鷹さんにもらった19000円のカンパは、残りわずかとなった。
「もらうべきでなかった」と後悔気味...
19000円はそんなに早くなくなるものではないが、僕は6日にお金に手を出してから、アダムとイブがヘビの木のリンゴに手を出したまさにその様に、僕は「放蕩」の日々に入ったのだった。
付けている日記が今ここにあったらそのまま載せるのが一番だが、2月6日の午後、『まだ食べる』と決めていた僕は翌朝のコンビニ廃棄品まで12時間待てばいくらでも食べられたのだが、僕は特に苦境にあったわけでもなく、ただぽっかりと空いた時間に、その過ごし方を見つけることが出来なかった。
鷹さんと別れた1月26日からは、出会いのもたらした高揚から、断食をどんどんやっていくという意識だったが、まだ慣れきっていない「雪世界」(新潟は今年大雪となっている)があったり、鷹さんとの出会いのインパクトが数日では収まらず、「時間」が必要なことをさとった。
食べていれば、精神は落ち着く(「これまでどおりである」)というわけで、下手に断食を強行しても、繊細な出会いの意味を見過ごしてしまう可能性がある。だから、ゆるく「食べよう」と思ったのだ。
それで、コンビニがある度に廃棄品の有無を確かめて北上をしていった。
天気は滅多によくはならず、5日に4日は雨か雪が降っていたと思う。橋の下にテントを張ったり、道路や新幹線の高架下にテントを張って、2、3日移動しないことは珍しくなかった。
ところが長岡に来るまでそれまでの経験から言えるような「廃棄品らしい」廃棄品(どっさりと捨てられている)を見つけることができず、それが不満だった。
長岡市街に入るや、ごみ場を施錠していないコンビニがいくつかあり、2週間ぶりくらいにまっとうな食事にありついた。
「満足できる」はずだったのだ。また、望めば、朝早くそういったコンビニに出向いて、さっともらっていけば、それだけで何日だって移動しないで読書や思索、瞑想に取り組むことはできた。複数回、同じコンビニのゴミをあさるのは見つかる可能性もあるが、それがいやなら他のコンビニと交互に行く事だってできた。
しかし僕は、欲望色に染まっていた。
鷹さんのカンパは、別れてからその金額を知ったが、それを知って以来、
【どうその金を使うのか】
ということが頭から離れなかった。当然といえば当然だろう。しかし、それは僕の旅では「異例の事態」と言えるのだ。それは、「処理すべき思考」としてリストアップされてしまうわけだ。
「お金を持つ」ということに慣れていない僕は、それが処理できなかった。「こうだっ。」という使い道がわからず、「テントを買い換えることができる」・「インターネットで8万字の『こども時代』を発表できる」・「手紙など旅出で出会った人に出すことができる」など、いくらでも選択肢が現れた。
これに、スッキリしないのだった。
鷹さんがくれたのは「カンパ」であり、それをどう使うかというのは自分の自由と言えばそうかもしれない。でも僕は、僕の正直な基準としてはもう過剰に受け取っていたのだ。鷹さんと会えるだけで僕の心は存分に満たされていた。でも、不器用ゆえに混乱してしまった。
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さて。そういうわけだ。
6日からは「今日一日だけ」「今日一日だけ」と思いながら、結局4回だろうか、町へ繰り出し、レストランに入ったりスーパーをはしごしては食べたいものそのままを、胃が受け付けるだけ口に放り込んだ。
「山に入って断食する」と決めた際、シャベルやインスタントカメラなどを用意したがそれは大した金額になっていない。つまり、僕はこの大きなお金を、ほぼ純粋に食べ物に使ったのだ。
昨日から料金の高いインターネット喫茶に入っているが、それでもだ。
カンパを、食べ物で使い切ってしまう自分。
ここには僕に、学ぶべき大きな教訓がある。鷹さんは「贅沢しな」という思いでカンパをくれたはずはない。使い方は僕次第ではあるが、僕がこれからネット上で活発に、自己発信をしようと思っていることを応援してくれてのカンパだったに違いない。それがふさわしく利用できないならば、もう遅いのだが、断固としてももらうべきじゃなかった。僕の中ではたとえ1000円でももう大満足だったのだから。
学ぶべき教訓とは何か。
それを昨日今日、ちらほらと考えていた。そして、思考は旅の初期、2007年の初夏、どんな気持ちで旅をしていたか、どんな気持ちで社会(日本やスイス)を捨てたのか、当時の記憶を掘り起こした。
すると、今が『たまらなく贅沢』であることがわかってきたのだ。
無銭状態で、今日の泊まる場所もわからなくて、この先も見えない自分の何が贅沢かと、人は思うかもしれない。しかし、僕の心の内には、神が「第2の人生」の火を灯してくれた以上に僕に必要なものなど、なかったのだ。たとえ「パンツ」でもである!!
それが何「自己発信」だ、何「バックを買い換える」だ、おこがましいったらありゃしない。過去の自分に対して情けないったらありゃしない!、そういうわけだ。
金を放棄したということは、僕は浮浪者になるという覚悟では、厳密にはなかった。人にそう思われるだろうが、僕自身はもっと“高貴な”志、既存の世界を実質超えるための、最大の野心だった。これは言葉では表しきれないかもしれない。生命の究極的目的。神への最大の希求心。そんな風に形容できるか。。。
「不食」‐人は食べなくても生きられる‐ という思想を信じようとしたこともそれだったといえる。鷹さんという人が僕という人間ではなく魂に直接語りかけたのだ。
僕は一生、金を手にする人間ではないと思った。
それが、今の最大の決心である。
あまりしゃべりすぎても逆効果になるだろうから、このことを告白して、今回の報告の核心とかえさせてもらう。
終
お金の使い方が正当にできるようになるならば、また更新します。
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