2024年12月8日日曜日

今週「後半」の思惑(2024.12.5~2024.12.6)

  こんにちは。(^_^)

 (今回は、少し「文調」が変わってしまいましたが、大切なことを言えたと思うので、そのまま発表致します。)

  

 また、前の投稿に入れたかった内容から始めます。(^_^;)ゞ:

 『知恵を絞る能力の養い方』 -腱鞘炎と、指切りを克服したテクニック-


 12月2日(月)、この日は知多半島の内海というところまで行き、入社以来初めての「草刈り」の仕事で、これまた「違う体」を使わされた。

 県道脇の刈られた草を、「さらう」仕事を、丸一日やった。ハードだった。

 夜は常滑に住む妹の家に泊まり、次の日も「内海」の現場が入っていた。

 しかし、慣れない運動で、右手の甲が軽く「腱鞘炎」になった。

 「アラーム」。

 明日も同じ仕事をしたら、まず間違いなく手が、使えなくなる。仕事ができなくなる。

 そう、予感した。

 自分の体調によく耳を傾けられない人、子供の時に十分に運動能力を磨かなかった人は、こういう予感を感じにくい。(いや、十分運動はしたような人でも、「体の声」を聞きそびれる人は少なくない。)そういう人は、体とのコミュニケーションが下手だから、体の発する「警告」を聞きそびれるのだ。結果的に、「頑張る」とか「早る」気持ちが、ついつい『体の酷使』へとつながってしまう。(『いち「動物」としての未熟さ』-おそらく野生動物は皆、こういう感覚に長けている。)

 また、いかに「今」、この瞬間を生きるかということが、心や体の発する声に、敏感になる秘訣でもある。

 真にクリエイティブな人というのは、限りなく意識を、今、「目の前のこと」に傾注している。「活動的な人」、「できる人」になる秘訣はそれだ。今、目の前にあることを、どんどんどんどん、一杯当たって、こなしていく先に、人はそういう人になっていく。

 「今」を生きるようになると、今の「心の状態」、「体の状態」を感じ取る感性も磨かれて、それが、言ってみたら「予感力」を高めてくれる。

 僕にはそういう予感力がある。

 

 人生はますます活発になり、仕事ははかどり、人生は楽しくなり、充実する。そこでは人は、自分の能力を存分に発揮もするから、「生き生き」としてくる。

 それが、みんなの、本来あるべき姿(生き様)なのだ。

 『予感力』の話をしたら、ちょっと脱線してしまった。。。(汗)

 

 「腱鞘炎を起こした」

 初めてやる仕事で、体もまだできていないのだから、そう言って次の日役割を変えてもらうことは、世間では普通のことと人は言うかもしれない/認めるかもしれない。

 でも『僕は、安易にそうしなかった』。

 「常識的」に動けば、「常識的な人間」にしかならない。(凡人にしかならない。)

 僕は、問題や試練が生じた時、いつも『挑む』ようにしている。「自分にできることはないか」、「どう対処するのがベストか」挑む中で、考えるようにしている。

 すると、「必ず」といっていいほど、解決策が見つかり、その過程が新しい能力、教訓、発見等、成長につながるのだ。(それをしなければ、僕はいつまでも凡人だっただろう。)


 例えば、その日は、「ブロワー」という草を吹き飛ばすだけの仕事もあった。昨日それをやった仲間が、自分と代わってもよかった。でも、僕はそうしなかったのだ。

 

 (熊手を持つ手を、逆にしたらどうか。)

 「賭け」だが、それでやってみたかったので、「さらいを代わって下さい。」とは言わなかった。

 結果として、僕は仕事ができた。

 腱鞘炎を起こした手を労って、上手に使いながら、普通はできても今は無理そうな動きは“瞬時に察して“別のやり方で、対応して、腱鞘炎を悪化させることなく、1日を終えた。

 次の日は、「診察」で仕事は休みだった。

  

 「挑む」とは、闘志のことであり、人間は闘志を抱くからこそ、非凡な能力を発揮できるのだ。『火事場の馬鹿力』、である。

 

 腕を持ち換えた時に、利き手じゃないから、どんな動きになって、それにはどういう位置に立つべきかとか、どんな熊手の振り方ならできるのかとか(例えば、引っ張るのではなく、打つようにしてやるとやりやすい、とか、発見していく。)、試しながら、研究をして、なんとか仕事ができないか模索する。

 チームの仕事では無理だが、たとえば、それが1人の仕事なら、できる仕事を先にやってしまって、その間に手を休めて、治ってきたら、手を使う仕事でも「痛めにくく」なり、より安全に仕事ができる。完治するまで待てるなら、その時一気に利き手で片付けられる、そういう知恵もある。

 仕事の工期、順番、優先順位、従業員、天候、気分、向き不向き、など、視野を広げれば、結構いいやり方が見つかる。(!)

 (これまでにないような)「いいやり方」/「よりよいやり方」を発見するのは、楽しい。それによって時間やお金や、労力を割け、頭のいい自分に「喜び」さえ抱く。

 人のため、自分のため、社会のために役だった自分に、自尊心が芽生える。。。

 

 腱鞘炎を負った日は、こんなこともあった:

 この仕事のために買った厚手の軍手は、指に擦れて、痛くなったので、その日僕は、左手を素手でやっていた。

 よりにもよってそんな時に、鎌で、左手の小指を切った。鎌の扱いに慣れていなかったし、手袋を付けていないから気を付けなければならないという意識がなかった。

 切った時は、血が出なかったが、動かしているうちに、どんどん出てきた。

 (これは、まずい。)(汗)、そう思った。

 この業界では、人によっては、聞きにくくて、親方に「助けを求める」などできない人もおおいのではないか。

 迷惑する/面倒臭がられる等を恐れて。

 人間も“荒い”ことが多いから、(この現場はそうではなかったが)気を付けないときらわれ兼ねない。嫌われたら、「もうあいついらん。」などと事務所に言われてしまう。違う?

 だから、言えない人が多いと思う。

 

 でも、それは、「人間的」ではないのな。

 危険の伴う仕事なんだから、怪我やアクシデントは付きものなのだ。まして、未経験の派遣作業員を扱っているのだから、なおさら。

 上方にも、仕事の性格上、そして、そういう人材を扱っている以上、怪我にはちゃんと対応するという義務がある。

 その義務を、威圧感を使って、横着しようとするのな。

 

 僕は、たまたまその現場が荒くない人だったから助けを求めたんではなく、“最悪助けてもらえないことも覚悟して”(指を、動かさないようにして仕事して、血を止める)親方に助けを求めに行った。

 すると、親方は応じてくれ、絆創膏はなかったが、テープがあり、それでとりあえず開いた傷口をふさぐことができた。(養生テープだったので、あとでバイ菌が入ったが、肝心の止血はできた。)

 

 「腱鞘炎」だけでなく、指も切ってしまったのだが、その試練は、こうやって乗り越えた。

 

 「失敗」や、「怪我」や、過失などをやってしまった時は、怒られることを覚悟して、正直に告白することだ。

 それでも、場合によって上司は、あなたを「けなす」かもしれない。そのけなしが不当でも、許すようにしよう!許して、「毅然」としよう!自分の過失が本当に悪くて、けなされるなら、それは仕方ない、受け入れるしかない。受け入れて、今後の精神的な糧にしよう。でも、そのけなしが不当なら、そのネガティブエネルギーには侵されないように!!染まらないように!

  

 怒られることを覚悟(想定)しないで、行ってしまうと、自分に免疫がないから、怒られた時「ショック」を受けてしまう。

 だから、「うまくいく」も「いかない」も、どっちも想定して、そこに自分の「期待感」は差し挟まず、中立(どちらに転んでも平気でいられるように自律(自立)する)の自分で、向かっていこう。

 

              

                =以上、前投稿分=

 

 

 それでは、今週「後半」(2024.12.5~2024.12.6)の話をします。

 

 今週から、日本人的な『集団行動』、そして「楽しく」仕事する(日本人のハーモニー)ということができるようになりました。

 そして今週は、「4日間」だけど、同じ現場に通いました。

 そこで、一番「印象的」だったのは、28歳の新入作業員との出会いでした。

 ずんぐりした、ブロンド長髪、全身真っ黒の作業着を身にまとった「ヘビースモーカー」。悪そうな奴ではないが、ちょっとヤバい感じはします。

 悪いが、あまり仕事ができそうには見えません。たしか月·木·金一緒に仕事したが、案の定、動きがノロかった。 


 12月6日金曜日、僕は始めてその青年と手を組みました。2時間以上かかる移動時間には、僕は色んな知恵(青年の問題を克服するアドバイス、絶対正しいと思うもの)を説いてあげ、仕事が一緒になると、いっぱい声を掛けて、フォローしてあげた。

 しかし…。

 『頑張ること』が大事と何遍も言っているのに、それをまるで見せませんでした。

 明らかに、猫を被っていました。

 それで、僕はキレました。

 キレた僕を見て、仕事仲間がペアを代わってくれ、僕は解放されましたが、「キレて」しまったことで、心は波立って、集中力が途絶えました。体だけ、なんとなく仕事を続けました。

  

 帰りの車の中でも、僕は、自分に見えることをバンバン伝えていきました。青年のために。

 「自分が霊能者であること」、「人の顔を見るだけで、人に見えないものが見えること」、それもみんなの前で堂々と告白しました。他の仕事仲間2人は、そんな僕を見て、なんと思ったことでしょう…。

  

 職場というのは、「教育機関」ではないので、教育に割ける労力は限られています。

 『チャンス』は、いつまでも与えることはできません。

 青年は、「今やるか」、「やらないか」、それだけです。

 

#######################

 

0 件のコメント:

コメントを投稿