2011年7月14日木曜日

家族と「絶縁」した

(7月12日記す)


 7月2日、相模原に戻った。昨年の再出発からちょうど400日だった。
 日本に帰ってから3度目の実家だが、これほど「戻ら」なければならないのは家族問題が終わっていなかったから、と思う。家族(とくに父)とは毎年のように摩擦を起こしながらも、戻っては離れ、戻っては離れを繰り返した。

 11日に実家を出たが、実家では相変わらず、刺激的な時間をすごした。
 初めは社会復帰を考え「屋根と住所を貸してくれないか」と聞いてみたが、断られた。それで、とりあえず家にある自分の荷物をきれいに処分して家を出ることにしたが、不慣れで刺激的な毎日ではなかなか思ったように片付けが進められなかった。
 そして“再び”自分(の精神)にとっての実家の危険さを感じさせられた。かつて「統合失調」を招いた親の両価的・両世界的関わりである。
 なるべく早く出るようにした。
 しかし、甘かった。


 父とは「荷物を処分したら出る 絶縁だ」という話だったが、昨日父から余計な注文がついた。

 『奨学金の返済をいついつまでにやるということを、紙に書いて置いていってな。…。…。』

 話し合いの時にはみじんも挙がらなかった事だ。

 「新しい話ですね…。」
 僕は、父から見て隙さえあればまだちょっかいや要求を出す父に呆れつつそう言った。
 「新しい話じゃないよ!!」
 と父。

 
 父は事の全体性は絶対に示さない。話をわかりやすくまとめるなんてことはしない。
 僕が母や妹の相手をすればそこに生まれる隙を突いて攻撃をしかける父。
 荷物を片付ける最後の数日間でさえ、好きにはさせない。
 (言っておくけどな。父だけだったらなんも苦労しないんだよ…!)
 問題は父と母が全く別個に僕の中に、「人格」を期待したことなのさ。落ち着いた人格が家族において定着しなかった僕は、大人になっても自分の性格をいじっては、変えたりしている。


 それが24の時「統合失調」に到り、危機的になった。
 命を失うことすら怖くないんだよな、そこでは。どうしようもない危機に面して、奇行に出るとか、霊に魂をあけ渡すとか、最終的な生命維持の形に乗り出すんだよな。統合失調では患者は「狂気」という名の安定を見つかるのだ。
 『全裸になって廊下でクソをする』
 そんなことを父に言ったことはあった。2006年だろうか。家族に「事」を伝える「手段」である。

 しかし僕は実際は狂気のかけらも出さずに、ヨーロッパに飛んだ。
 そしてヨーロッパ人の心によって幼い頃の自分の息吹がふき返された。心の拠り所の発見だった。


 「大学の奨学金返済の誓約文を」みたいなことを言われて、その心の白々しさと高圧ぶりに、僕は当惑しすぐさまその場から立ち去ろうとした。
 正気を失わないために。
 しかしまだそこで父が何か言い続けると、僕の足はふすまを打ちやぶった。

 「ばかやろう... 出ていけ!!!」
 父は怒鳴った。
 しかし僕の心は揺れない。1~2秒父をにらんでこう返した。
 「親父は僕のことなんかわからないんだよ。」
 「…」
 「出ていくよ。」
 静かに返答した。
 人は冷静に暴力を振るうこともできる。日本的な心には理解しがたいことかもしれないが。父の表に出ない卑怯さ(西洋人から見た卑怯さ)や、言葉の暴力に対しては、物理的な暴力が一番だ。日本のロジックを教わらなかった子供として、日本のロジックには西洋のロジックで対応するのが自然に思える。“和解などない”、戦争的対処法である。思えば、小学校の時だって僕は父からは「日本」が恵まれないから、貧困に苦労して母なる西洋的価値を日本人の前に持ち出していた。そうなのだ。


 今回の帰省で祖母からはいくらかお金をもらった。そのお金を有り難く使って、ヨーロッパに戻ろうと思っている。

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