりは満足していたんだと思う。こうして思い出してみると、ドイツの2年間はあっという間だった。


休みはスイスへ スキーでもスノボでもなくそりに夢中な僕と兄
 休みには家族みんなでスイスに旅行した。スイスのおじいちゃんおばあちゃんや弟妹の多かった母方には日本よりもいとこがいた。しかし標準ドイツ語とスイス人のなまりにはかなりの違いがあって聞いている向こうはこっちの言っていることが分かっても向うが何を言っているかはほとんど分からなかった。ヨーロッパ2年間の旅を経てやっと少し耳が慣れたが、やはりドイツとスイスは「別世界」という感じだった。
 小学校5年生の夏に実は一度スイスに旅行したが、相変わらずスイスの自然の美しさには目を見張るものがあって、牧場や木の家はものすごい憧れを掻き立てた。母方の祖父母は日本に帰国する前後に亡くなってしまったが、おばあちゃんちで食べるスープや、ドイツとはまた違うパンなどに意識を集中した。スイス人の生活には深く落ち着きがあった。本当は、もっともっと、スイスに触れたかった。スイスに住みたいと、もちろん思っていた。ふつうの子と違って、自分の帰属意識、アイデンティティの模索がまだ続いていた。
 一度クリスマスパーティーかなにかに参加した時に雪が深々と降って、デュッセルドルフでは滅多にない40cm~50cmが積もった。ドイツに帰るまでの数時間くらいの間に僕と兄は夢中になってソリで遊んだ。もう体が大きくてギリギリだったが、ハンドルがついていて「操縦」が可能だった。おばあちゃんの家のすぐ前の、斜面の牧場だった。
 僕は、兄妹の中でも僕だけだが、大学生になってから何度かスイスを訪ねた。母の妹にあたるおばさんが部屋を貸してくれ、もてなしてくれ、「ヨーロッパの歩き旅」までには3回僕はスイスを訪れた。スイスに住もうとしたこともあった。でも、大学時代には既に色々と内面的な問題に悩んでいて、すんなりスイスに行って落ち着くということはできなかった。心が既に複雑になっていた。

2010年4月3日土曜日

ブログ休止のお知らせ

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「社会生活」への復帰に際して、生活に集中するため、ブログを一時休止したいと思います。
申し訳ありません。
社会に対する発信よりもとりあえず生活の安定が優先のため、そうさせて頂きます。m(_ _)m

『こども時代』の連載は続けます。

よろしくお願いいたします。

とも

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2010年4月1日木曜日

■出会いの不思議…

~高橋さんという人~

 3月30日午前10時ごろ、僕は耐えかねて仕事を投げ出して家に帰った。

 高橋さん(仮名)との向き合いが限界になった。


 高橋さんとは、すごい人だ。
 プライバシーに触れるため、ここでは存分に語ることができないが、僕は14日間B(運送会社)で働いて、リーダーよりもマネジャーよりも、実質大切な人だった。僕が今向き合うべき、出会いというようなものだった。この間他にも何人かのドライバーさんとトラックに乗った僕だが、もっとも印象的で興味深いのは高橋さんだった。


 高橋さんは拘束時間の長いBに、往復3時間の通勤時間をかけて相模原にやってくる。朝8時前に出勤すると、夜11時までの仕事は普通で、それから1時間半かけてほとんど山梨県まで帰宅する。朝も1時間半かかるから、それでは寝ている時間などほとんどない…。

 事実、高橋さんは2時間半か3時間くらいしか寝ないのだと言った。一日15件前後の家電配送をこなしながら、体は疲れているのに、それしか眠らない。食事をしながら時に箸を握ったまま眠っている、とか、風呂に入ったまま寝て、家族に風呂で寝るのは「危険」だと、言われているのだと言っていた。


 そこまでして「働く」理由は何かと、僕はある時訊いた。自分の子供たちを養う必要があるのだと高橋さんは言った。「経済力」というものが、大して重要とは思えない僕に比して、高橋さんは経済力は重要なのだと言う。今の嫁さんには月10万円の生活費を入れているのだとか…。前の結婚で生まれた子供たちの養育費にもいくらか回しているらしい。
 子供を持っていない僕には経済力の重要さは分かりにくかった。なるほど「現実問題」としての経済力の重要さは理解できないわけじゃないが、僕には、高橋さんの精神力がどれほど強靭であるとはいっても今の生活の様子を伺って、心配をしてしまった。

 高橋さんは僕より10歳年上で、もうそんなに肉体的に無理ができる年齢ではない。それだのに睡眠時間まで削って、体を酷使して働いている。Bは、そうでなくても皆長い労働時間で眠そうな顔をしているが、高橋さんの表情からも疲労の蓄積は一目瞭然だった。

 『(この会社では)みんなそうなのだから…』
 としてしまえばそれまでだろう。でも僕にはそれが「しょうがないことだ」とは思えなかった。20代の若者ならまだしも、高橋さんに限っては切に無理を感じた。腹を割って話しをすれば、するほど…。

 「なんでそこまでして働くのか
 僕は14日間働いて一向にぬぐえなかった疑問がそれだ。
 お金が稼げることはありがたい。それは確かだ。毎日少なくとも「1万円」は金が溜まるという充足感。しかし、早くも一週間くらいでその価値は疑わしくなった。

 「そんなに金は必要なのか??
 Bの一ヶ月の休日は平均5~6日だという。ドライバーが一日14,000円稼ぐと仮定すれば、一ヶ月で35万円になる。しかし、一家4人としてその収入が、どれほどの意味を持つのだろう?

 日本はその高度経済成長期から豊かであればあるほど良いという人生観を、多くの人は何の疑いもなく信奉してきた。日本経済が低迷して20年が経つ今でも経済的富裕さにたいする反省はあまりなされていない気がする…。


 高橋さんを過労が蝕んでいるのが見えた。高橋さんの持ち前の精神力、意志力ではそれはやむをえないようだったが、僕の個人的な望みとしては高橋さんにうんと楽をして欲しかった。自己に課すハードルを下げて、自分(からだ)を大切にして欲しいと、切に思った。神経痛や皮膚に関して悩むのだとも言っていた。

 高橋さんの人生経験はすさまじいものがあった。3年近く旅をして出会った人の中でも最も強烈な人物だと言えるのかもしれない。もう旅ではないのだが… それを書きたくてもちょっとプライバシーの関係でここに書くことはできない。いずれにしても運送会社で働くような、人間の器ではないのである。そして密かながらも、計り知れない可能性を持っている人だった。その能力の高さと、置かれている現状の過酷さという、激しい対照性。。。 それが“強烈な人物”として僕の意識をつかんで、離さなかった。
 その対照性そっくりに、僕はあるところで高橋さんと非常に心が通い、また非常に対立的でもあった。ユーモアとか、人生観・興味関心は似通うものがありながら、仕事に関してはあまり噛み合わない。相性がよいようで悪い。「仕事」であるから、仕事力としては僕は高橋さんとあまり合わない感じであった。だが、仕事以外の面ではとても意気投合したのだ。でもそれが却って仕事を邪魔したし、仕事がはかどらないと僕も疲弊した。
 一緒に仕事をした3日目から、僕は高橋さんがわざと時間を喰っているように思えた。他のドライバーだったら15分くらいで家電機器の説明を終えて帰ってくるところ、高橋さんは、やけに時間がかかった。それが配送の時間を遅らせ、時間が遅れると僕は焦り、焦ると無駄な動きやミスをするようになった。そんな仕事の仕方がどこかであほらしかった。高橋さんと乗ると、疲れが人一倍強かった。13日目の仕事あがりが日付をまたいだのも、それだ。

 なんで高橋さんは説明にそんなに時間がかかるのか、僕は分からなかった。
 「やる気がないのか」、と思った。「僕以外の助手の時もこうなのだろうか」、と思った。
 さらには「僕のフォローが足りないのか??」と思った。

 でも、13日目などは丸一日仕事をして、1分たりとも僕は自分の時間を持たなかった。仕事から意識を外さなかった。昼の休憩時間はなく、トラックの移動中でも僕は地図や伝票のチェックをしていた。それでも仕事は日付をまたぐまで、終わらなかった。

 「なんだこの仕事は」
 そう思わざるをえなかった。「こういう仕事なのか?  いや、そんなはずはない。」これは、高橋さんがのぞんだ仕事だ。早くあがろうと思えば、あがれたのだ。高橋さんがそれをのぞまなかっただけだ…。13日目が終わったとき、僕は疲れきっていた。疲れが無意識となって、かえって元気そうだったかもしれない…


 13日目、30日になっていたが、僕は家に帰ってもすぐ眠らなかった。むしろコンビニで食べ物を買い、家ではインスタントラーメンをつくり、インターネットもブログもやった。もう、やけくそだった。明日のために寝ることなどしたくなかった。31日には休みをとる予定でもあった。自分の生活を犠牲にする、限界だった。
 それだけ「疲れて」しまったのも、高橋さんという人が僕にとって強烈な人だったからだ。高橋さんが人生に対して持っている壮大なビジョンや、野心、可能性などに対して、僕は釘付けだった。その計画に、自分が関わりたいと思った。しかし、仕事とそれはまったく別問題だった。

 30日、午前10時半ころ、配送の一件目にして早々30分以上出てこない高橋さんに僕は「失望」した。
 なんでこんなに遅いんだよ!!またすべて悪循環に陥るのが見えた。その日もまた一日、高橋さんのペースで僕があたふたやらなければならなくなるのがわかった。
 ごめんだった。
 僕はおかしいとしか思えなかった。高橋さんは、わざと時間を使っているようにしか、わざと配送を遅らせるようにしか思えなかった。その理由はわからなかった。

 日付が変わるまで働いて、僕の給料は14,500円前後。はっきり言ってそんな価値はなかった。2万円もらえるならやってもいいかもしれない、というレベルだった。あまりに疲れすぎた。
 そしてやはり思った。ここまで長時間、自分を拘束して働く意味はないと。ここまでして1万数千円を稼ぐ意味はないと。

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 まだ今回のことは消化しきれていないのだが、大きな反省点が一つある。
 社会では「不食」をはじめとして、自分の非凡な精神活動について、話してはいけない。
 ということだ。昼間に作業着のまま家に帰ってきた僕に父が声を掛けて、事態を報告すると、そういう結論に至った。

 『どんなに正直で、かつ丁寧だとしても、「不食」は語るな。社会の人間は理解しない。』
 『人と違う世界を持つ者は、その扱いに間違いが許されない。』
 『人と違う世界を持っていても、「人」であることに変わりはない。社会で生きていくならば、一般人でなければならない。』
 『神はそこらじゅうにいる。奇跡はそこらじゅうに起こっている。でもそれを扱わないのが、変な話この社会であるのだから、そこではそこのルールに従って、扱うべきではない。』
 …。

 僕は昔から、子供のころから、自分の体験したことは正直に打ち明ける人間だった。喜びと、驚きと、感動を込めて…。それが兄妹や親をはじめとして多くの人間を喜ばせることを知っていたから、ずっと言葉を使って、自分の体験を表現してきた。しかし、その『非凡さ』・『奇異さ』が強くなってくると、あるところからは話してはならない領域に入る。話すことが決してプラスにならないケースがある。そこを僕はまだよく分かっていない。僕は自分が体験したことは他人も理解できると思い込んでいる、と、父はおととい言った。


 「脱走」を繰り返す自分。
 常識的立ち振る舞いができない自分。精神の分裂質や、長い一人旅、文化混在がその原因だが、社会で生きるならそれを元にもどさなければならない。世界を封印して、一般人に還らなければならない。
 …