2009年12月26日土曜日

『自称卒業論文』 9

我慢について
         
17.12.04
 人間は、意味がないと感じることをしなければならないのだろうか。
 生きてゆくために我慢は必要だろうか。
 一つの仕事の中にはやりがいのあることも、面倒くさいことややりたくないこともあるが、やりたくないこともやらなければならない、のだろうか。 おそらくこれを読んだ人の十中八九は、こういうことを言う奴は、「働く」ということをわかっていない、と思うのだろう。人生を甘く見ている、と思うかもしれない。
 私はこれまで、上の問いには“そうだ!”と答えてきたが、ある時から“ちがう!”という姿勢で生きるようになった。 その代表的な例が、今大学を退学しようとしていることだ。

 大学では、休学1年を含めた3年間で90単位を取り、残りの2年間で46単位を取るだけで卒業ができる状態だ。しかもその残りの2年間は好きなことに存分に時間を使える。単純に計算してこれまで一年で45単位とってきたのだから、残りの2年間はこれまでの半分の努力(半分の単位を修得するだけ)で卒業できる状況だったのだから。
 これまで経験したことのないことに取り組んでみてもいいし、好きな勉強に費やしてもいい。そんな恵まれた境遇が、今年(2004年)4月にはあった。 さらに私は幸せだった。なにより2年前の経済的逆境を自力で乗り越え、卒業までの資金的不自由はない、という、大きな“達成感”に満たされたから。 しかし、前期試験(同7月)で全く勉強する気にならず、失敗し、後期には授業にも出る気にならなくなって、現在(2004年12月)、に至っている。やはりスイスに行く、ということになっている。
 
 高校の時のがんばり(年6回の定期試験で好成績を残した)に比べれば、テストの基準も、回数も、授業の回数も少ない、はるかに楽な講義に出る気にならないのは、明らかに、おかしい!高校のときの「勤勉な小川智裕」はどこかへ行ってしまったのか。 2002年の一人暮らし開始から、人生の厳しさをすべて一人で背負い、厳しいけど人間関係から完全に開放された自由の中で、かたくななまでにその新たな道を大切にしてきた。
 そうやって生きることの思索に耽った自分は、 「人間はしたくないことはしなくてもよい」 、という生き方に妥当性を見るようになった。それはどんなこまかいことでも、些細なことでも当てはまる。つまり、人間は一切のネガティブな感情から開放されハッピーに生きられる、ということだ。人がハッピーに生きるのは、無条件だ、ということだ。 これは、苦しむ人が絶えないこの社会の常識に反した認識であるし(家族からも反対されている)、この道で達成したこともまだ少ないせいか、私もはっきり正しいとは思えない。今でも自分を疑っている。
 でも、どうも身体というか、私の心は、「それが正しい」と言っているような気がするのだ。それであたかも生理的な症状のように「勉強」が出来なくなってしまったのだ。いわゆる勉強は、「無益な思考」と身体は感じているのだ。益のない作業だからやりたくない。やりたくないからやらなくてよい、というように。
 
 これは重大なことで、定着すれば、私の物事の認識が根底から崩れることを意味している。自分の中で、「仕事」が変わる。「人間づきあい」が変わる。そして、「生き方」が変わる。 これが真実だとするならば、これまでの認識が全面的に改められるだろう。
 ほとんど遊んでいても卒業ができた、恵まれた2004年の4月。
 しかし、私は「社会に出るまで遊ぼう、学生時代の最後を悔いのないように楽しく過ごそう」なんていう生き方はしたくない。損得を考えたりして打算的な生き方をする人間はちっぽけだし、人間の生き方というのは、そんな制限されたものであってほしくはない、と思う。



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 以上CD-ROMから発掘したすべて。
 (全体の約8割を思われる)

『自称卒業論文』 8

15.12.04
 母について述べたことの多くは父にも同様に当てはまる。父と母はその家族の中の役割としては全く違う立場にあった。父は一日のうちほとんどの時間を外で過ごした。母は仕事に出ることもなく、他なき「専業主婦」で、子供が帰ってくれば家にいて相手をした。そうやって母のほうが圧倒的に多くの時間を子供たちと過ごした(一般的な家庭もそうかもしれない)。
 日本に帰ってきてG塾となってからは父もうんとそういう時間を持つようになったが、私の生い立ちの中では父は精神的にも物理的にも基本的には「外」にいる人だった。夫婦でそういう違いはあったが、『国際結婚』という責任を軽視していた面は、同様にある。 父が、結婚二十数年して、いまだに、話を理解していない母に対して『この人全然言ってることがわかってない…』と、まるで身内でない人間にいうような言い方をするのを聞くとため息がでる。

 父はもともと、周囲に意識が及ばないところがあって、相手の立場を考えて行動するということがあまりできない(しようとしない)。この前、父がG塾の活動として参加しているA農園の野菜配達のお手伝いを、僕がすることになった。宅配を受け持つことになった。宅配に関して私は、当然ながら、無知だったがそんな僕に対して父の配慮のなさはひどいものだった。普通に考えて、おかしかった。やり方を知るよしもない人間、失敗してもあたりまえな素人に対して、少しでもミスがあると、どなる。『気をつけろよ!…』『あぶねぇよ!』という具合に。能力がない、とけちをつけることさえある。そこに、『これからは気をつけろよ』という思いやりはありゃしない。
 そんな親分についた弟子はどうなるか。決まっている。親分の優れた面に憧れて、慕っている間は、親分の言葉が怖くて、ただひたすら、ミスのないように、全身に神経を使って仕事をする。(弟子には、緊張をほぐしたり、心を穏やかにして親分と付き合う余裕はない。)やがて、時間がたっていろんな大人を見て知るようになる頃には、この親分についてゆくのは馬鹿らしいと思うようになり、離れる。それが落ちだ。父には知識とか、母にない冷静な判断力があって、その面において若者を指導する人間にはなれると思うが、全人間的に人生の先輩として指導するのは限界があると思う。一つのことに集中する能力は大切だが、それによって全体の流れが損なわれてしまうなら、せっかくの集中力もあまり生かされないと思う。
 私は父に対して何度、「どうしようもない」と無念の思いに沈んだことか。
  もう一つ、この前の宅配でのことを書いておこう。忘れてしまいたいが、記録として。 『宅配をする時は、誤配に気をつけなければならない。宛名が似ているものは間違え易いので特に注意する。』 二年前、自転車の宅配便(messenger)をしたときに、くどいほど言われていた。
 宅配の手伝いに初めて行った日、私は自分のメッセンジャーの経験などからも宅配で気をつけなければならないことを、自分から、父に色々確認した。父は父で私の立場を十分に思って説明などしてくれず、(というかあの人の物事の収め方自体、他人に意識の及び得ないやり方なのだと思う。)私がやたら気を遣って頑張らなければならなかったのだが、この日、私は『名前が同じお客さんもいるの?』と確認した。 親に頼まれた仕事であったが、とにかく一つの立派な仕事として、私は責任感をもって取り組もうとした。
 しかし、父の、私に対するあまりの配慮のなさに、宅配が終わったときの私は精神的にもくたくたになっていた。父の自分勝手な言動は相手にしないつもりであったが、一午後ずっと一緒にいたのではさすがに父のペースに引きずり込まれた。
 「だめだ。こんな環境じゃ、仕事にやりがいを感じるどころか、心が磨り減ってしまう。」そう強く思った。建前上絶対的な権力としての父が私には耐えがたかった。父の上に立つ、または同等な身分として共同で仕事を決めてゆくなら一緒に居ることが考えられるにしても、そうでなければ、全く無理だ、と実感した。実家を出て一人暮らしをする前の、「苦しみ」が、鮮やかに思い出された一日だった。でも半分相手にしていない自分もいたから、なんとかやり過ごせた(相手にしたら、私はいつでも、また父をだろう。)。

 「十分に相手をしつつも、もう一人の自分が距離をおいてその全体の状況を眺めている」、という物事の見方がいつの間にか身についている。最近はほとんどそうなっている。 2回目の宅配の日、坂本さんという人が2人いた。この時は私はドライバーを担当したのだが、この日のお客さんについては前もっての確認がされなかった。私が「確認させて」と出てもよかったのだが、寡黙でマイペースな父に自分から色々確認しすぎると、これがまた適当に嫌な顔をして受け答えされるので、それは、私ばかり疲れて割りにあわないので、本来ならばそういう人と仕事はしたくないのだが、「その人」が「父」であるから、私は人一倍に宅配が無事済むことに神経を使った。
 しかし、坂本さんが2人いることには気づかず、「誤配」をしてしまったのだった。
 宅配が終わって、家に帰ると、そのことが発覚し、よりによってその時ちょうど、自分で野菜を取りにくるもう一人の坂本さんが来てしまった。突然のことにさすがは父、即座に応じた。だがその弁解の仕方はこんなものだった:
 『あぁ坂本さん、すみません。今日がですね、坂本さんの分を、間違えてもう一人の坂本さんに届けちゃったんですよ…』
 『あそうですか。』
 『すみません。後で届けさせますので。』
 『全然いいですよ(^^;』

 …私は父を、許した。これも相手にしていないからこそ、できたことだ。 でも私はG塾で生活を続けることはできない。心が磨り減ってしまう。苦しい。父は自分で気づいているかは知らないが、他人の努力をことごとく踏みにじるところがあるから、辛くてたまらない。スイスに行くことにしているが、万一行かないということになっても、居れない、G塾には。スイスに行くことの妥当性が高まった。

 父には、自分の関係ない事は手を出さない、という姿勢があることを前に述べたが、私は同じようにして、父に関してやりきれないところは、「関与しない」という手段を採る。
 今回、私は母に関して、父より多くを書いたが、それは母が、どこまでも関与しようとする(本当に関係のないところまで)、そしてすべてを決める亭主のように自分で事をまとめたがるから、強引さという意味では母の方が強いので、強引な人間には少し辛く当たらなければならないから、多くを書いた。自分の意見を付するべきでないところで自分の意見を挟んで、邪魔をする。そういう面で母は、私にとって父より目障り(厄介)であるから、彼女についてはそれを細かく書いた。あるいはまた母というのは、父以上に私の心に染みた存在だから、多くを書きたくなったのかもしれない。

『自称卒業論文』 7

12.12.2004
 母はこのような姿勢で家族と接してきた。 私が今、見えている範囲で母と父を見ると、こうなる:

 母に対して、まず一番最初に浮かんでくる疑問は、全く異文化の地に嫁に行く、その決断は思い切った決断に違いないが、それに彼女は冷静に向き合うことは出来ていたのか。ただ、変わったこと、勇気ある行動として賞賛されるのでは済まされないものがあることに気づいていただろうか。ということだ。
 以前にも述べたように、私に両親が父母ではなくそれぞれが人間像としてとらえられるようになったのはまだついこの間のことであり、最近の母を見て判断すれば(私はそれしかできないが)、推測では、自分の故郷スイスで何か嫌なものがあり、それを一掃できる手段として父と結婚することは魅力的であった。または、母は父と知り合ったことで、アジア人との結婚というスイス人にはまだほとんど歩んだ人のいない道が彼女の前には広がっていた。
 彼女はかなりな冒険家でもあるから、若い彼女が、その未知の道に飛びつくのは彼女らしいともいえる。――冒険心に掻き立てられた、目の前に広がる道――調子に任せて踏み切ってしまった道。その勢いのあまり、人間関係の心の通じ合いをなおざりにしてしまった。自分はユニークな道を歩んでいる、そのことに酔ってしまった…。冷静でなかった。そういう事実があるのではないか。
 心の通じ合いを子供との間だけで事足れりとしてしまった。まずは、夫ともっと向き合ってみなければならなかったのではないか。 こう思うが、私はこうして肉親のことを事細かに批判していると、自分は親に憎しみを抱いているとか、親を苦しめることがしたいのかという感じになるが、狙いはそこではない。このような激しい批判をするのは、これまで誰も客観的に、深い考察をしうる人間がこの家族を見たことがなかったから、私はこのようなことを書きつつ、できるかぎり冷静に眺めてみたいのだ。

 続ける。母は温厚な優しい人間を振舞いながら、他人が彼女に心をこぼすのは受け入れるのはするのだが、逆に彼女自身が他人に心を許したり、自分のことをゆだねることがなく、距離を置いて接しているところがある。これは母は父に頼れないという意識の中で結婚生活の中でできてしまった性格なのか、それともそれ以前から、母の幼い頃からあったものかということが気になる。
 もし、結婚生活の中で不幸にも心を許せない人間になってしまったのならば、私の母の見方は変わるのだが。しかし私は、彼女は夫と出会う以前から、他人に心を許しきれない人間であったのではないか、と思っている。彼女の人生で、意地というか、どこか不自然なプロセスが強行されたように思えるのだ。それは今の彼女の普段からの物事の収め方に、結構強引な面があることから、そう思う。
 彼女は、夫の分も頑張らなければ(私はできる!)、という意識の中で、身の周りの、より多くのことに、一人の人間では能力的に不可能である所まで手を出して、家族の中のあらゆる活動を彼女の計算(頭)がついてくる限りにおいて精一杯にやってきた。今もやっている。しかしそれは“無理”である。
 彼女が出来る限りにおいて活動に加わるということは、裏を返せば、他人に仕事を任せない、任せられない、任せるのは不安だ、ということでもある。彼女は他人を信頼して仕事をゆだねるということが、そもそもできないのではないだろうか。あることにおいて、他人に自分の心を委ねる、そして自分は自分のことをやる。そういう関係の中で、物事は無理なく収まるはずである。そうすれば3人家族であれば4人分の、5人家族であれば6人分のエネルギーが生まれるはずだ。 母は、どこかで、自分が他人にお願いしても、相手は気乗りしないのではないか、拒否するのではないか、という不安があって、母は他人に本当の意味で「任せる」ということができないのではないかと思うのだ。

 今、私の家族の夫婦の1+1は2以下だ。通じ合っていないから。却ってお互いがお互いのことを邪魔するようなことが起きている。私は母には、話によって解決する余地があるから、母に真剣に向き合ったら、彼女の心を和ませ、私の思いを伝えることはできる気はするが、私には私の人生があるし、そこまですることは自然な流れではないのでしようとは思わない。
 私には、母を思う気持ちと同居して、昨日日記帳に書いた*ような母に対するやりきれない、暴力に出るとも分からない思いがあるからここは、おとなしく身を引こうと思う。彼女に奉仕することは私の心が望んでいることではない。

 母に関して、あと一つ。 私がこれからスイスに行くことを考えると、自分の立場を母の若い頃に重ねてみることができる。『言葉』の問題だ。
 私がスイスに住むということはある意味で、私の母語“日本語”を放棄することだ。スイスに永住すれば確実にそうなる。スイス・ドイツ語が母語になる、またそうしなければならない。 私は今こうして日本語で書いている。私にとってこれほどまでさまざまな表現を可能にする日本語をいう言葉。これを手放そうとしている。
  同じこと、いや、私よりはるかに大きな言葉の壁を母は、日本人との結婚という行為をすることで自動的に突きつけられた。彼女がそれに気づいているか否かは別として。私は、ドイツ語というベースを使ってスイス人の自然な心の営みをそのままに、ありのままに、理解できるようになるつもりであるが、ベースもなかった母はこういうことをどう考えていたのだろう。 母は、この日本で暮らしていて、私が昔思っていたよりはるかに日本語をそしてその心を、曖昧にしか理解していない。彼女は、言葉の壁という障害で生まれる理解不足をカバーするために、直感とか感覚というものに頼って「理解したつもりになる」という方法で、本当に理解していなくてもうなずいたり、少々強引に自分のペースで話をしたりするようになった。
 正確なコミュニケーションの大切さを、結構無視してしまった。 これも、彼女が夫の分も頑張るという意識によってそこまでやってしまっているのだとしたら、それは明らかに“無理をしている”のあり、そのようにして彼女が気張らなければならないのは彼女の問題であり、他人はそれに付き合うこともないし、付き合わされるべきでもない。心のどこかにしこりがあるためだと思う。素直じゃないところがどこかに伺える気がする。とにかく、彼女のコミュニケーションのとり方は曖昧という以外になんでもない。あまりに不正確な情報のやりとりで事たれりとしてしまっている。

 そのような限られた、非常に狭いコミュニケーション方法を子供の頃から身に付けさせられた僕ら子供からすれば、僕らが社会に出たときに、人間関係でうまくいかないのは当たり前のことだ。私は苦労したわけだ。 言葉の壁。文化の壁といってもいい。これは心によって乗り越えることはできるが、いい加減に扱われてよいというものではない。あくまで意識しながら、不足分を心で補えるというだけだろう。私はこの母の二の舞にはならず、スイスでも、正確なコミュニケーションを目指したいと思う。

『自称卒業論文』 6

11.12.04
 私は母には打ち解けやすい。母は母でやりにくいところはあるが。 私は時たま実家に帰るたび、G塾に関してたくさん話してきた。塾の特異なところ、彼女にとっては耳が痛いだろうことも打ち明けてきた。(私は、母にくらべ父にはあまり話さない。彼とは建設的な会話が出来ないからだ)
 母にはまだ、話によって気持ちを伝えうる余地がある。がんばれば…。11月末、実家に暮らすようになってから、たびたび母にはこういう話をしてきた。 その一つの内容から入ろうと思う。
 
 3年前、私は実家を出て一人暮らしを始め、この社会の一員として人々と接したり、先生として生徒と接したり、またあるときは学生として人々と接してきた。 その中で、 『いつも自分の立場をわきまえて人々と接する』 (当たり前のように思われるかもしれないが、これを徹底することで私は大きく変わった) というやり方を学んだ。
 これはいつ何時、自分の身に何が起ころうと、(こう言うと特別な事態を連想させがちであるが、そうではなくて、どんな些細なことでも大きなことでも)「自分らしく(立場をわきまえ)」、周囲(他人)を考慮に入れ、行動する、というものだ。 今からすれば、これに気づく以前の自分は、ハーフとか、外国生活の貴重な体験を持っているとか、そういう特別な自分自身に「酔っている」面があって、思い上がりもあった。この日本の平均的な人に比べれば私は、能力的にも恵まれ、色々な面で「得意」になるのは自然な流れだったと思う。でもやはり、認識の共有ができるのは狭い身内に限られ、そのために庶民の人々と認識の共有が難しかったことはいつも心のどこかで気懸かり(悩み)だった。
 学校などで集団の中で私が浮いていたりしたのは、もちろん居心地のよいものじゃなかった。 なぜ自分は日本の一般的な若者と打ち解けることができないのか。それが、なにげに、私にとって最も気掛かりなことであっただけに、それに取り組んだことが、私の大学生活の主な中身になる。
 話がそれかけたので戻す。 そのように自分が変わり、その新しい自分は、自分の意見や思惑を、昔よりはるかにうまく、そしてなにより自然に伝えることができるようになった。自分の考えが正確に、また冷静に述べられるようになったのだが、何がそれを可能にしたのか。それは、実家から開放されたことにあったと思う。

 実家を出ると、そこには人々との関係の中に、G塾にはない 「ゆとり」 があった。(これは無意識の世界での学習であって、(自分の価値観を根底から改める作業といってもいい)今になって言葉にしてみれば、こういうことかな、ということだ。)大学でも、塾で生徒と接していても、他の先生が生徒と接しているのを見ていても、そこにはあくまで相手の立場を尊重する姿勢があった。
 自分の思惑を、相手にできるだけ直接伝える:分からないことは『分からない』、あるいは、『分からないから教えて』、と、正直に出る。特に塾の生徒と接しているときは、そこはそれまでしがちだった遠まわしな表現やほのめかしが全く通用しない世界だった。
 私はそんな外の世界で、戸惑いや混乱を抱きながら、内面を自己改良して、自分の独自の人間関係の持ち方を開発した。したと言うともう完成したかののような響きだが、そうではなくて、これから改良を加え、より確かな、完成度の高いものにしていかなければならない。
 重要なのは、先入観でない裸の認識に基づいた判断によって「新感覚」を養ったことだ。それは、G塾では養い得ない素質を育むことのできる土台が出来たということでもある。そういう意味では今私は、「無限」を感じている。何をやってもよい。何でもできる。
 私はG塾にいた時は、その『ゆとり』を知らなかった。無意識に、次から次へと「動く」、「考える」、疲れて初めて、「休む」。頭で考えていることが先で、心や体は、それに酷使される状態だった。これは進行すると、精神的に非常な負担となる。私も自分を殺したくなる夢までなら、見ていたことがある。

 今であるから、それは心の不安が引き起こす焦燥感であり、それによって駆り立てられていたということが分かるのだが、当時はそうずばり言われたとしてもまず納得しなかっただろう。自分でしか自分が気づくことでしか変えられないものというのはある。他人にはどうにもできないところというのはある。 (そういうのは大体、他人は他人で、責任を負えないのであるから、手を出さないでそっとしておいてあげるのが賢明だ。放っておいたことによって事態が悪化しても、最悪その当人が自殺に踏み切ってしまったとしても、それに他人の責任は。この世にはそういう「厳しさ」はあると思う。)

 そういう焦燥感的な雰囲気、言い方を換えれば『ゆとり』の欠如、が今でもG塾にはある。 先日、私はそのことを、母に何とか伝えることができた。 母はしばらく黙って、
 「そうね。そういう余裕も必要よね。」
 と一言言った。思慮深い表情を浮かべたが、なんとなく理解してもらえたようだった。 しかしそれから数日たった今、母は彼女のいる空間には、相変わらず、焦らなければならない雰囲気を出している。直接でない、遠まわしな言い方(お前はこうやるべきだろ!)で、相手に罪悪感を負わせる(ああ、私がやれば事は済むんだ、やらなければ!)、それによって他人は動く、という昔のままのスタイルである。最近はこれまでにいないG塾になじんだ塾生がいたり、女の子が増えたりしたことで、昔よりは雰囲気が和らいでいるものの、基本的なところは変わっていない。Voluntaryではなく、obligatoryである。
 母はしばらく黙った後、こんなお話を聞かせてくれた: まだ一番上の兄しかいないときだったそうだ。
 兄はベットで寝ていた。母は風邪をひいてしまったらしい。父は仕事から帰ってくると、「疲れた」と言い残してベットに入ってしまったらしい。母も兄のこともかまわず。そのとき母は心にあることを刻んだ:  
 『私は、この人と一緒では、病気になってはいけない。しっかりしなければ。』
 きっと母はそれから今日まで、基本的にはそういう姿勢で家族と向き合ってきた。自分が夫の分までがんばる、というような意気込みだ。母は、自分と夫との関係より、子供との関係を重視した。子育てに専念した。そして5人を育て、今は他人の子供まで見ている。

 私は、今、前述したように、国際結婚の重大な責任を負えていない両親を非難する見方があるため、母に対してそういう母の努力にはあまり目を向けず、そもそも結婚したことに無理があった、と二人の結婚自体を否定している。生まれてしまった私はマイベストを尽くすに尽きるが。(私は今、無責任な結婚は「逃げ」であり、不幸な子供をつくることになるとし、自分が変わり、自分が経験したような苦しみのない平和な家族をつくれるという自信が生まれないかぎり、結婚はしたくないと思っている。責任がおえないから。)

『自称卒業論文』 5

10.12.04
実家にもどって

 11月24日、実家に帰り、母にスイスに行く決意を話した。まだ決めきってはいなかったが。
 11月25日、混沌とした頭を休めたい思いで、山登りにいった。ここで、本当は一人で行きたかったのだが、ちょっとしたことがあって、G塾塾生のI. Y君という子と行くことになったのだ。この、「ちょっとしたこと」については後に「私の家族」のところで詳しく考察してみたいと思う。

 その晩、父の前で私はまたスイスに行こうとしている事を伝えた。私にとって父という存在は気安く話ができる存在ではない。話すときは相当覚悟をもって、言うこと言うことに神経を使わなければすまない。それは「怖いから」とか単純な理由ではなく、これも後で詳しく書きたいと思う。
 気持ちがはっきりしていたわけではなかったが、言い出したからにはそれなりの認識を伝えるという意識で、「まともに大学の授業を受ける気にならない自分=スイスに行く自分」という感じで、父には事を伝えた。
 それから色々動き出した。アパートを出て実家に引越しした。塾講師もやめた。 急に、実家の一員としての生活が始まり、今日に至っている。大学には行っていない。気の向くままに日々やることを決め、山に登ったり、読書したり、スイスに行くことを念頭におきながら、それまでにやらなければならないことにゆっくりと着手している。
 そこでこの自称卒論のことを思い出し、2週間ぶりに読んでみようと思い、さらに内容を付け足すことにした。これを書いて誰に見せるかはまだ考えていない。父母、兄弟には渡したいと思うが、大学の友人に渡すか、どこまで渡すかは色々書いてみてから決めたいと思う。


私の家族

 私の父は日本人、母はスイス人。兄弟は5人、年齢は上から24, 22, 17, 13, 10で、上に兄一人、下に妹3人だ。父はドイツに出張中、スイスで母に出会い、結婚した。
 兄と私はドイツに生まれ、幼いころ日本に来た。私はそれから小学1年生まで日本で育ったが、父の仕事の関係で小2~小5マレーシア、小6日本、中1~中3夏ドイツ、中3秋~今日日本、というように海外で過ごした時間が長く、3カ国に及ぶ。この私の生い立ちについては説明しきれないので(だれでもそうだろう)省く。
 まず、私の家族はデカい。日本で5人兄弟の家族は何パーセントあるだろう。人は3人や4人なら聞くが、5人は…、なんて言う。少子化が進み、一家族がもつ子供の数が1.2とか1.3とも言われている今日では珍しい。当然、家族内の雰囲気も変わっている。自分の個室が与えられるなんてことはまずなかったし、お小遣いだって少なかったし、親は5人も子供がいればその分一人ひとりに目が行き届かない訳で、自然に、兄弟一人ひとりがしっかり者に育っている。3年前に家を出て、日本の社会に浸り、一般的な家庭の子供たちに勉強を教えてきた私からすれば、一番下の妹なんか、かわいそうなくらい「しっかり」している。本当はもっと甘えたいだろうに…。

 さて前置きはこれくらいにしておこう。書きすぎるのは疲れるので…(^^;。 家族について、どこから話したものか迷うが、思いつくままに書いていこうと思う。 これで始めよう:
 『私の両親は相互理解がない』
 (前もって断っておかなければならないが、私は、こうまではいいのだが、これを他人にことは、私の両親の理解がないことにさらに拍車をかけるというか、逆に、理解する道をも断ってしまう力を持っていることは分かっておかなければならない。だから読む人には、私の言うことは、あくまで単なる一人の人間の見方として聞いてもらいたい。)
 
 理解ということについてまずはっきりさせたいことがある。理解というのは理屈が分かることではなく、心が通じることでなければならない(と私は思っている)。相手の気持ちに、自分の心が共鳴するか、しないか。理屈ではないところだ。Feelingというか。「理解」することを理解するのは難しくない。難しく考えると却って分からなくなってしまうのが本当の理解の仕方だと思う。
 私の親は互いにこれが出来ていない。実際なにげなく観察していると分かるのだが、それが延長して、彼らが僕ら子供たちや、外部の人と接するとき、二人の間ほどではないが、ある肝心なところで相手との気持ちの共有がなされていないことに気づく。しかし、家族のあり方はどこでも、夫婦のあり方が土台になっていて、それによって家族のあり方が決まってくる。
 だからうちの場合は、父と母のあり方は、G塾の土台になる。ステージになる。二人の間がうまくいかなければ、今の夫婦のあり方を改めなければ、G塾はうまくいかない。崩れるかもしれないステージでは、どんな役者も踊ろうとは思わない。
 最近の夫婦の議論は不毛なものが多くて、何も生み出さない。お互いがあるところで譲らない。二人を今の私から見ると、父は、持ち前の判断力で物事を冷静に見ているが思いやりに欠け、また、ユーモアもない。この人は果たして人生を楽しんでいるのだろうか、と疑いたくなるほどだ。母は感情的な人間で、それに左右される。それで決め付けたり、余計なことまで手を出したりする。その点、行動が無責任になるのだが、それを人情の厚さでカバーしようとする、他人にもそうするよう迫る強引なところがある。

 スイス人と日本人。お互い地球の反対側の人間である。文化とか言葉とかそういうものを総括して、人間の出来方が違う。そういう二人がくっついて家族を作った。『国際結婚。』それはもてはやされるが、そんな軽々しく扱われてよいものではない。そこに生じる責任にはものすごいものがある。その下に育った自分だから、予想される苦しみが分かる。
 文化を超えた相互理解――これは今の時代的な流れでもある。21世紀はある意味で、人類がまさにこのことに取り組む一世紀になるに違いない。その意味では私は、このことを今自分のテーマにしているように、これからも、文化を超えた人間の交流に身を入れていきたい。一生かけてもなせる仕事か分からないが。 私の意識に両親が人間像としてはっきり捕らえられるようになってからまだ日は浅いが、私の両親は純のスイス人と日本人だ。彼らには文化の壁を越えるというのは大きすぎる壁だったのかもしれない。
 結婚して二十数年。悲しくなるほど二人は歩み寄れなかった。いつのまにか、言葉で相手を説得するような関係になってしまった。あべこべだ。本来言葉は手段であって、心が先にあるのに…。 親の、子供に及ぶ影響はすさまじく、彼らの考え方は子供の物事の考え方そのものを大方決めている。子供の人格形成の過程で、やがて大人になれば無意識となる領域、それも決定付ける。幼いころに。 私の兄弟は知らないが、両親の考え方が合わないことが、そしてその間で裂かれるようにして生きた時間が影響したのか、私はついこの間まで、自分の人格が形成されていないような感覚がしばしばあった。あるところで私は自分の感覚を信じきれず、ああ考えてみたり、こう考えてみたりする傾向があった。普通の人だったら、まず疑わないようなところで。
 価値観の違いは、一つひとつの物事に対してそれくらい大きく左右する。

『自称卒業論文』 4

スイスに行く決断

~自分はなんとも傲慢にできた人間だ~』 
22.11.04  
という実感。何度か友人に言われたように。自分でも思うその一面。
 大学にのこり勉強をがんばっても、そして理想のドイツ語1級、英検1級をとっても、『この傲慢さ』:(自分はひそかにすごいという感覚、自分は周りとは出来の違う人間、という感覚)はさらにエスカレートするばかりだろう。今でうまくいってない人間関係が、資格をとったからといってうまくなるはずはない。社会的に評価されて自信をもったからってよくなるとは思えない。
 だから、自分らしくない“切り詰めた”生活をつづけるまでして大学にいる意味はないだろう、と思う。もちろんこれまでも一度休学したときから、2年という時間(もうそんなになる)、思考に思考をかさねて、あるときは「そのとおりだ」、と、あるときは「違う!」、と、自分の中に激しい矛盾を感じて、もがいてやってきた。
 気持ちよい答えなんて出ない。それくらい問題は深い。しかしこの2年、大学になんとか残るためにもがいたのではなく、自分を発見するためにもがいたんだ、と自分では思う。なんでこんな苦労をしなきゃ自分がわからないのか、そもそもなぜ“自分がわからない”人間にそだってしまったのか、自分でもわからないが。
 でもこの苦しい期間を歩む中で多くを学べたことや振り返って、よかったと思えることは事実だ。 言葉も満足に出来ないという環境に一人で乗り出す不安。長い目でみなくてはやっていけない。生活は出来るだろうが、果たして幸せになれるのか。家族は持てるのか。生涯孤独のまま終わるのではないか。大卒という資格がないことが、これから長い人生にどういう影響を与えるだろう? もしスイスに住むとしたらスイス人となるのだが、目の症状はこのまま進行していって、もし失明したら、どうなるというのか。そういうようなことが不安で、これまでそういう不安のない、そして苦しいが、勉強もできるし自由時間も多い、大学という環境を選んできた。
 でも、今、私が選びうる道で、不安がない道などない。だから、できるかぎり冷静に、気分に任せない選択をしなければならない。それは人生が深まれば深まるほどそうだと思う。若いうちの気は移ろいやすい、と聞くが、残念だが私がどうがんばったところで、10年度の自分の判断力には負けるだろう。たった2年前の自分だっていまより幼い。 積み重ねになる生き方をしなきゃならない。他人任せで単純気ままな生き方は、将来に暗雲を投げかける。今大学をやめることは、一見このことにそむいているように見えるかもしれないが、逆に大学をやめると、これまでの苦労は水の泡かといえば、そうでもない。
 大学4年通ったところで、退学。同期の連中と一緒に卒業。 みんなは正式卒業。僕は自主卒業。笑
スイスに行く。 



22.11.04
 決断後の様子はまったくはっきりしない、この自分という人間
23.11.2004

 21日(日) カラテ学生大会応援 
 関係の微妙である(打ち解けてもいない、中途半端な関係の)仲間のカラテの試合の応援に行った。自分は週1の稽古にも出ていない状態だったから出場するチャンスを得ず、ただ、応援しに行った。 新人戦で、白帯の目立つたいした試合ではなかったが、自分がまともに練習して出ていたなら、優勝も夢じゃない。そう感じた。
 だから、逆に 自分が適当な、生半可な気持ちでカラテを始めていたことを自覚。 何事も本気で取り組まねば迷いを招く? 何事もその物事に対して誠意ある取り組み方をしなければ、迷いを招く。半端な気持ちで扱ってよいものなど、本来ないのだろう。必ず自分につけが回ってくる。

 22日(月) 塾講師で一時的に教師熱が復活
 試験対策として自習時間を与えたにも関わらず、自分たちから勉強に励まない生徒たち。 ふざけていた生徒に対して、塾長までが僕のクラスに入ってきて生徒を注意した。生徒に厳しく示せない私。叱れない私(相変わらず)。
 この時は納得いかず、授業の最後になって、15分を全体授業に当てた。厳しくやった。「おまえらこれをやったほうがマシだ!」、と、試験には出題されない内容をやった。(生徒に反対されるのが怖いからこれまでこういう行動は極力避けた)
 その日、生徒に学校のプリント類から近い試験の対策問題を作ってと言われたので、塾に残ってそれを終電ぎりぎりまでやった。できた問題は見直す時間がなかったにも関わらず、よく出来ていた。 必死になってやった。きっとだから、ひさしぶりの充実感があったし自分の能力が最大に生かせた。A44枚にもなる問題を作った。
 そういう授業のあり方が、教師としての自分の、本来のあり方だと思った。この感覚を覚えたまま、先生をやめるのは、気もした。
 あの青梅の地で、英語の先生に専念する、そんな道も考えた。2年近くあの塾にお世話になり、塾長の人間性からは多くを学ばせてもらった。将来の自分の像として、彼のような人間になりたい。というのもあるのではないか。(生徒にゲームボーイを借りてドラクエに夢中になっちゃうような、子供心とか遊び心の分かる先生だ。) 自分の中で、“教師”という職業に対する関心は密かながらとても強いと思う。 はっきりしたこと。先生だけでなくなんでも、やはり、熱意をもってしか、本当の仕事力は身に付かない。「専念」することによってしか仕事力は伸びない。

 23日(火) ドイツ語検定2級受験
 意外にも、できた。というか、問題が簡単に感じた。 最近の精神的な動揺のせいで何も勉強してなかったから、返って、もう行くだけ行って受けるだけ受けるという、リラックスした状態にあったから落ち着いて臨めたんだと思う。合格できるような気がする。 (これから資格試験はこういう状態で挑むべきかもしれない。マジで。今日のリラックスがあったら準1級は受かっていた)
 自分はできる‐従来の夢、英語、ドイツ語、日本語を駆使して活動する国際人になれる‐という、また下手な時期に、変な自信を持ち、迷いに迷いが生じた。類は友と呼ぶというように、まるで迷いが迷いを誘うかのようだ。
 この影響で、今日は大学に残ることをまた考えた。はっはっは。どうなってんだ俺は。 実家に帰って生活費を使わなければ、資金的にはもう一年学費は払えるから、その新たに生まれた1年で、ドイツ語や英語に加えて日本語教育能力試験、漢検2級ももう一度目指して資格試験に専念することまで考えた。まったく、すごい迷い様だ。
 とりあえず、今あの大学で授業をまともにうけて、単位をとるということは考えられない。それは私のアレルギー対象だ。そうやって勉強するのは、いままでの、あの高校時代のような、(興味による勉強でなくして)我慢による勉強になるからだ。 いままでは、大学で勉強する気にならない自分を精神的な支え(家族や恋人など)がないからだと自己批判をしてきたが、つまり、一人で突っ張っているから、手が回らなくて勉強ができないんだ、というように。
  「人間は一人では生きてゆけない。」そう兄貴には言われた。 でも「人間は一人では生きてゆけない」という言い方自体、とらえ方はいくらでもある。まず「一人」ということをどう定義するか、物理的なものか、精神的なものか、なんなのか、というように。自分が苦しむのは、自分が生きていくうえで、どこかに無理が生じて、自分の考えていることができないからだ。
 それは一人だからとかそういうことではなくて、自分が単に自分のやり方を分かっていない。自分らしい生き方が分かっていない。生きるべき生き方が分かっていないからだと思う。それは本人が気づいて直すほかに方法はない。それには大抵挫折とかで苦い思いをすることで気づく(私の場合はほぼいつもそうだ)。
 
 私の場合、そういった精神的な負担のせいで、きっと目を悪くした。自分の能力を信じようとする反面、自分の能力の微妙な限界が分からず(これは本当に分からないものだ。人生はこれを探してゆく旅といってもいいくらいだと思う)、あきらめすぎてしまったり、やりこみすぎてしまったり、それを繰り返す。それでそのなかで挫折を味わう。
 これまでの友人に興味がない。最近高校の友が4年ぶりに集まって飲んだらしいが、彼らに、今度小川も来てよといわれたが、全くといっていいほど、興味がない。ひどい(この興味のなさ)。 というか、日本での私の友人関係で、スイスに行って寂しい思いを掻き立てそうな人物はほとんどいないかもしれない。家族と別れるのは、特に妹たちと会えなくなるのは、多少寂しくなると思う。 でも、ある意味で生まれ変わるんだと思っている。言葉が違うというのは大きい。しかも方言だ。まだ話せない、ドイツ語の方言。これを身に付けるのだから、大人として生まれ変わる気持ちだ。もちろん、どこまで身に付くか分からんが。

『自称卒業論文』 3

私の少年時代
 
 いまさら書くことでもない、というくらい日記にはこのことについてさまざまなことを書いてきたと思うが、「まとまった内容」を書いたことは、実はあまりないと思う。 1年9ヶ月、塾講アルバイトを通して子供たちと接してきた中で、自分の少年時代の感覚と、この国のごく普通の子供たちの、物事に取り組む姿勢・感覚との間に「大きなギャップ」を感じている。そのギャップをなんとか埋め合わせるには、自分はどんな気持ちで少年時代をすごしていたかを思い出してみる必要がある気がしたので書いてみたいと思う。
 
 まず、幼いとき私はエネルギッシュで、学校は、いつも、本当に絶えず、やりたいことにあふれていた。昼休みは一分でも長く遊ぼうと、お昼ご飯の時間が終わるとボールをもって一番に校庭に駆けていった。そのためにはトイレにも行かなかったりした。もちうる体力、元気、想像力。全部使っていたような気がする。でも遊び好きだといって勉強の方がいい加減だったわけでもじゃない。どの授業も、精一杯がんばった、そしてなにより、楽しかった。本当に、学校生活は楽しかった。友達との交際が楽しかったというよりは、周りはあまりかまわず、自分の遊びの創造に夢中だったんだと思う。
 家では兄弟、特に兄と色々な遊びを自分たちで創り出しては夢中になっていた。 たぶん、創作に対する意欲や自分の中で物事をこなしてゆく、そしてその手法を高めてゆく意欲が並外れて強くて、子供のやりたいことをなにより優先する母の教育が私のその一面を大いに助長したんだと思う。

 でもそうして自分の能力を存分に発揮して過ごした時期にも、生活の中にはある緊張が張り詰めていた。その緊張を感じるときは私は畏縮し、それまで存分に生かしていた自分というものをとことん失った。 それは、父からくるものであった。
 私にとっては、寡黙な父が、なにより怖かった。何を考えているのか分からないのだ。学校などの父には見られていない場でも、父に変な情報が伝わる危険の少しでもある行いは、避けた。本当にバレない、と分かるときだけ、冒険した。冒険してかえって事が知れてしまうのであったが…。
 父とは心の通じ合いがとても少なかった。家では、父がいるのといないのとで、緊張はまったく違った。たとえば日曜日と平日の昼では家の空気は全く違った。日曜日はよく外に行って遊んだ。いたずらはたいてい平日の昼にやらかした。逆に、心を許して何か少しでも話をしてくれたときの父の言葉は、今でも鮮明に思い出せるくらい強く、印象的に残っている。時折、ふと、なんでもないときに昔のそういう父の言葉を思い出すときがある。
 
 この、父から来る緊張感は、もちろん勉強に励む力になったり、なにより真剣に物事に取り組むという今の姿勢を築いていったのだと思うが、私は、今塾で子供たちを見て、自己比較してみたところ、その緊張によって精神的に「虐げられていた」自分にも気が付くことになった。塾の生徒の方がはるかに、人に対して心を許すのが上手で、私は自分に心を許してくれる生徒の、細かいサインに気づかず、生徒の期待を無残にも裏切ってしまうところがあるのだ。あの、父の圧力がもうちょっと違う形で、幼少からもう少し人に心を許すことをしていたなら、ぜんぜん違うだろなと思うのだが。人間関係の方ももっと学ぶことができただろうと思う。
 その緊張感は、父という人間をもとにして、生活のなかで、食生活や信仰に顕著に表れていたと思う。厳格な玄米菜食や宗教Mの信仰と実践。どちらも、父の性格というか人間性を具体化したようなスタイルのものだった。
 
 まず、玄米菜食。これは、食べ物一つ一つに細かく健康、不健康をラベリングし、その基準のもとに生活を厳しく管理・統制するものだった。砂糖は不健康、特に白砂糖は食べてはならない、とされた。砂糖を「毒扱い」したこと。これは、市販のお菓子のほとんどはもちろん、おばあちゃんがつくってくれた煮物に入っている甘味料としての砂糖までも含まれた。
 友達のうちに行ったときの楽しみの「おやつの時間」も、自分の味覚(舌)は欲しているのに、頭はこれを毒と考え、避ける、という「矛盾」を生み出した。そのなかで、「感覚」は信じてはいけない、常に頭で、理性的に物事を判断しなければならない、という「道徳」が生まれ、強化されていった。これは幼くも小学校入学の頃にはすでにあったように思う。
 食生活の違い。これは多少友達づくりの障害になったと思う。お弁当の時間は友達に食べているものの違いを指摘される前に、「急いで」食べた。お弁当をみて、「おまえこんなの食べてんのかよー、うぇ、まずそ。」という反応を示す子はさすがに少なかったが、違いを意識されるだけで嫌だった。
 それが何より、本当に、『恐怖』だった。 なぜ恐怖だったか。それは、説明ができなかったからだ、と今になって思う。親はこれが健康だとしてこういう弁当を作ってくれている、僕のお父さんやお母さんからしたらみんなの食べているものは良くないものだけど、みんながおかしいということもできない、逆に親を疑うことなどもちろん、子供としてできるわけがない。 つまり、なんで、いったい全体なんで、自分がみんなと違うものを食べているのか、自分でも分からないのだから。 ただただ、そっとしておいて欲しかった、というのが今になって言葉にできるそのときの気持ちだ。だから、こちらからも、クラスの仲間が気づかないように努力した。それが、「弁当は急いで食べてしまう」ということだった。教室の隅で、あまり大勢の友達とは一緒に食べないで。
 しかし私は更なる万全を尽くした。まったく一人で食べているのは逆に目立ってしまうから、友達一人だけ机を合わせたりして、とにかく弁当のことが問題にならないように、注目されないように、必死だった。弁当の時間は実にプレッシャーだった。「早く昼休みにならないかな…」、とか、4時間目の終わるころには、「はあぁ~、弁当の時間かぁ~」と憂鬱になっていた気持ちを今でもはっきり思い出すことができる。

  (話がそれてしまったが、今こうして書いた中で、学校における食生活について、さらに書きとめておきたいことが出てきたので、もう少しこのことについて書きたいと思う。)
 小学3年生のときは、幸い自由席で、教室のどこで食べてもいいので、アソウ君という友達とお弁当を食べていた。彼は僕の弁当をみて、(においなども独特のものがあった)吐き気を誘うらしく、彼の体が、嘔吐反応を起こしていたことが、今でも忘れられない。一回のお弁当の間にその発作を何度も何度も繰り返していた。 でも、今思えば、みんなはすごく優しくしてくれた。あるとき、これも小学3年生だったが、急いでいたせいか、弁当をひっくり返してしまったことがあった。すると、みんなが、弁当からおかずを分けてくれた。ウインナーや揚げ物だったのを今でも覚えている。
 うれしかった。 みんなの好意がうれしかったが、それによって自分がうまいものを食べられるという卑しい心もあった。
 しかし友達のそういうやさしさ、「気遣い」、それを私は自分自身、最近の一人暮らしを通してこの社会の人間と一人で関わっていく中で体得したことだ。昔もやったかもしれないが、あくまで「形式」だったと思う。昔そういう行動をとったとしても、そうするべきだからという観念によってやったことだろう。
 今なら、気持ちよくそういうことができる。心をこめて。

 私はこうして、学校で他の友達との「違い」を過度に、まったく必要以上に、意識しなければならなくなった。 同じ人間が、同じ「人間の食べ物」を食べている。
 私は豚のえさを食べていたわけではない。
 芋虫をお弁当に持ってきて食べていたのでもない。
 自分にとって説明の付かない「違い」。その違いの間で引き裂かれるような立場を、私は幼少時代、長らく経験した。 今思う、そういった我が家に特有な信仰や生活も、まだ家族の中で一丸となって心が通じ合っていた上でのものなら、違ったはずだ。もっと自信を持って自分の弁当をみんなにみせては、必要があれば、「うちはね…」と、誠意のこもった説明もできただろう。父と心が通わなかったこと。それが私を孤独にさらした。
 
 そういう中で、自分に降りかかる問題に対して、 「問題は自分の中で消化する」 という今につながる姿勢ができていった。 「食事」一つをとってもこれほどの苦労があったのに、M教の信仰は、友達にはもっと言えないものであった。打ち明けた友達は、一人二人、居たには居た。でもこれこそ自分は、自分の親がやっているから自分もやっている、何が正しくて何が間違っているなんて何も分からない年ごろなのだから、どうにも説明の付かないことだった。
 いとこのS君にM教の説明をしたこともあった。でもほかの普通の友達に同じように説明ができなかったのは、やはり自分でも、M教の信仰に自信をもっていなかったからだと思う。実際、私は兄弟の仲でもとくに、M教の基本的な実践である「おきよめ(手かざし)」(1時間から2時間要する)という活動が嫌でしょうがなかった。
 M教は私の世界観に大きく影響を与えた、人生にとって重要な要素の一つに違いないが、これ以上書くこともないと思う。というのも、食事のこともM教のことも、本質的には同じだと思うからだ。私が思うに、父は、普通の家族生活に加えて、それらの活動を通じて子供を教育しようとした。それが父にとっての「精一杯」の子供との関わりの持ち方だったのではないか。男性の中にはもっと放任で、子供と関わろうとしない男性も多いだろう。
 きっと、父が心を開いて人と話をすることができない、あるいはそうしようとしないという性格は、父の父、または父の母から受け継いだものだろう。父も、ある意味ではきっと、私と同じような思いをして大人になっていった。私が、今、なかなか人に心をゆるすことができない、つまり人を信用できないというのと同じような問題を父も抱えてきたに違いない、と思う。そのことについて少し考えてみたい。
 
 人を信用できない・心を許せない、というのは裏を返せば、信用しなくても・心を許さなくても、良くはなくてもさして困らない境遇にある、ということだろう。あふれる人間の中でも、ふと見渡してみて、私も、父も、諸能力に関してはとても恵まれていると思う。私は体力も頭も、精神力も、人並み以上だ(と自分では思っている)。生活でも、料理・洗濯・掃除・修理など、だいたいなんでも“自分で”できてしまう。苦にならない。生活の知恵もある。この3年間、経済的にも独立した大学に通いながらの一人暮らしができたのは、そういう、なかなかないがあったからだ。
 反面、私はなんでも“一人でこなす”という癖がある。他人が介入すると、むしろやりにくい、と感じる。自分でいろいろやってしまったほうが手っ取り早いし、なにより労力がかからない。例えば、生活の中で必要となってくる家具などの修理がある。ほかには自転車だったり電化製品だったり家自体の老化現象だったり、修理の必要なものはそこらじゅうにある。
 ふつうの家庭なら電気屋さんとか、水道屋さんとか、とにかく専門家に頼んで、無難に、そしてきれいに故障を直す。でも私(又私の家族)は洗面器でもエアコンでも家具でも、自分でどうにかならないか、とまず考えては、いじってみたくなる、いじってみる。そして本当にどうにもなりそうにない時や、わからなくて疲れてしまったときは、仕方なく、しぶしぶ、金を出して専門家に頼む。
 これほど、「自分でできるんじゃないか」という期待が大きいのだ、私(私の家族)は。 『他人に任せる』ということ。程度の問題だが、そのことに責任逃れしているような面は確かにあり、私はそれが好きじゃないのだと思う。高度に分業化された私たちの社会であるが、私はこの社会のあり方に強く疑問を持っている。「責任逃れしてる」と思われるのが好きじゃないのかもしれない。
 責任感がべらぼうにつよいからだ。(父がそういう人だから、私もそう育った。)これも私の場合、人並みじゃないと思う。

 この、「責任」という問題について今の自分が真っ先に思い浮かぶこと。それは『子供をつくる』ことの責任だ。これにはとてつもない責任が生まれる、と私は思い、それにつながる性行為というものも、私にとっては今の若者のように安易に扱える対象ではない。私の場合、「コンドームは甘えだ」という議論から始まる。激しい。本当に重大視している。 自分の身体は、今いい感じに成熟している、といえる。結婚だって十分にできる年齢だ。そんないまどき、子供を作ることに関して、誰が考えずにおれようか。私の場合、相手ができたら、そのまま流れにのってしまうと思うから、今のうちにこのことを十分考えておきたいんだ。(性欲というのは考えて制御するものではないから。相手ができたらいってしまうでしょう。おそらく。いや、間違いなく。)

 きっと、人間にとって生の最大の楽しみでもある「心と心の交流」。人に心を許した経験がほとんどないために、それが人並みはずれて“下手”で、だまされるとか、自分の期待が裏切られるとか、そういう「不安」のためにそれから逃げてしまう。 本心はそれを求めているところがあるのに。…
 父は家族の中に特有な活動を盛り込むことで、子供たちと接する機会を創出した。心の交流まではいかなかったが、親とともに考えたり、行動したりする機会を多くもった中で、私は人間としてまっすぐ生きてゆくための、本当に最小限の関係は持つことができた。そこに、言葉にはできない親からの思いを受け取る気がする。 寡黙な父は、好きで寡黙になっているのでもなくて、そうせざるを得なかった。
 ここに母という存在が出てくる。この母という存在も、心を許すという課題を負った父にとっては大変なくせものだったろうと思う。 (この母という存在については、「私の家族」のところで触れたいと思う。)

『自称卒業論文』 2

     人を植物にたとえてみたら


根こそぎにされた草

また植えても

なかなかしっかり根を下ろすことができない



花壇のお花

引っこ抜いたらおこられるのは

花はそういう植物だから

エーデルワイス

花壇に植えたって枯れてしまう



きれいなお花

みんなが好きだけど

きれいなお花

すごく繊細だ



たとえば女優 松たか子

女性としても

人生としても

彼女は花を咲かせているようにみえる



でもみんな

だれでも 自分だってきれいな花になりたい

と思うね

わたしだって

この人生で 自分だけのたった一つの花

さかせたい



でも私は

何度も根こそぎ引っこ抜かれては

気候も風土も違う大地に

何度も植え替えられた



なかなか根が生えない

新しい根は生えるか

きれいな花咲かせるための

新しい養分はいまから取れるのか



花はさかせないけれど

何度引っこ抜かれたって平気な草がある

「雑草」 ってやつだ

引っこ抜かれたり

猛毒な薬 撒かれたり

踏み潰されたりするけど

最後まで残るやつらだ


時には 無毛の地へ乗り出す

先駆者でもある

荒涼とした岩場の大地でも

岩の隙間から目を出し

散って 土壌を作る


砂漠を緑化しうるのも

やっぱり雑草たちだ



ただ 生憎

豊かなところでは目にも

留まらないやつさ



デカくて不具合で

品がなかったりで

なんだおまえ ってかんじのやつだよ



花か雑草か

運命が自分で決められるなら

花になりたかった

でも 私の生き方は どちらかといえば

雑草みたいだ

がんばればがんばるほど

雑草みたいになる



人が植物だったら

私は実は花を咲かす植物じゃなくて

雑草なんじゃないのか


雑草でなかったら

これまで何度も引っこ抜かれては

植え替えられて

生きてはこれなかったはずさ

『自称卒業論文』 1 

今回の帰郷で過去の書きものがもうひとつ発掘された。

2004年、不食思想に出会った頃、大学をやめるときに書いたものだ。
自称の「卒業論文」だ。 22歳だった。

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      自称卒業論文 




僕の卒論 

 “大学で学んだこと” 私の最後のC大生活の模様

16.11.04  
 午後11時過ぎ 今日は火曜日。授業は3つ、2・3・6限。2限の授業はレポートを提出しなかったのでもう単位は半分あきらめているので、大学には行ったが授業には出ず、天気がよかったので学部棟を出たところにある桜の下に、弁当を買って座った。
 最近始めた英単語の例文集をぱらぱらとめくりながら弁当を食べ、すっかり葉が散ってしまった桜の下で、まだ確かに暖かい太陽の光を恋しがりながら、まもなく冬を迎えるとは思えない穏やかな自然を満喫していた。私はこの時、その後のことなど考えず、ただのんびりと、気の向くままに食べ物を買い、気の向くままに建物には入らず外の自然に身をさらした。何も考えない。きっとそれがしたかった。最近は色々なことがあって、考えてばかり。塾のこと。最近あった友人関係のこと。家族のこと。自分の将来のこと。 今日の過ごし方なんかは、最近の自分の典型だと思うので、書き残しておきたい。

  焼きそば・タコのメンチカツロールパン・チキンロールパンを腹いっぱい食べた後、雲が出始め、日は陰った。たちまち日光がなくては外にいられないほど寒くなったので、物寂しさに本やCD、お菓子を売っている大学生協に足は向いた。わけもなく法律の国家試験の過去問を開いては、パラパラめくったりした。下手な本屋より多いファッション雑誌、スポーツ雑誌、なども眺めてみた。興味をそそる表紙はなかった。次に、文庫本の方にも行ってみた。たまに面白そうだ、と衝動で買ってしまう本があるが、今日は見つからなかった。「そういえば最近本を読んでないなぁ」と思った。でも何も読む気がしないのも分かっていた。一時期衝動のままに買った幾冊かの本が、読まれずに部屋の本棚に眠っている、という意識があったからだろうか。「今は本ではない」と思った。本屋に行くと割りとよく寄る語学参考書のコーナーにも行ってみたが、手にとって見るほどの本はなく、ただ素通りした。
 次はたしか、学部棟に向かった。生協は大学内なのに授業のチャイムは鳴らないのか…と思いながら、「することがない」、「したいことがない」、というもの寂しさはそのままに、そのままふらふらと学部棟に向かった。 一人暮らしになってからこのさみしい男をよく飲み会に誘ってくれたウラが、一学年下の女の子達と2階ロビーの机に座っていた。僕には彼に貸して返してもらってない金があった。返してもらう話をしていたので、行ってみた。彼もまた、みんなとはいるものの、なんかさえない顔をしていた。お金はなく、明日には、という話になった。 ロビーの隅には、同期の連中の顔もあり、そこを通り過ぎてウラのところへ行ったのだけど、とりわけ話すこともないので、目の合いそうなところで自分から目をそらした。なにやら重要な話し合いのようにも聞こえたが、確かフジイくんといった、その人が顔を上げた瞬間、私は、不自然になってしまったが、顔をそらせた。彼とは確か何かのイベントのとき、そうだ、彼は学部10周年祝いのイベントの代表者を務めていた、彼とはそれ以来の知り合いだが、挨拶はするぐらいで、話をしたことはほとんどない。だから挨拶さえしなくていいような感じでさえある。 大学も4年目になって、知らない顔の増えた学部は、やはりどこか、居づらい。「知り合いになればいいじゃないか」というかもしれないが、昔から集団の輪に入れない自分、そこではなにか偽って振舞ってしまう自分があった。だから知り合いになってもうまくやっていくのは無理だ、と、そう勝手に思い込んでいる面もあるのだろうが、実際、「違う」自分もいる。「その兼ね合い」という技は私にはまだ難しい。そもそもそんなことできるのか、それより自分に合う仲間を探してそういう人たちとだけ関わっていくほうがずっと自然で無理がないのかもしれない。「私はまだまだ自分自身を知らない」と思った。
 
 しかしそういうわけで学部という存在自体、あまり居心地のよい場所じゃない。時間があれば、「帰って自分の部屋の掃除でもしたほうがマシだ」となる。今日はまさにこの流れで、私は3限の授業のことが頭をよぎる前に学部棟を出てしまった。 私の足は再び生協へ向かった。寂しさをおいしい食べ物でまぎらそうとした。苺クリームのはさまったシリアルクッキーと小さなチョコクレープを買い、いよいよ足は本格的に自転車置き場に向かった。雲のせいで少し肌寒かったが、生協から自転車置き場までの500mくらいの道のりを歩くのは気持ちよかった。澄み切った空気と、きれいな空、静かでのどかな東京八王子の片田舎。太陽は力と色を変えて辺りはもう夕方みたいになっていた。
 (大学に来たけど結局授業も受けずに帰るんだな。)‐心で思った。(授業に出ても、講義の事細かい話なんて頭に入る状態じゃないよ。)‐自分を正当化した。(じゃぁもうこんな状態がずっとじゃないか、何のために大学に行ってるんだ?)…元気なときなら、この疑問にも自分に正当性を立てようと考えるのだろうが、最近はずっと、そんな気力がない。今日も、それ以上は考えなかった。 まだ、なにかもの足りなかった。
 これは心の飢えだ。完全な。今日は朝から、借りていたブルース・リーと有名AV女優のDVDを返す日であることが頭にあった。きっと、ただそれだけは、今日の予定として昨日くらいからリストアップされていたのだ。以前に、レンタル品を返し忘れて、溜まりに溜まった膨大な延長料金を払わなければならない、という“悪夢”を見たことがあるくらいだから、忘れるわけもなく。
 そして私の目的は、当然ながら、返すだけではなく、さらに新しいビデオを借りることにあった。返すだけだったら、心のもの寂しさは癒えない。むしろ労力を使う。やはり新しいもの、刺激のあるもの、が欲しくなるのだ。次々とこれまでに感じたことのない新鮮な、“刺激”があること。新鮮な気持ちでいることが幸せだ。そういう意味では今日は、性的な刺激のとりこになり、メスに飢えた猛獣と化し、ただただ、刺激を求めた。 今日は50円の割引券3枚を使って、3本のAVを420円で借り、家に帰って2本はみた。早送りで一番刺激的なものを見つけるとそこで抜いた。その後はどうしたのか、はっきり思い出せないが、そのまま抜いた後の脱力感で、横になり、眠った。

 午後9時、目が覚めた。起きたい気がしなかった。楽しい夢でもみて、そのまま朝まで寝てしまっていたかった。しかし、満たされることを求めても、100%満たしてくれるものなど現実にはそうあるものじゃない。あったらこの世は天国と呼ぶべきだ。満たす手段にも限度がある。最近は本当によく寝ているが、働き通してくたくたになった体を横にして休む時の、あの睡眠に比べたら、私がいまやっている睡眠は、なんと味のないつまらないものだろう。でも、したいことがないのに起きて、あれこれ最近のことで頭を悩ますのは自分にとってマイナスだから、まだすこしでも、気持ちのよい睡眠を私は選んでいる。そうやって、最近は、きっと今年の春休みくらいから平均睡眠時間が10時間くらいあると思う。
 9時すぎにおきてテレビをつけると、プロジェクトXがやっていた。Jリーグを立ち上げた人々の物語。日本に今ほどにサッカーを普及させた契機となったプロサッカーリーグの発足の裏には、一人の、若くして大病に自由を奪われた人物の人生があった。26歳で肝臓摘出。週3回の人口透析。そういうハンデを負いながら成し遂げた数々の功績。すごいと思った。
 その人は言っていた:「思いの強さが、ないもの(フルに使える体)をカバーしてくれた。」この言葉を聞いて、私は軽くにやりと笑った。そうなんだ。そういうもの(自分のあり方次第でどうにでもなること)がやっぱあるんだ。と思えたから。もともと自分はそういう、ある意味で超人間的なもの全般に対して興味を持っていたから、その人のことばはまさに私に対する言葉だ、と思った。
 この後、またオナニーに走った。勃起するとすこしペニスが痛んだ。もう一度していたから。でも、まだ見ていないビデオがあったから刺激を期待して、すこし強引に、抜いた。 その後、シャワーを浴びた。お風呂に入りたい気もしたが、時間もかかるし、あまりそこまでする気にもならなかったので熱いシャワーを浴びた。 以来ここに書き付けている。

 もう午前2時をまわっている。疲れてきたのか、始めのように文章を考える力がない。気持ち悪くなるまえにやめよう。
 翌日(17日) 私は今、自分の将来を考えて、「私はこの社会が性に合わないから何をやってもうまくいかない、やっていけない」と思っている。そのために、大学をやめようかと思っている。 2年くらい変わらない、相変わらずのテーマだが。
 私は大学を卒業し、自分が会社に勤めるということを考えるとき、基本になる“経営”とか“利潤追求”とか都会のメインストリームの人間がする考え方に合わない。 これは大学に入って経済学を学んだときに、「金銭の集中するところに人が集まる」ということをどこかの先生がおっしゃったときに、理解しつつもその考え方には賛同できない自分がいたのが象徴的だった。ビジネス界はお金の動きがまずあって、その結果として人が集まったり集まらなかったりする、というように世界をとらえる。人間の社会を、金という世界でとらえるのは、人間の心とか、信仰とかを軽視することになるような気がして、私は今でもやっぱり基準をそこに考える気にはなれない。でも、きっと、ビジネスで成功する人というのは、その点は私のようではなくて、功利的に考えることができる人なのだろう。抜け目のない鋭い観察で、何が富をもたらすかということをゲームのように楽しむことができる人。そういう人がビジネスをやるべきだ。私はそういう考え方ができない。幼いときに培われた価値観では、富を追求することが、特にそれが自分のためであるときはなにより「よくないこと」・「非道徳」、さらには「悪」という感覚があった。
 「情け」、これが一番の信仰だった。 でも今は情けも時には「醜い」ものだと思う。情けですべてを解決しようとする人は、他人に強要する面があるから。同情によって、他人に同情を期待して事を収めようとするところだ。(私の家族の母や兄は、全くそういう人間だ。母や兄のその面には私はアレルギーを持っている。)
 だから大学に入ってから、経済学の基本的な考え方、「人は自分の利益を最大にすべく行動する」というものの見方に重要な意味があるということがすこしは共感できるようになった。でも、まだまだ、この社会が経済によって成り立っているという事実を目の当たりにしながらも、私はそこには入りきれないでいる。それでいいと思っている。 だから会社とか、多くの人々の中で協同作業で働いていく場合、どこかで違和感を感じて、違う自分を主張するか、協調を示さないことで、そこからつまみ出されるかもしれない。摘み出されなくても、同僚たちや仕事が、自分とどうにも合わないと感じてしまったら、仕事に「やりがい」やそういう生き方自体に「生きがい」を感じるのは、難しいと思う。
 どう合わないと思っているのかは、例えば: 節約(消費)に対する考えかた。興味の対象(宗教・人生観)(←これはあまりにも抽象的だが)。 節約に関して言えば、使い捨てという消費形態が人々の考え方に浸透していること。一つのモノをとってもそれをどう扱うかにいちいちこういう違いがあるのだから、なんともやりにくい。
 例えば、ノートに落書きをしている子供を相手に「もっと紙を大切にしろ」とか言うとまず相手にされない。(まぁ中学生とはそんなものだ(節約になんて一番興味のない時期だ)といえば、確かにそうだ。なら、自分は「大人」であるから、むしろ子供を指導する立場にあるのだから、その点で子供たちを社会のメインストリームに置き換えて共感を求めるのは間違ってはいるかもしれない。)
 でも何か日常生活などで、根本的に違いを感じる。 興味の対象、宗教観とか人生観なんてものは日本人だって一人ひとり全く違うのであるから、これについてまとまったことを書こうと思えば何十ページではすまないだろう。
 …いや、まてよ。こういうことではないかもしれない。問題は、何が違うか、ということではない。(一度書いた文に修正を加える中でちょっと思った) 問題は、違うところを明らかにすることよりは、私自身が、「違う」と認識していることにあるはずだ。
 私は、まだまだ他人の考えていることが理解できない。他人の気持ちを察することがへたくそだ。かなり表面的な、浅はかな観察でもって、他人のことを理解したつもりになっている。ふと耳に入った言葉や、ちょっとしたしぐさで物事を判断する。全部自分の中で考えて、他人になかなか心を許さない。勝手な妄想で判断しているところがある。小さいときからの癖だ。親を見て育つ子供の運命だ。(昔よりはやわらかくなったとはおもうが)
 今年の春、家族会議があったとき、母親のそういう一面を批判したが、自分もまだまだそういう面があるぞ。 これからスイスに行こうがどこに行こうが、他人に心を許すということは、必ず必要になってくる。単なる甘えでなく、めりはりのある、雰囲気を和ますような自由なあり方は、これから自分で模索していかなければならない。私はすぐに「甘えだ!」としてしまうから、なかなか心を許すに至らない。すぐにはできないだろうが、それをしなければ、頭の中で凝り固まったワンパターンな考えしかできない、不自由で不幸な人間になってしまうだろう。今自分が親のことを見ているような。 つまり、「違う」と認識するのは自分が他人を理解できないからであって、ちょっとしたことで他人を自分とは違うものと感じてしまうからではないか。 人を深く見つめないままに。

打倒、 Double=Bastard

Double ダブル=ハーフのこと
Bastard 偽者;まがい者;いかがわしい者

Double=Bastard という考え方がある。

ぶっとばす。

『今できる不食総括』 32

2009.1.30  
 (日本に戻ってから2、3日がたった。これは別世界である。ヨーロッパと日本は、別世界である。これから猛烈に感覚が試されてゆくに違いない。猛烈な変化を経験せざるをえないだろう。)

2009.2.3  
 (家の者との向き合いが忙しい。毎日少しずつでも進めたいと思っていたが、叶わず。それどころか、事態は非常に流動的でこれまで書いてきた日本に帰ってからの予定も、随分変動している。一々述べている余裕がない。)
 
2009.2.5  
 (妹の息子、じゅんの子守をしている。妹はシングルマザーで実家に住みながら週3日アルバイトに出る。その間僕が子守をすることになった。予定の借金返済はそのことで先送りとなってしまっている。僕が日本に帰ってくる前は母が子守をしていたのだが、その母が今重病の妹に会いにスイスに行っている。帰ってくるまで多くても週4日しか仕事ができない。まぁ、しかたがない。)

    ■以上のタイプ 2009年4月8日現在最新

『今できる不食総括』 31

2009.1.28
◆出発地点 トローラー農場帰還

 (飛行機内/
  ぐっすり眠った。意外とよく眠れた。4時間は少なくとも眠った。到着までの時間はもう3時間を切っている。もう、うんと近い。スイスは、うんと遠い。今出てきたヨーロッパへの郷愁。
 そういえば「また会おうな」の一言も言わなかったな、スイスに、そしてヨーロッパに。
 さみしくはなかったんだ。また来るって思っていたから。  

 「考えすぎるな。」
 って今は思う。いくら興奮しているとは言っても。来るべき変化は拒めない。変わらなければならないならば、変わるしかないのだ。でも今では日記だってある。旅の感覚をあまりに忘れてしまった時には日記でも見たらいい。
 それでも十分に思い出せないとしたら、それはどうしようもないな。
 それが、その頭で整理できないほどの違いが、日本とヨーロッパの違いである、…そういうことだ。  興奮気味だ。)


 11月11日、日本まで歩いて帰ると決めたそのトローラー農場に到着した。
 トローラー農場は谷が一望できる丘の上の方にあるが、僕は丘の尾根から来て、たまたま外出した(2年前と変わらない)白いスバルを飛ばすルエディに遭遇、向こうはちゃんと気づいてくれ、止まって、ハグした。
 でも向こうは少し冷静というか、ふつうで、僕の方は完全にハイだった。向こうは生活の方が忙しくて僕のことなんかめったに考えなかっただろう。でも僕の方はこの日をいったい何度思い浮かべたか分からない。こっちの意識は“濃縮”されているのだ。非常に冴えていると言ってもいい。

 とにかく初めて会った時のルエディはふつうだった。むしろ一年半前と比べると少し暗いくらいだったかもしれない。2007年に仕事をした当時ガールフレンドとして同居していたドイツ人女性とその息子は農場から出てしまったというし、心を寄せていたよく農場に来た女の子もスイスの別のところに引っ越してしまったという。
 ルエディは子供を預かって面倒を見ることもあって、当時いたフロリアンはマイクという同年代の少年と取って代わっていた。とにかくトローラーを取り巻く人間はずいぶんと変わっていた。
 でもルエディは僕の2回の手紙から僕を“待って”くれていた。僕はまた働きたいというようなことを言っていたが、それもできるよと言ってくれた。
 「そうか。イスタンブール以来の“お金を稼ぐ”チャンスに出会った。なんて恵みだろうか。やろうではないか。」
 僕はそう思った。

 旅中僕は与えられるチャンスというか、目前に起こる物事の展開には沿うようにしている。いつからか新しい出来事には迷わず、考えず飛びつくようになった。だからこの時ももしそういう流れなら、日本に帰ることやスイスの親戚を訪ねることも少しくらい後回しにしよう、そう思った。
 その代わり、全力投球である。自分はここ二度目のトローラー農場で何が見出せるか、本気の勝負、そういう感じだった。旅を経て心身強くなった今の自分なら、日本の親が経営する塾の子供達を今度こそ招待できるかもしれない。
 もちろん、それだけじゃない。
 トローラー農場で働くことで少しお金が手に入ればよりよい装備で旅の続行だって考えられなくはない。とにかく働くチャンスを得た僕は、また無数にその後の可能性を見出したのだ。
 
 もし自分の希望を言えば最も魅力的な方法はだが置いてあった。たとえば、自分で稼ぐお金で日本に帰るという格好のよい旅の終え方だ。
 僕は実はお金を稼ぐことはそんなに魅力的じゃなかった。役所届けも居場所もスイスにはない僕がスイスで仕事をするとすればおそらくトローラー農場しか場所はなかったけれど、お金は別に欲しくなかったのだ。
 欲しかったものというか、スイスに戻ることで期待したものというのは約束をしたトローラー農場とスイスの親戚の「今」を知るということだ。それ以外は何もない。それを知った上で、じゃあ自分は何をするのが妥当か、考え、それを行う。その2つを知るだけで僕の旅の方向性は180度だって変わるかもしれない。オーストリアからの800kmを歩いてきたのはそれを知る期待感なのだ。
 
 早速僕は農場の仕事に励んだ。25~30頭の牛舎の掃除・エサやり(朝夕)、そして夏も終わったので牧場の電気バンドの回収などできることはすべてやった。一週間くらい後だったか、一度こんなことを言われた。
 「この調子で働いてくれるならこの農場を君にあげよう。」
 真面目に受け取るのは難しい、だが冗談ばかりではなさそうな調子でそうルエディが言った。でもその時は僕はトローラーの一角に部屋を借りて住んでいる、畜産専門のルカスという若者がいて、その人がトローラー農場を引き継ぐというようなことを以前に聞いていたので、
 「いやいや、(農業はおろかスイスドイツ語だって満足に話せないオレなんて)引き継ぐのはルカスだよ!」
 僕はほとんどルエディの言葉をはねつけるかのようにそう言った。でも内心はすごく嬉しかった。
 そんなルエディを前には正直であるように努めた。不満や悩みなど他人に心をこぼすことがよりしやすいヨーロッパの気質ではなおそれがよいと思われた。そして僕は自分の旅のテーマ「不食」についてもできる範囲で共有を試みた。
 しかしこれが事態を変えた。ある夜のことだ。
 ルエディと2人きりだったので「人は食べなくても生きられる」ということについて少し自分の見解を述べた。ルエディは大の大人でいろいろな意味で人生の先輩だ。トローラー農場は普通の農場とは格が違う農場だ。すくなくとも周囲300mは家がない。ぽつんと農場だけがゲストハウスと一緒になっている、ちょっとした見所なのだ。週末には多くの人がやってくる。駅前の観光地図にも載っている。そんな特別な農場を回している人間が詰まらない人間であるはずがない。いろんな方面で尊敬できる人だった。
 でもさすがに「不食」という思想は極端だったようだ。
 僕は冷静に話をする。だが彼は相手ができなかったのか、話を打ち切るように家の中をせわしなく駆け巡り、しまいには何も言わずに家を出ていって車でどこかに消えた。
 「!?」
 ルエディという人物が普段から行動がすばやいのは知っている。
 「でも、まずいことを言っただろうか?!」
 急に僕は不安になった。「一体、何をしに行ったんだ!?」


 長期の旅で僕の神経は野生化している。危険を感じると衝動は抑えられない質だ。人間関係もいつも知らない人とだけ交わるので「不信」と「信用」の間をいったりきたりする。その時も少し冷静になれればよかったのだが、僕は衝動に駆られて荷物をまとめ、農場を飛び出した。

 辺りはもう暗かったため、その夜はすぐ近くの小屋の屋根下で一夜を越した。急きょ予期せぬ形でトローラを去ることになると急に親戚の元へも行く気がしなくなった。自分の中で「失敗した」という感じだったのだ。
 翌朝、荷物はその場所に残して体一つでトローラーに戻って挨拶をすることにした。「脱走」という、過去の癖を再発させてしまった僕だが、自分はその時はそんな悪いことをした気はしなかった。でも相手の挙動が知れなかった僕は自然な恐怖心からの脱走だったのだ。セルビアの農村からの脱走や日本からの脱走とは質が違う。

『今できる不食総括』 30

 食事後、上り坂で倒れこんでしまった後、また平たんな道になるとそれなりにまだ歩けた。
 しかし、力がない。力が出ない。
 弱弱しく歩いていただろうか、もう日もだいぶ西に傾いた頃、また拾ってくれる人があった。ドイツのこの地域(バイエルン)はこの旅でももっとも人が止まってくれた地域かもしれない。この9日間の断食中進んだのはヒッチハイク分を含めると200km近くなるかもしれない。

 自分の足で歩いた分で120kmだ。降ろしてもらってからはもう暗くなり始めていたので、寝場所を探した。そして3kmくらいだろうか、村のはずれに農業器械倉庫を発見した。当然再び食事に当たった。食事がこの時やっと楽しめるようになった。
 例のバターと砂糖のZopfがこの時元のようにくちゃくちゃと口の中での感触と胃に溜まる感じが心地よかった。その夜は目が覚めた際には暗闇の中手さぐりで残っているものを好きなものから平らげていった。実に食事というものを楽しんだ。

 最初駅での食事の後倒れこんでしまったのは、体内の血液が急に内臓器官に集中したからだ。運動部、防寒部(?)にあった血液が引いてしまったため、パワーがなくなって歩けなくなった。
 ここで1つあえて読者の方々に問いを投げかけてみよう。
 次の質問をあなたならどう答えますか:  
 ■もし食べものが人間の活力の源泉であるとするならば、なぜ内蔵器官が消化というエネルギー吸収に取りかかるのに逆に体は弱まるのか。栄養学という教えを使って、あなたのできる範囲でこのことに答えてみて下さい。  
 「不食」では、僕の解釈では次のようにこれを説明します。
 『基本的に食事とは身体への負担である。これを大前提に据える。
 人は食べなくても生きられるものなのだが、食事という営み、歓びも知っている。知っているというか、人間の味覚、食べものを享受する神経はとても繊細で、また深い。大人になっても新しい味覚を発見したり、味覚が変わるということは珍しくない。味覚とは追究してもしきれないものだと僕は思う。それだけに今日、人々が世界中の料理を楽しみ、食事を人生の大きな喜びの1つとして重宝するのは何も不思議なことではない。
 でも、人は食事に関する習慣によって少なからず健康を害してもいる。それは栄養学によって規則的でバランスのよい食事を摂ることが大変重要だと定められている上に、食事そのものが持っている依存性によってダブル攻撃を受けているからだ。
 もし、もしだ、「人は食べなくても生きられる」とだけでも人が思えたら、食欲に対する人間の弱みは半減する。そう言うことができると僕は思っている。
 
 僕が9日間一度もめまいや虚弱感を経験せず、逆に食事をとった後に倒れてしまったのは、しばらく食事という労働から身体が解放され、体が変わりつつあったからだ。食事をしなくなったはずなのに急にまた食事が始まった…。僕は身体を脅かしてしまったのだ。
 海と住む人間が山に行くと体調を崩したり、普段運動をしないものがいきなり10kmを走ったら熱を出して寝込んでしまったりするのは、同じような例と言えるのではないか。
 身体や感覚というものは生活習慣次第で驚くほど変わる。でも社会が、そして今日の人間科学が人生を隅々まで定義してしまったため、人間も決して自由ではない。長ったらしい答え方になってしまったが、僕はそう捉えている。』

 その日、10月30日以降は11月の5日のスイス入国まで残りのお金をすべて食事に使った。
 せっかく9日間の断食で身体も変わっていたのに!と悔やみながらも、食事の誘惑もまたすごかった。時にはまさにブタだった。栄養学のバランスというものをまったく無視している自分は、食欲を解放する時は人が止めるほど食べる。でもそうやって“実験”したわけだ。食事の効能について良い部分と悪い部分を。
 スイスに入ってからはいよいよ迫ってきた出発地点への帰還というその日に心が躍って食事も体調もまるでどうでもよくなるほどだった。
 『いよいよ、帰ってきた!!』
 また断食をしようとしたり、体を気遣って25kmでその日は終えようとしたり頭が考えるが、考えるだけ無駄であった。今思えばその内面的な興奮はきわめて自然な症状だった。

 1ついい忘れていた。9日断食の後に食べたものの中に要調理の冷蔵ハンバーグ(パックもの、大5つ)があった。調理をしなくても生ではないそのハンバーグは僕には十分おいしかったが、少し味が濃かった。そしてそれを食べた後口内上面左側にずいぶん大きな腫れものができた。
 痛みはもちろんあって、味覚も損なわれるほどの腫れだ。その後も食事も続いたせいもあるかもしれないが、この腫れはほとんどスイス到着(11月11日)まであった。食事はその腫れも無視して食べていたが、このことも僕は口内の味覚神経が退化しつつあったところに、急にショックを与えたからだと思っている。

『今できる不食総括』 29

2009.1.26
 (スイスの親戚のところに着いた。
 昨日、昼ごろの頃である。それからわずか1日の間に日本に帰る日が決まった。明日午前11時のチューリッヒ発だ。いよいよこの時が来た。それなりに長かった気がする。でもダラダラはしていない。程よく時が熟したという感想だ。)


 この9日間の体験はいずれ公表する当時の日記に詳しいことは預けることにしよう。ここではさらっと今思い出せる印象的な出来事について少し触れて終わりにする。
 食事を断ってから6日目か7日目のことだった。行き当たりばったりの50代くらいのカップルが50ユーロをくれたことがあった。10ユーロや20ユーロではない。わずか5分程度の交流の後にもらった50ユーロだった。
 ヘルムートと別れた時も20ユーロをもらっていた。ヘルムートを前にはまた断固と断ったのだが彼の手は僕のズボンのポケットに一枚の札を押し込んだ。よほど自分の内面は満たされていたのだろうか、ヘルムートを去ってからはお金はポケットに入っているが使わないという旅へと進歩があった。そしてこの断食中も50ユーロをもらったことでポケットには実に日本円にして1万円以上も入っていた。
 しかし断食(「不食」の実践)が起動に乗っている自分には金の魅力はない。
 誘惑が、そもそもない。

 「疲れない」・「へばらない」・「寒くない」・「雑念がない」・「達成感・『不食』の実感」・「高貴な気持ち」…  

 いったいどれほど言葉を並べたら当時の気持ちを正当に表現できるだろうか。それはまさに、「不食」の著者、山田鷹夫氏が言う『不食には食にはない歓びがある』ということ、そして『食を楽しむうちは不食の歓びはわからない』というそれだと思った。双方はまったく別の次元なのだ。

 話が逸れた。50ユーロをもらった話に戻る。そのカップルはきれいな秋晴れの日、散策を楽しむ2人組だった。僕はしばらく国道からはずれて少し自然を楽しもうと丘や森の道を、不慣れながらもスイスへの最短距離を目指して歩いていた。そのカップルは僕がバックを置いてしり餅をついて休んでいる所に自分の進行方向から現れた。
 天気が良いときは人の心も軽やかだ。
 なんでもないすれ違いの会釈からどういうわけか、「神様の人への働きかけ方」について話している自分があった。
 「神様はそう簡単には答えてくれない。僕らの心がどこまで本気か試しているんだと思う。だから時には人生もけわしく辛い。でもそここそ我慢が必要だよね。」
 などとそんなことを言い合っていたのを思い出す。
 僕の頭はいつになくクリアだった。断食6、7日目であるにも拘らず、そのとらわれのなさは過去最高だった。人と交わっても変な疑問が浮かんだりしない。「?」マークが、ない。無理が少しも無いのだ。そしていつもより顔の贅肉が落ち、目つきも軽快になっていた自分は普段とは違ったかもしれない。

 わずか5分くらいの話が終わると彼らは先へ進んでいった。僕もそれではとバックを背負ってまた歩きはじめた。50mくらいだろうか、背後から駆け足が聞こえて誰かと思ったらカップルのおばさんだった。そっと寄り添うようにして僕の手を取り、隠されたこぶしの下からは50ユーロが手に落ちた。 
 「NEIN!」
 僕は一瞬、その普通ではない行動に身を引く。でもおばさんはこう言う。
 「一晩の宿代に使ってね。」
 断れるオファーではなかった。

 『「不食」を生きる』、食べずに生きるということが高貴な気持ちを生むことは分かっていただけるだろうか。
 1年間に20kgの肉と40kgの穀類と80kgの野菜を食べていた人間がそれが必要なくなるということはそれだけ他の生物を犠牲にしなくてもよいということだ。僕はたしかにその高貴な気持ちに支えられていた。
 10月28日と29日は悪天候に見舞われ2日間動けなかった。ちょうど寒気が入って雨は最後雪にまでなった。急に歩けなくなるとそれまでの調子もさすがに崩れてどこまで寒くなるのか不安にもなった。
 初めてのアルプスのまともな冬体験ということも少なからず緊張になっていた。
 
 10月30日、断食10日目の朝は3日ぶりの運動ということもあってすこし戸惑っていたかもしれない。そしてギリシャとはまるで違った9日間の体験。その日、
 「とりあえず十分だな」
 という気がした。秋も深まっていて林檎を見かけることも少なくなっていたが、1つ遠くに林檎の木を見かけた時、なんともなく
 「食べてみようか。」
 と思った。迷いなく自然にそう思った。そして。
 バス停での休憩を兼ねて牧草地の中にあったその木まで林檎を取りに行って、バス停に戻って10日ぶりの食事をした。たしかに、うまかった。自分の口内はどことなくキュッと締まっていて、味覚神経が無くなっているような感じがしていたが、味わおうとすればおいしく食べることができた。
 適当に4個くらいのテニスボールより少し小さなサイズの林檎を取ってきたのだが、2つ食べると果肉が喉を通らなくなった。喉がまるで自分から閉じているような感じがしたのだ。残りの林檎はかんで出る果汁だけのんで果肉はもどして捨てた。

 しばらくまた歩いていって女性が車をとめSeegというところまで数キロ乗っけてくれると降ろしてくれたところにはたまたまEDEKAというスーパーがあった。
 「ちょっと楽しんじゃおうか。」
 そう思った。  
 8ユーロほど出してそのスーパーにあったもっとも惹かれるものを掻き集めた。店を出るとどこかゆったり食事ができる温かいところはないかなと思って駅へ行ってみることにた。EDEKAからはかなり急な坂を下ってゆく。
 すると駅はすぐそこにあったが、残念ながら温かい場所はおろか腰を掛けられるいすもなかった。あったのは本来休憩室になるような木の枠だけの部屋だった。仕方なくそこで食事をすることにし、地面にしり餅をついて
 「さて食事だ。」
 ということになった。多分に楽しみである。食事を楽しむことではなくて純粋に味覚は、胃は、内臓は、そして体はどう反応するか、ということだ。まずは味覚だ。

 スイスやフランスなどで見られる純白の、バターと砂糖がたっぷり入ったButterzopf(申し訳ない。日本でなんと呼んでいるか分からない)は僕の大好物で、2005年大学をやめてスイスに行った時は毎日のように食べていた。しかしこの時最初にそのパンを食べたが、味が“分からなかった。”
 林檎とは違ってこっちはこっちはおいしいという感じもしなかったのである。
 そしてその後はチョコレート、ポテトチップス、Frikadellen(冷蔵ハンバーグ食品、要調理)など次から次へと買ったものに口だけつけるように食事をしたが、全体的に食欲を解放できなかった。純粋に食事を楽しめなかったのである。胃も縮小していたためかあまり食べられなかった。

 そしてまた歩き出した。
 もと来た道に差しかかった時である。動悸、息切れがしてきて、とても歩けなくなってしまった。坂の途中で民家の車庫の前で倒れこんでしまった。通りがかりの人に声を掛けられる。まるで1kmくらいリュックをしょって走ってきたような振りでやり過ごすしかなかった。心臓の鼓動が不安になるくらい激しくなった。それが収まるまで安静にして、よくなってきたらまた坂を登った。
 分からない。150~200mの坂を登るのに2回休憩したかもしれない。


2009.1.27  
 (昨日は中途半端なところで終わってしまった。
  スイスの親戚のもとにたどり着き、親戚一人ひとりに多大な神経を配っていたためだ。今はロンドンHeathrow空港 …と言っている間に搭乗受付が始まり、搭乗した。
 11時間で日本に到着だ。
 前に座るおやじが落ち着きなく居心地悪そうにしている。背もたれを傾け、寄りかかると、イスが壊れているのかグンと目の前に迫ってくる。
 「おやじっ。そんな寄りかかったり体を起こしたりしないでくれ、気が散るから!」
 と不満を覚えるが僕はどこまで文句が言える立場だろうか。実は飛行機に乗れるだけたいへん幸せな人間なのではないか。荷物室にしか入れないとしても有難く乗せてもらうだろう、もしそれしか日本に帰る手段がないとすれば。
 さて。11時間後には日本という世界に突っ込む。
 日本人の中での生活が始まる。心してゆけ!ともひろよ! )

『今できる不食総括』 28

 ところが最後の最後まで悩んでいた僕は50kmくらい真北に進む道を選んでSalzburgを訪れ、そこからまた西を目指した。
 ドイツに入ると、オーストリアの、どこか平和ボケした感じがなくなり、ピリッと引き締まるような空気があった。そして、いよいよ近づいてくるスイス。今回は迷いがない。ここでまたやめるとしたら僕の行く場所などない。そして、オーストリアに入ってからのいくつかの印象的出会いによって気持ちが変わっていた僕はより強くもなっていて、しばらく考えないようにしていた断食に再び意欲がでていた。

 ドイツ入国が10月15日、10月17日の終わりにはTraunsteinという町の外れに人の来なそうな農業器械の倉庫を発見し、そこで断食に入ることにした。
 10月18日、19日と2日間完全断食をすると、3日目、水を取りに町まで行く必要になった。
 「飲まず食わずでは3日で死ぬ」
 とは本当かということを確かめたい気持ちもあったが、それはこの時の本願ではないので挑戦はやめて水を取りに行くことにした。しかしその時、要らぬ考えが頭をよぎった。
 「町へ行ったら、食べものがあるぞ。」
 「きっと、食べることになるぞ。」
 たぶんに悪魔のささやきというようなヤツだ。どうせ大したこともないクセに!

 しかしその植えつけられた発想の種は芽吹いた。その時抑えられても、次くる時に全くおなじ誘惑に苦しむことになる。ここで耐え忍んでも意味がない。町に着くやいなや抑えようとする前に僕はスーパーからいくつか食品を見つけ、食べた。そして水場を見つけて水分補給も済ますと倉庫に帰っていった。
 
 倉庫に戻ってふと我に還ると、すごく悔しかった。
 「いっつも、こうだ!」
 「2日、3日以上続かない。」
 「ギリシャではなんでできたのだろう、やはり当時の解放感や達成感の強さだろうか…」
 「もう時間もない。これ以上スイス到着を遅らせることはできない。」

 僕はまた歩き出した。その日、夕方、ちょっとした出会いがあった。若くはないが、綺麗なクリスチャンの女性で、すれ違った時に目が合い、少し立ち話。
 彼女もよく「歩く」のだそうだが、そんな彼女からうれしい言葉を聞いた。

 『神様へ向かう道はキリスト教だけじゃないでしょう。私はキリスト教を選んだけど。』

 高齢ながら崩れていない姿勢や表情、そしてきれいな顔は、自分の信仰を持ちながらそういうことが言える心の広さを物語っているような気がした。そして別れ際イエス・キリスト肖像画のカードなどプレゼントしてくれ、
 「驚いたわ、あなたに出会って。」
 と、彼女。
 「いや、驚いたのはこっちです。」
 と僕。僕はその人が好きだった。
 
 そんなことがあったりしてその日は早朝の食事以外は道端のりんごを一個食べてみるくらいで終わった。断食をどうするか丸一日考えたり、考えるのをやめたりしながら…。
 次の日、こう思った。
 「こうなったら、歩きながら断食だっ!」
 
 そんなまるで悔し紛れで思いついたことが実を結んだ。それから10月30日にあえて食事をするまでの9日半、僕を完璧に制御したのだ。その時の日記は今フランス語圏スイスのジャックという人のところに預けてある。いずれ人に見せてもいいと思っている。
 この9日間の断食は自分でも衝撃的だった。ギリシャでの10日間とはまるで質が違う。その違いを僕はギリシャのは「断食」、ドイツのは「不食」であったという言い方で区別している。どういうことか:
 簡単に言うと僕はギリシャでの断食中は自分がしていることを「断食」であると捉えていたのに対して、ドイツの時は「不食」、断食という概念を超えて「不食」という概念で食事を断っていたのだ。双方の差は雲泥の差である。「不食」については後に旅の話が終わった後に「不食」だけを扱うつもりであるので、このことはその時に預けたいと思う。

 10月21日、「不食」の1日目、僕の意識して何度も繰り返し思っていたことはこのことだ:
 「僕は食べなくても、生きられる」
 「人は」ではなく「僕は」である。これが他でもない自分が「不食」になるのだという認識を固めた。  「人間は食べなければ死ぬ。」と言われている私達の社会で、このように思うことはそれ自体が頭が狂っていると言える。
 そして教育では「死ぬ」と言われていることに対してそれとは違う自分の認識を信じ確かめようとすることはたいへんなことだ。「人は食べなくても生きられる」とは思えたとしても他でもない自分が、となると至難の業といえるかもしれない。

『今できる不食総括』 27

 10月8日、ドイツも近くなると、敬虔なクリスチャンファミリーと出会いがあった。
 太陽も西の谷間に落ちるころ、僕はとある村のはずれのベンチで休憩を取っていた。間もなく夜だったがまだ余力があってもう少し行こうとしていたところだ。
 
 60くらいのおじさんが少し遠回りをして駆け寄ってきて声を掛けた。こちらもよそ者ながらドイツ語を話し、何をしているのか簡単に説明した。
 「ちょっと一度家に戻るけどまだいるようだったらお茶でも飲もう。」
 と誘いをかけてくれた。僕は別に飲んでも、飲まなくてもいい。2分ばかり経つとおじさん、ヘルムートはまたすぐ声をかけてくれた。それから3泊4日を一緒に過ごすことになる63歳、9児の父、信心深いクリスチャンだ。

 バックを玄関におろし家に入るとやはりアルプスの民で共通、スイスの民家とそっくりだった。
 木材がふんだんに使われた、どっしりとしていてまた温かい雰囲気。リビングに入るとヘルムートの妻エヴェリンときれいな娘さんミリと挨拶した。
 お茶というか、そこに出ていたのは晩御飯だった。有り難く、温かいお茶を頂く。ガスバーナーも鍋もない僕は普段は温かい飲みもものなど飲めない。そしてまたこの時はこの時で周囲の雰囲気に合わせて自分の話をした。
 Grazでアンナらとの教訓もあってか、無理には話せず、必要だと感じた時に「不食」という思想やお金もまともに持たずに旅に出た深い理由を一つひとつ話していった。今はその時何を自分がしゃべっていたかほとんど覚えていない。人に会うたびに自分のことを話すことにもこの頃には慣れたもので、特に意に留めないのだ。たとえ初対面であっても。
 そして僕が哀れでみじめな浮浪者ではなく考えるもの考えている人間だと伝わると、ヘルムートは
 「今晩泊まっていくかい?」
 と次の誘いを出してくれた。
 僕は自分が今現在は特定の信仰はないがマケドニアやギリシャで200ページ聖書を書き写したとか、キリスト教にも大変興味があることを伝える。すると彼らもイエス・キリストについてたくさん話すことがあった。その晩は2時間くらい話して頭も疲れるとシャワーを浴びさせてもらい、泊まる部屋に案内され、インターネットも訪ねさせてもらった。だがその時だった。

 ダニーロという9児の末っ子(16)が帰宅してきて対面した。
 僕は軽く挨拶をしてインターネットをしようとするが、このダニーロがどうも僕が気になって仕方ない様子。僕もインターネットどころではなくなった。僕は汗をかかなくなる涼しい季節は1ヵ月でも2ヶ月でも服を替えない。
 十分乾燥していればそんなに不潔ではない。においも町の乞食のように周りを冒したりしない。あれは小便と運子をちゃんと処理していないための悪臭だ。もちろん体臭にも個人差はあるだろうが。

 僕はシャワーを浴びた後だったが前だったか忘れたが、このダニーロが失礼なほどに疑わしい目つきで僕の足元(旅わらじ)を繰り返し繰り返し見ていた。そして部屋からも出ない。
 仕方なく僕はまた一から自己紹介。どうやら他の家族もどこか不安なのをこのダニーロは敏感に感じ取っていたのだろう。
 “そんな怪しむなら出ていくよ。”
 とも言いたいほどだったが、ヘルムートの好意を裏切らないためになんとか頑張った。たとえばダニーロはこの時僕が日本人だということさえ信じられなかったようで中華の長いプラスチック箸を持ってきて、僕はそれを使えることを示さなければにならなかった。(疑われるということは本当に面倒なことである。)

2009.1.25

 出会った日と別れた日を除けば丸2日、僕はヘルムートのファミリーと過ごしたのだが、2日目はたしかほとんど一日ヘルムートの息子マルク・アンドレーという警察官とStoderzinkenという山に登った。
 その頃天気は毎日素晴らしくて山など普段登らない僕は重荷のない自分の体一つで軽快に登山を楽しんだ。
 脱線になるが普段の自分の足は100kgの巨漢のそれと変わらぬ仕事をしているのだ。決してむきむきの足じゃないのだが今の僕の足腰は相当に鍛え上げられている。
 美しい自然だった。景色を楽しむということも普段あまりしないのだが、この時はそれができた。いい思い出だ。家ではキリスト教の話も当然たくさんあった。やはり信心深い人達だけあってどこか宗教の話が多い。
 「イエスは何を言っていたか。バイブルにはなんと書かれているか。」などだ。
 僕自身非常に宗教的に育てられているのでそういう話も苦手ではない。でも、彼らは自分の認識からは離れてバイブルを絶対的に正当な根拠として話をするクセがあってそれにはもう少し肉付けが欲しかった。なぜじゃあそのバイブルの提言は正しいと言えるのか、その辺りである。
 そしてもう一つ腑に落ちなかったのは
 「イエス・キリストが唯一の神に通ずる道である」
 という堂々とした彼らの認識だった。仏教をあなた方は知っているのか。イスラームをどれだけ深く知っているのか。これら3つの宗教に肌身で触れながら育った者としては彼らの見方は狭い感じがした。  
 でも僕も、できる範囲では自分を出し、過去の自分の苦しみをこぼしたりもした。クリスチャンやヨーロッパ人を前にそれはやりやすい。感情的になることを受け入れ合う気質があるからだ。その時僕は当然ながらスイスに戻ったら、日本に帰ることになる可能性を想定していたのだが、ヘルムートを前には、その時また父が昔と変わらず僕のことを否定したらその時は首にナイフを刺すかもしれない、
 こうやって!!
 と、一つ父に対してやりきれなかった昔の憎しみを表した。ヘルムートは感じて、涙を浮かべた。
 お互い国籍も年代も、人柄も違うけれど、ヘルムートとはつながるものがあった。
 僕はそこをその3日間、享受した。ヘルムートを去る時、息子のマルク(アンドレー)のザルツブルクのアパートを訪ねる約束をした。マルクがある時心から誘ってくれたのでうんと言ったのだが、ヘルムートを去ってからは気持ちが変わった。マルクにもどこか疑われている感じがしたからだ。
 彼はアパートを他に3人くらいの仲間とシェアしているらしく(いわゆるドイツのWG、Wohngemeinschaft )、もしそこにいけば一からまた「不食」について、旅について、そして日本でどれだけ絶望的だったかについて、説明しなければならなくなるからだ。マルクの疑いを晴らすだけのために。
 「それはできない。僕は自己主張が好きだと誤解される可能性だってある。」
 そう思った。自ら誘いを買っていながら悪かったが、そうさせてもらった。

『今できる不食総括』 26

 (今朝降り出した雨は一向にやまない。もう正午くらいにはなったと思うが何もできない…。
 雨やどりと思って引っ込んだこの小屋は人に見られない分自由が利いていいが、屋根が不完全で190cm四方の狭い内部に四ヶ所くらい雨がもっている。さらに床の端っこから雨水も染みてきて、気付いたら背中側のシュラフがぬれていた。それでもまだこの居場所探しの難しいスイスでこの場所は有り難く、簡単にはここも諦められない。
 運よくまだ誰も来ていないが、人が来たら雨であろうがなかろうが出るしかない立場だ。
 1月4日に日本に帰ると決めてからはやはりどこか旅の感覚も失われてしまっていて、特に細部に注意が足らない。今の自分では無銭旅行は無理だろう。

 /遅くてもあと3日のうちにはおばマーリスを訪ねられる距離まで迫ってきた。
 今気になるのはおばの体調と、果たしてちゃんとお金は手に入るのかというところ。親戚を訪ねても自分の親が用意してくれたお金が手に入らないということなどまずないのだが、実際にやってみるまでどこか晴れない気持ちがある。
 さて。
 この書きものもだいぶ進んできた。旅で思ったこと、感じたことなどできる限り多くを書き表したいと思うのだが、やはりどうしても視角は固定・限定されてくる。何年かたったあとに読み返せば最も前衛的な部分はあまり扱えていないと思うのかもしれない。でも、良い。これで満足だ。数年後は数年後でまたその時とらえる核心を命一杯扱えばいいのだと思う。
 おっと。そうこうしているうちに雨がやんだぞ。トイレもしたかったので勇んで出発しよう。)


2009.1.24  
 (昨日はまたおかしな一日だった。上記執筆後Solothurn駅まで出るが、出て間もなくまた雨。
 おばに電話を試みるが不通で、駅につくと嵐にまでなり、運良く無料の公衆トイレがあって、そこで問題のトイレを済ます。外に出るや、なんと雨はやんで青空が広がり始めていた。
 ためらわずすぐまた歩き出した。
 途中SHELL(ガソリンスタンド)noコンテナでソーセージやチョコレート菓子、クロワッサン、パイなどまだよいものを見つけ、食事。天気が回復してくれたお陰でなんだかんだ昨日も10kmは進めたんではないかと思う。と、いうことは、調子がよければ明日にも親戚のもとに着く!急ぐつもりはないが、待ち遠しさには駆られるかもしれない。)


 李を前には多少きついことを言った。それまで仲良く話していたのに自分からばたんと関係をやめたからだ。彼の心の卑しさゆえだが、去ったあとはそれでよかったのかと少し考えた。
 Grazに戻るやまたすぐ出会いがあった。
 離婚した中年女性が、ボーイフレンドと息子に会いに、町にやってきた、そんな3人組だった。僕は町を流れるたしかMur川といった川ずたいにもと来た道を戻っていた。スイスに戻るためである。

 そう。李との出会いを持って僕は2週間の悩みに終止符を打った。
 トローラー農場には期待をかけているかもしれない。それにイスタンブールからは一度スイスに帰る、といって歩いてきたのだ。その後がどうであれ、一度しっかりスイスにもどろう。そう思った。
 道ばたで車を降りたところのカップルに声をかけられた。西側では声をかけられることもめずらしかったが、丁重に自分の旅を紹介するといきなり食事に誘われた。明らかに、悪い人達ではない。むしろどこかみずぼらしく、哀れみを買う感じがあった。
 「OK.」
 僕は即断した。
 「無銭」とまでは言わなかったが、その可能性くらい向こうも想定しただろう、自分が夏に行ったフルーツ食の話をするとベジタリアンレストランにつれていってくれた。
 たしかその時、「自分に今お金はないんだが…」と、払ってもらうのが当たり前でないような姿勢を示したが、
 「いらないよ。これはおごりだ。」
 と向こうはそんなことを言ってくれてた気がする。
 そして自由に好きなものをとって計量器にかけて(重さで値段が決まる、というお店だった)支払いを済まし、4人で席につくと、いつになく大胆に、自分のやってきたことを話した。
 
 話し出す前に、
 「ちょっと言わなければならないことがあるんです。」
 と出た僕には女性もピタッ、と停止するのが分かった。相手をおどかさずに本当の話をすることに慣れていなかった僕は少し失敗した。でも、ひどくはなかった。
 食事を楽しむ余裕などないくらい話をした。それは、見知らぬ人と出会ってすぐに食事に誘うという西側世界ではふつう無い勇気というか親切に十分に受け答えしたかったからだ。(間違っても自分の話がしたいからではない。)
 そして人と出会って話に集中するために食事が楽しめないというのはいつものことだ。
 アンナというその女性の息子(14)はどこか閉じていて口数も少なく、話すと普通に声が出なかった。席も、4人で四角になるのではなく彼は僕から一席空けて左に座った。施設か何かに入れられて、しかたなく親に会いにきた、そんな雰囲気がした。

 僕もはじめはアンナやそのボーイフレンドと談笑する感じだった。しかし話を進めていくや、アーロンというその息子の意識が度々僕に向いて、ついには彼が自分から質問をしてきた。おどおどしたトーンで。
 僕は答えて、ただ話を進めてゆく。質問に応じて、最も的確な言葉でわかりやすく説明した。何を話していたか、もう具体的には覚えていないが、「不食」思想はもちろん、なぜ徒歩なのかという辺りまで一通り全部話したと思う。
 僕がアーロンと話を交わすようになった辺りから、アンナが興奮してボーイフレンドと手を組むのが見えた。
 「ん?!」
 僕も内心おどろく。何かが、彼らの中で起こっている。
 僕にはそれが何だかよくは分からない。でも彼らの顔を見る限りそれはハッピーな情感だ。1時間くらいそのなんでもない朝食に使ったかもしれない。僕はしゃべってばかりだったのでお皿が片付くのもびりっけつで、アーロンなどは一時退屈そうですらあった。
 その後は食後のコーヒーなんかも頂いたりして、とりあえずおしゃべりは丸く収めることに成功した。  
 別れる時、ボーイフレンドが健康食品店から無数のナッツ類を買ってプレゼントしてくれた。そして最後に記念撮影をして別れた。

 「なんだ?」  
 何か不思議な感覚が後に残った。それまでにはないタイプの自分がそこには確かにあった。それはマケドニアのイゴールを前に打ち出した自分と似ている。でもチェコのオタなど、セルビア最訪問の時はこんなんじゃなかった。でもこのアンナを前に自分のありのままを打ち出した後はスカッとした。そして気分がとてもよかった。
 Grazから北へ上がる頃には自然界のフルーツも減り始め、気温もグッと下がり始めた。
 でもヨーロッパ北回りを決断した頃からこの辺りの冬を覚悟していた僕はそれなりに準備も進めていた。
 Wien南60kmほどのWienerNeustadtというところでは夜寝付けなくて町に出た際、コンテナからアヒルの羽の掛け布団が見つかって、これが非常に心強い見方になっていた。靴も、ギリシャでの原因不明の靴トラブルから、同じくタイヤゴムで足の甲に被せるパット作りも進めていった。だから雪の中を歩くのでもなければずいぶん自信はあったのだ。
 そしてオーストリアでは食事にはまったくといっていいほど困らなかった。この旅でもっとも食糧の得やすい国がオーストリアだ。スーパーのコンテナだが、施錠してあるものや鍵のかかった場所にあるものもあるが、僕はほぼ毎日でも何か見つけられた。そして言い忘れていたが、ポーランドでスイス行きを決めた時から、あまり断食・断食とは考えないようにしていた。
 もしスーパーのコンテナが気になるなら、行って、見てみる。
 そしてオーストリアなどかなり高い確率で何かがあって、それが楽しみにもなっていた。そんな自分を許していた。
 「食べたいなら、食べろ。」
 いつからかそう思って、「不食」に対してゆったり構えるようになった。そしてオーストリアでは、実によく食事を享受した。
 食事って、すばらしい。

『今できる不食総括』 25

 オシュビエンチムを去ってからは急いだ。「スイス、スイス」と連呼しながら。
 アウシュビッツの見学が8月26日、そこからBratislavaとWienを目指し南下、30日にはスロバキアに再入国した。
 ヨーロッパの夏は短いので温かいうちに少しでも進んでおこうと思ってスロバキアも毎日毎日朝から晩まで歩いた。
 そして9月11日にはオーストリアに入国。この時の10日余りのスロバキアでも出会いはあったが取り立てて話すほどでもないので省略したいと思う。

 9月12日、しゃれた車に乗ったトルコ人が車を止め、SchwechatというWien手前の町まで20~30km乗せてくれた。この人が別れ際、車に乗っている連れに隠すようにしてさっと10ユーロをくれた。
 そのお金で僕は、翌日、インターネットを訪問。
 日本の妹から、家族を代表してメールが入っていた。9月4日となっている。次のような内容だった。

 ―「伝えなければならないことがあります。スイスの親戚ですが、ともちゃんがスイスに戻っても、また前のようにベッドや仕事探しのチャンスを提供するつもりはないと言っています。ともちゃんが昨年(2007年)スイスを発ってからそう決めていたそうです。でも!親戚の元にはお金が用意してあります。そのお金を使って日本に帰ることができます!」―

 
 そしてその最もお世話になったおばは癌が再発しているということもどこからか聞いていた。
 「スイスの親戚は、頼れない。」
 そうあえて聞かされたことが、僕の士気をくじいた。それまで順調にスイス目指して進んできていた僕はここでまたひどく考えさせられることになる:
 「スイスには向かえる先は2つあった。親戚と昨年世話になったトローラー農場だが、親戚はなくなった。」
 トローラー農場には2度目ギバラツを訪れたとき手に入ったお金で手紙を出していた。
 「9月頃スイスに戻ります。またできれば会いたいです。もし助手がいなければまた働かせてください!」
 そんなことを軽い調子で書いた。そして後にチェコポーランドなど周ったことで遅れていた自分は
 「10月中旬か下旬になります」
 と、遅れる旨をたしかまた手紙で知らせた。
 
 しかしそうと知った僕はスイスに帰る気が一気になくなった。
 もう一度トルコ方面へ出直すことも本気で考え始めた。
 9/13日に妹のメールを読んでから実に10日以上、進路を南に変えスロベニア国境近くに至るまで悩みに悩んだ。
 妹の知らせを受けていなかったら、あるいはインターネットを訪ねなかったら、オーストリアから中央スイスまでの800~900kmもなんでもなくこなしただろう。そしてスイスに着いて親戚の拒否を経験しても大して傷つくこともなかっただろう。
 というのも、スイスに戻ってもスイスの親戚のところにはいられないくらいのことは「自分でも」十分仮定していたのだ。イスタンブールからヨーロッパに引き返すとしたのは第一に命を粗末にしないという考えと、時間が欲しいためであった。
 そうしてもしかしたらスイスに戻る頃には仕事をしてお金を稼ぐ気力もあるかもしれない。そんな思いからトローラー農場には前もって連絡を入れたのだ。

 不意にも親戚の拒否を知った僕はだが、スイスに戻るとすれば宛は唯一トローラー農場、という、動機の低さに悩んだ。自分のことをどう思っているかも分からないトローラー農場だけを期待して、スイスに帰るのか?!
 それとも…親の用意してくれたお金を使って、日本に帰るために、スイスに帰る、か?!
 後者の、日本に帰るためだけにスイスまで歩く気はしなかった。
 日本に帰る可能性はあっても、何か他に理由が必要だったのだ。もっと、自分のやってきたこと(旅)を肯定できる何か、が。

 そんな悩みが、僕を、Wienから西ではなく南へ歩かせた。
 多分にトルコを意識してである。そうして間もなく9月20日、久しぶりの日本人との出会いがあった。
 自転車でグルッと東欧を旅してきた法政大学生K君だ。
 ブルガリアのミチさんの時とは違って、僕は最初から興奮気味だった。理由は単純、うれしいからである。
 旅に慣れるうちに、あまり畏まらない人間になっていた。
 K君とは高架の下で一夜共に過ごす間に、色々なことを話した。たった一晩だが、さすが母国語だけあって、膨大な情報交換が叶う。
 そして恐縮ながらも僕にとっては大変価値の高い日本語の本を2冊もらった。
 どちらも大変ためになった。

 それから5日後、今度は中国人の旅人に出会った。
 52歳、世界100カ国を11年かけて旅してきたベテラン。李(リー)さんと言ったが、この人との出会いも印象的だ。
 遠くから自転車になにやら荷物をつけた人がやってくる。近視の僕にははっきり見えず、畑から帰宅する地元人間のようにも見えた。
 「いや、ちがう!」
 と、手を振ると、向こうも返事をくれた。
 そうして会うや、日本人とも見れなくなかったが、李は英語を少しだけ話した。
 カフェに入り交流した。
 そしてこの時も僕は「無銭」をためらわず告白、李は興味を持って
 「2日間、君についていく。」
 と言った。照れくさかった。わずか1ヶ月の間にロシアまで旅しなければならなかった彼が2日も時間を割く、というのだから。僕は拒まなかった。こっちだっていろいろ話を聞かせてもらえるかもしれない。とてもユニークな出会いだし。と、そう思った。

 「無銭」を打ち明けていた僕は当然「不食」思想にも触れる。でも李は非常にゆったり、のんびりとした人であまり深いことは考えないようだった。僕は彼を前に自分のありのままを、ありのままの旅をするのが一番だったのだろうが、2人旅も初めてなことから、ついつい会話をした。
 そうしてバス停のベンチなどで休憩時は自分の発明した「旅わらじ」や最初の夜は自作のテントを見せたりした。
 しかし、李には、僕の好きじゃない性格があった。写真おたくなのだ。最初のカフェでも自分の持っているアルバムをドカンとテーブルに置いて写真について話をするのが好きだった。そんな彼は、なにかとカメラに収めようとする。まるでメディア取材のカメラマンみたいだ。
 「もし彼が撮った写真のいくつかをEメールででも送ってくれたら、僕もうれしい…」
 そう思って最初自由に撮らせていったが、やはり何事も程度だ。カメラのアングル、距離、被写体の向きなどに意識を奪われている彼とは写真を撮りながら会話は続けられない。
 僕は黙って彼が撮り終えるのを待つしかないのだ。一度、スーパー裏でどんなところから食糧を手に入れるか、写真のためではなく彼に見せるためにコンテナに向かった時、振り向くと彼はカメラを構えていた。
 「NO!」
 冷徹に僕は拒否して、止めた。
 「僕にとってこれは恥ずかしいことだ。でも理由あって仕方なくやっていることだからこの自分がゴミをあさるところを撮るのは認めない。」
 そう後で説明した。1日彼と過ごした後、彼の人間性もだいぶ割り切れていった。
 同じ長期の旅人でも、求めているものがすごく違う。
 彼はどうも、自分の旅についてインターネット、ブログなどを通して旅の記録を発表するということに主眼があった。後日に彼のブログを訪ねてみたが、実にはなやか、コンテンツの充実したページと見えた。あいにく中国語でほとんど何も分からなかったが。

 彼とはだが結局2日も一緒にいなかった。
 次の日、せっかくだからと思ってどうやって自分で散髪するのかということを、ちょうど髪が伸びてきていたので、彼を前に披露することにした。
 なかなか適当な場所が見つからなかったのでとあるバス停で、横の茂みの中で刈ることにした。切るのは普通のハサミを使う。櫛などは使わない。ハサミだけだ。
 ハサミで切れる最も短い髪の長さ1mm~2mmで頭全体をできる限り満遍なく切っていく。
 当然難しいのは鏡でも見えない後頭部の散髪だが、これも神経を集中して手の感触で刈る。早くても30分はかかるだろうか。
 でも一度刈れば、4ヶ月くらい髪では悩まない。
 最初の一週間は、髪が伸びてくるまで帽子などで頭を隠すようにするが、それが過ぎれば、散髪の跡はほとんど目立たない。そして何より、坊主頭は衛生的で手入れも楽なのだ。

 それで彼を前に髪を切りはじめた僕だが、切った髪がそのまま茂みの中に落ちるように茂みの中で切り始めたのだが、早速彼はカメラを取り出した。
 僕の切っていく様子を写真にとっていく。しかしそこで李は
 「バス停のベンチでやりなよ。その方がやりやすいよ。」
 と注文を出した。そのベンチはもろに走ってくる車に対して丸見えで、しかも自分で髪を切るなんて変わったことを公共の場ではしたくない。バス停だって汚れることになる。
 そして第一、僕は僕のいいように髪を切る。
 しかしどうもカメラ映りが不満だったのだろう、李は了解せずにもう一度同じ注文を出してきた。
 (あぁ。もういいや、めんどくせぇ。)
 僕はそう思ってもう一切サービスなんかしてやらないことにした。散髪を中断し、帽子を被りなおし、
 「もうおしまい。」
 と李に言った。彼はどうも理解しない様子。
 「あなたはここから旅を続ける。僕もGraz(オーストリア南の都市)方面へ引き返す。」
 彼は落ち着いた様子で
 「まあ散髪くらい終わらせなよ。」
 と言うが、
 「これはいつだってつづけられる。」
 と僕は返答した。李は何も言わなかった。
 僕は李に、
 「きっと僕はあなたに人は食べなくても生きられるというメッセージを届けるために出会ったんだ。」
 と言った。「僕はあなたの踊り子ではないのだ」 というようなこともどこかで言った気がする。
 
 十一年半世界を旅してきたといっても興味関心の違いから、この人から得られるものはそんなないなとその頃までには分かっていた。そうして別れ別れになった。僕の写真はブログには載せないでと最後に確認したが、実際はどうだろう、面倒くさくてまだ調べていない…。

『今できる不食総括』 24

 この旅をしていて何度か体験的に学んだことがある。目的意識が低いと力が出ない、ということだ。
 この時の自分がまさにこれだった。
 ヨーロッパの北回りなんか、どこか、つまらない。
 そしてどこか自分に“合って”いない。
 ドイツPassauでまだスイスに帰れないと思ったのは事実だ。だから進路変更したのは間違いじゃなかった。でももしかしたらその時の意思変更「ヨーロッパ北回り」というのが派手すぎたのかもしれない。  
 そしてこの時、何もない自然の中で途方に暮れながら、くやしくもまた意思変更をすることになった。
 
 「アウシュビッツを見たらスイスに帰る!」

 そう気持ちを入れ換え、過去のことは構わないようにした。
 初志貫徹しない、そして気分屋という自分の嫌いな、自分の性格、そしてまさに自分の弱み。
 しかしそうやって何度か意思変更を自分に許すうちに、今は意思決定も前よりうまくなってきていると思うのだがどうだろう…。

 とにかくそうと決まった僕には、エンジェルのサポートみたいな事が起こった。
 前向きに歩き出した僕をすぐピオトレックという運送のドライバーが拾ってくれた。英語ダメ、ドイツ語ダメ、かろうじてセルビア語で会話を試みるが、お互い馬が合いそうなのにお互い伝えたいことが伝えられない。
 もう忘れたが25kmくらいか乗せてもらい、最後には自分の仲間がオシュビエンチム方向へ行く者がいないか無線で調べてまでしてくれた。
 そして… わずかだが、お金をもらった。 断ろうとしたが、もはや断れなかった。
 これは非常に有り難かった。それによって少しアウシュビッツミュージアムの情報を得ることができ、「ミクシィ」にも一報を入れることになった。


 そして翌朝、更に出会いがあった。
 ヨゼフというドイツ語を話すおじさんだが、橋の下で泊まったところ、早朝そこに1人のおじさんが狩猟で獲った子ジカの頭蓋骨をブラシで洗いに来たのだが、これもまた印象的な出会いだ。
 最初目が会うや、言葉を交わし、自分が徒歩でヨーロッパを旅してきたというと、呆れて、
 「一人でやっていな」
 といわんばかりの反応をされ、会話が終わった。
 自分は日記か何か書きものをしていたが、おじさんも黙々と川で骨を洗い始めた。
 5分くらい沈黙があっただろうか、急に声を掛けてみる気になって
 「おじさん何やっているの?」
 と聞いてみた。すると急にまた会話が始まって、間もなく、
 「朝食でも食うかい?」
 とまるで別人のように明るく自分の家へ誘ってくれたのだ。

 アパートに入ると部屋には壁一面に鹿の頭蓋骨が飾られている。よっぽど狩猟が好きなんだなと思った。後にはドイツ製の狩猟銃を持たせてもらった。重くてびっくりした。
 このヨゼフがまたお金をくれた。朝ごはんを出してくれ、コーヒーをくれ、インターネットも少しさせてもらった。
 最初の彼の呆れ方は何であったのだろう。しかしそれらすべてが済んで街の中心まで送ってくれた時こんな事も言っていた。
 「僕はふつうのポーランド人じゃあないんだ。」
 と。
 そして何も言わずに銀行のATMに寄り、
 「これは君のだ。」
 とお金をくれたのだ。
 
 この2つの出会いで僕は一日前と比べて一気に別人のようになっていたんでないかと思う。
 そのまま上昇気流にのっかってどんどん前進した。
 一度はドイツのケルンに住むおじさんが拾ってくれたこともあった。お金をもらった僕は久しくスーパーで買いものをした。ソーセージやパンなど“まともな”食品を買って食事を楽しんだ。
 しかしお金を持っているとどうしても手軽に手に入る食べものに使ってしまうので、ある時思いきって電車の切符を買い、60kmくらいだろうか、Katowiceという大きな町まで列車に乗った。
 そうして8月25日、非常に早く250kmという距離を進んでアウシュビッツミュージアムに着いた。
 夕方だったので近くで寝られる場所を探し、翌朝26日アウシュビッツを観光した。


2009.1.23  
 (昨夜は農家の納屋にしのびこみ、宿泊した。
 早朝、まだ夜明け前、農家の人がトラクターのエンジンをかけると目が覚め、見つかるのは嫌だったので久しぶりにまだ暗いうちに出た。
 そして5kmほど歩きSolothurn到着。生憎雨が降り出し、今はガーデニングセンターのパーキングにある展示用の木の小屋にお邪魔して待機させてもらっている。真冬だし、天気も雨ということで顧客は小屋を見にも来ないだろうと思っているが、どうだろうか。
 ここは大きな通り沿いで人通りも多いだろうが、賭け、である。人が来たら、残念だが、ゲームオーバーだ。)


 アウシュビッツはこの旅でしたもっともまともな観光だ。
 旅の目的が観光ではないため、少しは観光した方がよいのだろうかと思うほど観光をして来なかったのだが、この日は開場から午後3時までメモ帳を持ちながら150万人のユダヤ人が殺された場所を見学した。
 最も心が揺れたのは、アウシュビッツとは2kmくらい離れた「ビルケナウ」という収容キャンプが遠くから立ち現れた時だ。内部を見学している時も心は締めつけられたが、最初に施設が立ち現れたときの、テレビなどで見たことがある列車の入場門の不気味さとは比べものにならなかった。
 思わず立ち止まってしゃがみこんでしまった。 周りに人がなく、一人だったからそうできた。

 アウシュビッツメインミュージアムの方はがっかりした。あまりに、人が多すぎる。
 ナチスが一番最初に使っていた小さなガス室の跡に入った時だ。入り口には:  
 『ここでは何十万人という人が殺されています。どうか静粛に、亡くなった方を前に恥ずかしくないふるまいをして下さい。』
 と明記されている。当然僕も精神を集中する。
 しかし人は僕の前にも後にも入ってくるし、写真撮影は禁止のマークがあってもパシャパシャと平気で撮っている。そして、そんな、やりにくい中でまだ精神を集中しようとするのだが、最後とうとうでかい声で騒ぐ若者が2人、3人入ってきて僕の集中力は完全に絶やされた。
 「アウシュビッツという、人類が犯した最も大きな“あやまち”を反省するための施設で人々が面白おかしく笑ったり、はしゃいだりしているうちはまたきっと同じようなことが起こるな。」 
 そう思って、残りはすみやかに回って見学を終わらせた。

『今できる不食総括』 23

2009.1.22  
 ( Biel/Bienneにて。
 スイスの親戚のところまで距離にして60km。早ければ明後日にも着ける距離だが、どうも体調の方がおかしい。3日くらいまえ足止めを喰らっていたときにゴミから見つけたクッキーの生地を惰性でたくさん食べたことがあった。それからどうも調子がおかしい。
 そして明日は天気予報では雨だというから思うように進めないかもしれない。仕方がない。)


 夕方頃オタの家を訪ねてしばらくするとオタが妻とあかちゃんをつれて帰ってきた。  
 「ダメだった。」
 と報告する僕は見せる顔がない。予定より早い訪問にオタは対応してくれた。  
 「そうなるんじゃないかなあと思っていたよ。」
 とオタは、家に入って落ち着いてから言った。
 僕自身は何がいけなかったのか反省中だったが、失敗したのだから強がってもしょうがない。

 それから11日の朝までオタといろいろ一緒にやって過ごした。オタが仕事の日はプラハまで一緒に乗っていって観光に出掛けたり、オタがフリーな日は彼の知り合いを訪ねたりした。
 僕は当時、オタのインディアンの話もそうだが、レイム・ディアという有名なインディアンの本に感動していて、「不食」思想など、話せる範囲でオタとつっこんだ話をした。でも彼の知り合いを訪ねると僕は「へんてこな旅人さん」の様になっていて、僕の話をオタから聞いて笑い出す人もあった。
 自分が、日本を出る前はどうしようもなかったことも話してみるのだが、
 「そういうこともあるわよね~」
 くらいに軽くあしらわれてしまった。まぁ僕はたしかに間違っているかもしれないし、そういう無難な解釈で収めようとする世間一般人の気持ちも分からないではなかった。そういう人はそう思わせとけばいいと、それくらい思う余裕があった。

 オタと出会うことがなかったら美しいプラハの観光も、チェコ人との交流もなかったかもしれない。
 オタに会うまでに2回ほどチェコ人に会ったが、
 「歩いてプラハまで行くのか?頭おかしいんじゃないか。」
 というような反応をしたり、
 「それはよくない!」
 ときっぱり僕のやっていることを否定する人もあった。
 同じスラヴ人でも南と西ではこんなに違うんだなぁとびっくりしたものだ。そして自分が肌は白くなく髪の毛も黒いことから北に行くと自分は外人だという認識が強かった。
 ちなみにセルビアとかトルコはそうじゃないのである。

 でもオタは人間観察なるものが好きな人で、それは接していてよく分かった。
 時々、僕を試すのだ。でも僕はそのまま踊り続けた。自分のことを試すようなオタは好きじゃなかったが、それは見てみぬ振りをした。なぜならそこを問題にしたらマケドニアのイゴールの時のようにせっかくの仲が壊れてしまうからだ。
 結局僕はオタを前には一対一の親友というよりはオタを慕う後輩になって終始した。
 それはこっちとしてはあまり嬉しくなかった。オタは7歳くらい年上で結婚して家族もつくっているが、僕は自分が彼より小柄でみずぼらしい旅人であるからといって一対一の関係を持ちたかったのだ。
 でも彼は僕の相手をしてくれるし、食事も出すし、時には外出した時は金だって出す。だから“与えている”のは自分だという意識が彼にはあったと思う。
 ちなみに僕の方は人との出会いの時(西側世界)食事はほとんど楽しまないのだ。
 トルコ人やセルビア人の場合は異なるが、西側で人に会うときはほとんどそうだ。ほぼ100%付き合いのつもりで食べている。神経を代わりにどこに遣っているかといえば、他でもなく“交流”、主におしゃべりだ。
 だが例外的に、オタを去る前の晩、レストランに連れて行ってくれた時は食事を楽しんだ。

 オタは他にもバックパックをくれたりもした。彼がアメリカに行っていた時に使っていたという100Lの、自分のより大きく、替える必要はなかったのだが、差し出してくれたので有り難く頂いた。代わりというか、僕はまたオタを訪ねるように、自分が書いていた旅の記録(日記等)2冊を彼に預かってもらうことにした。

 オタとの出会いは西側世界に帰ってきてからの最初の深い交流だったのでその意味はすごく大きい。
 ヨーロッパに引き返すという決断にどうも迷いがあったのは西側世界に戻ることに対する抵抗だったかもしれない。僕はたしかにセルビア人によってボロボロだった内面が癒され、トルコ人のひとなつこさにそしてイスラームに精神的に救われていた。そして日本まで歩いて帰るというスイス出発から8ヶ月抱いていた確かな意識は、「ヨーロッパに引き返す」 という無難な選択肢によってたやすく撤回されるべきではなかったのだ。

 だがもちろんオーストリアに入った頃、知っている世界に対して安心感に浸った自分もいる。しかし2008年西側を旅した自分は2007年の自分には負けているなとそう感じたことが多かった。西側のゴミの豊かさは、「不食」に向き合うべき人間には甘えだと思った。これまで自分はセルビアやトルコにいたから元気になれたのであってもし西側の冷徹な人間の中に戻ったら自分も元に戻ってしまうかもしれないとも思った。
 しかし… 色々考えてみてもはじまらない。
 今自分はチェコにいるのであり、ついこの前ヨーロッパ北回りをすると決めたばかりなのだっ。そうして僕は、オタを去った後アウシュビッツを目指してポーランドに入った。8月17日のことだ。

 
 アウシュビッツ、ナチスのユダヤ人収容キャンプの跡を訪ねたいというのはほとんどそれだけがポーランドを訪ねたい理由だった。だが自分はまだ何も調べていなかった。
 アウシュビッツが広いポーランドのどこにあるのかすらも知らなかったのだ。でも希望的認識によってナチスの支配下にあったところだからドイツ寄りだろうと勝手に思い込んでいた。
 ポーランドに入ってから人に聞いてみた。
 チェコで会ったポーランド人のサイクリストが言うには“誰でも知っている”アウシュビッツが、人に聞いても
 「分からない」
 「知らない」
 との返事3回、ようやく“オシュビエンチム”という名前をゲットした僕は、ガソリンスタンドのロードマップで場所を確認、唖然とした。

 これからドイツ、オランダと進みたいのにそのオシュビエンチムはその真逆方向、東南東に250kmものところにあるのだ。  
 「うぅ…」
 さすがにうなってしまった。
 行くか?
 行かないか? 
 しかしポーランドと言えばアウシュビッツへ、と思っていた自分が、ここで妥協したらどんどんあまあまになってしまう…!真冬までには大西洋の温風が吹くフランスまで行きたいと思っていたがその希望は諦め、アウシュビッツを目指すことにした。
 
 しかしこの頃、また精神的に低迷していた。オタとの出会いを最大限生かすためいつわりの自分を演じつづけていた精神的な代償や、まるでただの浮浪者でしかないポーランドでの自分は、肯定感に乏しかった。それにしてもだが、最初のポーランド人は冷たかった。そしてポーランドの大地もどことなく寂しかった。
 セルビアと違って、色白で金髪の多いポーランド人の中で自分は明らかに“浮く”のだ。
 「落ち着かない。」
 変な人に目を付けられるかもしれないという不安とたたかった。
 8月22日、とうとうまた失望に落ちてしまった。 
 
 「あぁ、だめだ。歩く気がしない。進む気がしない…。」

 力なく主要道を外れ、原っぱと茂みの間を抜ける草の道にマットを敷いて大の字に寝そべった。 
 
 「どうしよう。」

『今できる不食総括』 22

 『ヨーロッパ北回り(チェコ、ポーランド、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランス(パリ)を回る)に出よう。』  
 そう思い立った。時間がほしい。

 これからはゴミも豊か(誘惑がある)緊張感もなくなりやすい西側諸国の旅になるが、スイスにはまだ帰れない。「不食」思想の追究が「試合」だとすれば決着がつくまで日本には帰らない方がいい。今となってはそれなりの旅を達成した自分だが、ここはまだ折れるところじゃない、そんな風に思っていた気がする。

 そうして自らをゴミの豊かなドイツから追い出すようにPassauへもどり、最短ルートでチェコへ向けて北上した。
 ドイツでも、例のHoferによって食欲に火がついた僕はよくゴミをあさった。ドイツに入ったばかりの日、Passauの中心街手前で僕にとっては懐かしいEDEKAという、ドイツのスーパーのコンテナから6つも8つも賞味期限切れのポテトチップスが見つかり、Passauを流れるInn川の公園で舌が塩で痛くなるまで食べたのを覚えている。
 確かそこにあった3、4種類のポテトチップスのうち、全種類から1つずつと、まだバックに入りそうだったのでさらに1つ2つ好みのものをバックに詰めた。とてもすべて食べられなくて、持っていると意識ばかり邪魔されるのでPassauを過ぎたバス停のゴミ箱に捨てた。
 そしてドイツでのゴミあさりに関して言えばその次Passauに戻ってきた時にはなんと、寿司を食べた。
 早朝で、まだ人もほとんどいない町を通っていくと学生の寮みたいなところ(ドイツ語で書いてあった名前は忘れてしまった)のコンテナから、一日期限の過ぎた密封の寿司(パック商品)が3つくらい見つかった。  
 「まさか、こんなものがまた(生きているうちに)食べられるとは思っていなかったよな。」
 とPassau中心の近代的な広い公園で、一人しんみりと感慨に耽ったのを思い出す。

 その朝はみだらにケバブサンドイッチの路上販売店のくずかごから、食べかけのケバブを取ったりもした。  

 チェコを目指してからは気持ちが変わった。町を出てからだが、また例の闘志がむくむくと湧いた。Passauからは大きな町はなく、田舎になる。最後Freyungというところではまたスーパーのゴミをとったが、気持ち自体は、引き締まっていた。
 「こうでなくちゃだめだ。」 そう実感した。


 (しばらく「不食」から離れて旅の話を進めてきた。
 旅の話が一通り終わったらより本格的に「不食」を取り扱いたいと思っている。でもその時旅の話があるのとないのとではたいへんな差になる気がするのでこの調子で行きたいと思う。私の気持ちや、食事との向き合い、旅とのスタンスなど細部に注意して読んでいただきたい。するとよりスムーズに「不食」の信憑性が示せるのではないかと期待している。)


 そうしてプラハ目指して邁進した。
 7月26日、プラハ60kmほど手前で日も西に傾いていたころホンダのオフロードワゴンが止まってカウボーイ風の帽子を被った33歳のパパが声を掛けてくれた。それから実に8月10日までの2週間以上を交流することになるオタだ。  
 彼は他に2人若者を連れていた。レクレーションか何かの帰りだったようだ。  
 「プラハまで。」
 という話で乗せてもらった。スロバキアからオーストリアのSt.Poeltenへのヒッチで後悔をしていた自分だが、この時は先に進むことより出会いを大切にする気持ちで、オタの誘いを買った。
 オタはまたそれまでには会っていないタイプ、知的な人だったが、なんでも気兼ねなく話せる人だった。
 そんな人と僕は話が盛り上がらないわけがない。そしてオタは実は合計一年半ほどアメリカのインディアンの子孫と交流があった人で、英語も十分に話せた。僕はこの頃にはより大胆にもなっていて、プラハに着くまでの間に自分が「無銭」で旅していることを告白した。
 プラハが近づくと
 「腹減っているか。」
 とオタは聞くので
 「うん。」
 と丁重に返事をし、僕らはプラハのKFC(ケンタッキー・フライドチキン)に入った。

 僕はプラハまでの30分か45分くらいの車の中で以前に増して戸惑いなく自分の話をしたので乗っていた若者のうち女の子の方は当惑気味になっていた。
 「オタ、こんな人とかかわって大丈夫かしら…」
 僕自身を前に当惑しながらも、そんなことを思っていそうな彼女だった。
 
 「無理もない。」 どこかみずぼらしくて、ヨーロッパ人の顔をして出身が日本という極東で、一年半無銭で旅をしつつなお「不食」という思想を持っている男。
 僕はその女性を前に十分な配慮をしなかったと言えばいなめない。しかし心のどこかで僕はもっとありのままに、大胆にも自己表現していかなくちゃだめだという気持ちがあった。なにしろそれほどに「不食」などが生きるテーマになっていたからだ。

 そしてオタというオープンな人間に出会った、このチャンス。僕はその女性を配慮することで彼女にも無難に好かれるよりも、オタを前に自己を打ち出す、その方がはるかに重要だと思った。
 KFCを出るとオタは僕を自分の家に来るかと言った。僕は誘いに乗った。
 オタの家はプラハから北に150kmも離れていて、妻と2才の息子を迎えにいった後、Tomという別れずに残った15才の少年含めた5人でオタの家に向かった。
 オタは会社の人材管理の部署で働いていて、仕事は会社員の相談を受けたりサポートをすることだと言っていた。会社員の個性に合わせて、何が向いていて何が向いていないかなどの心理テストもするのだそうだ。それだけに懐が深いなとたしかに感じた。
 しかし彼自身は僕に対してどうであるかというと少し距離があった。まあ初対面の人間に、当然といえば当然だろう。車の中でも家に着いてからも僕らはいっぱい話し込んだ。オタの奥さんはほとんど英語を話せず、僕らの会話が気になると見えた。
 
 オタは何日かいなよ、と言ってくれたが、僕には1つ違うアイデアが浮かんできた。この出会いの喜びを断食のために転化しよう。 
 「この自分で断食に入りたい」、そう思った。  

 7月28日オタと出会って3日後、僕は近くの山に入った。

 テントについてちょっと説明をする。みずぼらしい旅人でいることに抵抗を感じ始め、西側諸国に入る頃から服や荷物の見栄えをよくしていた僕は、「夜も安心して寝られるテントを」と思って、セルビアを去る頃から少しずつ自分でテントを作っていった。だから最低限の構造はできていた。
 材料は、イタリアの工事現場からもらってきた防水シートと、イスタンブール時代に購入した強めのゴムシート、糸は、もともと裁縫道具は持っていたが、ギリシャでとある廃屋で見つけた太糸を使って針で縫ってつくった。

 オタには一冊、インディアンについての本を借りて、山に入っていた間よく読んだ。
 しかしこの断食はまたもや失敗した。2回チャレンジしたが、何もない山の中でも2日か2日半経つと我慢できなくなってLiberecという町へ降りていって食べ物を探した。

 8月の6日までねばった。しかし、どうもできないと分かると、予定より4日くらい早くオタを訪ねた。
 オタには12日くらい断食して8月10日に戻ってくると約束をしていたが、もう無理だと思った僕は5日に山を降り、6日にオタの家まで戻った。

『今できる不食総括』 21

 ギバラツを去ってからはグングン歩いた。進路はハンガリーそしてオーストリア、とアルプスを北から回ってスイスに帰ろうとだいたいのものを設定した。ハンガリーも、実にグングン歩いた。一日平均24~25km、30kg相当のバックを持って歩ける限界だ。それ以上歩くと1日2日はもっても、足、腰、肩が故障する。もうよく分かっているテンポだ。  
 
 ハンガリーに入るや民家や町が華やかになり、人々もセルビアとはまるで変わった。
 大きな通りに沿って民家が、壁のように並列しているのはセルビアと同じだが、ハンガリーから僕はずいぶんはっきりと西側世界を感じた。ギリシャを除けば実に1年ぶりの西側諸国。ハンガリーが西かどうかは議論が別れるかもしれないが、僕が感じたのはそうだった。
 ハンガリーでは特に出会いはなかった。僕の気持ちに出会いを期待しなかったというのもある。早く前に進みたかったのだ。西側世界にも興味がなかった。欲張って、スロバキアもちょっと見たいと思った僕は、ブダペストからまだ北に上がりドナウ川に沿ってちょっぴりとスロバキアに入った。その直後だ。ピーターというどかた労働者に出会った。
 辺りはうっそうと森が茂り、ちょうど寝場所を探した時に後ろから連れと2人で自転車で現れた。
 上半身は裸で、夕時のすずしい風を全身に浴びながら帰宅する、そんな風に見えた。彼には少し、アルコールが入っていたかもしれない。陽気で人懐こく話しかけてきた。

2009.1.21  
 僕はちょっと驚いていた。森の中深くに古い家にジプシーのようにモノを集めて住んでいた彼らはどことなく西側の人間とは違う。セルビア人と似ていると思った。
 そういえばハンガリー人は違うが、チェコ・スロバキア・ポーランドもセルビアと同じスラヴ人の国だ。
 この時僕は、自分は旧ユーゴのみならず「スラヴ人」と相性がいいのだろうか、と変な気づきをした。一晩だけピーターと共に過ごし、次の朝にはいつものように旅した。
 その日だったか、次の日だったか、ハンガリー人が車を止めた。  
 「乗っていくかい?」 
 彼はドイツ語を話す。  
 僕は中学校時代をドイツの現地校に通ったためドイツ語を話すが、イスタンブールを去ってからはほとんど英語とセルビア語しか使わなかった。なぜドイツ語を話すのかと思いきや、おじさんはこれからオーストリアの仕事場にハンガリーから戻るところだと言うではないか…。僕の気持ちが変わった。
 30kmほど乗せてもらうつもりだったのが、おじさんがそう来ると考えを変えてオーストリアのSt. Poeltenまで250kmほどの距離を一緒に乗せてもらうことにしたのだ。

 ここで少し当時の気持ちを説明する。  
 ギリシャにいた頃からあったヨーロッパに引き返すことの迷いは、すっきりしないままずっと持ち越していた。そしてマケドニア、コソボ、ハンガリーなどずいぶん寄り道をしてきた自分は早くスイスに戻れと思うようになっていたのだ。スイスに戻るという意識と、少し旅に時間をかけ、周辺の国を見たいという意識と、更にあまりだらだら旅はするなという新しい意識が生じた。ずいぶんと矛盾を抱えていたのだ。
 そうしてまず例がない長距離を乗せてもらえるチャンスを見つけた僕の心は、興奮したか、実にやさしいおじさんに
 「やっぱりSt.Poeltenまで乗せてもらってもいい?」
 と聞いた。
 おじさんは一人で長距離を走るのが詰まらないとも言い、感謝して乗せてもらうのは悪くない気がした。自分のそれまでの予定では、スロバキアの首都Bratislava、そしてもちろんWienという町を見たいと思っていたが、それには目をつむって、またどこか奇抜に行動してみようと思った。
 これが大失敗であった。一気に250~270km進みゲルマンの世界、完全な西側世界に突っ込んだ僕は、しばらく自分の旅を忘れるほどだった。
 着いた日の夜、興味が湧いてゴミあさりに出る。ゴミにはそれまでずっと食べられなかったようなものがたくさんあって公園で深夜に食欲に耽った。
 作りすぎて捨てたのか、グリル(鶏の照り焼き、ソーセージ等)も大量に見つかり、冷めて固くなった肉だがたいへん味わって食べた。
 翌日から見慣れないオーストリアをまるで初心者のように歩く。
 目に留まる看板や標識などがいちいち気になった。そして6日ほど経ち、大きな町Linzも手前のことだ。

 Hoferというスーパーのチェーンがある。
 日本でいう「サンワ」とか「オオザキ」という感じだろうか…。夜とある高い倉庫の下に寝場所を見つけた僕の目には煌々と照るそのオレンジとブルーラインの看板が目に入った。
 「コンテナに、あるかもしれない。」
 St.Poeltenなどで派手にゴミをあさったとはいえ、この時まではセルビア、ハンガリーから身についていたフルーツ食が続いていた。オーストリアでは気軽に取れるフルーツはセルビアより少なかったが、あまりゴミを見たいとは思わなかったのだ。
 しかしこのHoferがそんな僕を完全に覆した。
 コンテナにあったのはハム、ソーセージ、バターたっぷりの甘いパン、牛乳、ヨーグルト、コーンフレーク(2種類)、チーズ、など他に類を見ない豊かさ。賞味期限切れのものも多かったが、ただパッケージが傷ついたもの(コーンフレークがそう)、そして、賞味期限とは少し意味合いが異なる Mindestenshaltbar bis: という、賞味推奨期限とでもいうか、その期限が過ぎても食べられないわけではないものもけっこうある。

 その夜は、ブタになった。甘いものの後には塩味のもの、塩味のものの後にはまた甘いもの。そして牛乳などでまた味覚を調和して次から次へと食べたいものを食べたいように食べた。
 中にココナッツクリームの入った甘いコーンフレークは、数日期限の過ぎた牛乳と一緒に“絶妙”だった。そしてバター、砂糖のBrioche(ドイツ語:Zopf)は口の中でねちょねちょと、そのもちもち感が堪らなかった。まさに、ブタの食い方である。
 そういうことがあって間もなくPassauというところからドイツに入った僕は、ついスーパーでゴミあさりをした。もう止まらなかったのである。そして、ドイツにも入ったとなるといよいよ近づいてくるスイス。このまま帰れるだろうか。

 「不食」を目指し、一年半旅してきた者が、このみっともないブタの状態で帰れるか…。

 Passauから西に30kmか40kmのところで「NO」だと答えが出た。
 大きな進路変更の決断、7月17日のことだった。

『今できる不食総括』 20

◆セルビア農村 再訪問

 前述のとおり、僕はたいへんお世話になったギバラツという村を無断で去っている。  
 ギバラツとの出会いがなければパスポート問題をクリアできなかった可能性は非常に高い。するとギバラツなくては旅もくそもないと言える。
 2007年8月からの10年間、望めば日本を出ていられる、旅ができる、そのようになったのは他でもなくドラガンという人物の助けがあったからだ。
 ギバラツを去ってからは罪悪感も大きかった。
 日本でどうしようもなくて世界へ飛び出したのにセルビアでもだめだったら一体、どこなら大丈夫なのか!?
 自己嫌悪もひどく、まだ「不食」との出会いをにくむ気持ちがあった。
 それは一種の賭けだったかもしれない。
 厳格な宗教と共に育っている僕は人一倍「神」とか「創造主」、「宇宙」といったものを意識する人間だったが、この時もそれまでの自分の価値観では“まず(神に)ゆるされない”行為にあえて踏み出したのだ。
 目の前に起こるすべてに全存在で向き合い、もしそこに立ち現れるものが「死」であってもそれが定めなら、受け入れようじゃないか!!
 そう心に決めて自分の中での“我がまま”を通したのだ。  

 余談だが、そうするしかなかった背景には「この世に対しての失望」があった。宗教の特異な思想や理念的な教育で育った僕は、19歳、自らその宗教(その宗教の家族の中でのあり方)を否定するまで、実に清らかな世界に生きていたのだ。この世の中は美しい、とそう生きることを賛美して神様とのつながりの中に深い安堵を覚えながら生きていた。
 しかしそれが、海外を飛び回った家族の孤立した生活から、父の地元相模原に落ち着くや、事態は変わっていった。世間の影響が無視できなくなっていったのだ。
 別の言い方では、「世間に同化する必要が出てきた」。すると3年くらいして僕は一人宗教をやめることに決断する。そして見えてきた世界が… 実はひどく惨酷だった。  
 『世の中の原理はカニバリズムそのものじゃないか!!』  
 『強いものが弱いものを、食う!』  
 『強者が生き残り、さかずきを交わし、弱者は無力にどこかへ消え去る。』
 
 『こんな世界に生きていて 何がいい?』

 19頃から見えてきたそのやりきれなさ、失望は、やがて絶望となり、今になってやっと当時の思惑が言葉になる。セルビアの農村を去った後 「来るものよ、来い」と思えたのは、そういう世の中に対する失望をしていたからだ。     


 話がそれた。ともかくヨーロッパに戻るならギバラツを訪ねようという考えは自然に起こり、悩みながらも足はそっちへ向いていった。そして例のブラニミルの家に寄った後、6月上旬、ギバラツに着いた。
 お金を持っていない自分はもちろん前もって連絡もしていない。懐かしの、初めて来たときのサッカーグラウンドを通りかかった時、いつも話しかけてきたネマニャという少年が気付いて駆け寄ってきた。そして他の子供たちもどことなく顔を覚えている。
 みんな、わずか8ヶ月あまりの間にずいぶん成長していた。  
 サッカーグラウンドから公園に抜けると、遠くにサシャ(ドラガンの息子)らしき若者が他の何人かとスクーターにまたがっているのが見えた。
 僕は近づいていったがサシャは一度立ち去る。
 家に急ぎで報告しに行ったと思われた。
 そして僕が道路に出るころまでにはまた戻ってきた。サシャも足にすね毛が生えていたりしてどことなくがっちりと男らしくなっていた。  

 ビエリッチ農場(ドラガンの農場)を訪れると、家には人の気配がない。
 ちょうど牛舎の時間だったか、牛舎に行ってみると、ボジャナが「Tom!」と明るく、そしてその背後から大きくドラガンが出てきた。
 ドラガンは何も言わない。指を立てて横に振って見せたが、次の瞬間、抱きしめてくれた。マリヤはしばらくしてから僕の薄情さを文句つけていたが、しかたはなかった。そして次から次へと知人を訪ねた。
 ギバラツは初夏。この季節のギバラツを僕は知らない。民家の前に植わっている木の多くは「ヴィシュニャ」とか「トゥレシュニャ」というサクランボの木で、盛りを迎えていた。これが本当においしいのだ。僕など、まるでサルのように一日中木の上にいてもいられたかもしれない。その頃にはまた自然界の食べものも出てきて、旅が楽しい時期でもあった。
 
 村人はまた受け入れてくれた。でも信頼感や親近感が落ちていたのはたしかだ。でもどうにか僕はまだ悪者にはなっていなかった。どこかホッとした。
 しかしギバラツとの再会は僕の中で複雑な気持ちを生んだ。
 この一世紀の間に6回戦争を経験し、国際的にも孤立、経済制裁などもあっただけあって人々の生活は実に貧しい。アジアとヨーロッパの狭間で、文化、宗教、民族、そして複雑な歴史によって翻弄されてきたセルビア人は僕の中で哀れの一言で過ぎないものがある。
 ギバラツに着いて翌日だったか、畑でスロボダンという貧しい知人に会ったとき、いたたまれなくなった。
 彼の知り合いが炎天下で仕事中、とつぜん倒れて死んだのだそうだ。
 ビール好きで、自らを慰めるかのように車からビールを取り出した彼は僕にも一本くれた。僕はそのビールが味わえない。いたたまれなくなった僕はその場を去ってそのまま目の前に広がる広い畑の道をただなんともなく歩いていった。
 しばらく時間が経った。
 ふと僕の脳裏に1つのアイデアが浮かんだ。
 ―『セルビア100学校巡り』 だ。  
 今となってはセルビア語を少し話せ、旅では大人も子供も大変喜んで僕と話したがるので、セルビアをそんな形で応援できないか?!と思ったのである。その時またドラガン達が僕を受け入れて、前の年と同じように生活させてくれたとしても、ギバラツでは大したことができないのは分かっていた。やはり言葉が壁なのだ。
 でも、それまでのように旅をしながら、日本についてのプレゼンテーションとか出来れば多くの人に会えるし、言葉だってより早く身につく。そう思った。  
 僕は自分が西からの小ぎれいなお金を持っていそうな旅人でないからか、セルビアでは危険を感じなかった。そして心的な距離が人々とあまり無いのである。  

 『セルビア100学校巡り』…とても理に適っている気がした。そしてあまりのんびりしてもしょうがないと思った僕は、まもなくこの学校巡りに出た。材料も何もないがとにかく「やるしかない」という気持ちに駆られたのである。ドラガン達にそのことを伝えたのも、たしかスロボダンと別れたその晩のことだった気がする。

 決断してギバラツを去ってから3日後、僕はギバラツに引き返した。完全に衝動に任せてやってみたのだが、1校も訪ねる前に僕は断念した。(「情けない」と言えばそうなのだが、この時はそんな自分を恥じなかった。)  
 一体、自分は、何をしたいのか。
 確かに胸の内にうごめくエネルギーを正しく使いたいのだが、それがわからない。
 心の純粋なセルビア人達に自分の内に眠っていた子供の心が呼び起こされ、それが僕を精神的に救っていることまでは分かっていたのだが、いざその“子供心”を生かそうとすると、どう扱ったらいいのか分からない、そういう感じなのだ。  
 断念してギバラツに戻った後はすぐに旅を続けた。ドラガンはまた前と同じようにバナナやコーラをくれたり、この時は中国製のスニーカーと1,000ディナラ(12.5ユーロ)もくれた。ドラガンを前には僕は断れなかった。

『今できる不食総括』 19

 父との電話で考えをコロッと変え、旅を続けることにした僕はバシュキムにこう言われた。
 「To me, you are crazy.」 (僕にとっては、君は狂気だよ。) 
 寡黙だった彼にそう言われてしまうと自分が悪い気がした。バシュキムや彼の家族にもいずれお詫びと感謝の連絡をしなければならないと思っている。


 Prishtineを出た僕はモンテネグロに行くことにした。Prishtineから真西にピューっと伸びている道をPejaというビールでも有名な町を目指して歩いた。最初の数日は人との出会いはなかったが、残りのコソボはまた毎日のように人に声をかけられ、コーヒーをもらったり食べものをもらったりした。
 実に人なつこい人々で、彼らには多くの元気をもらった。「コソボ」と言えば戦争があったばかりでさぞかし人は殺伐としているのだろう、とか思ってしまうが、それは偏見だ。彼らは先進国の、仕事に追われた人間よりも心の自由を持っていたりして交際するのが楽しかった。  
 Pejaを過ぎてからはぐんぐんと山を登る。
 日光のいろは坂を思い浮かべるようなぐねぐねした道を登っていくと、国境も間近、モンテネグロ人が車を止めてくれた。どこか気持ちがうつむいていて元気がなかった僕は乗せてもらい、一気に50kmくらい進んで、国境から一番最初の大きな町で降ろしてもらった。山岳地帯から景色がガランと変わったのを覚えている。それは一見スイスにも似た、針葉樹と高い山々に囲まれたきれいな国だった。
 Andrijevicaという近くの町に日本人村があると聞いたが、訪ねる気はしなかった。そしてただ早く進もうと、セルビアの農村を目指していた。モンテネグロは2泊3日、ボスニアは10日あまり、端っこをかじるようにして歩いた。


◆ブラゴイェとの出会い    

 ボスニアでは入国間もなくRudoという田舎の村でセルビア人のブラゴイェというお父さんに出会った。
 自分の父とも重なるくらいの年齢で、子供達も大人で別のところに住んでいる。妻と二人のアパート暮らしだったが、たまたま道端でゴミ箱をのぞいていた時に車を止めて、声を掛けてくれた。  
 ボスニアは山が多い。この時も景色は最高だが何にもない山道を延々と歩いていて、前の年に楽しんだヴォチェ(セルビア語、木の実)というまだ未熟な木の実を食べたりしていた。他に何を食べていたかはあまり覚えていない。ボスニアに入って日も浅かったので一時のひもじい時だったかもしれない。
 ブラゴイェが乗せてくれると
 「これから小学校に民族舞踊のレッスンに行くんだが、一緒に来るかい?」
 と誘ってくれた。面白そうだと思った僕は行かせてもらうことにし、その途中、ご飯を買ってくれたのをよく覚えている。空腹だった僕は有り難く頂いた。  
 ブラゴイェはダンスの先生だったが、ヴィシェグラードという町での発表会が間近で、すぐだからそれまで僕のところに泊まらないかと言ってくれた。そうして確か日曜だったその子供達の発表会までブラゴイェのアパートでお世話になった。
 このブラゴイェというおじさんも、すごく心が通じる人で、僕には非常に精神的な励ましとなった。
 出会いというのはパワーの源泉だとその頃よく意識するようになった。別に食べ物をもらわなくても、ベットを与えられなくてもだ。心が通じるだけでそこにはパワーが生まれる。  
 
 ブラゴイェと2泊3日過ごした後は、気を取り直して前向きにギバラツ、セルビアの農村を目指した。そして6月上旬、ついにセルビアに入国した。

2009.1.20  
 (昨日の執筆はどうも注意散漫で、読み返してみると本当の調子じゃない。スイス到着数日前に急な嵐にみまわれ、何もできない夜は長く、気分が悪かった。もし本でも書くならばもう一度書き直すべきだが、この書きものは自己満足なのでそのままにしようと思う。今日はようやく嵐も通り過ぎて前に進むことができる!)

『今できる不食総括』 18

 しかしイゴールとの出会いはとても嬉しかったことは事実だ。
 彼との出会いを通じていろいろ得ることができた。特に内面的にだ。彼に出会っていなかったら、残りのアルバニア人しか住んでいないような地域ではマケドニア人との出会いはなかっただろう。そしたら僕にとってマケドニアは味気なく終わっていたかもしれない。
 イゴールの連絡先は持っていないのだが、サヴァにしてもイゴールにしても、そしてそれから会う人々にしても再会したい人物は多く、ひょっとするといずれ自転車でも使って“バルカンめぐり”に出るかもしれない。今度こそは20ユーロくらいイゴールの喫茶店で使うつもりで…  

 その翌日、マケドニアを北上していくとイゴールの元で出会ったムスリムアルバニア人との再会があり、その一日も印象的だったので話しておこうと思う。  

 残り80kmほどのマケドニアをコソボ目指していた僕はジャーミーなどムスリムの生活色が色濃い地域を歩いていった。すると突然車が止まりイゴールの喫茶店で会ったたしかジビと言った男性が声を掛けてきた。
 「なにやっているんだ?」 
 そんな風にすこし怪訝そうに聞いてきた彼に連れられて、僕は彼の経営するカフェに来た。
 コーヒーくらいは出してくれる。しかしまともなコミュニケーション言語を共有していない2人なので彼は怪しく思っているのはどことなく感じられた。
 (イゴールに連絡を取るの、かな?) 
 そしたらすこし面倒臭いことになるかもしれないと思ったが、抵抗するつもりはなかった。まだ日は高く、ジビはほとんど店に居なかったが、僕はたしか書きものなどしながら時間をつぶした。
 そして夜が来るとジビが、テントを建てられる場所としてカフェの目の前にあった小学校を提案したが、あまりに人目に付き、村も中心部だったことから少し抵抗をしたが、
 「ここは大丈夫、だれも危ない人はいない」
 というのでそこで野宿した。  
 朝になると校舎から白いムスリムの帽子をかぶったおじさんが、いぶかしげに
 「何やっているんだ。」
 とアルバニア語で来た。
 (ほら言ったじゃないか、ジビ!)
 と心で思いながら、こっちは必死に訳を説明、セルビア語で、だ。すぐジビのカフェへ行き、なんとか怪しまれずに済んだ。
 しかしムスリムの前ではやっぱり怪しい真似はさけた方がいい。僕がまだムスリムをあまりに知らないからというのもあるが、どことなく危険を感じる。この時のおじさんの目つきもちょっと危うかった。

 しかしジビのカフェに戻っても、一向にジビは出てこない。
 誘ったわりには態度がそっけなかったので、少し反感を持ったが、しばらくして僕は行くと告げると店に何度か顔を出してくれたおじさんが
 「おうちに食べにおいで」
 と誘ってくれた。
 それはボスニアから来たムスリムでセルビア語が通じ、怪しい感じはしなかったのでついていくとご飯を出され、食後には彼の家族と楽しいふれあいもあった。その家族にあった雰囲気は僕の知っているマレーシアのムスリムの雰囲気とかぶっていて(似通っていて)、なんだか嬉しかった。
 ムスリムは嫌いじゃないのだ。ただ外人である僕はいつもすこし緊張をする。  

 それから数日後、コソボに入った。
 セルビアと内戦があった地域ということは知っていたが、お金もないどこかみずぼらしい自分はあまり危険を感じなかった。危険を感じるどころか、国境から車に乗って降ろしてもらったFerizajという町はムスリム特有の活気があって、その調子で行けば危険はないだろうと思った。

 ムスリムが一般に旅人に対してもてなしをするのが好きなのは有名だ。このコソボでもそれは例外ではなく、人に声を掛けられるとTシャツをくれたりある時はレストランに行って食事をした後に更にお菓子まで袋いっぱいに持たせてくれたこともあった。  
 しかしコソボではこの旅でも特筆すべき出来事がある。
 コソボ首都も抜けセルビアとの国境に近づいていた時だ。体調を崩していた僕はとある新築、(構造のみ、まだ窓や戸のついていないもの)に入って泊まっていた。ふと立ち上がって家の中をうろうろしたのが見られていたか、英語の達者な家の持ち主が入ってきた。
 僕はその時片目が充血、おまけに部屋の隅には排便をしていた。更には赤く血がついている。飽食時に起きる「痔」によるものだ。
 それを見たおじさんは、怪しく思って、警察に行こう!と言い出した。一人で、歩きで旅していることも理解しがたいようだった。
 抗する術もないのでついていくと、Podjevoという北はずれの町で警察署につれて行かれ、椅子に座らされ、国連の警備員も含めた8人くらいに囲まれ、詰問を受けた。
 たしかに僕は体調を崩していた。人にもらったお菓子を一気に大量に食べたのが原因で、1日ゆっくりしたかったのだ。片目の充血もまた食いすぎの時にたまに起こるもので、自分では問題ないことは分っているのだが、この時は運が悪かった。
 
 でも他には僕は何一つ悪いことはしていない、クリーン(無罪)だ。拘束される理由がない。質問に一つひとつ答えていくとちゃんと理解され、すぐ解放された。そしてさっそくセルビア国境へと急いだのだが、国境では、追い返された。セルビア側が僕のパスポートに押された、入国時の国連のスタンプを認可していないのだ。  
 「セルビアに入るならマケドニアから来なさい。」 
 そう言われて戻らざるを得なくなったのだ。  
 当時僕はどういうルートでスイスまで行くか色々考えていた。その一つに前の年無礼そして無断で立ち去ったセルビアの農村に謝罪と感謝をしに行こうというのがあった。それで惜しくもボスニアや海の奇麗なモンテネグロ、クロアチアをあきらめて、農村を目指して、セルビアに入ろうとしたのだ。
 しかし追い返された僕はマケドニアまで戻る気はなく、モンテネグロに進路変更した。そうして元来た道をまた戻っていったのだ。  
 無駄足をしたことがくやしかったためか、もう夜になっていたが、まだ歩いた。すると…:  
 なんとおなじおじさんと遭遇し、「なんでまだここに?!」というようなことを言われた。
 訳をまた一通り説明すると
 「じゃあ、乗りな、少し連れていってあげる。」
 とおじさん。
 乗せてもらってからはまた色々質問された。  
 「どこに行きたいの?」
 「Kos. Mitrovica。」  
 「いやー、つまらない町(shit city)だからPrishtine(首都)にしなよ。」
 とおじさん。
 (いや、どこに向かうかは僕の自由でしょう)
 と思うが、どうもあまり抵抗を見せるのはまずそうだったので首都へと説得する彼に僕は息を合わせた。
 そして何分くらいだろう、20分くらい揺られただろうか、NATO(アメリカ軍)のキャンプに寄り、僕が泊まれるか聞き、無理となってはPrishtineの警察本部につれていかれた。警察に引き渡されるや、おじさんは息子と一緒に帰っていった。

2009.1.19  
 (昨日から足止めをくらっている。
 マイナス10℃の世界のあとは豪雨と強風、運良く材木の倉庫を発見しそこに泊まっているが、そうでなければ大きな試練になっただろう。これから旅を続けていくならばしっかりしたテントは欠かせない。
 気温はグッと上がり、4℃。フェーンという南風に乗って低気圧も入ってきた、そんなケースだと思われる。雨が降っているうちはどうしても進めないが、仕方がない、こればかりは。日本が待ち遠しいだけに辛いが、我慢してこの執筆などを続けていこうと思う。)

 
 午後8時ごろだっただろうか、警察に引き渡された僕はその日のPodjevoと全く同じように一から状況説明した。今回はおじさんに連れてこられている分、より一層複雑だ。警察を前に「無銭」と打ち明けたのはこの時が初めてだったかもしれない。
 興味を持って色々詰問してきた若い女性警察官も、食べ物はゴミからと告白すると、ピクッと驚きを示し、態度を変えた。
 その晩から二晩自宅の空き部屋に泊めさせてくれた男性の警察官はその時隣りで静かにたたずんでいた。  
 「こうなれば…」
 と思って、自分の本願―解放されて旅をこれまでのように続けたい―を押しとどめ、周りが望むような決断を採るようにしようと思った。
 アドバイスに従って町にある日本大使の出張所に行き、親と連絡をとることになった。だがそれは土曜日だったので月曜まで待つということでバシュキムという上記の警察官の実家に2泊したのだ。
 
 その翌日の日曜日にはバシュキムに連れられてコソボでは少数のローマ正教(?)の教会に赴いた。ミサ(?、日曜日の集まり)が終わった後は彼の友人らとカフェでコーヒーを飲んだ。その時彼の友人からははっきりとこう言われた。  
 『YOU ARE WRONG !』 (お前のしていることは間違っている!)
 常識から判断すれば僕がやっていることは「おかしい」ということは自分でも十分分かっている。
 無銭徒歩で旅をしていると知った他人が僕をどう評価するかくらいのことは想像できた。だからくやしくもなかった。
 僕は正直であり続けるまでだと、そんな風に思っていた気がする。  
 当然バシュキムと過ごした月曜の昼までは彼のお父さん(消防署司令官)、お母さんなど、色んな人に出会い、食事も与えられた。
 その家族は特別だったかもしれないが、コソボ首都はすごく活気があり、人々の生活はうるおいがあった。セルビアやマケドニアとは比べものにならなかった。コソボが独立するという話は聞いていたが、もう独立したのだろうか、怠けて調べていない。  

 月曜日が明けると早速出張所に赴いた。そして国連の日本人スタッフやオーストリアの大使館員と電話で連絡を取った後、父から出張所に電話が入った。
 訳を説明し、日本に帰るお金の送金を持ちかけた。
 するとだが、父は理性でもって、
 「もし思う存分旅をやったんでないならば、変に中断しない方がいいんじゃないか?」 
 と言った。  
 確かにそうだと思った僕は電話の後、
 「やはり旅をつづけたい」
 と出張所のアルバニア人やバシュキムを前に意思表明した。  
 これは僕の失敗だった。彼らは理解しなかった。  どこで間違えたか…。

 まず、体調不良といっても、新築に入ったことがいけなかった。そして十分に意思表示をしなかったことも。アルバニア人は押しが強いのは確かだ。でもそこでは自分も同等に押し返して意思を表明するべきだった。そして… 放棄された建造物ならまだしも、この時はやがて人が住む新しい建物を無断で利用した。柵もない、近所の子供達も簡単に入ってしまいそうなところだったが、おじさんを刺激し、2度も警察に連れて行かせたのは僕だ。なされるがままになったのは、その後だ。  
 「旅をするなら高貴な旅人でありたい」  
 イスタンブールに来た頃から自分は「浮浪者」ではなく「旅人」だと意識するようになっていた僕は、無銭だからといって人に変に世話になることはならないと思っていた。
 食べものはもちろん、服や靴など、消耗品の補充は、出会いなどに頼っていたのでは一人前の旅人とは言えない。確かに僕の持っているビジョンや生い立ち、やったことというのは人の興味関心をそそる。だから出会いの際には人は衣類や食べもの、時には餞別も出してくれた。そうして2008年も夏、大量消費社会に戻った僕は人の捨てるものでほとんど満遍なく自分の必要なものをまかなえるようになった。今は、一時日本帰国することになったが、次旅するならばお金を持って旅することも考えている。

『今できる不食総括』 17

 そんなある日、5月8日、イゴールと彼の彼女やその妹、友達とCarl Coxのライブに行った。
 首都Skopjeでのライブで午後9時か10時くらいから深夜にかけてだ。チケットはかなり安かった。(7___、イゴールがうそをついていなければ。) Carl Coxを僕は知らなかったのだが、曲には確かに聞いたことがあるものがあった。そして下手なポップソングより鼓動を指揮されるようなテクノは、よかった。

 日付も変わった頃、僕らはだが早めにイゴールの彼女の家に帰った。次の日も仕事はあったからである。
 3時間くらい寝て、早朝のがらがらの高速をすっ飛ばして、Gostivarに戻った。僕などかなり激しく踊っていたので3時間では寝不足だった。
 5月9日、客のいないときは眠りに落ちそうだった。イゴールはそうでもなかったが。  
 この日も終わる頃だ。待ちに待った閉店時間がくると、僕らはいつものように車でGostivarの家に帰った。彼の両親はいつもパーキングの下にある小屋で寝ていてGostivarでは僕とイゴール2人きりだ。  閉店間際か、イゴールが
 「あぁ、頭痛がする…」
 と訴えていた。ライブに行った上に短時間睡眠で無理もないだろう。
 しかし彼Gostivarの家に着くまでやけにそう連呼した。不自然だった。  

 そして一日も無事終わり、ムスリム系アルバニア人が大半を占めるGostivarの肉屋で豚のベーコンを買うと家ではくつろいでそれを食べ始めた。
 僕は不食の意識もありそれほど食べない。豚は大好物だがどうもその時くつろぐ気がしなかったのだ。
 「頭が痛いってうそだな。」 
 そう思った。そのうそを見て見ぬ振りができなかった。

 イゴールはなんともくつろぎ出して陽気にベラベラしゃべっている。無理して付き合おうとするがやはり無理だった。  
 「本当は頭、いたくないでしょう…?」 
 思わず聞く。
 向こうははぐらかす。そしてまたしばらくして僕はもう一度言った。
 「I know you don't have headache...(頭が痛くないのはわかっているよ。)」
 僕は少し強引にそう言うと、
 「は?…ちょっと来い!」と外に出て行って、
 「外の空気を吸って頭を冷やせ。」
 とイゴール。
 たしかに彼の偽りのペースに不本意に合わせているうちに僕は興奮気味にはなっていたかもしれない。しかし僕はこの時くつろいでいる彼から注意を喚起した。多少provoking, 失礼ではあった。  

 図星だったか、外に出ると彼は当惑しているようだった。  
 「I have nothing against you.()」  
 冷静にそう一言。彼は沈黙。  
 イゴールには僕を前に演技をすることがたまにあった。それは取り上げるに足らないものばかりだったが、次第にその演技はこの時のように大胆になっていった。それでいい加減、僕は指摘したのだ。
 人を手なずけるのがうまい人間はよくこれをする。相手の気付かないところで偽りをふるまう。
 スイスのトローラーの主がそうだった。それも分からなくはない。人の上に立つ人間は十分に自分の支配力・権力を確認する必要があるのだ。  
 彼の偽りを取り挙げた僕はだが、彼との関係に傷を付けた。
 これまでのように気持ちよく接しあうことが難しい空気をつくってしまった。
 僕は即、こう言った。  

 "I will leave this evening... I continue traveling and I might come back some day. And you go sleeping and get back to your ordinary life from tomorrow... " (今晩「旅」を続けたいと思う…。またここにはくるかもしれない。君は寝て、明日からまた元の生活に戻ってくれ…) 

 テクノライブに連れて行ってもらった次の夜にも、自分の都合で旅を続けることにしたのは、薄情だろうか。
 毎日イゴールのお母さんが作ってくれるパイや、店の商品をただでもらいながら、店のお手伝いの話まで台無しにした僕は悪いことをしただろうか。  

 人生が、スイスからの無謀な旅立ちで終わらず、次から次へと展開し、「これは第二の人生だ」とまで意識するようになっていた自分は、第一の人生の教訓を無駄にしない、それ相応の生き方をしようと思った。
 聖書の書写などはそのたいへんな精神的糧になり、僕はますます大胆に、そして正直に行動するようになっていたのだ。かつての自分の感覚に言わせれば、このイゴールとの別れは薄情だ。道で声をかけられ、誘われてお金を一銭も出さずに毎日食べ物を頂いた。それなのに僕はある時突然旅を続けることにした…。


 これは難しい問題なので、脱線になるが、それまでの旅で変わり始めていた神経にについて話をしたいと思う。  
 前にも述べたが、僕は大学をやめてスイスに行き失敗をした頃からモノをできる限り無くす生活をした。物質的な執着をなくそうとした。そして大学の友人にもほとんど何も連絡せずに消えた僕は人間関係もなくなっていった。
 そして翌々年、自分の人生の問題、家族の問題に抜け道を見出すことができなかった僕はついに家族をも捨てる覚悟でスイスに飛んだ。  

 歩き旅に出発してからは自分にあるものはバック一つとその荷物だけである。そしてほぼ毎日例外なく見知らぬ世界に突っ込んでいく。腹が減れば木の実を食べ、体が疲れれば休む場所を探し、夜が来れば寝る場所を探す。便意をもよおせば茂みに入った。雨が来れば屋根を探した。
 他にはこれと言ってすることがないのである。
 当然、普通に社会生活をしていた者がこういうことをすると一定期間の後に我慢できなくなるだろう。
 退屈、不安、自己否定、虚無感云々出てくるからだ。
 僕自身出発して1ヵ月半くらいか、一度3日引き返している。それでもやはり旅を続けたのはそれなりにやることやり尽くしていたからだ。やはり行くしかなかったのだ。  

 2007年4月、旅に出てからセルビアまではこれと言って人との出会いがなかった。その間僕の頭中をめぐっていた考えはなにも食べ物や旅の先のことばかりではない。これと言って考えることも尽きた僕は考えることをやめた。
 考えよう、としないのだ。すると、何が起こるかと言うと、頭が勝手に色々テーマを見つけてきて実にニュートラルに思考を展開する。思考が次から次へと頭の中を流れていく、そういう感じだ。
 
 遠い過去の記憶などが無数に出てきて、それらを扱った。ある日は幼稚園時代、ある日は大学時代、ある日は特定の友達と遊んだ思い出が、という風に。
 旅Ⅰはもちろん、旅Ⅱ、旅Ⅲも僕はその新しい思考を続けていった。そして時々出会いがあり、人と一時期交流する。そしてまた一人になり、また出会いがあり、また一人になり… 
 それを幾度となく繰り返してきた。  

 するとある時、自分の人間との関わり方が変わってくるのを感じた。
 僕の場合それはヨーロッパのメンタリティや、自分は周りにとってどんな旅人であるかなどが“体感的”に分かっていって、そうして生まれる余裕が遊んでいる神経を新しいところに向けるのだ。 すると前に考えなかったこと、気付かなかったことなどに意識が向く。
 そして出会いが終わり、しばらくするとまたその自然な思考の流れの中で意識した新しいものを掘り起こし、確認し、消化してゆく。
 そしてまた出会いがあり、似たような状況が発生すると、無理なく前の例が思い出されてきて、次はまた新しい不確かな部分、分からない部分に意識が向いていく。
 ほとんど、操作を加えなくても勝手に思慮が展開されていくのだ。すると、以前の、整理型の思考ではなく興味主体の思考(とでもいうか)が人間関係の有り方を変えるのだ。
 目に留まるものが変わってゆくから、興味や関心も変わっていく。
 このイゴールの時が、その自分の変化を初めてはっきりと感じた体験だったかもしれない。ギリシャのサヴァの元で自分に何かできることはないのかと腐心した時は、まだ十分に新しい思考が生かされていなかった。

 そしてここで触れざるを得ないのは、モノを捨てること、あるいは生活をシンプルに持っていくことには相応の報いがある、ということだ。
 人はつい「…ない」、「…がない」 と言う。
 手に入るものはなんでも欲しがる傾向がある。それも良いところはあるだろうが、僕はここで逆に、捨てること、手放すことが持つ効用を指摘せざるをえない。
 何か捨てると、求めずにも何かが入ってくる、その自然の掟とも言えることについて触れずにはおれないのだ。  
 生活が極めて簡素になり、出会いの度に心を開いていた僕は、頭が機敏に働き以前と比較できないほど多くの情報を得るようになった。
 そして迷いや操作のない思考はその多量の情報を実にすばやくそして的確に処理をする。あまり一般人の思考のスピードを意識してこなかったが、おそらく、そこには雲泥の差とも言えるものがあって、却ってこっちが困るという程 だ。
 僕はまだその加速化した思考能力をうまく扱えないことが多く、未熟だ。だが、手法が分かってくればその思考スピードの差は問題なくなると思っている。こちらがスピードを落とせば良いだけの話だからだ。今は早い思考の信頼性をテストしている、まだそんな段階だ。  

 話を元に戻そう。イゴールの嘘に黙っていなかったのは、そういう演技が通用すると思わせてしまったら、お互いの関係がぎこちなくなるからだ。嘘を嘘だと言えなくなる。そしてなにより僕は偽りというものが好きじゃない。特に当時はまだ偽りを見ては黙っていられない質だった。  
 その晩、イゴールとは実に静かに別れた。彼もどこかで納得していたようだった。その真っ暗な玄関先ではまだまだいろいろ話したが、済むとリビングにもどり、僕は荷物をまとめてすぐに出発した。
 午後9時頃だったか、家を出た後は適当に北を目指し、町外れの空家にスペースを見つけて寝た。

『今できる不食総括』 16

 「西側人間は冷たい。」と言うと南の人間は「そうだ!そうだ!」と言う。
 そのある種の冷たさを僕もギリシャで感じた。トルコ人のように、一人にさせてくれないほどの人なつこさも考え物だが、一般ギリシャ人の無関心にはなんだかさみしい気がしたのは本当である。それがマケドニアの国境の検査員に会って早々、セルビア、トルコ辺りの人なつこさがまた出てきた。
 4月になったとはいえマケドニアに入るとまだまだ寒く、人達もあまり外は見ていなくてしばらくは黙々と一人で歩いていた。ギリシャの豊かなゴミ事情に慣れてしまった僕はマケドニアからまたひもじい思いをした。

 2009.1.16  
 この頃だったか、右腕の裏側に小さなあずき大のシミが2つ現れた。
 「ゴミから不純なものを摂ってしまったか…!、変な病気でないといいんだが…」 
 と思った。それは今日もまだあり、たしかに気になる。イスタンブール管理人時代のタバコの害が、敏感な僕の肺に負担になったのかもしれない。あるいはギリシャで断食の後に強い食欲に溺れていた時、何もない小さな村のゴミから、家庭の生ゴミを食べたことがあった。それかもしれない。先進国ではきれいな食べ物を見つけるのは難しくないが、旧ユーゴ圏や東欧地域では異なる。
 
 ヨーロッパに引き返すと決めてから頭の中にはどこかすっきりしないもやもやができていた。
 「日本まで歩いて帰る、の意思をそう簡単に曲げていいのか。」
 や、
 「管理人をあんなに早くやめてしまったのは間違いだったかもしれない。」 
 等である。ブルガリアにいた頃の方が、つらくても目的意識ははっきりとしていて迷いがなかった。 そんな僕はヨーロッパに引き返すことに意味を見出そうと思ってか、まだ寒かったマケドニアではよく聖書の書写を続けた。そして不食との向き合いも当然である。

 アルバニアに行こうと思っていた僕は、キリル文字の発祥の地と聞いていた(本当はブルガリアだと後で知った)Ohrid(マケドニアのエルサレムと言われる)を目指していたが、Bitolaに来るや聖書や断食に専念するため、旅を中断してボロ小屋にこもった。
 しかしどういうわけか全然断食が進まなかった。
 士気が低迷していた。たぶんに、何故ヨーロッパに引き返すことにしたのか辺りのもやもやした目的意識のせいだった。(今分かることには。)  
 そのBitolaという町にも実に2週間くらいいたのだが、聖書の方は良かったが、歩く気力が落ちていたこともあって気分はふさがっていた。
 2週間も経つといい加減いても立ってもいられなくなった自分は、そこからOhridまでの何もない80kmを覚悟を決めて歩き出した。ちょうどその日から気持ちよく空が開けてきれいな虹なんか出たりして勇気をふりしぼった自分を応援してくれているように感じた。

 聖書の書写はその頃までに200ページ(新約聖書の約半分)、イエスの生誕から死までを扱った4つ(?)の章を写し終えていた。イエス・キリストという存在に対して心的にうんと近づいたのは言うまでもないことだ。しかしスイス目指して前に進む気になった自分は昼間歩くことに時間を使い、聖書からは離れていった。  
 Ohridはマケドニアの南西の端にあるきれいな湖のほとりにある観光地だ。
 服もどことなく汚い、黒いゴムのぴょんぴょん突き出た履物とばかでかいリュックの僕もちゃんと観光客と見なされ、ホテルの勧誘が2、3人次から次へと着いてきて一人にさせてくれなかった。
 なので華やかな中心部をサッと過ぎると運良くコンテナーから見つけた賞味期限切れのシリアルバー(箱)などを食べながらその日のうちにも町を後にした。  
 次の日だっただろうか、この旅の中でも印象的な出来事があった。それについて少し話そう。  

 アルバニアの国境を目指してマケドニアの最後の町Struga(Ohridから15~20km西)を過ぎたころのことだ。
 マケドニアではそう見ないアウディの赤いきれいな車が道脇に止まって、おじさんが
 「乗っけてあげるよ」
 といきなり来た。ちょっと怪しさを感じてはいたが国境までならと思って乗せてもらうと、セルビア語で色々おしゃべり。(マケドニアは旧ユーゴということもあってセルビア語でも十分通じる。)
 おじさんは
 「イェビシ エドゥナ?」(セックスするか?)
 と聞いてきた。いきなりの質問に笑って
 「いやいいよ今は。」
 と断るが、諦めが悪い。
 結局国境に着くまでの5分くらいの間は十分に反対し続けた。国境まで、という話だったが、国境に着くや、
 「前で待ってるよ。」
 とおじさん。僕はマケドニアのセクションを通ってアルバニアのセクションに来たが、ここで思わぬ問題が発覚。アルバニアにはパスポートだけでは入れず、1ユーロの手数料(税金?)が必要だったのだ。
 
 “I'm sorry but I do not have money right now...”(今お金を持っていません。)

 無銭の旅人ではないような振りをして取りに行きますと言って窓口から離れた。変な顔をされたが、そうするより他に仕方がなかった。
 僕は無銭なので、ほとんどの場合、次の国に入れるかどうかは賭けになる。ブルガリアで自転車旅のミチさんからあらかじめトルコ情報を聞けたときくらいだろうか、次の国に入れると分かっていたのは…。  

 僕より先に、列に割り込んででもアルバニア側に渡っていたおじさんは僕が来ないと分かると、引き返してきた。彼に訳を説明、コソボ、セルビアにルートチェンジすると告げた。
 するとおじさんも再びマケドニア入国。 そんな変なおじさんなのだが、完全に目を付けられてしまった僕は
 「やだなー、また絡んできそうだなぁ」
 と思った。そして更に抵抗するのは却って危険な気がしたことから、再びおじさんに 「乗りな」 と誘われると仕方なく車に乗った。そうして本格化した、セックス話。
 彼は50過ぎくらいに見え、マケドニア人にしてはお金を持っていそうだったが、ホモではない。それは分かった。ただどうも僕が女とセックスすることが彼の望みにあった。僕は折れて、
 「分かった。やろう。」
 とついに返事。Strugaに戻って人の住んでいない空き家の殺風景な部屋に連れてこられた。途中精力促進のためかビールとパンを買って与えられた。
 待つこと15分。下半身はまあまあだがブスで隙っ歯の38歳の女性がにやにやと無理に笑いを浮かべながら入ってきた。
 「この人とやるのか、オレは。」 しかしやると言った以上、引き下がれない。女性は上半身から脱ぎ、パンツとブラジャーだけになり、僕は手始めに上半身だけ脱いだ。キスから、相手を感じることから始める。
 ホクロやシミのある年齢を感じさせる肉体だったが、「女」が感じられれば来るはずだと思いながらゆっくり、精神を集中して愛撫やキスをしていった。
 
 しかし、出て行って居なくなったと思ったおやじは、ドアをカチャっと静かに開けて覗いてきた。ちゃんと進んでいるのか気になったのだろう。しかしこれが2、3度続くと、さすがに邪魔になって一度女性の前で怒った。
 「No!」 
 もう何とセルビア語で言ったか覚えていないが、不快を2人を前にはっきりと示した。  

 そしてもう一度、一から女性と試みた。するとまた… 「カチャ。」  
 これには完全に頭にきて、
 「もういやだ。やらない。」
 さっさと服を着直して
 「僕は行く」
 とおじさんに告げる。おじさんはなにやら、(セックスはこうやってするんだ)と教唆せんとばかりに
 「オレがやるから見ていな。」
 というようなことを言った。
 「興味あるかお前のセックスなんか!」
 心の中で言う。おじさんとはそのままその家の外でおさらばとなった。でも心のどこかでは覗いてくれて良かったかもという気がした。
 セックスしなくて済んだからだ。  

 これは全く予期せぬ事態に瞬時で適切な判断を下す、という大変貴重な勉強にもなっていたのだが、そのことに気付くのはまだ何ヶ月も後のことだ。その当時はとにかく面白い経験ができた。こういうのがあるから旅も充実する、と喜んでいたくらいだ。
 Strugaを去ってからは、まだどこか心に緊張を抱きながらマケドニアの首都Skopje方面を目指して北上した。4月も31日のことだった。  
 そこからは一度若い警察官が20、30km乗っけてくれてすみやかに進んだ。そして5月2日頃、Gostivarという町を目前に27歳の野心家イゴールに出会った。マケドニアで一番の運命的出会いだ。

2009.1.17  
 (スイスに入国した。
 マイナス10度前後、辺りは雪世界と環境が厳しく、なかなか執筆にあたれない。昨日はもう少し書き進めたかったが結局前に進むことを優先した。今日明日にもジャックという知人と連絡を取りマーリスの元に直行か、しばらく2人旅か、決まる。
 昨日少なからず時間を割いて投函した家族への手紙にJapanと書き忘れたことに投函した直後に気付き、悔しくてかなわなかった。(2/21現在:でもちゃんと手紙は届いていた!) 何事も焦ったり無理したりするとすぐボロが出る。要反省。) 

 
 イゴールとの出会いは自分に芽生えつつある特別な力に気付く最初の切っ掛けだった。  
 キチェヴォという町から丸一日黙々と歩き続けてGostivarという町が見えてきたところだった。マケドニアは山も多く、この時は峠を一つ越えて上方から町が見えてきたのだが、とあるカーブに小さなパーキングが現れた。
 パーキングのブロック地面や建物が工事中だったりして、まだまだ小さな休憩所だったが、日も山の背に落ちて暗くなり始めたその時、店から一人の青年が出てきて声を掛けた。 
 「ん?」 
 まだ冬も過ぎて間もない頃、人に声を掛けられるのもそうないマケドニアだったが、青年はまるで知人にでも声をかけるかのように勢いよく出てきた。  

 僕はいつも道路の左端を歩いているのだが、店は右側にあり、声を掛けられると道路を渡って青年と話した。  
 また一つ話し忘れていたことがあった。申し訳ない。
 自分の眼鏡のことなのだが、実はこの頃から視力0.1に満たない裸眼で僕は旅をしている。
 眼鏡はどうしたのかということだが、去る4月下旬のBitolaにひきこもっていた時、出発時、思い切って眼鏡とそれまでの書きもの(日記)を泊まっていた廃屋に置いてきた。
 理由は一向に進まない断食と、士気の停滞していた自分を奮い立たせるためで、「不食」には視力回復の可能性も期待していた自分は、とうとう眼鏡も放棄した、というわけだ。  

 近くに寄って初めてわかる他人の表情だが、その青年がイゴール、27歳、親と手を組んで自力で丘にパーキング休憩場をひらき、成功している野心家だ。
 みずぼらしい小さな販売所から徐々に設備を整えていってその時はちゃんとしたレンガ構造の大きなキッチンと、本格的にピザが焼ける釜を備えるというところだった。  
 「来な。コーヒーの一杯でも!」 
 そう誘ってきた彼に僕は即座に
 「いやーお金は持っていないんだ…。」
 と返答。
 「No Problem.」
 と向こう。  

 時間も時間でイスとテーブルが5、6セットある小さな店内には誰もいなかった。彼はジュースを恵んでくれた。
 小柄だが背のピッと伸びた姿勢と真面目な顔つきはどこか迫力がある。英語も実に流暢でセルビア語で苦労する必要がなかった。それはギリシャのサヴァの時と似ていた。話し出したら“止まらない”。結局相当盛り上がってしまい、図々しくもコーヒーやチョコロールまでごちそうになり、閉店間際になると
 「何日かいなよ。」
 と彼は誘ってきた。オープンな人間と僕はいつもとことんまで共有を試みる。調子に乗って我を忘れることも時にあるが、僕自身が20の頃から制限を設けずになんでも話してみるようにしていたので、旅では、息が合い、更に話もできる相手となるといくらでもテーマは思い浮かんでくるのだ。
 そしてなによりイゴールの純真さと、野心的なのには相当に惹かれた。僕は喜んで彼と時間を使うことにした。  
 
 彼は一人きりで店番をやっていて、コーヒーやスナックなどでおもてなしをするのも彼一人だ。時にはミニバスから15人とか一気に客が来ても、一人で走り回って何とか店を回す。
 彼の支援をしている両親はというと、お母さんはお母さんはパイなどのスナックを早朝から毎朝焼き上げ、店に並べる。お父さんは違う仕事も掛け持ちしているので時にイゴールが外れなければならない時に一時的にお父さんが店のきりもりをする、とそんな感じだった。  

 彼に迎えられた次の日から丸一日僕は彼と過ごした。
 当然、ありとあらゆる話が持ち上がる。映画の話、女の話、日本の話、マケドニアの話、「不食」の話、真面目なものから下らないものまで何でも話した。
 しかしマケドニアから出たことがない彼は頭はいいが、はるか遠くの日本のことなどはほとんど知らない。ジャッキー・チェンのおかしな映画を見せて日本的なものを共有しようとする彼だが、ジャッキーはハリウッドの踊り子であって日本人のユーモアとはほど遠いことも彼にはあまり分かってもらえなかった。
 残念ながら日本と中国を一緒にしている人間が多いのもバルカン人の事実だ。
 そして楽しい話も大好きな彼だったが、バカ話の得意でない僕はあまり長時間彼と2人でいてもさすがに飽きてくるのだ。たとえば
 「日本のジョークを言ってよ。」
 と言われた時に、日本から離れていた僕にはまるで思い当たるものがなかった。
 日本的なジョークとはどんなものか。。。
 全然そういうことを考えていなかったのである。

 でも理想が高く、この世の中を変えてやるくらいに思っているところは2人ともそっくりで、兄妹みたいなものだった。
 そうして時間を共に過ごしているうちに客がドッと入ってきた時などはコーヒーを作ったり彼の手伝いをするようになり、さらには一夏そのカフェでイゴールの補助として働くかという話があがった。
 早くヨーロッパに引き返すべきだとBitolaで断食に失敗した後は思っていたが、せっかくの話だったので、僕は乗ることにした。しかしこう出た。 
 「始めの3ヵ月、給料はいらない。」
 イゴールとの出会いが嬉しかったし、まさにこれから急成長するのが目に見える彼の商売が見ていて興味深かったので、一緒に過ごしているだけでもいろいろ学べて有益だと思ったのだ。そして無銭で旅するのは自分の意思なのにそこで5万円か10万円か稼ぐことに興味はなかったのだ。そうして4日位が経っていただろうか、僕らは役所届けを済ましより本格的に仕事を習い始めた。セルビア語とは若干異なるマケドニア語の勉強も始めた。

『今できる不食総括』 15

◆旅Ⅲ  2008年2月5日~11月11日  ―ヨーロッパに引き返す決意/寄り道1000km―

 (さて、しばらく「不食」から逸れて詰まらない旅の話に時間を使ってきたが、今一度不食思想を扱ってみたいと思う。
 
 イスタンブールまではイタリアで無銭状態になってからほとんど断食をしなかった。
 断食と僕が呼んでいるのは1食とか2食抜くというのではなく丸一日何も食べないことをそう呼んでいるのだが、イスタンブールまでは断食はほとんどなかった。旅の始めは食べ物を見つけるだけで精一杯だったし、夏は自然界に木の実がたくさんあった。  
 その替わりに体験したのは「フルーツ食」だ。たくさん、色々な木の実を食べた。ブルーベリー、イチゴ、いちぢく、洋ナシ、リンゴ、プルーン、クルミ、アーモンド、など名前を知らないものを含めればまだ三つ、四つある。
 セルビアに着く頃までには明らかに体調が改善した。日々の運動のお陰かと思ったが、それだけじゃない。消化吸収のしやすいフルーツをメインに食べるようになったことで胃腸に対する食事の負担が軽減したのだと思われる。視界のクリアさ、体の軟らかさ、軽快さ。
 ワキガや虫歯の痛みなどが減ったことも印象的だった。無理して丸一日食べないようにするとリバウンドが来て真夜中に町へ出てふしだらにゴミをあさらなければ済まなかった。
 だが適度に食べていると旅人としても高貴な気持ちが持て、かつ体調もよかった。
 セルビアの肉ばかりの食生活で10月までにはまた日本にいた頃のような気だるい身体になってしまうが、ひもじかったブルガリアの旅でたしかに体調が戻った。  

 今の僕の認識だが、山田氏も本で書いていた気がする:
 「食べ物は胃腸に対して負担である。」  
 なにもステーキとか甘いものばかりでなく野菜やお米、パンだって胃腸に対して胃腸に対しては負担であるという考え方が「不食」にはある。食べ物一切が「負担」なのだ。
 これは世界が受け入れている栄養学とはまるで違う考え方がだが、こう考え始めると食事がまるで違うものとして立ち現れてくる。

 僕の断食経験は高々10日だ。
 「不食」を確認したとは言い切れない立場の僕だが、思想の紹介までに話を続けさせてもらおう。  
 食べ物を食べることによって私達がエネルギーを得ていることは確かだ。だがそれはタンパク質だとか、糖分だとかそういったものが血液に流れて体内の細胞に行き届き、ADP(?)が分解されるからではない。エネルギーを得ていると言えば味覚を刺激して食べ物を享受するところに喜びを私達は覚えるからだ。
 新鮮な牛乳を使ってつくったショートケーキや、何時間も煮込んだクリームシチューがおいしいのは、私達の味覚の最も繊細な部分をほどよく刺激するからだ。味覚というのはそれだけ繊細で奥の深い感覚神経だ。触覚や視覚、嗅覚などと同じように神経は適当な刺激を受けることで快感を生む。
 その快感は喜びであり、おおげさに言えば生きる喜びである。生きる喜びはすなわち生命エネルギーだ。  
 だから言い方を換えれば私達の身体には、いわゆる栄養学のいう
 「食事の消化によるエネルギー」
 は必要がない。
 毎日太陽を浴びなければ死んでしまう、とか、鼻が利かないと生きられないなどということはないのと同じように、味覚も、刺激しなければ死を招くものではない。

 しかし「食事」という刺激は実に快いものであるから私達は食事を大いに楽しむ。大いに楽しむが、それは楽しまなければならないということではないのだ。  
 そして…、楽しむことにはそれ相応の代償がある。それが胃腸への「負担」だ。
 そして今はここまでにとどめておくがその負担による内臓の疲れは老いとなって体に現れるらしい、というところまで話は進んでいく。  

 僕の行ったフルーツ食の経験と、イスタンブールからスイスまで戻ってきた今日2009年1月までの間に学んだ「不食」思想の、自分なりの見解を少し述べてみた。
 思想の面では確信のレベルに達している僕だが、もちろんまだまだ経験を深める必要がある。
 たかだか10日の断食で「不食」が真実だなんて言っても誰も信じないであろう。今は今できる最高の自己表現を、と思って書いているのである。)



 2009.1.15  
 (昨日は濃い霧と雪のため一日動かなかった。今日は夜明けの時点では快晴、また寝具を干せるかもしれない。今日しっかり歩けば明日にはスイス入国。ジャックと知人が望めば短期間一緒に旅をする。そうでなければあと10日ほど歩いて「目的地」に到着だ。)

 さて、旅Ⅲの内容に入る。
 一時交替のつもりでイスタンブールを出た僕はまだ見ていないトルコをと思って、川の氾濫で通れなかったEdirne方面を目指した。始めの2、3日を除き連続してトルコ人と交わった僕は車やトラック、バスに乗せられ、あっという間にEdirneに着いた。  
 
 とても忙しかった管理人生活から解放され、再び元の旅人に戻った僕はその喜びもあって断食に入る気持ちになっていた。残ったお金でまた、セルビアの時と同じようにチョコレートなど最後の買い物をすると、再びギリシャに入った。
 ブルガリアにしなかったのはなんとなく暗いイメージがあったからだ。そしてギリシャに入ると同時に断食を始めた。  

 アメリカ人宣教師達にはキリスト教の新鮮な話を聞かせてもらっていたにもかかわらず、ちゃんとした挨拶ができず、悪かった。だが彼らの影響でいま一度新鮮な思いでキリスト教に向き合う自分がいた。
 それで断食が始まるや取り組んだことは「聖書の書写」だ。
 初めてギリシャに来た時利用した小さな工場の廃屋を覚えていたので、またそこに入って断食と同時にそれを始めた。
 キリスト教のどこか神聖な空気に包まれたりして、一日一日は早く過ぎていった。気が向かなければ何もしなくてもよく、その解放感だけでもすごく満たされていた気がする。そしてセルビアの3ヶ月に次ぐイスタンブールでの2ヶ月という、思わぬ人生の展開に、人生に対する希望も確かに芽生えていた。
 3日、4日と経つうちに内心緊張しながらも断食日数を更新していく自分に自信を持った。
 7日目頃だったか、村へ水を取りに行ったとき、行く途中道に落ちていたペットボトルのヨーグルト飲料を飲んでみたりしたが食欲は湧かなかった。ただこの時は日々安静状態だったので、水を取りに出るときはバランス崩して倒れそうになったり歩くのもどこか力が入らなかった。
 「やっぱり弱っているんだな」
 そう思った。

 めまいや急な虚弱感はなかったが、いつも通り体は動かなかった。7日か8日目、工場の裏にあったハチの飼育箱からハチミツを見つけ、食べてみたが、味覚が変化していて味があまり分からなかった。変質していたのかもしれない。味よりもねばねばした感触の方が変に感じられてつまむ程度で終わった。

 11日目、もう十分だと思った僕は工場を出た。めまいや虚弱感はなかったが、心臓の鼓動が激しく毎2、3キロで十分な休憩が必要だった。
 5kmくらいだろうか、道端にパーキングが現れ、そこにあった木のテーブルの上に紙袋の中になんとシミット(トルコ風)や丸いドーナツが…。  

 「食べよう」  

 有り難く、よく噛みしめて頂いた。それからは食欲が一気に復活し、ゴミ箱やコンテナがある度に何かないかとあさる自分がいたのを覚えている。  

 「不食」、「不食」と、食べないことばかりそれまで意識していた僕だったが、10日目の断食を経るとまるで「不食」が取るに足らない、ちっぽけなものになった。食べることに大変な喜びを認めていたのだ。
 「10日断食を達成したのだからもう十分だ!」 
 そう思った。 それから5日後くらいだっただろうか、ちょうどAlexandropoliというエーゲ海沿岸の町に着いた時、原因不明の足のむくみが現れて、歩けなくなった。

 「旅わらじ」を靴下一枚だけで履いていた自分は、ギリシャに入った時に指先の感覚が麻痺し始め、構わずにいたらとうとうAlexandropoliでむくみから痛みに変わったのだ。骨が痛むという感じでかなり焦りを覚えた。「歩けなくなったらもともこもないからな」と。  
 そうして町外れの放棄された民家の中に入って養生に当たった。
 マッサージをしてみたり、柔軟体操をしてみたりして血が回れば回復するはずだと思った。症状が軽快し始めるまで実に2週間もの間そのボロ屋にいたが、その間はよく町に食べ物を探しに出た。痛い足を引きずりながらも「食事をした方が良いのかもしれない」と思った。
 多分に断食の影響も疑ったのだ。この間は実に食欲に耽った。
 まるで10日間も断食をした自分がウソのように、食べられるものは大きなバックにこれでもかというほど詰め込んで、ボロ屋に戻ってはムシャムシャとブタのように食べ耽った。
 ヨーグルト、バター、チーズ、加工肉食品、固くなったフライドチキン、スプレー式生クリーム、牛乳賞味期限直後、大きなおわんに入ったチョコプリンの残り、ピザ屋のゴミからは、焦がしたピザ丸々一枚、固くなったフライドポテト、缶に傷や歪みがある密封のファンタなど食欲を満たす食べものが山ほどあった。  

 食事に関して非常に厳しい親に育てられた僕は人がそれほど食べ物を捨てられる神経が理解できなかった。今でも、理解できない。だから自分は自分が許せば仕事をしないで、町で捨てられるものを食べてだって十分ハッピーに生きられると思った。
 化学調味料や添加物、白砂糖、動物たんぱく質が体に良くないとしてほとんど食べられなかった幼少を持つ僕は、人が捨てたものでも、汚れすぎていなければ十分に価値を感じる。
 同じものを食べるために1時間自分を仕事で縛るくらいなら、僕は人の捨てたものを食べ、その1時間を別のことに充てる。 しかし2週間もの間動けずにいるとさすがに気がめいった。食べ物のために治りかけた足を酷使してでも町にゴミをあさりに行く自分が情けなかったりもした。そうしてボロ屋に引っ込んで10日目頃か、少し麻痺がひいてきて、なんとか歩けるまでになった。

 完全な治癒ではなかったが、もう我慢がならなかったので勇んで旅に出発した。3月12日頃のことだった。  
 ヨーロッパに引き返すと決めた自分だったが、同じ道を戻るのは気が引けた。そして気持ちではまだ旅の時間が欲しかったのである。そんな自分は多少時間をかけても訪れていないバルカンの国や、東欧の地域を覗きながらスイスに戻ろうと思った。
 ヨーロッパの精神的礎、聖書を書き写しながら…。  

 それで僕はトルコから西へギリシャを旅することにしたのである。残念ながら歩きのスピードでは最長の3ヵ月を使ってもアテネまでは届かないことが分かっていたので、テサロニキで満足しようと思った。
 
 そうして春の気配を日々感じながら歩いていくと、3月19日40歳(前後)のマリファナ中毒者、サヴァに出会った。 
 それはまだだいぶ東、Kavalaという町も手前のことだった。急に業務用ワゴンを止めてくれたおじさんがいて、実に明るく声を掛けてくれた。サヴァだった。
 Kavala方面に乗せてもらう予定だったが、車内で談笑しているうちに「家に来ないか」、という話に。
 僕も交流を楽しんだので誘いを受け取った。
 旅中ではいつも率直にどんどん話をする僕だが、この時も家に着く頃には、彼はマリファナの中毒で、一度結婚してきれいな娘さんもいるが離婚して一人暮らしをしているなど、大体の人物像も分かった。
 マリファナはトルコに居たときに一度誘われて吸ったのだが、特に何も経験できず、この時も少し吸わせてもらったが幻覚などは見えなかった。

 それはさておきなるほどこの人物には薬物常用者ならではの落ち着きのなさが見られたが、普通に接している範囲では問題は意識しなかった。実に温かく、そして優しく接してくれたのだ。薬物に溺れながらも、本人はそれを隠さないというし、心は純粋な人だということも分かった。
 薬物乱用者には「優しい」人が多い気がするのは気のせいだろうか…。  

 僕は彼と8泊9日共に過ごした。
 どこか寂しがりやで、僕は良きパートナーでもあったかもしれない。サヴァは2人ほど彼の親友のところに遊びに連れていってくれたり、古代の遺跡見学や僕一人だったらまず有り得なかった、Kavalaのきれいなギリシャらしい観光地を案内してくれた。
 彼の家族の話を聞くと、気の毒な話が多かった。
 妹さんとは嫌い合っているとか、かつてはたくさん財産があったが、家族内の揉め事で売り払ってしまった(牛数十頭、土地、など)とか、更には僕が訪れた当時、隣に住んでいる彼の母が糖尿病と診断を受けて厳しい食事制限をしているなど、聞き出せばきりがないほど色々あった。
 僕はどうも何かしてあげたい気持ちに駆られた。
 でも、一体この自分に何ができるというのだろう?  答えがなかった。

 40くらいで世代も違うけれどただただすごく心が通じることがなんだか切なかった。そして金もなければギリシャを旅していても名所を観光したり、ちょっとした挨拶のギリシャ語を知らなかった僕はそんな自分を恥じた。
 サヴァの一人の友人と食事をした時は、ギリシャは今回は北しか見ないと告げると、
 「島に行かなきゃあ、ギリシャは見ていないも同然だよ~」
 と言われてしまったこともあった。だから何気なく、しっかり準備をしてまたギリシャに行きたい気もしている。

 サヴァに連れられてKavalaやThessalonikiを見た僕は、彼の村からはすぐにマケドニア目指して歩いた。マケドニア国境に着いたのは3月31日、ギリシャに入ってから実に45日が経っていた。

『今できる不食総括』 14

◆ISTANBUL  ― ツリー・オブ・ライフでの2ヵ月―

 また予定よりも早く宿を訪ねた僕は、
 「この大都会では寝る場所が見つからなくて大変なので早目に来てしまいました。管理人やりたいと思います。見習い早められますか。」
 というようにお願いした。毎日なんとなく野宿しながら2500km歩いてきた人間が不意に生じた7日間という待ち時間に耐えられなかった。もっと正直に宿に着いたその日からでも管理人をやりたい意思を伝えるべきだったかもしれない。そして、なによりイスタンブールは急な坂道が多く、歩いても歩いても町が終わらないので不慣れのトルコということもあって疲弊しきってしまったのだ。  

 訳を伝えると当時の管理人だったかおるさん(43)はこの一文無しの異質な旅人に大変親切に対応してくれた。正直自分のような人間が簡単に見習いをさせてもらえるとは思っていなかった。かおるさんは早速宿のオーナーと連絡を取ってくれ、僕はその日から宿に寝泊りさせてもらえることになったのだ。  信じられなかった。自分の人生に起きる物事の展開が理解できなかった。  
 僕はどうしてもその宿で働きたいというわけではなかった。無銭の旅人がそういう態度を取ることは厚かましくて失礼ですらあるし、僕は再び日本人と濃厚に交わるのはまずいかもしれないという懸念があったのだ。
 でもブルガリアでミチさんとばったり出会い宿のことを聞かされたことは偶然だとは思えず、事の成り行きにはできる限り従うようにしようと思っていた。そして宿ではすぐ見習いをさせてもらえるという展開になったことがほとんど僕を混乱させる。  

 宿に泊まりだして3日くらいだろうか、12月9日頃、僕は日本の家族に4ヶ月ぶりにEメールによる連絡を入れた。その前はセルビアのビェリッチ農場から居場所だけ伝える30秒くらいの冷たい電話。その前は、スイスである。
 だからほとんど連絡をせずに居たのだが、日本人宿に来て見習いが決まるや家族と連絡を取る気になった。  
 「家族と連絡を取ることがよいかどうかということは僕にも分かりませんが、…」
 と、父宛のEメールの冒頭に付した。だがこれに対して父は、僕が無事元気にやっていることを喜ぶ、その心が伝わってくる返事をくれた。それ以前の父とのやり取りはまず心は通わなかった。  

 自分の人生に何かが起こり始めている。僕はまだ死なない。  
 第二の人生を与えられたかのような感覚があった。しかしその人生に関しては右も左も分からない。
 一体、自分はこれから何をすればよいのだ?? 
 「不食の更なる追究か?」 
 それともここツリー・オブ・ライフでの日本人旅行客への奉仕か?そしてそれによってできるお金で日本行きの航空チケットを買い、家族と本来はないはずの再会を果たすこと、だろうか?
 …
 でもそれもそれだけじゃない気がした。
 スイスからイスタンブールまで無銭徒歩という特異な旅をしてきた実績と、なによりここで人生が終わらないという強烈なインパクト。
 よく分からないのだが、それだけじゃない。
 「それが正しく見えてくるように、今は今の目の前のことに全力で向き合おう。」 
 
 そうして始まった日本人宿の管理人という仕事の見習いだった。管理人になったら一日7ユーロの給料が発生することになっていた。  
 10ヶ月ぶりにまた身を浸らせることになった日本語と、その精神。見習い期間中にも毎日お客さんの出入りがあり朝から晩まで日本人旅行客と交わった。彼らが鏡となって自分の像が見えてきた。いったい自分は何をして来たのか。それは正しかったか、間違っていたか…。
 細かい感情が扱える母国語を使うことによってそれまでの10ヶ月を振り返ることができた。そして、自分にとって日本とは何なのか考えずにはいられなかった。ある意味で大変貴重な時間を過ごした僕だったが、いざ始まった管理人という仕事はまるで楽ではなかった。仕事の内容ではない。客とのやりくりの方だ。

 僕のことを心配して年末まで面倒を見てくれたかおるさんがいなくなると僕は新しい客がくる度に振り回されるような管理人になった。僕がいろいろな面で未熟だったのは確かだ。しかし、来るお客さんには残念ながらそれを面白おかしく観察したりあら捜しをするような人がいた。管理人としての権限というものは十分ないことも多かった。  
 そんな中で僕はただ周りに合わせていった。給料は仕事の多さのわりに安すぎる上に、休日もない。管理人1人が最大20名のお客さんを管理するという点もこの宿特有で、そこではそれなりの「テクニック」が必要だった。お客さんに助けてもらう必要も出てくる。お客さんと息の合う管理人の勝ちなのだ。  
 
 だが自分がしてきた非常識な旅といい、非日本人の資質といい、僕はぺこぺことお客さんの言うままに動くしか始めは分からなかった。リーダー格のお客さんが来れば、その人に全体的な判断を任せてしまう。その人が去っていったら別のお客さんが言うとおりにやってみる。まぁそれでも宿が、危険なく、回っていればいいかなと僕は思っていた。
 経験はおのずと付いてくる、と思って。お金が手に入り、久しぶりに買いたいものが買える生活はよかったし、色んなお客さんと知り合え、話が聞けるのもよかったのだ。  

 多少問題と意識していたのは「たばこ」で、セルビアに行ってから味を占めた。僕は休憩の度にたばこに手を出す癖ができた。もともと喘息持ちで自分の肺が敏感なのは知っていたのだが…。  
 今現在(2009.1月)僕のミクシィの仲間というのはほとんどがこの2007年12月、2008年1月の2ヵ月に知り合った人達だ。僕が「ミクシィ」を知ったのも日本人宿に来てからで、はじめは管理人をする上でお客さんなどに自分のことを知ってもらう手段として有効だと思って始めた。それが今では別の意味を意識するようになっているが。  


 (久しぶりに近況報告をしたいと思う。前回のまともな報告は1月9日のLyonを出た次の日だったと思う。今日は1月14日、場所はPontarlier30km手前、とある農業器械倉庫に入っている。9日からは歩かないことにスイスも来ない、と進むことに専念してきた。早く日本に帰りたいと思っている。
 ここまでLyonから5日とはすごくハイペースなのだが、実際に歩いている距離は普通で、ただ不思議とこの3日、4日人が車を止めてくれたため、70kmくらいは車を使った。  

 「1月8日」の変調はだいぶ収まったが日本帰国を前にした自分には相変わらず無数の思案が湧いてくる。日本に帰ってすることは大したことじゃないのに、普通の海外旅行ではなかっただけにインパクトが違う。
 想像以上に早くスイスに着きそうだが、北に上がってきて気候が一層厳しくなった。Lyonまではマイナス2、3℃だったのが、Lyonを出てからは日々マイナス7、8℃になり(朝)、今日は雪も降り出した。今朝はこの倉庫で執筆を進めてから出発しようと思っていたが、この分だと外には出ない方がいいかもしれない。やむ終えず待機中というわけだ。  
 ここからスイスの親戚のもとまでは200kmくらいだろうか。早ければ、10日で着ける。親戚のもとで親の用意してくれたお金をもらってからは5日後くらいには飛びたてるだろうか…。いざ日本に帰ると決めると、1日普段の倍の40km進んでも、早い気がしない。早く、今回の帰国決断の目的、「借金返済」に取りかかりたいのだ。時間の経ち方が旅とは変わった。  

 Lyonを出てからは食事を取っている。断食を進めながらスイスに帰ろうかという意識もあったが、ただでさえ挑戦である日本帰国を前に断食の進展による緊張まで要らないことから食べるようにしている。まだ僕も食べている方が精神は落ち着くのだ。自分は何でもない普通の人間でいられる点が安堵となる。断食が10日、2週間と進んでくると、もはや自分は凡人ではないとの意識が強く出てくる。それは少なからず緊張にもつながり、日本帰国を邪魔しかねない。  

 Lyonを出てから家族や、一緒に旅をしようと話していたスイスの知人、おばなどに手紙を出した。皆に日本帰国の意思を表明。一緒に旅をしようと話していた知人とは、スイスに入ったら一度連絡を取る。場合によっては彼と、スイス国内を少し歩いてから日本へ帰国する。そんなところである。)

 
 管理人をすることで溜まったお金は2月の出発までにほとんど使い果たした。宿に必要な修理などのために道具やドリルを買った。管理人になって間もなくやめることになったのは管理人に興味がある女性が声を掛けてきたからだ。朝から晩まで日本人とばかり関わって僕はトルコを旅したい気持ちや、一人になりたい気持ちがあったため女性と少なくとも一時交代をすることにした。
 しかしこの交代は結局完全な交代となった。2月5日をもって僕は一度観光ビザをリセットするためにも、再びブルガリア方面、Edirneを目指して歩いた。しかし今回のトルコ全部で一体どれだけ歩いただろう…。
 50kmがいいところだ。イスタンブールを発つや否や次から次へと出会いがあり、食事を与えられ、チャイやビスケットを出され、泊めさせられ…。まともな家を持たない人やガソリンスタンドや、ウラシュというところではインターネットカフェで泊まったりした。そして去るときには大体乗り物を手配された。イスタンブールを離れた時から旅Ⅲが始まった。  

 管理人をしている間にはちょくちょくアメリカ人宣教師との交流もあった。初めて日本人宿を訪ねた日、午後にガラタ橋というところのベンチで出会ったアメリカ人だが、僕の旅に興味を持って仲間に加えたいようだった。宿では客の相手で十分忙しいのに、この宣教師達の相手もなおざりにできず、日本語の感覚と英語の感覚がもはや使い分けられない自分があった。
 彼らに一冊、新約聖書をもらった。やっとイスラームに来たと喜び、定時に流れるコーランのエクスタシーに浸りながらも、僕がトルコで交わった人々は日本人とアメリカ人、という結末。トルコ語は勉強したくてもその余裕がなかった。またトルコには行きたい。  

 スイスを出た当初「不食」と向き合いにいいだろうと思っていた所に、イランの山中、がある。イランとも辺境となれば場所が場所だけに断食も進む気がしたのだ。しかしイスタンブールに来るや家族と連絡を取ったり、日本人の旅行者と印象的な時間を過ごしている間に、それより東へ進むことによって命を危険にさらすのはやめようという気持ちになった。そして心のどこかではまだ好き勝手している自分の、家族に対する申し訳なさなどもあった。
 「いつまでも歩いてないで、早く『不食』と決着をつけろよ!」
 と。  

 そうして妥協策だろうか、もう一度スイスまで戻ることに決めたのである。管理人をすることで溜まるお金でイスタンブールから直行で日本まで飛ぶことも考えたが、急遽管理人をやめることになったため、叶わなくなった。
 急に管理人をやめることになった時は少し複雑な気持ちだった。ツリー・オブ・ライフとの出会いはただならぬ気がしていたからだ。しかし日本人旅行客の相手で苦労し、たばこに溺れ、食事との向き合いも狂っていた自分にはそれで良かったのかもしれない。