2010年3月30日火曜日

限界か

 3月30日午前0時42分、13日目の仕事が終わった。これまでで一番遅い仕事あがりとなった。

 ただいまの時刻は午前3時34分。家に帰って来てから寝ずに食事やインターネットをやった。まだ寝ていないから感覚では今日だが、昨日の午後には危機が訪れた。
 「今日で仕事やめようかな…」
 ドライバーのSさんに言った。仕事の真っ最中だった。

 そのときは気を取り直して頑張った。Sさんとは最後まで仕事を続けたが、僕は限界に達していた。

 ブログには僕が働き始めた運送会社の内情はほとんど書いていない。だからまともな内容は今更書こうと思えば大変だ。
 
 社会生活のひずみ。簡単に言えば、(単純すぎるかもしれないが)僕は昨日の午後それに直面した。
 <人は縛られなければ生きられない運命なのか>
 <人は制限の中でしか生きられないのか>
 …
 そんな、『自称卒業論文』(2004)の中にも書いた内容が、ふたたび現れた。Sさんとの関わりの中でである。Sさんが僕に余裕を与えずに絶え間なく干渉する中で、僕は昨日の午後上記のようにこぼした。仕事を今日でやめようかな、と。

 理由は、Sさんの意地悪な干渉だった。Sさんは僕を自由にしてくれなかった。僕の仕事のテンポ、やり方を基本的に受け入れていなかった。僕は四六時中10歳年上のその人に「操作」されていた。

 操作に耐えがたくなったのは「お金をつくる」ことの意味が、早くも薄らいだからだ。薄らいだというか、努力に対する報いとしての1万数千円の価値は、日を経るごとに減っていった。
 だが採用されるために「週5日~6日は仕事します」と言ったのは自分だった。そしてこの不況の中、選ばれて採用された自分だった。
 でも約2週間働いて、どうもバランスが崩れた。毎日のように11時を回る帰宅。
 不食思想の紹介による会社の仲間の異常な興味関心やうわさ。僕が最初の二日間一緒に乗ったのもSさんで、風俗店の店長をやっていたこともあるその人は、強烈な人物だった。下手に関わることは危険だとすら思った。

(つづく)
⇒次の日記に譲ります
 
 

2010年3月27日土曜日

仕事十一日目

 午前6時半起床。昨晩の就寝は午前一時だった。
 家についたのが十二時でインターネットを開いてお風呂に入ったらあっというまにその時間になった。

 今朝は頭痛がすこし。
 昨晩家に帰ってきてから、食べるつもりはなかったが、時間がたって野菜が味を吸ったおいしい煮物があったので思わず食べた。食事と睡眠時間の少なさが「頭痛」を引き起こす。

 24日は一日休んだ。日記にはいろいろと書いたのだが結局タイプするまでの時間はとれなかった。
 25日、26日と働いて、今日がある。
 
 一日休んでからは、落ち着いて仕事ができるようになり、この二日間は気持ちよく仕事ができた気がする。大きなミスもなく、「助手」として十分機能していたんではないだろうか。

 24日に書きたいことは多かった。会社について。仕事について。仲間について。
 でも、思った。人間、たとえどんなに時間があったとしても、「書く」ということは追いつかない。言葉で人間の行動がすべて述べられるとしたら、逆に、人生とはどんなにつまらなくなってしまうだろう。僕らは今生きていることに意味がある。どう生きているかを記録することに意味があるのではない。
 そして、言葉の持っている限界…

 一日一日、一万円ずつお金が増える。


 ありがたいことだ。



 I wish you a good day.
Tomo

2010年3月23日火曜日

仕事八日目

 午前6時12分起床。昨日よりも、また少し早く目が覚めた。相変わらず目覚ましはない。欲しいと昨日寝る前に思ったけれど、ないものはない。遅い時間でもあったので、家族に聞くつもりもなかった。<明日は寝坊したりして…?>と思ったが、ちゃんと起きた。寝不足感覚は、いうまでもない。

 昨日はこの仕事を始めて一番遅くなった。午後11時30分の仕事あがりだった。
 でも疲労感は連日より少なかったかもしれない…。「慣れてきた、仕事にも仲間にも…」と言えるんじゃないだろうか。今日で連勤六日目となるので、週休1日で働くとすれば明日は休みになる。<忙しいので出てくれ。>と言われれば、出ると思うが、今は休みたい気持ちが強い。靴下や携帯電話などが買いたくてしょうがない。(笑)

 仕事では日々落ち着く傾向があるけれど、まだまだマイペースの僕がいる。
 集団に、チームに溶け込んでいない。日本語的な表現を使えば「ウいている」という感じか。笑
 まあ、この顔この目鼻立ちで日本で「ウ」かないことは無理だろう。もう、無理なんじゃないか??今考えていることは、「ウく」ならどう「ウく」かということだ。笑 難しい課題だと思っている。
 人にはよく話すが、東欧で僕が居心地がよかったのは、自分の外見が周囲の人間と比較的溶け込んでいるということだった。「目立たない」・「特別扱いされない」ということがこんなにも心地よいものなのかということを、僕は25になって初めて体験した。それまで生活したドイツ・マレーシア・日本ではいずれにおいても僕は目立つ人間であった。

 仕事をしながら、よく思うことがある。日本人は、雰囲気の中、場の空気の中に生きる民族だな、と。それを僕は日本を絶望で飛び出すまでかなり「完成」させたものがあったけれど、ヨーロッパに行ってから、それをするまで僕は「日本人」である必要はないなと思うようになった。言ってみれば、それは自然なことなのだ。日本で育っていないから非日本的であることは、自然の至りだ。
 ただこの日本という国において、特にこの東京圏においては異文化を「寄せ付けない」、洗練された高度文化が存在している。そこで異文化を抱えることは試練だと言える。特に一般人としては。世界に名を馳せる「日本の中心」でもあるだけに、その厳しさは尋常じゃないと思う。外人となるか、日本人となるか、それともパーソナリティとなるか。
 しかしパーソナリティとなったときにはなんでもない日本を感じることはできなくなるだろう。


 …なんか、惰筆になってしまっている気がする。苦
 もっといい内容がポジティブな内容が書けたんじゃないか?汗 今日も一日がんばろう。

2010年3月22日月曜日

仕事七日目

 運送の仕事は休日が特に忙しく、この3連休は本格的だ。朝目が覚めたのが6時23分。一瞬、7時23分(出発時刻)と間違えて、きもち焦った。
 目が覚めた時はまったく起きたくなかった。疲れが取りきれていない。今日は運送会社(Bとする)の7日目の出勤だが、きっと初日以外疲れを引きずらなかった日はないだろう。目覚まし時計によって「起きる」。緊張感によって「起きる」。あるいは、起こされて「起きる」。
 
 昨日は実に11時20分まで仕事した。茅ヶ崎市の15軒の家にテレビや冷蔵庫、洗濯機などを宅配する。一つひとつの作業はそれほどの重労働ではないが、相模原からの往復で一日15軒回ると、必然的に10時くらいになってしまう。おまけに昼の休憩という、契約には見込まれている時間は存在しない。僕が「不食」思想を、会社の人達に話しているせいもあるか、この6日間の勤務では昼ごはんさえ取らない感じだ。酷な仕事だ。一日約 12,000円(90ユーロ?) を稼ぐためにそれをするということ…。
 戦後本格的に「経済主義」になった日本の(国家)理念、日本人の見つめてきたものを、つい考えてしまう。

 昨日は『希望』について考えてみようと思ったが、実際はまだまだ仕事に負われて、余裕がなかった。「希望を語る」必要性を切実に感じたが、昨日はそれ以外のまだまだ向き合うべきことに追われた。まぁ、仕事6日目ではしょうがないかもしれない。

 希望とは何か。今朝は少し時間があるので、あと10分くらい話せる。
 僕が得た、絶望のふちから生まれた希望は、簡単には表現できないけれど、「不食」―人は食べなくても生きられる― という信念(確信)にあると言っていい気がする。これを、恐れながらも信じようとしてきたこの5年数ヶ月が僕に様々な素養、才能を恵んでくれた。不食を信じてこそ実現した10,000kmの旅が、様々な感覚を育ててくれた。それがなんなのかを今後の人生で、明らかにしていく。
 今言えることは、「信じること」の大切さだ。信じない人間は何もできない。信じる人間に未来がある。希望がある。信じることができなければ、信じられる範囲での生き方しか人はできない。「不食」で言えば、「人は食わずでは死ぬ」と信じれば、それは「それ相応の生き方しかできなくなる」ということだ。
 ところが、「人は[食わず]でも生きられる」と信じる気概は、また相応の生き方を実現する。!それがすごいことだ。「非常識」だと排除してしまう人間には、絶対に見えない真理が、そこに存在する。 
 それを僕は「見た」から、それを語ることが「希望を語る」ということになると思う。

 さて。あいにく時間で、行かなければなりません。
 今日もよい一日を。 ☆
 

2010年3月21日日曜日

仕事六日目

 6時45分起床。
 5時間半の睡眠。若干頭痛を感じる。
 やはり昨日は少し無理したか…。昨日は結局寝たのが1時過ぎだった。気分が良かったため、ネットをサーフしていたら、あっというまに1時をまわった。

 目覚まし時計がないのだが、体は6時半前後で自然に起きる。
 慣れた生活リズムではないはずなのに、ついこの前までは決まっていなかったのに、なんでだろう。やっぱり緊張感だろうか。

 朝ごはんは食べないで出るだろう。
 本当は社会生活に戻るために、しっかり朝食を摂りたいと思うのだが、頭痛がある以上おなかに負担はかけたくない…。

 「☆希望☆」とは何か。
 そのことを考えながら、今日も一日過ごしたいと思う。

 『一人でも多くの人が、今日も貴重な一日となりますように…。』

ーーーーー♯

仕事五日目夜

夜11時半。帰路についた。
警察に自転車の名義確認で捕まって、20分くらい遅れての帰宅。仕事が終わったのは今日は10時半だった。
仕事ははかどった。「見習い」としてではなく一人前の仕事を期待されてこそ、動ける。どうも僕は昔からそういう性分だ。「人に教わった通り」とか、「決まり」を押し付けられると、しんどい。僕はB型だが、人一倍マイペースだとも思う。

「働けること」、「稼げること」がうれしい。
5日間で6万円近く稼いでいる。おばあちゃんからの援助を含めれば持ち金は10万円以上だ。

お金の使い道を考える。
とりあえず必要なのは、靴下と服。次に携帯電話。次に「?」
ここまでしか決まっていない。
3月1日に相模原に帰ってきてからの実家での生活費を親に出そうとは思っている。4.5万~6万円の間で考えている。

明日も出勤だ。
家電配送は繁忙期を迎えている。会社の役に立ち始められるように、頑張りたいと思う。これまでは会社の役に立っている気があまりしない。

今日は、「希望」について考えた。
僕は、もっと自分の「希望」―HOPE―について語らなければいけない気がした。
真面目で硬く、きわどい極限を表現するばかりでなく、もっと僕のもつ夢について、語っていかなければいけない!!

さて。僕は寝る人だ。
まともに食べていると8時間は必ず睡眠が要る。
食べる生活と今の仕事では、家に帰ってすることは寝る以外にほとんどない。残念だがそれが現状だ。
でも、これからどんどん日記を書いて行きたいと思う。とどまらない。常に歩む。
明日は生まれ変わるのだ。明日が来たら、その僕は今日の僕ではないから。
人間には「今」しかない。過去や未来というのは人間の創造物であって実在ではないと、そんな気がしてならない…

おやすみなさい。★

2010年3月20日土曜日

仕事が始まって五日目

3月15日に運送会社の配送助手の仕事が始まってから、六日がたちました。

今回の「社会復帰」の背景を発表してから日記など書いていこう…と思っていましたが、意外と時間の余裕がなく、暇をみつけてどんどん書いていかないと内容が溜まりに溜まってしまいそうです。
 それで、『こども時代』の連載中ではありますが、日記を挟んでいくこととしました。

今日は仕事に入って五日目です。
今日から一人前の仕事を要求されます。ドライバーと2人で、繁忙期の家電配送を丸一日やってきます。

お金が稼げることは、本当に有り難いことです。
どれだけありがたいことか、自分の基準を見失ってしまうと、傲慢に陥ります。
きっと、たとえ日給が3000円でも、僕は働くと思います。
それが一日1万円以上(残業数時間含む)もらっているのだから、その「有り難味」はよくかみ締めなければいけません。

さて。短いですが、もう出勤なのでここまでにします。
みなさんも、よい一日を。☆

2010年3月19日金曜日

『こども時代』 12

2010.1.4
流行りのものは高すぎ!
 自分は5人兄妹であったせいもあるだろうが、ファッションに周りが目覚め始める中、僕らは服にしても靴にしても必要最低限のものしか買ってもらえなかった。体は成長期に入って急速に成長し、カッコイイ服を着たかったが、級友と比べると地味な服しかもっていなかった。親はファッションにお金をかけることはとても勿体ないことだと、人は見てくれより中身だと、僕らには説諭した。
 日本の学校で「自分はどう見られているのか」ということをすごく気にしたせいもあるのか、僕はでもけっこうスタイルのことが気になった。たとえばドイツ人に比べて短い自分の足が、気になった。スイス人はドイツ人と比べて若干小柄で、足も短いかもしれない。クラスではイスに座ると余裕のある座高だが、ひざの高さを見ると、自分より背の低いのが高かったりした。クラスでは大きく、力も負けていなかったが、どういうわけか身長と足の長さは気になりっぱなしだった。
 背が高いことを誇りにした小学校時代があったからかもしれない。一学年上、本来自分が入るであろう学年を見ると自分より背が高いのがゴロゴロいた。背だけでなく力や運動能力も僕は引け目を感じていた。それで、「大きくなれ、大きくなれ」と、自分に念じていた気がする。かのピーパー先生はもちろん大の憧れだった。大きいからと言ってひょろっとはしていなくて、ピーンと張った背筋と大きなブーツでどしっどしっと歩くのである。それでいて心はすごく優しいのだった。


◆「孤独」との出会い。『あしたのジョー』
 ドイツの冬は生き物の気配が途絶えて、さびしかった。町に住んでいたのでさほど自然を見ていたわけではないがそれでもドイツの冬には独特の憂うつな雰囲気があった。北緯で言うと「稚内(わっかない)」よりもはるかに北にあるデュッセルドルフは、日照時間の変化が大きく、夏は夜10時まで明るいのに、冬は4時には暗くなった。冬は長く、日光浴をしてもほとんど温かくならなかった。
 毎日片道一時間かかる通学の時間や、馴染みの薄いドイツという世界では自分の「孤独さ」を感じた。友達はそれなりにいたが、1年や2年くらいで居心地がよくなるはずもなかった。「居心地」という点ならかのマレーシアがドイツや日本よりもよかったかもしれない。そしてドイツで自分を見失いそうになった時はアルバムを見てマレーシアの思い出に浸ったり、日本の思い出に浸ったりした。
 日本語の補習校にはちばてつやの「あしたのジョー」があって毎週借りてきては夢中になった。東京下町のあてなきさみしい青年が、酒飲みの元ボクサーに才能を買われて、ボクシングを始める。そしてボクシングの頂点まで登りつめて燃え尽きる。男子にとっては不朽の名作だと思う。なによりも僕は、主人公の孤独なジョー(矢吹丈)に自分を重ね合わせていた。「もう、誰にも頼りにならずに生きてやる」そんな情感が切実だった。
 ラテン語で「能力」を意味する「ファクルタス」を題名に、天涯孤独の宇宙飛行士のマンガを描いたのもドイツだった。宇宙船の謎の事故により一人の少年(主人公)と乗組員だけが生き残り、旅を続けるが、しまいには頼りにした乗組員も自分を裏切って自殺してしまう。たった一人になっても生命を命一杯燃やそうとする少年の物語だった。絵はさほどうまくなかったが、ストーリー設定にはだいぶ熱が入っていた。
 ブランコに揺られながら、ただぼんやりと夕日を眺めるために、家の近くの湖公園に足を運んだ。兄とは相変わらず仲はよかったし、親や妹達ともなんら変わりなく接していたが、僕は孤独を感じ、また孤独が好きにもなった。静かに物思いにふける、そんなひとときが好きだった。

 だが、ドイツの自然にも「里」を探した。自分は日本人であるという自覚はあいまいだった。そう胸を張って言えるほど日本を知らなかったし、日本に関することには距離感を感じていたのも確かだ。そして少しばかりドイツにも心を預けて、日本に帰国した。

2010年3月17日水曜日

『こども時代』 11

馴染みは意外と早かった
 母親の心を受け継いでいたためだろう、僕は授業にはまだついていけなくても早くからクラスに居心地のよさを感じた。それは「私はこうだから。」とか、「あの人はそうだから。」といった個人的な事情や、個性の違いはあって当たり前とするドイツ人の気質があったためだ。それが、自分のたしかな違いからは目を逸らせ、「自分を出す」ことにつながり、それが気持ちよかった。
 1年目だったと思うが、ミニサッカーをしていた時に納得のできない何かがあってみんなを前に不満を表明したことがあった。だいぶ怒っていたと思う。しかし、それが友人関係の決定的な傷や汚点にはならず、1日たてばヤンかグリシャが「トモ、今日の放課後はサッカーやる?」と普通に聞いてくるのだった。
 ドイツ人からすれば、人が時に感情的になって不満や怒りを表すのは普通であり、それは受けて流せばよいという考えがある。一時集団を乱したからといってそれがすぐ変なうわさとか、当人のマイナス評価にはつながらないのが西洋かもしれない。僕はそんな、みんなの不思議な寛容さに癒され、みんなを前に怒鳴るようなことは、したくなくなった。


なわとびやゲーム、数学では自己アピールも
 日本の学校で身につけたちょっとした芸やあそびが、僕の自己アピールに役立った。なわとびなどはドイツ人は下手くそで、僕が「二重跳び」なんかをして見せるとみんな感心した。その他には紙一枚あればできる色々なゲームも、暇つぶしには役立った。「棒消しゲーム」、「ブロックゲーム」、「○×」、エトセトラ。向こうの生徒はあまりそういう遊びを知らなかった。でもやってみると、面白がって、それがうちらの間で習慣にもなったりした。
 数学は日本の教育の方が進度が早く、一学年下に入っていたせいもあるかもしれないが、それにしても易しかった。日本に帰った時に勉強が遅れないように、日本水準の問題集を買って勉強したりした。
 英語のレベルには当惑した。マレーシアで少し英語ができたとはいえ、5年生から始まるドイツの英語教育ではもう、けっこうな長文を読まされた。更には、7年生となった最初の9月からは第二外国語がスタートした。フランス語かラテン語を選択するのだが、生物に興味があった僕はラテン語を採った。ドイツ語、英語に加えてラテン語と、「強行カリキュラム」になった。ドイツの成績評価は6段階で、1が一番良く、6が一番悪い。一般の生徒は「5」が2つか「6」が1つあると「落第」で、同学年をもう一度やらされることになる。僕は体験入学生であったため、7年生、8年生にあがる際、基準が除外された。
 ラテン語の初めての試験では僕は「5」を取った。生徒が座りきれないほどいる授業で、授業がいまいち分からなかった僕は単語の意味を2つ3つ書いたくらいでテストが終わってしまった。先生が、年配の、教頭先生でもあったから、「こりゃなんとかしないとまずい」と思って、自分で本屋にラテン語の文法書を買いに行き、独学した。説明がすべてドイツ語なのでわかり易さは低かったが、それでも何か得るものがあって、次のクリスマス前の試験では「3」をマークした。ドイツ語もろくにできない僕が結果を出すと、そのフォンローバート先生は感心して、みんなの前で僕の大変さをアピールしてくれた。それからはラテン語が好きになり、だいたいいつも「2」をとるようになった。

2010年3月13日土曜日

『こども時代』 10

 三編 『思春期』 (中学1年~3年生)

またまた新しい、斬新な世界
 それはあくまで母さんの古郷の「近く」であるだけで、「古郷」ではなかったが、同じゲルマン民族の世界として僕は小さな子供のように目を開いて人々を、町を、建物を、自然を、眺めた。日本とも、マレーシアともまた違う世界がそこにはあった。マレーシアや日本を引きずってきたところでどうしようもない。僕ら兄妹はまた、成されるがままに、ただ純粋な心でドイツを迎えた。
 耳にする言葉は自分にとって3つ目となる、ドイツ語。初めはもちろん、何も分からない。日本でもっと一生懸命勉強しておけばよかったが、それもちょっと無理があった。ドイツに着いてから現地校(ギムナジウム)に行くまでは少し時間があった。2週間か3週間くらいあったと思う。その間に、久しぶりの兄といろんなみやげ話を交換したりして一家団らんを楽しんでいた気がする。兄や父を通じて、さっそく、ドイツについていろいろなことを吸収した。
 僕の通うことになった学校は家からは十数キロ、兄の通うデュッセルドルフ日本人学校の近くにあり、日本人学校とも交流の深い学校だった。僕は日常会話もできないほどだったので、「体験入学生」とでもいうのだろうか(独:Gastschueler)、一般の生徒とは違う扱いだった。学校には他にも日本人や日本人とドイツ人のハーフの子がいたが、別のクラスでほとんど交流はなかった。ただドイツの1年目と3年目は日本語の補習校に通ったので、そこでは毎週土曜日だけ、自分と同じような境遇の仲間がいた。 
 初登校の日は、今でもよく覚えている。たしか父につれられて学校の職員室へ行くと、1m90いくつあるんだという巨大だが優しそうなピーパー先生に会った。父は「じゃあこれで」という感じですみやかにいなくなってしまった。1限目は「美術」。美術クラスにつれていかれ、それから2年半一緒になるクラスに対面したが、僕は、それが何の授業なのかすら初め分からなかった。5、6人でまとまったテーブルに僕も座り、2、3人の大人し目の男子生徒達と会話を試みた。それから休み時間に仲良くテニスボールサッカーをすることになる仲間だ。
 学校は日本の学校のように掃除とか、朝の会とか、クラブ活動はなく、午後1時には下校だった。昼ごはんはいつも家に帰ってから食べた。授業は1日6限、日本の学校と同じようなものだが、20分程度の中休みを除いては10分から5分の休み時間しかなく学校自体はとてもシンプルだった。ただし、昼過ぎに家に帰っても、おちおち遊んでいる気分じゃなかった。早く授業が分かるようになんないとやばいぞ、と思った。
 休日には1時間で4000円とかするレベルの高い先生からドイツ語を習った。しかし、もちろん、「言葉」の問題であるから数ヶ月でどうにかなるものじゃなかった。1年たってようやくいくつか、頑張ればついていける授業が、できた。


クラス旅行 男の子と女の子がキスしちゃう?
 ドイツの2年数ヶ月で一度だったが、そのピーパー先生の時に5泊くらいのクラス旅行があった。僕はまだドイツ語がほとんどできなかったが、この旅行の思い出は今でもとても心を和ます。
 「友達」と呼べるほど親しい子はまだいなかったが、基本的に社交的である自分は、誰とも分け隔てなく交流した。下手な子よりも僕の方がみんなに対してオープンだっただろう。朝食に毎回出されるヨーグルトで、僕はふざけて、みんなが食べないものを少し太ったC君の前に並べた。初め反発したC君だったが、後には彼が僕にとってドイツ時代一番の親友になる。みんなで行ったスイミングプールでは、1メートル90越の先生と取っ組み合って遊んだが、当時160cmを越え、クラスでも一番大きかった僕も、ピーパー先生には投げられてしまった。
 僕の入ったクラスは厳密には一学年下だったため、僕は大きい方だった。ドイツの3年目(15歳)になると、次から次へと級友には背を越された。
 印象的だったのは、夜のディスコだった。ちょっとキラキラした照明をつけて薄暗くし、音楽をかけたくらいの空間だが、そんなものにそれまで触れたこともなかった僕はびっくりした。クラスで人気の男の子と女の子が、抱き合うようにしてキスしているのを見た時もびっくりし、それ以上その地下の部屋にはいかなかった。音楽に合わせて体を踊らせるということも決して不得手ではなかったが、それまでしたことがなかった。カルチャーショックみたいなものだった。
 クラスの女の子の何人かが持っていた色気にも内心びっくりした。発育の早い子は胸も大きくて、その強い刺激には打ちのめされていた。そんな、大胆な西洋人女性に魅了されるのは、母親が西洋人だからというのはあっただろう。日本では本来、女性は貞淑で口数も少ないのが望ましい。母をはじめとして西洋の女性は堂々と「自分を出す」。それが色気の方面で自分を出されると、僕は参ってしまった。
 このクラス旅行の頃はまだ成長期に入っていなかったので、自分の子供っぽさを出すことができて、それがまた楽しい思い出へとつながった。

2010年3月12日金曜日

『こども時代』 9

小6 日本帰国 「給食」が許される
 父の当初の予定任期「3年」が1年延びて4年間マレーシアに住んだ後、僕らは日本に帰国した。父の次なる任地は「ドイツ」であることも間もなくわかり、暫定的な日本での生活が始まった。
 地元の小学校には小学1年生の時に同じクラスだった友達も残っていて、みんな大きくなっていた。それでもやはり日本のことはよく分からないので、友達以上に周りのことに目がいって落ち着きもなかったと思う。転入当初はみんなに好かれ、学級長にもなったが、5、6月の修学旅行では早くもケンカがあった。それはまた、例によって「自分を出す」生意気さに、クラスのやんちゃな男子が反応した。
 日光の観光中に、バスの中で、「外人」というようなことを言われ、僕は日本人だと主張すると「どう見たって日本人じゃない」と言われ、手がとんだ。狭いバスの中なのでとっくみ合いになる前に周りが介入したが、それはまた「納得できない」くやしい出来事だった。
 日本に来るや、いとこのS君が主将をつとめる少年野球部にも入ったが、そこでもちょっとした不和が生じたことがあった。祭りか何かに友達と出掛けた際、花火合戦をしている時にどういうわけか僕は敵の方についていた。野球部のコーチである人が一人やってきて、「いけないよ」といわれてそれでそれは済んだ。
 小学校6年生は、そんななぜか分からない周囲と自分の不調和に一番苦しんだ時かもしれない。本来明るく遊びっぽくて元気な僕の性格も、発揮できなくなっていった。僕は少しずつ内向的になった。

 反面、学校ではみんなと一緒に給食を食べることが許され、父が早くもドイツに飛んでいなくなると、家の食生活も少し緩くなった。そして日本で手に入る食材もまだマレーシアよりマシで、「食事」に関して世間との「違い」に悩むことは、減った。それよりもやはり、この頃は自分の威勢のよさばかりではどうにもならない学校や世間との関係に悩んでいた。
 身体能力にもかげりが感じられた。依然として体も力も強い方だったが、気力は落ちていたし、成長期の友達にはやっぱりかなわなかった。

 小6の夏には3人目の妹も生まれた。12歳の年齢差があったので、母と一緒になって赤ちゃんの成長を見守った。妹が3人いたので3回子守を経験してそれが知らずと「兄妹愛」とか「家族愛」を深めていた。
 次に向かうドイツでは、現地校に入るということになった。それが純粋に自分の意思だったか、せかされての決断だったか微妙なところだが、母の母国語に近いドイツ語を学ぶことには大いに関心があっただろう。でも日本にいる内から通った渋谷の語学学校ではうまくいかなかった。
 ドイツで僕は「孤独」を愛するようになるが、このときも、渋谷への行き帰りの電車や、父のいない生活、友達の少なさなどは、どうしても意識を自己の内面へと向けるようになった。
 小学校の卒業式も日本で終えると、僕ら家族5人は父と兄に合流した。久しぶりの再会がうれしかったし、なにより僕は、「次なる新しい世界」に多大に期待した。

『こども時代』 8

小4 「ガキ大将」、生徒会「書記」当選
 K.L.日本人学校にも馴染み、体も成長すると僕は調子に乗り始め、小学校4年生の時には「ガキ大将」となった。いつも5人~8人くらいの、同じクラスの男子を引きつれて、メンコ、コマ回し、ドロケイや、ドッヂボールなど、ありとあらゆる遊びをした。自分がそれだけの仲間を惹きつけたのも、身長150cmの大きな体と、抜群の運動能力、そしてもともと備わっていた遊び好きの性というか、エンターテイナー性が説得したんだろう。この時の担任の先生は女性で、大人しい子供が好きそうだったが、僕のような活発さにはうまく対処できなかったような気がする。それで本来「たたいておくべきところ」をたたけなかったから、先生を圧倒するようなこともし、僕はますます調子に乗って、本領を発揮するようになった。そんな風に思う。
 一度仲間をひきつれて普段は中学生が遊ぶバスケットコートに行き、移動式ゴールにみんなでよじのぼった。リングは前に飛び出している分、後ろには重りがしてあって、バランスが保たれている。しかし3人も4人もリングボードまで登り詰めるとバランスが、崩れる。幸い、それは学級か何かの時間で、リングの下には誰もいなかったため惨事には至らなかった。バスケットリングは僕らの重みで揺れたかと思ったら一気に前倒しになった。ガーンッという音とともにリングはぐにゃりと曲がってしまい、上に乗っていた僕らも転落した。下に生徒がいたら、これは取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
 その調子で僕は、小学6年生と5年生がになう、生徒会の「書記」に立候補した。日本人学校は色んな面で特殊だったが、その選考にもまるで選挙のようなシステムがあった。立候補した生徒は、お弁当の時間を使って各クラスに行き、体育館での演説を経た後に全校生徒によって投票が行われるのだ。立候補者には推薦人もつき、この時非常にまっとうな山口君という級友がついてくれたため、僕は見事「書記」に当選することができた。
 しかし結局僕は幅を利かせすぎていたため、小学5年生のクラス編成では見事に仲間達から切り離された。僕のガキ大将時代に終止符が打たれた。きっと担任の先生の策略だった。


小5 マレーシア最後の一年
 信仰生活やクラス替えの影響で5年生からはけっこう「大人しく」なった。学校も生徒数の増加による新校舎への移転があったため、いろんな意味で新しい生活になったのだ。新しい転入生もどっと入ってきていた。
 小学5年生にもなると、成長期に入る子もいるからだろうか、僕の強かった体や力も、周りに対してそれほど大きな違いは感じられなくなっていた。それは肉を食べない食生活の影響もあったかもしれない。進級して間もなくの運動会では相変わらずリレーの選手に選ばれていたが、サッカーのうまい子や、腕力のある子も出てきていて、自分も自然と大人しくなっていった。
 でもまだ友達に対して腰が高かったのか、小学3年生の時には仲がよかったアソウ君の仲間からからかわれることがあった。自分ばかり出して「生意気」だと思われていたのかもしれない。「ガイジ~ン♪」とか、何かバカにすることを言って素早く逃げてゆくのだが、一度、度が過ぎるので、足の速いそいつを、くたばるまで追いかけて、おなかの上にのっかって何発か殴ってやったことがあった。
 直後、それを知ったクラスの仲間が 「お前サイテーだな!!」 と言ってきたのだが、そこで僕はむしろ抗弁するように、「お前に差別される苦しみが分かんのかよ!!!」 と、感情的に、くやしさをあらわして言い返した。すると繊細だったそいつは 「そうか。」と後ずさりした。感情表現が苦手な僕だったが、その時は自分をしっかりと打ち出していた。
 その頃にはだいぶはっきりと、自分の物事の感じ方や、人間関係の持ち方が、友達とはチガウことを意識するようになっていた。何で「ちがうのか」、どこが「ちがうのか」は分からないまま…。

『こども時代』 7

小4 おじいちゃんのお葬儀で一時帰国
 4年生のとき、日本のおじいちゃんの容態が末期になって、僕らは日本に呼ばれた。祖父は僕がまだ幼少の頃に脳いっ血で倒れ、半身不随になって車いす生活を送っていた。「ぼけ」も出ていたのでおばあちゃんは一人での看病に参ってしまい、一度マレーシアにも呼んだことがあったが、いよいよ時が近いとされ、家族全員で帰った。
 おじいちゃんとの思い出は、残念ながら、ほとんどない。物心がついた時は既に心身衰弱した車いす生活だったからだ。自分で立っている、元気なおじいちゃんの姿はアルバムの写真でしかしらない。
 祖父は、戦時中は兵隊としてグアムなどに出兵し銃弾を足に受けたりしながらも生還した、数少ない兵士の一人で、小川家では唯一の男でもあった。結婚が遅れたため、父とはだいぶ年齢差があった。
 
 恥ずかしいことに、僕は当時、おじいちゃんのことを心から思う気持ちはほとんどなかった。日本に帰ることをどこか「建前」的に思った。きっと、「父」の心が分からなかったからだろう。僕は父は厳しくて怖いだけでもっと人間的な部分、弱い部分を見ることがなかった。それは実に、大人になるまでそうだった。そんな自分は飛行機にのって日本に帰れることをただ喜び、祖父に関することは適当につきあう感じだった。お葬式では皆と一緒に泣いたが、祖父との関係によって涙したのではなくて親類が一人いなくなったことが悲しい、そんな程度だった。
 
 2年ぶりの日本は楽しかった。いとこのS君にも会えたしおばあちゃんにもらったお小遣いなどではファミコンのソフトやマレーシアでは買えないプラモデルなどのおもちゃを買った。吐く息が白くなる日本の秋を体験することも新鮮だったし、昔の思い出を追いかけながら、2週間程度の日本を、楽しんだ。S君の母であるおばさんは、学校がない僕に、家に誰もいない時は玄関のカギの場所まで教えては、「ともちゃんいつでもファミコンやりに来ていいからね」と言ってくれるのだった。S君がどう思うかもあまり気にせずに僕は誰もいないおばさんのうちでファミコンをやったものだ。
 自分にとって「日本」とは何かということが、この頃まだよく分からなかった。父の祖国であり、自分の帰りつく国でもあるということがどういう意味なのか、まだよく分からなかった。父との関係的な距離は歴然としたものがあって、母親に気に入られるままの自分を生きていた僕はほとんど「日本」というものを考えてみなかった。「大きくなったらスイスに行くんだ」と、言葉も話せないくせに軽く思っていたかもしれない。とにかく「日本」とは、僕にとって、「なんだか知らないけどある」、そんなものだった。日本を「ふるさと」とする精神的なつながりは、「希薄」だった。


◆「道場」通い
 小学校と共に始まったM教の信仰は、マレーシアに行っても続いた。神道や仏教に性格の似ている日本発祥の宗教だが、マレーシアのK.L.(クアラルンプール、首都)にも、しっかりとした道場があった。道場長は中国人だったが、マレー系を除いて中国系とインド系の信者が大勢いた。だがインド系は少なかった。時には頭にターバンを巻いた、あれは何教なのだろう、明らかに別の信仰がありそうな人もいた。マレー系がゼロに等しかったのは、マレー人はムスリムだからである。(ムスリムは基本的に改宗を許されていない。)
 週に一回はこの道場に通い、「お浄め」と呼ばれる神様の光の受光・施光をしに3時間から4時間使った。主に体に御光を頂くのだが、それが一人40分~50分かかり、10歳以上で3日間の集中研修を経ると自分も手をかざすことができる様になり、受けて、手をかざせば簡単に2時間くらいになる。小学校4年生の終わりに、僕も兄に次いで手をかざすことができるようになり、信仰生活は盛んになった。
 月に一度は「月並祭」という祭りがあって、中国人の英語で賜るその教えや奇跡の体験談などをほとんど頭に入らないが、(苦笑)我慢して聞いているのだった。自由参加だが、水曜日か木曜日には午後7時の御神殿の閉場の後にトイレ掃除や、道場全体の掃除に通った時期もあった。平日の8時とか、ほとんど9時まで、そうして神様の役に立っていると思える活動をすると、自分が偉く、清らかになった気もし、なんともいえない幸福感に包まれたことがあった。
 マレーシアの頃は家でもよく「お浄め」の交換をした。お母さんとやったり、お父さんとやったり、妹にやってあげたり、その時々に必要だと思われる人が御光を受けた。本当は、毎日この御光を受けることが奨励されていたが、さすがに毎日はできなかった。一度受ければ40分とかじっとしていなければならないので、僕は好きじゃなかった。それでも、十分に遊んだ後など、落ち着いて、家族とおしゃべりをしながら受ける「お浄め」は、悪くもなかった。お浄めの時間は、私語は慎むべきだが、完全無言であることはむしろなくてそれは食卓と同じように家族的な交流の場にもなっていた。
 M教を通じて学んだことは計り知れない。精神的な鍛錬、集中力や信念の養成、道徳、愛、人間性の学び…。僕は明らかにこの宗教を通じて信仰的人間になった。19歳で、自分から辞退して世間一般の世界に飛び出したが、決して実利主義、実在主義にはなれなかった。
 M教は僕にとって、「日本」との接点でもあった。信仰的に非常に日本人の心に近いのである。創始者が日本人であるから当たり前かもしれないが、僕がどんなにマレーシアに浸って「外人」になっていても、この信仰があることで時にはキュッと自分を引き締め仏性の世界というか、内なる静寂の世界に目を向けることができた。
 「組手(くみて)」と呼ばれる、自分から手をかざすことができる状態になると、その頃から、僕の心も急に一成長した。幼稚園の頃からあった自分の「粗暴性」が、収まり始めた。

『こども時代』 6

アソウ君ちでファミコンとマクドナルド
 小学校3年生になったとき、アソウ君という仲のいい友達ができた。後であまり仲良くなくなってしまうが、当時は毎日一緒にお弁当を食べる仲だった。彼はどちらかというと大人しい子で、僕が「あれやろうぜ」「これやろうぜ」と振るタイプだった。
 この彼の元でたしか初めて「お泊り会」をした。クラスが一緒だった3年生の間に3回位お泊り会をしたかもしれないが、その度に僕はファミコンに没頭した。ある時は夜中の3時頃までファミコンをした。さすがにやばいと思って寝にいくのだが、ファミコンでなければそんな時間まで起きてはいられなかっただろう。アソウ君の親は広間で僕一人がファミコンをやっていることに気付いていたと思うが、優しいおばさんで、そっとしておいてくれた。
 ファミコンに対する執着は「飢え」という感じのレベルだった。アソウ君は優しかったから僕に思う存分やらせてくれるのだが、思うとその飢えは、「みんなと同じことができない」「みんなと自分は、どうやっても違う」という疎外感、孤独感の表れだったのではないだろうか。流行りのゲームの話ができなければ、付き合えない友達も多い。流行りのテレビ番組を見ていなければ友達の話題に入れない…。まだ小学生だったから、その傾向はまだ少ないが、それでも違いすぎる自分に苦労していた。
 大人になってから、僕は自分の中に十分な日本のルーツを見出せずにもがいたが、もし子供の時にもう少しファミコンの世界に浸り「追求」することが許されていたら、僕はその経験をベースに日本で落ちつくことができたかもしれない。ファミコン(ゲーム)が表現する世界は限りなく魅力的だった。
 アソウ君ちで食べたマクドナルドも、そのお泊り会を鮮明に思い出すことができるほど、印象的だった。僕の父はマクドナルドを嫌うべきNo.1の飲食業界といわん人で、マレーシアに飛ぶ前にマクドナルドを食べたことは一回あったか、ないか。もちろん父の承諾のもとではない。そんな僕にとってマクドナルドは却って「憧れ」だった。「ふーん、こんな味がするのか。」とかみしめながら食べていたにちがいない。そのメニューについてきたマクドナルドキャラクターのおもちゃを使って、その後も家でよく遊んだ。
 夜が明けると、「あ~あ。夜も明けちゃった。」と思った。「あとは朝ゴハンを食べてちょっと遊んだら、もうお別れだ…。」「帰りたくない。」「ずっとここにいたい…!」 
 家族が車で迎えに来て、M教のK.L.道場に向かうことになった時、家族といることがいやだとはっきり思ったことを覚えている。親、特に父に対する「反抗心」も芽生えていたような気がする。アソウ君ちで洗った、くつ下かなにかのうちにはないにおいが、愛しかった。

熱帯の生き物たちに釘付け
 生き物に対する興味関心は、幼稚園の頃からあった。庭で大きなカマキリとクモをつかまえてきて無理矢理争わせたり、いとこのS君がたんぼからアマガエルを捕まえてくると自分もカエルが飼いたくて仕方なかった。
 そんな僕が生き物の王国である熱帯に飛んで黙っているわけがない。カエル、トカゲ、イグアナ、ヘビ、アリ、カブトムシ、巨大バッタ、…どの生き物にも色々な思い出がある。ぺタリングジャヤでは道路の脇を流れる溝にもグッピーが生息していた。家には必ずヤモリがいて、明りに寄ってくる羽虫を狙って至るところで見られる。「ケッケッケッケ」と、まるで妖怪がいるみたいに鳴くのも、ヤモリだ。蟻の種類も豊富で、アゴにかまれるとかなり痛い赤い蟻や、ハチのように針を持った危険な蟻、四角い変な頭をしていてくさいにおいを出す蟻など、蟻だけでもほんとに見ていて面白かった。学校の草むらにはよく30cmくらいのトカゲがいて、首元を抑えて持ち、バッタなどを近づけるとしっかりと食べた。
 家ではミドリガメを飼った。初めて買った時はおたまじゃくしを用意して与えるのだが、食べるのを観察するのが楽しくてしかたなくて、その日のうちに食べるだけ(11匹)与えてしまったのを覚えている。3cmくらいの小さなカメで、「11匹も食べちゃって大丈夫かな?」と思ったが、大丈夫だった。リゾートの海では、何度かウミガメにもお目にかかった。こちらはシュノーケルで深くは潜れないけれど、足にはひれがついている。めいっぱい泳ぐとかなりスピードが出る。何度かそれでウミガメを追いかけたが、とても海の生活者にはかなわなかった。
 海では、よくサメもいた。サメといっても1mくらいの小さなものだが、初めて見た時は、あの刺すようなえげつない表情に、心臓が飛び出しそうだった。仮に襲いかかってきても、こちらはなにもできないのだ!でもどうやら、リゾート客が海水浴を楽しむ様な海域では、「ジョーンズ」のような人食いザメは出ないらしい。
 マレーシアも最後の年、小学5年生の時には、学校のゴミ置き場にいた1m近い、ウロコのザラザラした重たいイグアナにとびついて、捕まえた。その場にあった袋か何かに入れ、もって帰ろうとすると、先生だったか誰かが大きなプラスチックの水槽をくれて、それに入れて持ち帰った。帰りのスクールバスの止まるロータリーで、みんながびっくりした顔で見てくるのが、誇らしかった。
 は虫類、両生類を中心に強い興味があって、将来は「生物学者」になることを夢見た。
 暇な時は、は虫・両生類の図鑑を見ているだけでも、色々と夢が浮かんできてあっというまに時間が過ぎるのだった。

『こども時代』 5

休みはエメラルドグリーンのアイランドリゾートへ
 父は倹約家だった。現世的な豊かさを享受することにはあまり興味がなく、それよりも、「あるものでいかに最大限生み出すか」や精神的豊かさの方に関心があった。家は質素な食生活で食費はあまりかからないはずだし、お給料も良いに違いなかったが、子供にモノを与えるのはよくない教育だという考えもあった。
 だが、物価が安いマレーシアでは、休みにはよく「海のリゾート」へ、3泊4日とか4泊5日とかで赴いた。ポートディクソン、クアンタン、パンコール島、カパス島、プルハンティアン島、シブ島、ペナン島。他にもあったかもしれない。マレーシアの大自然に身をさらし、地球に自分が生きていることの不思議さや神秘に触れるような時間もあった。宇宙の「根源」というか、神様のようなものに触れる機会があったとすれば、僕にとってそれは「マレーシア」となるだろう。いいようのない安らぎや幸福感を、僕は浜から見た大きな青い空や眩しい太陽の光の中に感じていた。マレーシアの風のにおいや感触、雨のぬくもりや雷雲の黒さに、「心のふるさと」を思うことがある。
 リゾートにいる時は、さすがにリゾートの食事が一日三食、許された。欧米人向けになっているリゾートの食事は大概セルフサービスのバイキングで、朝食ならウインナーソーセージやたまごやき、コーンフレークの数々、ジュース、普段は食べられないクロワッサンにバターをたっぷり塗って腹にきっちり収めては、海へ一目散に飛び出していった。昼も、夜も、たっぷりと食べた。
 また思い出深いのは、リゾートへ向かう行きと帰りのワゴンだった。父は、休もうと思えばバスでも利用できたと思うのだが、だいたいいつも何十キロも何百キロもファミリーワゴンを走らせて、途中で出店のフルーツを買ったり、風景を楽しみながら、困った時にはにわか仕込みの父のマレー語で、警察官や現地の人と交流しながら旅行した。(余談だが)父は主にマレー人に日本語を教えるという仕事のため、マレー語にも人一倍関心があったと思う。車の中では外を見ているのに疲れたら父のかける70年代80年代のポップソング(日本)に耳を傾けたり、寝たり、兄とふざけ合ったりしていた。
 この頃には兄妹も4人になっていて、兄がイヤになったら(笑)妹をひざの上に座らせてお母さんの代わりに面倒を見たりした。
 高価な日本食は滅多に食べなかったが、家族での外食は、けっこうあった。M教の道場の帰りには中国系の、日本で言えば「つくね」とか「ちくわ」のような肉に野菜がはさまっているおでんのようなものを、6人分どっさり買って家で食べるのが習慣化したり、家の近くではよくインド料理を食べにいった。現地の食べものは肉も普通に使われていたが、マレーシアではそうやって外食することも週に一回くらいあった。ただし家では厳格に食事の難しさを説教する父がいた。だから僕らも外食しても純粋に食事を楽しめないことも多く、申し訳程度に食べることも多かった。小学校高学年になる頃には、マクロバイオティック法による食べものの健康不健康がだいたい検討がつくようにもなっていて、例えばソース焼きそばを食べてもこのソースには「食品添加物」がいっぱい入っていて、それは基本的には体に害があるんだという理解で、「食べない方がいい」と思うようになっていた。そしてだが内面では体の感じ方との違いに気を揉むのだった。


おやつは3枚の食パン
 午後三時か四時頃スクールバスで家に帰ると、よく食パンをそのままかじった。親はクッキーとか、ポテトチップスとか、チョコレートなどは用意しなかった。時々お母さんが作ったケーキなども黒砂糖の味付けであったりたまごをほとんど使わなかったりで味気なかった。それでも何か腹に収まればと、兄や僕は市販の食パンを3枚くらい台所からとってきて、「ドラゴンボール」でも読みながら食べるのだった。何もつけない食パンも、それはそれで、おいしかった。
 テレビやマンガに関しては、うちはやはり厳しかった。マンガ本はドラゴンボール以外にジブリが少しあったが、それ以外に何かあっただろうか。よく覚えていない。同じ部分を何度も何度も読み返して、セリフを覚えてしまうくらいになっていたのは覚えている。
 読書は、僕は嫌いで、読んでも「父に言われたから」とか、けっこう無理をしていた。本は読んでも頭に入ってこないので、友達など、なんであんなに黙々と読めるのか不思議で、また悔しくもあった。
 テレビは当時は衛星放送などもちろん無く、見てもビデオに撮ったジブリか、時にジャパンクラブという所で借りてくるビデオ、それくらいだった。小学3年か4年になって買ってもらえたファミコンも、週末に2時間しかできなかったので、僕らはだいぶ時間を持て余した。友達がやっていることの多くが自分らはできなかったため、僕らはだいぶ想像力を働かせて自分達で遊びを「つくった」。
 その一つは「マンガ描き」だ。自分で自由にストーリーを考えて、紙にマンガを描く。小学4年生の時に兄が始めた「スーパーメルちゃん」というマンガに刺激されて、自分もマンガを描いた。兄のように絵はうまくなく、短気でもあったのでなかなかまとまったものが出来なかったが、この「マンガ描き」は高校生になるまで兄貴と一緒に続けた。しかし、絵に関しては、僕はどうも上達しなかった。兄ほど関心がなかったのだとも思う。

 ファミコンが買ってもらえた時は、驚いた。ある日突然、家に帰ると、テレビの所で父が何かやっているので見に行けば、有り得るかな、見慣れない本体ではあったが確かにそれは「ファミリーコンピュータ」だった。「ファミコンで夢中になると、癲癇(てんかん)になるぞ。」とか「ファミコンをやっているとバカになる。」というようなことを言っていた父が、「ファミコンも、面白いもんな…」と言った。
 僕や兄は、一気に「ハイ」であった。マレーシアの華僑の技術者が、きっと違法的に様々なゲームを1カセットに収めた「22 in 1」というカセットが、僕らの初めてのゲームソフトだった。その日は思う存分やらせてもらえ、たしか次の日曜日まで毎日2時間くらいできたが、どんどん時間は減っていき数ヶ月後には「金土日で2時間」で安定した。
 学校の友達らはすでに性能が1ランク上のスーパーファミコンやゲームボーイに走っていたが、この出来事には大いに喜んだ。ちなみにご近所はというと、隣家のCは一人っ子だったが、ゲーム機(ファミコン)をもらったのは僕たちよりも遅かった。マレーシアを去る時にスーパーマリオブラザーズ3を、安く売ってあげたことを覚えている。
 それからというもの兄と僕は月30リンギット前後のお小遣いを溜めてゲームソフトに使うようになった。TAMIYAの「ミニ四駆」もファミコンと並んで近くのデパートに置いてあったが、どちらかといえばファミコンのためにお小遣いを使った気がする。ミニ四駆は一台30~40リンギット(1000~1300円)した。ファミコンソフトは100リンギット前後だった。
 ロールプレイングゲーム(RPG)では、どうしても時間がかかるため、一週間に2時間じゃあみじめだった。でも父にそれを相談する余地はなかったので、、ある時は真夜中に起きて、心臓をバクバクさせながら音量をゼロにして暗闇の中でファミコンをした。バスルームを挟んだ隣りの部屋から親が出てきたら、まず「アウト」だ。父に怒られることはなによりも怖かった。それでも、僕は危険を冒した。
 「真夜中にファミコンをしたい」ということは兄には話して、最初付き合ってくれたが、その後兄は来なくなった。

『こども時代』 4

弁当がほんとうにつらい
 K.L.日本人学校には給食はなかった。弁当屋さんは来ていたが、僕の親がそれを許すわけもなかった。したがって兄と僕と父は、マレーシアで得られる限られた食材からさらにマクロバイオティック法に適ったものだけ弁当に持っていくことができた。しかも作るのは「弁当」という文化をあまり持たないスイス人の母だ。
 1991年には2人目の妹が誕生し、お手伝いさんを雇った時期もあったが、母にはとうてい、美しい弁当を作るような余裕はなかった。だから時には中華鍋一杯につくった焼きうどんを、そのまま弁当に詰め込んで、昼にふたを開けると一面にうどんだけがはし入れの跡がくっきりつくほどぎゅうぎゅうにつまっていた。友達のコロッケやウインナー、おかかのふられた美しい弁当に比べて恥ずかしくて仕方がなかった。大人になってから、弁当さえ普通であったら僕の友達関係はどんなに充実しただろう…!と、悔しさに沈んだ。
 毎日の弁当の時間がいやで仕方なかった。早く昼休みになって外に行きたいと思った。食べなくても済むなら食べたくないとすら思ったかもしれない。完全な、「コンプレックス」であった。

 先日読んだ大平光代さんという、自殺未遂や極道の妻を経て弁護士になった女性が書いた本の中に、日本らしい「お弁当の時間」の描写があったので、記憶の限りで思い出して書いてみたいと思う。 
 弁当の時間: 
 「今日はパン?」 
 「うん。母ちゃん今忙しいねん」 
 「でもみっちゃんのお母さんきれいでいいなー」 
 「うちなんかクソババアやわ」 
 「キャハハハ!」 
 
 3人か4人で食べるお昼の楽しそうな中学生の会話である。イメージとして、こんなシーンであった。この、「今日はパン?」と、他人の弁当について何ともなく聞けて、それが別の話題につながる、そんな会話の中に、和みがある。特に日本人の場合はそうだ。でも、ここでパンはパンでもインドのナンをお弁当に持っていっていたら、会話は上記のように進んだだろうか?いや、「何それ~?」と、パンに注目が集まってクソババアなんて冗談は出なかったのではないか。
 僕が日本人学校で経験したのは弁当の違いのせいによる、友達との必要以上の距離感だった。「それなあに?」と友達に、素朴な質問を受けても、これこれこういう理由でうちはこれを食べるんだと、言うことができなかった。なぜなら、父は一時は世間一般人の食べるものを毒だとか、激しく嫌ったからだ。その感情をそっくりそのまま僕が出せば、友達には嫌われるのが目に見えていた。
 説明ができないどころか、僕は何年もの間、弁当について問われることを恐怖し、畏縮し、非常な緊張状態に陥っていた。でも弁当さえ過ぎれば、音楽でも、国語でも授業が待っていて、休み時間には命一杯想像力を働かせて遊ぶから、なんとか取り返しがついていた。


日本人学校に通っても、なかなか日本人にならない
 学校は日本人学校だったが、引っ越して間もなく近所の子供達とも遊ぶようになった。マレー系、インド系、中国系。言葉はマレーシアの公用語である英語となったが、初め、自己紹介とまでに交流した2コ上のCの家族には「知っている英語を言ってごらん」と言われて、「red」とか「flower」とか思いつきでカタカナ言葉を述べたのを覚えている。もちろん英語は話せなかった。母の母国語、スイスジャーマンはどうかというと、これも、母は日常では日本語を使うようにしていたため、全く話せなかった。
 この一人っ子のC少年とは、よく遊んだ。じきに現地人の英語の先生に英語も習ったため、気付いた時には簡単なことなら英語で意思表示できるようになっていた。日本人学校には小学生から週一回か二回、英会話の授業があったが、僕はもちろんよくできるクラスに入れられて、ディズニーの映画鑑賞など授業というか遊びというか、楽なクラスに入っていた。

 近所の子供達との遊びは楽しかった。家はぺタリングジャヤという、マレーシアでは比較的裕福な人が住む丘陵地域にあって、坂道を使って「スケボー」などに夢中だった。時には親に1リンギット(30円前後)をもらって1キロか2キロ離れた商店へ行き、投げたり、ねじったりするとぱーんと火薬が鳴るばくちくを買ってはCと探検したりしていた。Cに好きな女の子がいるというので様子を伺いに行ったり、意味もなく人の家のベルを鳴らしては走って逃げたり… Cに限らず近所には常時4、5人子供が住んでいて、彼らともよく遊んでいた。
 そんな、現地人との交流もなにげにあって、学校では必要最低限しか「日本人」にはならなかった。「遠慮」の心とか、「自分を抑える」という日本的な自制心はM教の信仰からも学んだが、自分自身はどちらかといえば自分を全開にして正面で向き合うような西洋的な社交術の方が好きだった。
 それはきっと、そういう方を好んだ母親という存在の影響もあったに違いない。
 日本人学校ではきっとエネルギーが強くて、悪気はなく個性を発揮するこの少年を、「まったく、本当に困ったやつだ」とか「親はこの子に何を教えているんだ」と思った先生方もいたことだろう。
 反面、やはり、級友関係は苦手の意識もあった。弁当のこともあるが、集団的「和」を重んじる日本人にとって「個性出しマクリ」の僕は扱いづらかったに違いない。学校の「文化祭」とかで協調関係が問われる時も、自分では命一杯みんなで楽しくやろうとするんだが、日本的な「和」には、ほど遠い有り様だったと思う。

『こども時代』 3

二編 『少年期』  (小学校1年生~6年生)

GSでもらったカップラーメン、お父さん、ごっそり捨てる
 父が病気をした直後か、その頃に、父は10年以上勤めた会社をやめた。そして日本語教師になる準備を始めた。僕が小学2年生にあがる頃には父も一年かそこらのウォーミングアップを終えて、本格的に日本語教師となり、マレーシアに派遣された。それまでの日本での日々についてまずは話したいと思う。
 小学校入学の頃には「うちは世間とはまるで違うものを食べている」という意識がちゃんとあった。だから友達と遊んでいても「食べもの」のことだけ問題にならないように願ってやまなかった。お泊り会というまでの仲のよい友達はいなかったが、時々訪ねた友達のうちでのおやつは、やっぱりうまかった。残っていれば我先にと手を伸ばしたい自分がいた。
 学校の給食も、先生には訳を説明して弁当を持っていった。給食の際、席は動かさずにそのまま自分の席で食べるクラスだったので、苦労は比較的少なかった気がする。僕がなにより嫌だったのは自分の食べているものに周りの意識が向くことだった。そうなることで、余計に自分の違いが意識されて、友達が離れていってしまう…。それが最大の不安だった。

 一年生になっても自分の体の大きさや強さは並外れていて、それゆえに友達とケンカになってしまうことが結構あった。運動会では当たり前のようにリレーの選手に選ばれ、てつぼうは得意だし、土曜日はサッカークラブにも通っていた。運動神経の発達が急激で、スポーツとか力というものを自分の自分のアイデンティティにした。男の子として「強い」ことを誇りにした。1歳半離れている兄との身長差もどんどんなくなっていって、一年生の頃には兄と対等にスケボーでもドッヂボールでもできた気がする。今日では兄と僕は同じ身長だが、僕が小学校4年生の頃くらいから、ずっと同じ背丈だ。それだけ兄は成長がゆっくりで、運動能力に差を感じることなく僕らは一緒に遊ぶということができた。
 でも相変わらず「食生活」は厳しかった。一度は家族でどこか出掛けた際にガソリンスタンドでもらった5つか6つのカップラーメンを、父は人にあげるともなくバッサリと、捨てたことがあった。印象的だった。子供会の集まりかなにかで最後にもらった赤いキャンディも、父には取り上げられてしまったことがあった。
 しかし月一度の100円のおこづかいでは、好きなものを買うことができた。誕生日やお祭りの際は、特別に外のものも食べることができた。「お神輿」が出る大きな祭りで、居酒屋のようなお店で「餃子」を食べたことを覚えている。だが、お祭りでは定番のフィッシュソーセージに甘いころもがついた「アメリカンドッグ」などはまさに憧れの象徴とも言える食べものだった。その他ソース焼きそば、たこ焼き、ハンバーガー、ラーメン、牛丼、焼肉、家で食べられるものではなかった。
 
 学校自体はとても楽しかった。大きな校庭でこれまで遊んだことのない遊具で遊んだり、勉強もとても面白かった。僕は、性格からして好奇心の塊であったから、だいたい何をやっていてもそれなりに楽しめるのだった。生命として命一杯世界に花開いていたと思う。
 好きな女の子もいた。恋心は早くて、その子が転校してしまった時にクラスみんなで歌った歌や、最後に大きな国道で手を振って別れた記憶などはその後何年も心にしまって大事にした。

 僕の子供時代に決定的な影響力を及ぼした宗教Mが始まったのも小学校入学の時だった。M教は日本の新興宗教で、手をかざし神様の光を通してこの世界を清めることを主たる活動とする宗教だが、その活動はもちろん、週に一遍くらいは神様がまつられている「道場」にいってそこで神様の光を頂いたりするようになった。特別な信仰を家庭に持ち込んだ親の動機の部分はよく知らない。祖母の調子が悪かったからとは聞いたことがあるが、それにしてもこのM教の信仰は二十歳前に自分からやめるまで、僕の世界観や人生観には決定的な影響を及ぼしている。この宗教の信仰を通じて僕は「神様を意識する」人間になった。


におい消しゴムに詰まった“にっぽん”
 「古郷」というと、誰しも、何か具体的なものに結び付けられると思う。「海風のにおい」とか、「鳥の鳴き声」とか、「田園風景」とか、そこにしかない何かをその象徴にするものだと思う。
 ところが、僕が15歳で日本に帰ってきた時、「古郷」という情感はいまいち希薄だった。それは小学校6年生の1年間と、小学校1年生までの時間では、本当に心に残る日本の思い出も限られていたからだ。逆に下手に海外に出なければ、人は自分の生まれ育った土地には「古郷」としての立派な定義を知らずと付してしまうものだと思う。
 しかし幼少の、日本らしい、日本にしかない何かに自分のルーツを求めると、おかしいかな、「におい消しゴム」が浮かび上がってきた。今の子供たちはどうなんだろう、やっぱり「ねりケシ」とか「におい消しゴム」で遊ぶんだろうか。マレーシアに出る前、僕はよくこのにおい消しゴムの香りの中に思い出を詰め込んだ。「日本」とはこういうところだ、自分にとって、という良き思い出を、一つ又は二つのにおいの中にとじこめた。それに似たような香りをかぐと、(今ではにおい消しゴムなんてかぐ機会もないが)瞬時にして20年前の自分にタイムトラベルすることができるのだ。まだ、日本をそう長く離れたことがない僕だが、もし5年とか、10年とか日本から完全に離れたら、僕の中に湧き起こる象徴とは何になるのだろう。「甘いお線香の香り」だろうか。

 1990年5月、僕らは父のいるマレーシアに飛び立った。全くの、別世界だった。日本の春とは比べものにならないもわっとした熱帯の空気。暑くはないが体を弛緩させる気温。日本の夏とも違う感じがした。テレビで見たことがあるかないかの、肌の黒い外国人(マレー人)。空港に群がるタクシーから出る排気ガスのにおい…。
 それは別世界に降り立った瞬間だった。
 タクシーで、父が待つK.L.郊外の一軒家に向かった。

 「マレーシア」は、日本に定住するようになった15歳以降に、最も強くノスタルジーを感じた国だ。国籍も、血のつながりもない国だが、滞在した4年間の間に、僕はだいぶ無意識に、その風土に根っこを張っていた。「根っこ」とは無条件に居心地のよさを感じさせる、目に見えない「ゆだね」のようなものだ。
 僕ら家族は、「不安」とか「慎重」よりも、この新しい世界を大いに歓迎した。特に母はそのようで、それに同調するように僕もまるで日本のことは忘れてマレーシアに生きた。もしかしたら父ぐらいかもしれない、一家の主として、又日本人として、異国であるマレーシアや人々に適度な距離を持っていたのは…。
 ただ学校は「日本人学校」に入った。そこで続けて日本の教育を受けた。話す言葉だけが日本語、という感じだった。

 マレーシアに着いてから数日後に、「K.L.日本人学校」に通い始めた。スクールバスに揺られて30分、レンガ積みのユニークな校舎に、いるのはたしかに日本人、でも常夏の国だから皆Tシャツにスカートかズボンといった身軽な姿だ。日に焼けて、マレー人と変わらないくらい黒い子もいる。机や椅子もわざわざ日本製のものを用意するまでしないので、教室の雰囲気なども日本とはちょっと違う。日本語を使い、日本文部省の定めた教育を受けるけれども、そこは僕にとってあまり「日本」ではなかった。そして、日本ではないからこそ僕のような異質さも受け入れられてしまうようであった。
 
 僕にとってマレーシアは日本にいるより気楽だった。僕の持っていたエネルギッシュさを発揮しても支障が少なかったんだと思う。マレーシアは華僑やインド系もかなり住む「多民族国家」。イギリスやオランダといった西洋の植民の歴史をもつこの国は異質なものに対して日本より開けている。日本では冷たい目で見られるような体験が、マレーシアに来るとぱたんとなくなった…そんな経験をしていたと思う。そうして僕はますます活発に、持ちうるエネルギーと創造性をもっと発揮して過ごすようになった。

『こども時代』 2

幼稚園の2年間
 幼稚園に上がると、記憶もだいぶ残っている。幼稚園は、ごくごく普通の、地元の幼稚園に入った。「年中さん」から入り、2年間だった。
 僕の成長は早かったとさっき言ったが、西洋人の血が入っているためか、入園式の写真を見ると、見事顔1コ分周りより大きい。単に身長というより、顔もでかく見えるのでやはり成長が早かったんだろう。
 大人になった今の身長は180cmくらいだが、日本の平均と比べると幼少の頃の方が大きかったんじゃないだろうか。
 大きいのは体だけじゃなかった。力も元気も、お友達と比べると温度差があった。お友達は静かに大人しくそれでもそれなりに楽しく遊ぶのだが、僕は外で命一杯体を動かして、冒険して、腕白な、そんな男の子だった。
 みなぎるような元気のはけ口が「いたずら」になった。たとえば当時、ビックリマンシールというのがはやっていて、「スーパーゼウス」という一番いいキラカードがあったが、普段そんなものを買ってはもらえない自分が、気付くとスーパーゼウスを含め何枚かビックリマンシールを持っていた。記憶にはないが、いつだか自分で手に入れた同類のシールを、価値があるように見せて、気の弱い友達から半強引に「スーパーゼウス」と交換したという可能性が高い。一こ上、いや、二こ上とも対等にやっていけるような威勢のよさだったから、どうしても同学年とは馴染めない感じだった。
 他には、幼稚園の近くのよく行くお菓子屋さんで、小さなおかしをポケットに隠して店を出て、見つかったことや、そのお菓子屋さんの裏にあった倉庫に勝手に入って見つかってしまったこともある。自分でもどうにもできない加熱性が、生まれ持った性質のようにして、僕にはあった。
 他方、みんなとの違いに苦労したのも幼稚園からだ。それは小学校になると気になってしかたないテーマになるが、幼稚園でも既に、周りとの「違い」による浮いている感は、感じていた。
 たとえば幼稚園に持っていった手さげかばんの柄に不満を持ったことがあった。「こんなのみんな使ってない。かわいいクマさん(テディベア)のがいい。」 そうお母さんには反発した。今思えば母さんが選んでつくってくれた明るい星柄の手さげかばんは、僕によく似合っていたが、みんなと同じものを使い、同じことをしないと、仲間外れにされてしまうということをどこかで経験していたんだろう。
 しかし、そんな僕を前に決定的な「挑戦」がつきつけられた。父の病気に伴い、食生活がガラリと変わってますます周囲との違いを抱えることになったのだ。食事は「マクロバイオティック法」とか、「玄米菜食」といったそれは厳しいものに変わった。白砂糖だめ、動物たんぱく質だめ、その他ジュースや食品添加物の入ったお菓子などもだめということで、僕は世間一般人が食べるものを羨望の眼差しで眺めるようになった。お味噌汁に入れるかつおぶしやフルーツでも日本にもともと自生しないバナナやグレープフルーツ、ビニールハウスで育ったイチゴなども、だめだった。うどんにしても野菜炒めや煮物、味噌汁にしても、味がいまいちである。ほとんどうちと外の間に別世界の境界線が引かれたようであった。これが、この食生活の違いというものが、外での僕を決定的に孤立させた。まだ幼稚園の頃は違いに対する意識は緩く、あまり問題だとは思わなかった。
 
 幼稚園時代ので忘れもしないのは「ファミリーコンピュータ」、いわゆるファミコンとの出会いだった。僕の親は厳しく家にはファミコンはなかったが、同学年で同じ幼稚園に通ったいとこの家や、友達のうちにはだいたいファミコンがあった。電車に対する興味の延長だろうか、これまた僕は夢中になってファミコンをやった。人の家だから遠慮も必要だったに違いないが、僕は構わず夢中にファミコンをやっていたような気がする。今思うと、ファミコンに「飢え」のようなものを感じたのも、加熱性がお友達とのケンカや、いたずらに及んだのも、自分のうちではあまり恵まれなかった、その結果でもあったような気がしている。 
 「自分のうちではあまり恵まれない」――――― この傾向は実に高校生になるまで、続く。

 幼稚園時代の温かい思い出は、陽の当たる縁側でお母さんと食パンを食べた思い出だ。干しぶどう入りのパンに、マーガリンを塗って食べる簡単なお昼ごはんだが、たっぷりとマーガリンを塗ったそのパンが、心が落ち着く母の懐の感触と一緒になって、幸せをかたどっていた。太陽の温もりもまた絶妙だった。

『こども時代』 1

   『こども時代』 

第一章
 表のこと

第一編
 『幼年期』 (小学校入学前、まで)
 
’86 母方おじの結婚式 4歳 
 幼児期は、誰しも母との思い出が濃厚だろう。母親の見た世界を見、感じたものを感じ、やることを真似するのが幼児の特徴だと思う。その意味で、僕は日本人には育たなかった。「しつけ」とか「お行儀」とかいうものより、男の子だから、とにかく元気に明るく楽しくすることが大事だと母は思った。1986年の母の弟のスイスでの結婚式は、幼稚園に入る前の、最も早い時期の記憶だ。
 
 断片的にしか思い出さないその時の記憶だが、その時見たスイスの自然の豊かな風景や町の雰囲気は、その後の僕の「憧れ」となった。きっとそれは母親の心を映していたからだろう、幼年は日本に住んでいながら、西洋的なものに無意識に反応し、深く観察しようとする自分がいた。たとえばそれはジブリ『天空の城ラピュタ』を映画館に見に行った時の記憶。もう少し後であれば『スタンド・バイ・ミー』という、アメリカ少年達の冒険映画などだ。小学校に上がって、友達との違いに苦労して、一人ぼっちになったりした時には、西洋文化に対する「憧憬」はエスカレートした。
 『天空の城ラピュタ』に描かれた世界はそれにしても美しく清らかで、僕は日本ではないそのイメージ世界にいいようのない郷愁のような気持ちを抱いていた。もっとも、このアニメ世界は、ヨーロッパ人から見たらどこか“つくりもの”の雰囲気が強くて受けないのだろうが、海外に出たことのない日本人や、西洋的なものに触れたかった僕にとっては申し分なかったのだろう。そして「大空のどこかには天空の城があるかもしれない」という壮大な夢には、僕の胸、そして心は高鳴っていた。


◆プラレール大好き
 とは言っても、もちろん日本のものや、お父さんとの遊びを楽しむ自分もあった。当時父は会社勤めをしていたが、よくお父さんが玄関に帰ってくるのを楽しみにした。時々おみやげにちょっとしたおかしを買ってきてくれることがあって僕と兄は一緒になって待った。お父さんが帰ってくると、晩ゴハンの後なんかに広い八畳間でとっくみ合ったり、相撲をとったりして、一運動した後にぼんたんあめなどがご褒美でもらえるのだった。一度は兄がイヤになって泣いてどこかへ行ってしまって、父と「なにがイヤなんだろ、なあ?」とか言って2人だけで相撲をとったが、別の時は兄と全く同じことを僕がやっているのだった。1歳半の年齢差でも、成長が早かった僕は、早くから兄と一緒に遊ぶようになっていた。
 日本的だと思った自分の趣向には、「プラレール」の遊びがあった。プラスチック製の線路と電車のおもちゃである。別にそういうおもちゃ自体が日本的だとは思わないが、僕がプラレールを通じて浸った世界は、JRや小田急線といった「日本の鉄道の世界」だった。
 これも‘86年頃だろうか、父が健康を害したため、まだ幼稚園に入っていなかった僕は、母に連れられて電車で、健康法の料理教室に通った。小田急線はJRよりカーブや駅が多く、車線変更や車内放送も多い。時間やアナウンスの、正確さ。そして、決められた路線を設定どおりに進む、車やバスにはない、精妙さ。後で思うと、これは西洋の鉄道にはない、精妙さをこよなく愛する日本人の性格が現れているのだと分かったが、この時早くも僕は、その方面に強い関心を持っていた。
 「童話」の世界にもよく親しんだ。日本に住み、日本語を覚えるので、西洋の童話よりは日本のものに触れた。夜寝る前にお布団に入りながら、お父さんがおはなしを読み聞かせてくれたのを思い出す。だから「童話」というと、僕は、圧倒的に日本の物語を思い出す。

 

2010年3月6日土曜日

●●● 「日本無銭徒歩」 終わる ●●●

3月1日、新潟県から相模原に戻った。

社会復帰を検討。
生活が「安定」してきたら、何があったのか、報告します。

日本無銭徒歩は245日。
ヨーロッパと合わせて925日。

借金(総額280万)の返済を優先することになりました。
世界一周を徒歩でするとか、シベリアを不食で横断するといった夢は、後回しです。

それでは、また。


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以下、追記◆ (3月14日記す)

 みなさんこんにちは。お待たせいたしました。m(_ _)m 
 いつ報告が入るか、待って下さった方も多いと思っています。今の生活は決して落ち着いたとは言えませんが、そんなことを言っているといつまでたっても落ち着かないような気がするので、明日から「仕事」(アルバイト)が始まる一つの節目として書くことにしました。

 3月1日、僕は新潟県長岡市から父と一緒に新幹線に乗って神奈川まで帰ってきました。
 28日の日付が変わるか変わらないかの頃、僕は長岡の町に繰り出していました。目的は、食べものと新聞などの情報誌を手に入れることでした。僕がキャンプしていた場所は長岡市東の、小高い山の裾です。不食の師、鷹さんのもとを発ってから深い雪世界のため、歩くのをやめて山に入る(籠る)気持ちがあったからです。歩くのもそう悪くはなかったのですが、自然の中にすっぽり入ってしまいたいような気持ちと、「旅わらじ」(自作の履きもの)の予備がなかったことがそういう決断へとつながりました。旅わらじは、タイヤのチューブさえあれば雪道も歩けるものができますが、新潟に入るまでそのことをあまり気にしていなかったので、チューブの蓄えがなくなっていました。
 長岡東の山の裾に入ったのは、2月7日でした。1月26日に鷹さんの元を去ってから、長岡まで来るのに10日以上かかりました。たぶんに進むという意識がなかったからです。覚えているのは国道17号の高架下や、越の大橋という橋の下にテントを張って何泊かとどまったことです。くる日もくる日も雪が降っていました。

 山の裾に入ってからは実に2月28日まで、1.6mほど雪を掘った中にテントを張って籠っていました。断食もしましたが、あまりそれにもこだわりませんでした。食べたくなったらあまり迷わず町のコンビニに出掛けました。ゴミのコンテナから廃棄品をこっそりもらっていました。
 日付が3月1日になったかならないかの頃、変な時間でしたが、上記の理由で町へ出ました。そしてまたテントに引き返したとき、警察につかまったのです。それが、父が長岡まで来る切っ掛けでした。

 パトカーが僕の横を通り過ぎたとき、もうだいぶいやな予感がしていました。
 案の定声を掛けられると、持っていた弁当や雑誌などの持ち物検査を受け、少しみずぼらしい格好でもあったので、署で「取調べ」を受けるためにパトカーに乗せられました。
 日本で200日以上旅をしてみて、警察に関わることは2、3回しかありませんでしたが、このときはもう何週間も長岡にいたので、目をつけられていたのではないか…とも思います。巨大なねずみのように、何度も同じコンビニに出掛けていたので、いかにも「コンビニ依存」で、よくないとは思っていました。そんな矢先の出来事でした。
 日本はコンビニというものがあり、僕はヨーロッパ以上に食事に甘んじていました。

 警察に捕まったのは午前3時前後でした。この時は、旅でもっとも汚い装備(服装も含めて)だったかもしれません。しかもそれは変な時間帯で、人気もない静かな町外れのことでした。
 当然のことながら、2人の警察官から次から次へと質問をされました。自分のやっていることが非常識であることは、その質問に答えるうちに如実に現れていたと思います。自分が持っていた新聞や弁当などをどこのコンビニからとったか、現場に行って確認もしました。そして、必然的にテントを立てた場所も、調べが入りました。深い雪の中を150mくらい、林の中のテントの場所まで警官を案内しました。

 午前6時頃でしょうか、一通り外での取調べが終わって、署の尋問室でまた色々と質問を受けました。他の警察官の方の質問もいくつか受けました。それは、もはや旅が終わりを意味するような、徹底的な「尋問」だったと思います。
 でも、ヨーロッパでそうであったように、僕は取り繕うことはしませんでした。犯罪の一歩手前とも言える「被疑者」としての扱いを受けましたが、それが定めならば、拒む気はありませんでした。僕がやっていたことは、たしかに恥ずかしいこと、そして忌まわしいことだと分かっていましたが、そんなことを構ってもいられないほどの「飢え」というか、「不納得」がこの日本の社会にはありました。たぶんに、親から受けた厳しい食生活や世界観の影響です。僕の中で日本のコンビニエンスストアというサービス業が、いかにも経済至上主義で、経済的に好ましければ消費は悪ではないという一大前提にあることに心が激しく反発していたのです。それは、海外の貧しい国や、環境立国のドイツを見て育ったこともあるはずです。日本だけに育っていればおそらくこうはならなかったでしょう。親がそうでも、自分はもっと日本の「実態」を受け入れたと思います。

 この日本での245日では、意外と警察に捕まりませんでした。ヨーロッパでは捕まりすぎていたというか、ヨーロッパではもっと軽く警察が事情聴取をするものかもしれません。
 山口県で、一度警備システムの入ったごみ処理場のようなところにあった「センサー」に引っかかってしまい、セコムが来て、ついでに警察も来ましたが、事情を話せば理解してもらえました。あとは年明けに、群馬から新潟に峠越えする前に警察官に止められましたが、厳しい取調べには至りませんでした。
 でもこの長岡では、そうではありませんでした。

 『もうすべてが明かされるな、警察に――――――。』
 そう思いました。隠そうとすることなど、もっての他でした。逆にこうなることは予期していたのだから、こうなりたくないならもっと町に出る時間帯を選ぶとか、服装に注意するとか、長岡は出るとか、いろいろできたはずです…。ですから、旅の緊張感が薄れていくにつれ、今回のような結末になるのはある意味で自然だったかもしれません。
 
  (つづく)