2025年4月17日木曜日

2025年4月、「放浪生活回帰」前の思惑 Ⅱ

例外昨年11.12 

⚫今日、「ワークマン」で安全靴など来週からの仕事のために色々揃えた。

 安全靴を探した時、昔を思い出した。

 靴一つで、むっちゃ悩んでいた十代。

 値段、デザイン、軽さ、丈夫さ、履きやすさ、好き嫌い、エトセトラ。

 靴一つで、むっちゃ迷っていたものだ。子供は誰でも多かれ少なかれそうかもしれないが。それが、今はまるで違う。

 決めるのが、むっちゃ早い。4種類も5種類も見ず、「安全靴といえば」というイメージに合ったもの2つくらい見て、決まる。

 「頭の整理」(目の前のものを情報収集して、整理し、ベストを見極める頭の回転。)がむっちゃ早くて。

 今一度、こうなれた自分はどんな模索をすべて経てきたか、思い返してみたくなる。


例外昨年11.14 (面白いので、残しておく)

⚫(重要。僕の心構え)

 例えば、今書いている『僕にとっての作業所T』を利用者にも配りたいと思ったとき。

 「コピー代はどうする?」(かさむ)

 Tに、お願いする(甘える)?

 

 →自分が納得する答えを出すまで、頑張る。

 下手に、甘えないのだ。

 「甘え」は、借りを作るから、そうしたくないんであれば、納得できるアイデアにたどり着けるまで、考えるのだ。

 例えば:

 「コピー代をTに負担してもらうことは、僕の体験談はみんなのためになると思うんだから、悪いことではない。。。

 そんな気がするが、ちょっと待て。

 それより、自腹を切る方が、カッコよくないか?謙虚じゃないか?」

 そうやって、例えば、僕はふと浮かんだ、「甘えたい」心理を自分で克服する。

 ☆「甘え」は、「依存」をつくる。

 

例外2.5

⚫(記録)(2/5 デイケア)

 なんだか、僕の、端から見てとれる様子に、わざとかこつけて、人と話題を育むスタッフと利用者がいる気がする。

 +僕が自分の仕事(翻訳)で一息ついたまさにそのタイミングで、「せき」をする加藤正千さん。(皮肉だが、デイケアで最もお世話になった人)

 これ、生理的咳、とするのが世のルールだけれども、絶対!、そうじゃない。若い頃の俺の日本人理解は、日本人は咳を、他人の注意を引き付けるために多用する。(!)

 現に、2/3!、仕事で鉄筋をどこに運ぶか分からず、変な会話を育む関係ない連中に、鋭い視線を返した時、そばにいた年老いたガードマンが、ピンポイントで「せき払い」。

 絶対、偶然ではない!

 (*2025.4.14記 加藤さんは、悲しいことだが、僕のことはほんとは好きじゃなかったんだと思う…。)

 

例外2.13

⚫(ユーチューブでは取り上げたが、重大な気付きだったためここでも残す)『建設業』重要(Beware!)

 ≪また、人間の邪気に侵されるかも!

  「合わせる」ことで。(!!)

  (あいつらは、俺と同じようには、絶対しないんだから、合わせちゃいけないのだ。合わせれば、裏切られ、利用され、そまつに扱われ、…最悪なことになる。若い頃、散々味わったのだ。)(超貴重な教訓!)

  俺は、心がきれいだから、人に親切を施すが、それがすげなくはねつけられ、利用され、見返りが来ず… 侵される!

  (過去の自分に戻ってはならない!危険!毒には触れるな!)

 追記:(2025.4.14) 当時これほどに、危機感を抱いている自分だが、あの後間もなく仕事は終わり、何もしない2ヶ月が経ち、人に歩み寄る気持ちを持とうとする新しい自分がいる。しかし、上の印象は、そんな間違ってもいない気がする。今は、うんと、「人と仲良くしたい」(人を許したい)という自分がおり、5月に放浪生活に戻っても、おそらくそうする余裕というか、気概があるけれども、この2/13の印象はなんだったのか、その根源は是非とも探ることにしよう。#####


例外3.24

≪重要≫ 幸福の科学、『大川隆法氏』。

 あくまで参考であるが、2ヶ月くらい前、インスタグラムで興味があると言って、幸福の科学総裁、大川隆法氏の『地獄の法』(「見方を変えるとそれは、救世の法である。」(大川氏))という本を挙げた。その本は、買っただけでまだよく読んでいないのだが、氏は、東日本大震災は、

 『天照大神のお怒りである』

 というようなことを言っている。

 俺は、自分のことを天照大神なんて見立てる気はそうそうないが、もし神通力が本物だとしたら、そういうことも考えるようになるのかもしれない。(否、はるかにその「遣い」だと思うが…。)

 興味深いことに、氏は、僕と因縁ある名前を持っているだけでなく、まだ到底死ぬはずのない「66歳」という若さで、「2023年3月2日」という奇妙な日に亡くなられている…。

 その語呂合わせは、「3.11」を思わせるだけでなく、大川隆法氏は、僕の存在を嗅ぎつけていて、僕にご自分の人生の功績を託したかったのか?それとも、僕に、それを葬られたとでも感じたのか?





########以下、「4月」。##############

4.9

⚫(発掘。≪重要≫)(かつて、20代、たしかあった実感。)

 『言っても、しょうがない。』

 関連: 世間一般人の、「真理」をバカにした態度。

  

 大多数(大半)の人間は、「真理」など、おおよそ興味はない。自分の見たいこと、聞きたいことしか、興味はない。(真理は、めんどくさい。)

 その不義の姿勢が、かつて俺にこのようにして「絶望的」、且つ「怒りを覚えるような」実感を、生み出していた。

 だから俺は、黙って、引き下がったのだ。罵倒、叱咤、弾劾等に出るのではなく。(これをしたら、世間ではいわゆる「アウト」、なんだろうな。)

 つまり、世間で自分の生活の場を得たかったら、他人の不義には目をつむれと、そういうことなんだろう。そして、そういうのに触れたくないんであれば…、アレだ、早いうちから、人生「成功」させて、そういう卑怯な人間に触れなくて済むような地位、名声等を得ろ、ということだろう。なら、そういう方向に進むことを、そもそもが阻まれてしまった人達は…?

 「知ったこっちゃない。」

 それが、世間の見方だろう。そんなんだから、俺はかつて、世の人間が嫌いになったんだと思う。…



⚫(今年に入ってからの自分の「食事研究」から導き出した結論。(仮説。自分としては貴重。))

 ≪「中毒」(食事)とは、『心してかかれ。』ということである。「やってもいいが、それがやめられなくなったら(自制を失ったら)、それはあなたの責任だぞ…?」ということである。

 『食べ物』も、同じ。社会がそう捉えていないだけで、『食べ物』も、薬物と本質的に何も変わらないというのが僕の考えだ。

 だから、「酔いしれる」ような刺激をもたらすものには、たばこでも、酒でも、油でも、「中毒」になってはいけないのだ。ほどほどにしなければならない、「自制」が崩れる、ほどほどにしなければ病気する、そういうことなのだ。(現代的な、豊か過ぎる食文化に対する警告)

 結論(仮説):

 『食べ物とは、「薬物」となんら変わらない、「中毒物質」である。』

 (「薬物は、なくても人間は困らない。同様にして、食べ物も、なくても困らないのではないか…?」)≫


4.12

⚫ 僕の、かつての女性への憧れ。(一例)

 スパイス・ガールズ “2 become 1”のエンマ·バントン。

 だが、すべて捨てた。(2007年1月)

 (克服した)

 人生、やり終えている。  

 

⚫ (エホバの集会に参加して。)

 1. 瞬間掌握力によって、瞬時にして、公演の核心、人の思惑、気持ち等が読み取れてしまう自分を再確認。

 ⇨凡人を逸している。

 2. 聖書のもんごんの、霊的な意味合いにも、すぐに到達する自分がいる。おそらくそれは、人生の奥義というものを、極めようとしない世間一般人には、(さほど熱心でない信者などには)、できないことだ。

 多分、僕は昔教会などに通っていなくても、独力で人生を極めようとしてきたから、それが分かるのだ。

 

⚫ (日本無銭放浪中など。発掘。『飽くなき向上心』/『勤勉さ』。)

 僕は、《ひたむきに》自分の能力開発に取り組んでた。

 例えば、 瞑想技術の練磨による、「長文」や、「観察世界」の深堀り/構築能力。

 物事の真相を探る(突き止める)能力。等々。

 (『ある程度』、では満足せず、真面目に能力開発に取り組んだ。)

 

⚫ 『最高の仕事』、とは。

 「自分がやりたいこと。」(ワクワクすること。)から、『あなたの仕事』を構築していく。

 それを中核に、それに付随するあなたの意識に及んだ事柄を、「肉付け」として、加えていく。

 それは、あなたがやりたいことに出発点があるために、あなた独自のお城となるが、それが“偏屈”でない限りは、素晴らしい仕事になる可能性が高い。

 (やりたい!)という気持ちが持つエネルギーを用いて、沢山のことがこなせるからだ。…

 (人が、詰まらないと感じるような家事でも、僕は日々違う家事、絶対同じにはならない一日一日の家事で、成長と、改善を経験しながら、「最高の仕事」で生活を充実させることを楽しんできた。(グループホームを出てから特に。)✌️) 


⚫ 人間の能力の真の高み』

 例えば、「うどんの芯に、火が通ったか、否か」。

 感覚を磨く者は、「噛んでみる」という月並みなやりかたに陥らずに、「麺の見た目」、「感覚的時間経過」などから、これが分かるようになる。

 人間の感覚とは、ほんとは、それくらい鋭いものなのだ。

 (そういう能力が磨かれてくると、生活の創造性も格段に伸びてくる。そして、その充実ぶりによって、生活は一段と楽しくもなってくる。

 この世のあらゆるものに対して、それを、選り好みせず自分の感覚を生かしてよく研究することで、このような鋭い感覚は育つ!)

 

4.13

⚫ ≪僕の性の発達≫

 「同性愛」… かすかに、感じたことがあるかもしれない。ある種の、独特な雰囲気を持った男性に対して。しかし、性的に目覚めるのが遅かった僕は、そもそも性的欲求が育っておらず、例えば、中学で西洋の女性に魅せられていながら、落ち着いたのは「日本」、全く違う女性性の国。

 だから、ほとんど女性に目覚める前に、大人となってしまって、その頃には人生目標を救世主に設定していて、セックスや恋愛などは二の次になった。

 もっとも、カトリックだった母親の影響で、漠然と結婚前のセックスはNGだとか、コンドームなど甘えだという考えはあった。

 

4.14

⚫(いい記録。「作業所」(~2024.11.15))

 僕の精神の目覚めの過程で、こんなことがあった:

 おなじチームのA君が、僕の言った「おはようございます。」をばかにするような態度を採った。

 それに対して、目覚めた僕はつっかかった。

 すると、その行為に対して、例のO支援員が、「なんでそんなこと気にするようになっちゃったの?」と言ってきた。「前の小川さんだったら、そんなの気になんなかった。(それが正しかった。)」、と。

 しかし、僕はこのA君から、変なことをされたのはこれが初めてではなく、僕が彼に何かやなことしていた訳でもない。おそらく、彼が、俺が好かなかったのだ。だから、一方的に攻撃してきたのである。それともなく。

 それに感づいた僕が、彼が変なタイミングでゲームをやめて、顔を上げたせいで、僕を“誤解”させ、そうしてたしか言った「おはようございます。」を、無視する、みたいな卑怯な真似(そこで、Aは、他の人には挨拶して僕だけ無視である。)を、摘発したら、O支援員から注意された、という訳である。

 どっちが正しい?

 みんなにやさしくしなかった俺?

 それとも、攻撃してきたA?

 俺は、みんなに優しくしなかったとはいっても、誰も、攻撃したことなどないのな。意味もなく。だから、Aと支援員Oの方が「おかしい」と思う。

 (P.S. あ。一度、施設外から帰る車の中で、A君が変なこと言っているので、釘を差したことがあった。それを彼は根に持ったのかもしれない。いつまでも分からず、いつまでも言い訳を並べ立てる彼を、僕は“注意”していた。

 ただ、支援員も、下手くそであった。そんなAの相手が。だから、事を終わらせたのは、僕の言葉だったのだ。Aには、ちょっとショックだったかもしれないが…。)


 (後記:4.17 前にも印象で挙げたことがある、「類稀な(?)、僕特有の、《人に、言ってあげる親切》?」なかなか自覚がならない、人の犯している間違いを攻撃でなく、真実として、自覚をさせる。Aはそれを、攻撃と履き違えたのかもしれないが。)


4.14

⚫『充実の秘訣』

 「あなたが、活発な精神をお持ちで、それを生かさないなら、そこには、多分に邪念/雑念が入り込む。」

 例えば、飲み干したコーヒーカップを流しに置きに行くだけのことでも、それをしたいという気持ちに火がついていない(切に感じていない)のにやると、それをやった時に、なにげなく名残惜しさを感じたり、次のコーヒーのことを夢見たり、してしまうのだ。(活発な精神は、そんなところで裏目へと出る。)

 持っている能力は、使わなければならない。使わず、あなた自身の性質を否定するならば、それは、例えばこのようにしてしっぺ返しを食らうことになる。

 

 僕は若い時は慢性的にそうだったのと、24、絶望時の統合失調症などは、この「自己否定」/「自己嫌悪」/「自己放棄」の極限で体験した病だったという気がする…。

 『人間は、「自分」を生きるために、生きている。』

 

⚫(僕) “けたたましい探究心?!”

 僕は、子供の時分から、「何でも完璧にやりたい」、そんな子だった。だから、例えば、いやなこととか、いやな気分でも、そこに留まってその本質を探ろうとするのだった。

 自分が、変な気分になったら、どうしてそうなったのかを知りたがった。変な気分から逃げようとか、避けようとするんじゃなく、突き止めに向かったのだ。その際たる体験が、24歳絶望時の、統合失調症であったと思う。

 だから、人間の心理に関しても、自分には馴染みのない感情、感性も、それがどんなものであるか積極的に研究した。そうした無償の、純粋に自発的な人間研究が、今日の僕の、見識の深さとなった。

 

4.16

⚫≪重要≫

 「俺がかつて、親父をボコしたり、自殺したりしなかったから、今日の父(小川誠)の『稲の多年草化栽培』はあると言っていい。」    ー2025.4.16

 (父の精神的平穏を、僕が自身を犠牲にすることで守ったから、2013年?、父は多年草化現象に気付くという鋭い観察力を発揮することができたのだ。)

 

⚫『知識偏重人間が犯す、様々な理論を統合する際の、言葉の論理的欠陥。』

 (不食60日の不食者、Y.O.)

 ⇨「人は皆、神。」と言っていながら、俺に、「神は人間にとって狂人。」とか、「神に近づきすぎたなら、動物的身体に戻る、(それを目指す)」とか何とか言う。

 (「神」という言葉の意味が、矛盾的に使われている。)

 

≪重要≫ 『瞑想能力の極み』?  

 あなたが、ご自身の瞑想力(あなたの、あなただけの真理の正当性を確立…)を鍛えるなら、、、

 (例えば、あなたが到達した真理に対して、重要な箇所(言葉や言ったことなど)が、それを扱う時全く無理なく頭に浮かび、それを言う、ということができるようになる。…)

 (*要再検討)

 

≪重要≫

 『僕が何故、みだらな頭髪や、無精髭などで、公の面前(SNS)に出るか。』

 ⇨それは、身だしなみを整えるという習慣ができてないから、ではない!もっとうんと重要な意図がある。あなたにも、人間の肌の色や、整形した顎や、歯並びや、顔面の傷跡、シミなどではなく、、、物理的な美しさで人を眺めるのではなく、僕がしているような「霊視」、を身に着けてもらいたい、と、そういう目的があるのだ。(これから、霊的な目を養う方法を、伝授していく。お楽しみに!)

 

⚫(重要な考察)『整形は不純。』

 なぜなら、それは遺伝せず、あなたの本来の特性を見えなく(隠し/ごまかし)してしまうからだ。整形した人間とは、言っちゃ悪いが、好かれるためにお人形へと“退化”した人間だ。それは、人間の「中身」(精神/魂)に対する姿勢としては、誤魔化し以外の何ものでもない。「体」とは、人間の魂、心の大事な「具現」なのだ。

 与えられた体で、『自然な美しさを目指す』。『「あなた自身」を生きる。』そうでなければならない。

 (整形しても、魂や心も、良くなる訳じゃない。整形したら、自分が変わったと思うかもしれないが、おそらく、人は、その「強力な誤魔化し方」によって、長い目で見ると、「本当の自分」を失ってしまうのだ。生態としても、前の体よりも不具合を起こすものでは?それらは、魂としては、恐ろしいことかもしれないと思う。)

 (*要再検討。以上、率直に思うこと。)

      

 

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2025年4月16日水曜日

至福の日記、久々の日記。

 こんばんは。

 みなさん!! …と言っても、これを読んでくれる友達もまだろくにいないような自分ですが、今日は午後8時過ぎ、すごく嬉しいことがありました!断食の3日目、仕事もなく、あと2週間ほどで無銭放浪に戻る自分ですが、ゆったりと、ふとんで横になっている時に力強い幸福感に満たされました!その幸福感が強烈だったために、コンビニに行って食べ物を買おうとしたほどです!(結局は缶ジュース1本とたばこだけ買いました)

 率直に形容しますと、その幸福感とは、『イスタンブールの歓喜』(先日投稿)の後、20代後半にあったものです。(2014年11月に、ドイツでの『救世主宣言』に失敗してから、この間、ずっと失われていたものです。)それは、2009年~2011年中のブロふグで、ちらりとは書いていたもの(*2009年6月の投稿、『不食の「師」、山田鷹夫氏とのやりとり』など。)ですが、まず、間違いないことは、それが、『イスタンブールの歓喜』(別称「神様の承認」)から得ていたものであるということです。

 極めて個人的で、当時家族ですら満足に共有できない幸福感でしたが、簡単に言えば、先日書いているように『人生全うした』、『神様に認められた』、『天国行きは決まった』、そのような実感から生まれた幸福感でした。

 

 人生で、満足に幸せを感じられていない人、虚しさや、寂しさ、自尊心の欠如や、未練などを感じている社会の多くの人間達とは、真逆とも言える境地にあった僕でした。身分は「ホームレス」でしたが…。

 2007年12月、イスタンブールで号泣して神様の承認をもらった時思ったことは、どうすればできるか分からないけれど、この幸福感を“人と分かち合いたい”という願望だったのです。少し言い方を換えれば、「この(強力な)幸福感で、他者を幸せにしたい…!」と、そういう気持ちであります。その気持ちは、その後日本に帰国すると、過去の記憶という「暗雲」によって覆い被されてしまうのですが…。セルビア人とは、一線を画す「“冷めている”西側人間」(日本人も含める)(とその記憶)の世界では、余計「発揮」もしづらかったのですが…。(西側諸国では、感情的に、なりにくいために)

 

 2011年9月から、「4年半」のヨーロッパを経、尚且つ8年間の『精神の冬眠』という試練を経た僕は、≪変わっています≫。何というか、かつての(日本での)冷めた世界観や、“酸っぱい”自分、悲観的な世の中の見方、が今はないのです。正直に言うと、そこに戻ること、はできたとしたも、「できれば戻りたくない」。日本でかつてそうなってしまったのは、僕の宿命的なものだったかもしれませんが、今は、それが塗り替えられそうなのです。そういう自信が、数時間前、昔の幸福感を思い出せたことで、付いたのです。

 

  

 後は、ふとんの中で、昔の自分は、今日より「全体整理」が上手だったことも思い出しました。喩えて言うなら、(僕は将棋は強くありませんが)、プロ棋士が、無数の将棋の駒を、全体をよく見据えながら、詰めてゆく感じです。2022年11月に目覚めてまだ日も浅い僕は、ずっと荒削り人間でありました。

 

 以上、そんな事を思い出した今夜でした。良き教訓を生かして、人生を前に進めて行きたいと思う所存です。まだまだこれからかもしれませんが、こんな僕をどうぞ宜しくお願い致します。

 

 

              2025年(令和7年)4月15日(火)

             救世主を目指し、その人生教訓を

             みんなと共有したい

                   小川智裕カロルより 


 

2025年4月12日土曜日

2025年4月、「放浪生活回帰」前の思惑 Ⅰ

 (※注: いくつか、3月中の印象がありますが、ご了承下さい。先の投稿では、発表したい印象を優先して発表していたため、まだ残っておりました。(汗))


 


3.12

• 『(やりたい。)という気持ちの大切さ。』(生活が惰性になっている人、「ルーティーン」に陥っている人へ)


 たとえば… 中途半端な気持ちで食器洗いはしない方がいい。(まだそんなに気が進まないなら、やらなきゃならないことでも、もっと気が進むこと、自分が楽しいことをやった方がいい。) そうすると、その動機がまだ強くはないために、それをすることで喜びがあまり得られないし、なにより、(やりたい!)という気持ちがしみじみと感じられた時にやる方が、テキパキとでき、喜びも得られ、「次は何しようかな♪」と、生活に心躍らせる自分になる切っ掛け作りにも、なるのだ。(参考:『充実』は、人生の喜び。)

(*注: 3.18、4.4に関連する気付きあり。3.18のは、前投稿「2025年3月の思惑。」に入っています。) 


3.13

(記録) 今日の気付き

 (気ままにマクドナルドに行って)

 自然な、人と仲良くできる自分を発見。(店員さんを前に) 人間の、一般的な人との接し方。

 

 (後記:)

 思い出したのはいい。でも、恐らく、これだけでは済まない。人は、絶対悪さをするから。

 ただ、自分がいかに「瞬間掌握力」に依存して対人関係を持ってきたかが、分かった。

 (重要:)

 若い頃、そういうところに潜む、人間のいたずらに目を向けた自分。(それは、「被害妄想」なんて浅はかなレベルのものじゃなく、極めて「厳正」且つ「入念」な人間観察であり、その成果が、2008年の霊眼『瞬間掌握力』の獲得であったと、自分では思っている…。これから、その霊眼の真偽、世間一般人の実体というものを、放浪生活の中で確認していく…。)  

 

3.14

 (元気がない人へ)

 中途半端なもので、自分を満足させようとしていませんか?

 そんな時は、発奮して、自分を大いに喜ばせることをした方が、道が切り開けることが多い。

 そういう大きな行動が、気分の高揚が、「ひらめき」や、「グッドアイデア」を呼び込むことが多い。

 「低空飛行」は、相応に詰まらない考えしか呼び込むことはできない。

 (自分を満足させた方が、やる気も出るのです。もちろん、«贅沢な»人間は、まずはつましさ、謙虚さから学ばなければなりませんが。😅)

 (関連:昔の俺自身がやってしまってた、『自己愛不足』。)

 

3.29

•僕が今日できる真理への到達(YouTubeなどで発信しているそれ)は、普通の人は何ヶ月かに一遍、もしくは1年に一遍も到達できないような価値あるものだという確信があるから、発表している。

 それを掴むということは、価値として、数万円、数十万円にも劣らない(人間の霊的な成長にとって)という自負があるから、僕の言葉、僕の人生経験によるものではあるが、伝えたいのだ。###

 (僕は、そういう価値ある悟りに、1日でいくつも到達してしまうという、卓越した才能がある。)

 

 

≪重要≫

 -なぜ僕が、人に優しくなれないか。-

 僕がなぜ人に親切にしたくはないのかという理由が、分かってきた気がする。

 それは、僕が無差別に人というものを嫌っているのではないのだ。正当な理由があるようだ。。。

 

 (例えば、やはり、道端で咳をふっかけたり、横断歩道を歩いている時につっこんできて微妙に脅かしてきたり、不要にエンジンキーを回して人の静寂を打ち破ったり、人の親切を見て見ぬふりをしたり。)

 僕は、社会にいるだけで、「いやがらせ」を受けるのだ。

 (俺に金があって、その能力にふさわしい仕事を持っていたなら、そんなものを体験する必要はないのだ…。カッコいいスーツを来て、ビシッと決めて、高級車をのりまわしていれば、そんないやがらせは受けないのだ。)

 人々には、俺は価値のない「負け組」に見えるから、半ば「軽蔑」から、そうしてくるのだ。

 ちがう?

 

 +さて、これから「放浪」で、僕の顔の贅肉が落ちて、引き締まった顔になって、気を引き締めたら、、、この現象は変わるか?今は、そう、雰囲気を一変させて、様子を見るつもりである。

 

 

•(発掘)『僕の嫌いな、日本人の一側面。/「人間の所業」2例。』

 正月に、ペットボトル拾いをやった時、鍵のまだ付いている自転車の鍵を拾った。うれしかった。

 でも、昨日こんなことを思い出した。

 『日本人は、まだ使えるものでも、古いものは、“毛嫌い”する。』

 ヨーロッパ人とかはそうじゃないが、日本人は、新しいものしか使いたがらない。だから、僕が拾った鍵など、彼らにはほぼ無価値ではないだろうか。(「人が使ったものは使いたくない」、という潔癖症も、日本人にはあるよな。→「唾がついてんじゃねぇんだからよ!」って、俺は思う。)

 そうやって、ゴミを大量に廃棄して、環境を汚している。「ゴミ処理場」で、大量の排気ガス、毒物を排出させている。

 服も、家具も、車も、そうだ。使えるもの、古いものを拾うことは、「軽蔑的行動」ですらあったんじゃない?

 俺は、昔からその精神が大嫌いである。

 日本人は昔からプラスチックの利便性を愛していながら、その処分に関しては、いいかげんである。

  

 『マイクロプラスチック問題』を見ろ!

 人の脳みそにまで侵入して、取れないそうじゃないか!海を初めとして、どれほどの生き物がプラスチックで「苦しみもだえている」ことか!

 

 先日…。近所のごみ拾いにも行って、70Lゴミ袋2つ、パンパンのゴミを家に持ち帰って、風呂桶で洗い、分別をした。その時、思った:

 (ペットボトルって、むっちゃ丈夫にできているんだな…。むっちゃ、便利だよな。でもそれを、人々は中身がなくなったら、クズ同然に扱っている。平気で、ポイ捨てをする。)

 すべて、「お金」でしか世界を見ていない結果だ。ペットボトルなんぞ、お金にしたら、きっと3円にもならないのだ。だから、捨てる。

 そのツケが、回ってきている。###

 

 P.S.その1 

 ドイツを放浪中、あれはなんと言うのだろう、セックスの前などに、気分を高揚させる少量のお酒の瓶が、森に捨てられていて、そのアルコールを求めて、ナメクジが中に閉じ込められているのを見つけたことがあった。

 アルコールにつられて、瓶に突っ込んだが、後退できず、ハマってしまっているようであった。

 かわいそうになって、僕はそいつを引っ張って抜いてやろうとしたが、抵抗を示して、結局僕はそいつのはらわたを潰してしまった。

 「何やってるの?」と、通りすがりの人が様子を見に来たが、怪しまれたくはないので、「こいつを殺してしまった…。」とだけ無邪気なことを言って、僕は立ち去っていった。

 人間の無思慮というものは、こういうところで罪無き生き物たちを無数に苦しめ続けている。

 

 →「新しいもの」を常に使いたいんなら、古いものの処分も、しっかりとやれ!!(古いものの処分にも、しっかりと金を回せ!)

 

 P.S.その2 

 選日「Book·Off」に行くと、確かにマーキングの入ったものだか、定価4,700円もしたセルビア語の辞書が、1円にもならなかった。

 マーキングの量は、大したものじゃない。でも、ブック·オフの店員は、その価値を見出さなかった。

 おかしいだろ。

 『道徳的腐敗』、そう思った。 

 俺には噓を付いて、その辞書を高価で売るつもりなのかもしれないが。分からない。 

 

 

3.30(…ネガティブな印象の連続で申し訳ないが。(汗)💦)


 『人間にありえる悪魔。』

 (記録)(『建設業』、12月)

 一度、木なども密集している大変なやぶの伐採をやったことがある。

 その最後に、親方がこう言っている:

 『あれは、「罰ゲーム」やったな。』

 日本語の、「罰ゲーム」の意味を、忘れていた僕は、その意味がその時はよく分からなかった。 

 

 今は、ちょっとこう思う:

 →「俺のエネルギーを、うまく利用した発注であったかな…」と。

 どういうことか。

 『バリバリやる奴がいるから、今なら、あそこもできる。あいつのエネルギーで、仲間も「疲弊」しないんじゃないか。今が、チャンスだ。』😈😈

 俺のエネルギー自体には一銭も支払わず、仕事力は評価もせず、それを私的利用した派遣先の会社と請け負いの『策略』であったかもな…、と。

 

 建設業では、他にも、全然動けない奴と組まされて、派遣されたことも何度かある。同じような目的で?

 会社の上部の人間がしうる、そういう、汚い部下の搾取、というものを、今は想定する。 #####

 

3.31

 テーマ:『「鍛錬」と、「自己愛」。』

 (記憶)(若い頃)

 例えば、目に飛び込んできたお菓子の空袋を見て、瞬時にして(食べたい!)と思った。それが、見事に自分の潜在意識を掴んで、後々食べずにはおれなくなった。

 常に自分を“駆って”いて、自分を愛することもできないから、心は常に飢えていた。(子供時代からの根本的な飢えも手伝い…。)小川家では、「ゆとりを持つ」ということを教わらなかった。

 僕にはただそれが必要だったのだが、ほんとにそれが自分には(自分でも)与えることができなかった。

 例えば、僕の友達とかは、そういうゆとりを持つことを知っていた。でも、彼らに恐らくなかったのは、僕のような、メラメラ燃える、向上心な。

 人間を極めるためには、「向上心」と「ゆとり」、両方必要だ。自分に甘いのもいけないし、自分に厳しすぎるのも、いけない。そのバランスだ。僕は29で、家族と絶縁してヨーロッパに行ったことで、『自分を駆り立てる鬼』から解放され、ちゃんと自分のゆとりを確保するようになった。

 今は、お菓子の空袋を見て、飢えることはない。だから、例えば断食で、(もう食べない。)と意識を切り替えると、その切り換えがうんとうまくできる(つまり断食に入れる)自分がいる。… ###

 

 P.S. おれは若い頃、実に、自分自身に対して正真正銘の「鬼教師」であった。### 

 


•(発覚。)『佐藤さん、田中さん、加藤さん、大崎さん、小山さんには、≪変われない≫。』(普通の人間には変われない。「俺」はともかく。)

 (*彼らには、これまで通りの生き方を続ける以外に、能はない…?)

 


4.1 

 『シンクロ、…また1つ?』

 「地震」以外にも、「水」が関連するシンクロニシティー、「雪」、「天候」などのそれを体験してきた自分だが、数日前、「津市市議会議員」の活動報告チラシがポストに入っていて、そこに、確かに気になっていた2月半ばにあった近所の「水道管修復工事」の記事が載っていた。

 なんと、上下水道事業局80名、給水車7台、広報車6台、給水を求めた住民は3500人に及ぶ、一大惨事であったのだが、当時の水道工事の通知書を見ると、その日付が2/14となっている。

 2/14とは、1ヶ月半一緒に仕事した親方に卑怯な真似をされて反抗し、その現場に行けなくなって“怒りが込み上げた”、次の日である。

 もうほんと150mもないくらい近所の工事で、工事施工業者の名前がまた「鳴川工業」。

 …これが、偶然か?#####


 

4.2

 (今思う。)(朋弘のジョークに潜んでいた「邪気」?)

 朋弘のジョーク:

 「不食になったら、自分は不食しながら、他人に『うな重』おごってやるっていうシーンを、動画に撮らない?」

 →それは、バカのすることだろう。

 なんで価値あるお金を、そんな高価なもので他人のために使わなならんのだ?俺は、賤民でも、下僕でもないぞ?このジョークにある『異常行動』は、行き過ぎであり、不食者による、食者の挑発行為にも思える。そんなことする必要はないのだ。

 思えば、朋弘には、他にも敵を挑発するような文句を使うのを目の当たりにしたことがあった気がする。ちょっと、毒々しい。そんな事をする必要は、ない。#####

 

『「大衆心理」を忘れている。』#####

 (しかも、あれから(僕の知っていた時から)それは、「14年」経った…。😳)

 

•(生活を活発、且つスムーズに回していく大事な習慣。)

 『意に留まったら、すぐやれ。』

 若い頃僕が長い間陥っていた日常的「苦」。見た時に、すぐやらなかったから、後からそれが負担となって自分にのしかかって、そういう家事だけで、だいぶエネルギーを浪費してしまう自分がいた。 

 →常に、ゴミや、要らなくなったものは少しずつでもいいから、生活に支障は出ないように、片付けていく大切さ。

 例えば、空になったお菓子の袋は、いつまでも机の上に放置しておくと、それだけでそれは、あなたの士気を腐敗させる。「俺はだらしがない。」というレッテルを、自分で自分に貼ることになる。

 (今日、確認。✌️(少しダラけて、断食もあって部屋が乱れて初めて気付く。) 

 『人間の生のいろは』。(人間として、生があなたに要求すること。))

 


 

4.3

• 日本を思い出している。

 まだまだ、忘れている!

 (例えば、今日、下手したら20年ぶりくらいに、食パン『ダブルソフト』を買った。その昔僕は、これが好きだった。(バターをたっぷりつけて、食べた。) 

 それで…、自分の中の日本をまた一つ発掘した。

 他には、庶民の、『食事』を大いに楽しむ潮流、…も、思い出した。

 いいことだ。これで、より庶民に、心理的に近づける。)

 

4.4

• 『家族と“絶縁”し、日本を捨ててヨーロッパに行ったことで、僕が得た宝物』

 いかに今、40過ぎが「ピースフル」か。

 文字通り心置きなく自分のやりたいように、好きなように、食べたり、家事したり、できる。そうできるようになったことが、僕の創造的高みや生活の充実をどれほど『保証』してくれたか。

 これには、凄まじいものがある。(重要)

 (僕と同じような抑圧的な人生を送ってきた人達に、『こうしていいんだよっ!』と、解放のまじないを掛けてあげたいwww。)

 

朋弘(昨年、「運命的」と早合点した出会い)は、忘れよう。

 

4.5?

 (重要) 『感情の極み。(ピンポイント)

 (*昔から、僕が大切にしてきたこと。「新テーマ」。)

 人は、これを突き止めない。いいかげんな感情、曖昧な自己認識で突っ切ろうとする。それ自体が不純である。

 無責任、適当、ということであり、「世界」を、「人」を、誤解する始まりである。

 感情… それを把握するということ。そしてそもそもがそれを気兼ねなく開く、ということ。

 それは、足し算や引き算のようにはいかない。多分に、『従事』することなのだ。

 

 世界に対して、気兼ねなくそれを開くものならば、それはあなたを大きく深遠な世界へといざなってくれるだろう。あなたの世界を拡張してくれるだろう。

 しかし、それこそが、本来の世界体験というものである。この世界は、なんとも大きく、深遠なのだ。人々は、上に述べた不純さから、これを体験しない/できない/しようとしない。

 …あなたは、あなたが感じているものが何か、どれほど分かっている??

 (…)  

  


4.9

(発掘)

 『人間の中の邪気は、てごわかった。』(日本を去る29迄の思惑) 

            ー2025.4.9


4.12

 -士気低迷、鬱、落ち込み、無気力の人へ-

      ≪僕自身の、人生の教訓(“奥義”、“王道”)!≫(3.12, 14, 18. 4.2(3つ目), 4など、最近つくづく思わされているテーマに関係する思惑)


 ≪やりたいことを、やりな。

  物事を、自分がやりたいように、自分が、いいと思うそのままに、処理しな。

  生活を、機械的に、もしくは、規則的に営むべきではない。特にあなた方は。。。

  自分に、「平和」を許し、気の向くままにやるのさ。すると、同じ、必要なことを処理するのでも、処理する順番がいつもと違っていても、「喜び」(楽しさ)を覚え、義務感からやるのとはぜんぜん違うエネルギー消費になるのを体験するだろう。

  

  「自分がやりたいようにやる」ということが、いかに人生を楽しくするか…!!創造的に、充実、発展、能力開発等させる『力』となるか…!

  僕と同じように、人生抑圧的に生きてきた人達には、是非、こういう「自己愛」を持って頂きたい。なぜなら、自分を愛せない人は、この世では、うまくやっていくことも、できないからだ。

  キリスト教では、『神様はあなたを愛しています。』と言う。そう、神様は、姿を見せてくれなくても、苦しむあなたを助けに来てくれなくても、≪あなたを愛している≫。≫


 

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2025年4月11日金曜日

『イスタンブールの歓喜』(「神様の承認」 2007.12)

 まえがき

 

 こんにちは。

 2011年まではここで伏せていた、僕の人生で最も重大な出来事である『イスタンブールの歓喜』(2007.12)と『3.11と僕の呪』だが、後者はこれまで幾度か語ってきたのに対して、前者はFacebook(2015年秋?)を除いて、ほとんど語ったことがない。だから、“精神的に”一体どんな体験であったのかを振り返るのは、これが初めての試みと言ってもいいかもしれない。2015年秋、ベルリンで、救世主宣言の失敗によって、体も頭も文字通り「パンク」してしまっていた自分には、まともな話などできなかった気がする。

 

 しかし、一つ言っておかなければならないことがある:

 僕はドイツのUlmで発表した『救世主宣言2013』(Facebook)に失敗した時、自分や人間のことを丸々忘れてしまうというハプニングにも見舞われた。多分に、「日本の家族」、祖国「日本」、はたまた「日本人であること」も捨ててヨーロッパに行っていたからだ。救世主宣言という猛烈な探求だけでなく、そこには、様々な要因が重なって、一度“全崩壊”し、8年間という間、精神が眠りに就いたのだった。

 つまり、今日の僕には、SNSなどでも言っているが、20代の記憶や、日本人に関する知識が、失われているのだ。(不思議なもので、頭が、完全に忘却してしまっても、病室でもない「社会」で生活していくことで、『体が』憶えているようで、そのお陰で僕は精神病院から退院してからの2年間、『自分』を取り戻すことに、ずっと成功してきている。)

 だから、生憎、『イスタンブールの歓喜』という重大な人生体験においても、当時の自分というものをもう鮮明には覚えていない、そんな自分がいる。更に悪いことには、僕は、『救世主宣言』に失敗して、罪悪感に見舞われた時、自分を絶望から救い、それまで8年間かそれくらい自分を鼓舞し続けたこの霊的な体験自体を、一度“否定”している。

 

 しかし、今日の結論から言うと、「神様の承認」をもらったと思ったほどの、相応な「バックグラウンド」を経ての僕のこの霊的体験は、そう簡単には取り下げられない。いくら、当時の自分を、今は忘れてしまっているとしても。

 例えば、退院から2年間、「自分」を取り戻してきた中で、人で、嫌な思いをするとする。それが、“自分は絶対にやらない”、他人だけ、つまり昔自分が絶望したほどに嫌いになった「世間一般人」の所業として、それを再体験する時、僕は、自分にとっての過去の絶望体験の正当性を感じさせられるのだ。それは、詰まるところ、『イスタンブールの歓喜』の正当性ということにつながってゆく。。。

 つまり、これから僕が再び無銭放浪者として積んでいく世界体験が、まだまだこれから、「本当の自分」を掘り当てる足がかりとなると思うのだ。そして…、もし、人間の世界の質が僕がそこを去った18年前とさして変わらないようなら、僕はもう、そんな“下らない世界”には負けていられない。堂々と、ありのままの自分を突き出していく、そういうことに、なる気がしている。

 

 


 さて、そんな訳で、うろ覚えではあるが、「神様の承認」を得たと思ったほどの僕の霊的体験を、発表したいと思う。

 

 子供時代、「人にあるもの」がなくて、「人にないもの」がある境涯に生まれて、概して苦労の多かった子供時代だが、そんな中でも僕は『人生、なんかでっけえことやってやるぞ…!!』という野心は失わなかった。

 人一倍「純粋」で、「エネルギッシュ」で、「世間に毒されなかった」という意味で幸福な子供時代を送った僕は、大学1年の初恋による自己改革の後、『人生で、イエス・キリストのような聖者を目指したい。』という人生目標をかかげることによって、人生との格闘を始めることになる。(単純に言って、そりゃそうだ…、「世間一般の人間の在り方」に倣わないのだから、格闘することになるのは、考えてみれば当然である。)(*詳しくは、こちらをご覧頂きたい: 1.『今できる不食総括』 4~13番 2.(今できる不食総括の後の)『自称卒業論』 3.『こども時代』 20~22、33~36(精神的苦悩)、23~32(僕の個人的·人間的体験))

 

 生憎、そのような壮大な人生目標を掲げた中で、大学時代など僕が何を考えていたかということは、記録にほとんど残っていない。当時日記帳は付けていたが、確かそれは格闘の中で過去と決別するために捨ててしまったし、第一、僕は25歳で絶望から復活する迄、「自分の人生の記録など残さない。」という潔さがあった。だから、恐らく、当時の僕の思惑というのは、僕の中にしか残っていない。今日僕が、他人の話や、人生体験を聞くものなら、「かつての自分だったらどうした」、とか、「自分ならどうするか」、ということが掘り起こされるだろう。

 「劣情を、むやみに吐露はしたくない」という趣向もある。だから、その記録が全く残っていないから、「絶望した。」と言っても、その辛ささえ再現することはできない。

 否…、もしその辛さを文字やブログなどで残そうとするほどそれに力を与えてしまっていたなら、僕は当時『自制』を見失っていたかもしれない。自殺、もしくは、父親を病院送りなど、していたかもしれない。

 確かなことは、(2015年はこれ自体否定しようとしたが)、2007年12月には、(トルコ·イスタンブールで)まがいものではない神様の承認を得たと、「確認」したことである。それは、言い換えれば、自分の経験した絶望も、「浅はかなものではなかった(本物だった)」、ということだ。

 

 物事が、「偏見」や「私感」、「感情」などを交えずに真実を見極めているという厳正な確認は、当時の自分も絶対に大切にしていたことである。そのような姿勢を持って、「神様の承認」をもらったと確認したことは、確かなのだ。その確認の記憶だけは、心にしかととどめているために、絶望体験や、当時の幸福をしっかりと思い出せなくても、人生の布石として、大事にするのだ。。。

 




     ✵    ✵    ✵

 

『イスタンブールの歓喜』

(「神様の承認」 2007年12月、日本人宿ツリー・オブ・ライフにて。)

 


 ここでは、2007年10月下旬、運命的な出会いがあったセルビア・ヴォイヴォディナの農村、「ギバラツ」を去るところから話したい。(詳しい背景を知りたい方は、やはり先述の『今できる不食総括』(~13)をご覧下さい。)

 

 農村「ギバラツ」との出会いは、24で(もう、人生何もない…。)と思っていたところで不意にも起きた、「感動的な出会い」だった。この農村では、実に3ヶ月間足を止めるし、なにより、この出会いによって僕の放浪者として致命的であった「パスポート問題」は解決しているのだ。それだけでなく、内戦という戦禍を経て間もないセルビアの人が持っていた「純粋さ」、「熱さ」、そして「抱擁力」(僕という純外国人を、『同胞』のように受け入れる愛。)は、(人生がここでやり直せるかも…!)と思うほどのものだった。

 すべてが素晴らしく、未知の自然、風土、人々が、荒廃しきっていた僕の精神に滋養を与え、温もりを感じさせ、「25歳」でありながら、子供に戻ったかのようにセルビアを体験する自分がいたが、そこで放浪を終わりにするという選択肢(つまり、「定住する」。)は、自分には「想定外」だった。普通の生活をしたんでは、「不食思想」を探求できないという不利益もあった。

 思えば、この時の自分はまだ、「自分はこうしたい。」ではなく、「自分はこうしなければならない。」で動く、不自由な人間であった。僕は、自分の家族に、そのような人間に仕立て上げられていた…。

 

 ギバラツとの出会いが素晴らしいから、僕は、自分の気持ちをあまり顧みずに、かくまってくれた農家の主の信じがたい厚意に正しく答えることもできず、不本意にも「居座る」ことにした、そうして過ごしたギバラツでの3ヶ月だった。

 「ここ(ギバラツ)で人生やり直さないで、どこでやり直すのだ…?!」

 などと、昔ながらの「自分を鞭打つ自分」がいた。

 そのツケが、3ヶ月ほどで回ってきた。

 

 ある朝、僕は無断で農村を抜け出した。「放浪」を、続けるためである。

 不本意に村に居座ることに決めた自分は、時間の経過で、“不活発”になっていた。ギバラツに居座るだけの動機が、自分にはなかった。そして、そんな自分を主に見せることもできず、「やっぱり放浪を続けたい」と申し出る勇気も、自分にはなかった。残念がられたり、理解してもらえないことを、恐れて。。。

 

 

 そうして、放浪を再開した自分であったが、この時の気分は、実に暗かった。

 こう思っていた:

 (今度こそ、神様は許さないかもしれない…。あんなに素晴らしいギバラツとの出会いを、ほごにして…!)

 天罰が下ることも、覚悟した。

 変な連中が現れて、連れ去られることなども覚悟した。

 秋の深まるバルカン半島は、実にわびしく、冷たく、暗かった。

 

  

 放浪再開から1ヶ月くらいだろうか、暗い気持ちの放浪に一筋の光が差した。

 世界一周自転車ツーリスト、古川道則さんに出会い、イスタンブールの日本人宿「ツリー・オブ・ライフ」のことを聞くのだ。『日本人宿が、「管理人」を募集している。』、という!

 そして…、実際にイスタンブールで宿を訪ねてみると、管理人の見習いをさせてもらえることになる。(!!)

  

 セルビアの農村ギバラツとの出会いが素晴らしかったのは確かだが、あの時はまだ、沈み切った自分の心が持ち返すには足らなかった。ギバラツとの出会いは、(…ん?!まだ僕の人生に何かが起きているぞ…?!)と、不思議な思いにはなったが、絶望の感覚を払拭するほどのパワーはなかった。

 しかし…、この時は違う。(ここからが、2011年までのブログ(『今できる不食総括』)では控えている物語である。)

  

 日本人宿の管理人の見習いをさせてもらえることになり、アジア方面からイスタンブールにやってきたとあるバイカーのお兄さんと、狭く汚い宿のサロンでおしゃべりしている時である。

 たしか、僕はまだその宿の利用客(15~18名くらい)と打ち解けていない頃だった。

 (もう、日本と会うことはない。日本語を話すことも、ないかもしれない…。)そう思って、日本を出ていた自分にとって、この「日本人宿」という思わぬ日本との再会は、その言語能力的高みもあって、極めて刺激的だったのは疑いようがない。

 そのバイカーお兄さんが、身の上話をしてくれた時だった。その人は、お兄さんが自殺?してしまったか、縁が切れてしまったかで、ご家族とも連絡はなく、一人さびしく、何かを探し求めてアジアをはるばる渡ってきた人だった。

 

 にわかに、その人の辛さを僕は感じすぎて、(辛さが、心のひだに触れて)、僕は自分の感情が抑えきれなくなり、『号泣』した。

 大の大人が、見知らぬ旅人たちの前で、力強い声を上げて、泣いた。(この後日、一人パソコン室に座っていた時も、また涙した。)

 

 ≪「セルビア」という貴重な出会いを捨てた自分に、(まだ!)「イスタンブールの日本人宿」という出会いが、恵まれたっ!!!≫

 

 その事実が、僕にとっては、あまりにも大きなメッセージ性をはらんでいた。

 率直に、『神様の愛。』

 しかもそれは、自分が想定していたものと、まるで対局のものだった。自分は、セルビアを去った時、自分の行為は「神様に対する挑戦」だと、「許しがたいワガママ」だと、そう想定していた。だから、「天罰」をも覚悟していたのである。

 ところが、実際はその真逆であった。神様は、そんな自分にもまだ、人生で「GO!」サインをくれたのである!!(このようなチャンスを、恵んでくれるという形で。僕は、自分の人生に起きる展開が、「理解」できなかった…)

 

 その意味合いというものは、20歳頃からの人生のための決死の格闘、絶望、そして精神病を経ていた自分にとっては、更に深いところに達していた。日本人宿との出会いを恵んでくれた神様は、もはやこう言っていると僕は思った:


 『人生、何をやってもよい!何でもできる!最悪、遊んで暮らしてもよい!「天国行き」は決まりだ…!』 

              -「神様の承認」。2007年12月、享年25歳。


 余生は、誰に縛られるともなく、好きなことをやっていい。何でもできる。(…)

 「絶望」の果てに祖国を捨て、自分の知り得た諸外国も捨て、あてもなく未知の世界、外国へと、徒歩、この身一つで漕ぎ出していく…、という体験が、どんな劇的な精神·霊的体験へとつながり得るか、あなたに想像できるだろうか?

 「よいお給料」、「きれいで快適なオフィス」、「一般的な海外旅行」、「レジャー」、「美食」、「ライブ・コンサート」などを易々人生だと決め込んでいるような人間には、おそらくこの価値は見えないであろう。

 

 

                    ≪おわり≫


 

 


2025年4月10日木曜日

僕の『東日本大震災』。

(編集日: 2025年(令和7年)4月9日)



 こんにちは。

 (Facebookやインスタグラムでは以前から少し発表していたが)昨年(2024年)10月に、ここで『3.11と僕の呪』ということに言及してから、月日は延びて、今日になってしまった。僕はあと20日ほどで、6年6ヶ月ぶりに「放浪生活」へと戻るが、(最近の生活については詳しくはインスタグラムやYouTubeをご覧頂きたい)、携帯や、電気が使える内にできる限り「自己発信」をしておきたいと思う。

 

 さて、『3.11(東日本大震災)と僕の呪。』ということだが、実に、ブログでは何も大したことはなかったかのように終わっている22ヶ月間の『日本無銭放浪』は、最後に、人生で1番か2番目にインパクト(印象)の強い出来事を体験している。共に、2011年までのブログでは隠していたこれ、と、2007年12月の『イスタンブールの歓喜』である。

 

 『東日本大震災』(2011年3月11日)は、長年の正義の探求の末に僕が放った『呪』と、重なった。長年の沈黙を破って、「ありのままの自分を出そう!」と決意した10日かそれくらい後に、不純な青年を前に放った『怒りの呪』(「恐怖はやってくる」)が、2週間後の母の誕生日(3月11日)にまさに実現した。

 その出来事の全貌を、ここで公開する:

 

  

 絶望し、命からがらヨーロッパに渡って始まった『無銭放浪』だったが、2年間のヨーロッパを経て始まった日本の放浪は、実に詰まらないものだった。「日本」は、知っている国だし、パスポートだけでは他国に行けないし、冒険心も掻き立てられない。だけど、先述の『イスタンブールの歓喜』(後日発表します)で絶望を克服し、元気になっていた自分は、その「余生はどう生きてもいい。」というメッセージもあって、家族と触れ合うために、日本で時間を取ったのだった。一つ、「これがやりたかった」ということがこの放浪であるとすれば、それは、コンビニの、『ゴミ漁り』だった。子供の頃に、普通のものが食べられなかった飢餓を抱えていた僕にとって、罪深くも食べ物を大量廃棄しているコンビニエンスストアは、格好の獲物だったのだ。

 しかし、自分は、日本で絶望した身。

 「絶望の理由は100%他者。」と言いたいくらいかつて世間一般人に憎しみを溜めていた僕は、日本の放浪ではほとんど出会いを期待しなかった。増して、自分には『イスタンブールの歓喜』直後に開いていた霊的な目(瞬間掌握力)で、人間の「邪気」や「闇」が、人目で分かっちゃうのであった。それがない自分は、そんな人間どもには触れたくもなかった。

 

 ところが、『日本無銭放浪』も「15ヶ月」と時間が経ち、深まってくると、放浪自体にある虚無感をどうにかしなければと、思うようになった。2011年が明けたか、それくらいの頃である。(ドイツバイエルン州での不食9日間に次ぐ、更なる不食体験か?)…などと思っていたが、否、それから僕のしたことは、きっと正しかった。

 

 ここにも揚げているが、2011年2月17日、愛媛県大洲市で、池田さんという女性会社員が僕に、5000円という大きなカンパをくれる。それで、僕は動き出すことにする。 

 (もう、人を避けてなんかいてはダメだ!!ありのままの自分を打ち出していこう!)

 

 そのカンパで僕は、久しくインターネット·カフェに入り、メールなどチェックした。

 その中で、一昨年岐阜辺りで出会い、お蕎麦をおごってもらい、その後確か彼の地元でも会った三重県津市の「堀友則さん」(1コ上)から連絡が入っていた。

 「僕と一緒に、旅をしたい」という。

 早速僕はそれに応じ、僕らは「岡山県倉敷」で落ち合うことになった。

 しかし、僕が本当の意味で自分を打ち出すのは、この堀君の前でではなかった…。

 

 推定の2月27日、僕は「しまなみ海道」因島、大橋記念公園というところで寝支度を整えた。

 そこに、日も落ちてから一人の青年が現れた。川村達哉(21)、理数系大学の3年生である。大学の休みを使って、一人で、自転車旅をしていた…。

 僕がテントを張っている公園に、ひっそりと現れたので、新しい意識でいる僕は、打って変わってこの青年に積極的になった。

 親切に、自分から、

 「キャンプ?良かったら君もこちらを使いなよ。こちらが一番風雨に守られるよ。」

 と、自分がテントを構えている屋根付きのイベントステージを勧めてあげた。

 

 そうして始まった僕と川村青年の交流だったが、この青年が、どんな施しであったかもう覚えていないが、僕の施した親切に対して、一向に心を開かなかった。

 臆病な彼は、親切な「ホームレス」がついていてくれるから安心な夜だが、「ホームレス」にも、僕がしてあげた「絶望の挙げ句歩んだトルコ・イスタンブールまでの2500km」にも興味はなく、ややもすると僕のことを基本的に見下していないかと思われる節すらあった。

 これに対して僕は、「怒り」を覚えた。

 

 翌朝、別れ際に僕は、彼には言っていないが、見抜いていた彼の『臆病心』に関して、それを克服できるスピリチュアルなメッセージを書いてあげようと思い立ち、5分だけ時間をもらった。

 即興の、パワフルな手紙、である。

 

 即興なので、悩んでいる時間がないが、手紙の内容はともかく、僕は、題に迷った。

 「臆病心」には、必ず、怖いことがつきまとってくる。その、怖いことがやってくるということを、まず明示しなければならなかったが、それが、いいものが見つからなかった。

 怖いものはやって来る?

 それとも、

 恐怖はやって来る?

 

 前者なら、手紙は、丁重に川村青年に寄り添ったものとなる。しかし、僕はそうしなかった。後者を、選んだ。なぜか。

 僕の中に、川村青年に対して「怒り」があったからだ。

 

 それから約2週間後、僕の母の誕生日に、『東日本大震災』は起きた。

 まさに、『恐怖はやって来た』。(!)

 

 僕と、この震災のリンクを示す、他の客観的事実:

 (*「恐怖はやってくる。」という題名の手紙を、「川村達哉」という名前の人間に、確かな動機付けによって書いていることもそうだが、他にも、以下の2つの客観的事実がある。)

 

 1. 呪の手紙を書いた場所の名前:

    → しまなみ海道 島 大橋記念公園。

      (*下線部に、特にこの震災とのつながりを感じさせられる。以下のようにも捉えられる:

      『(海)が動(道)いて、福島(しま)に波(なみ)が押し寄せる。その、原因(因)となった島。念を記した(記念)公園。』)

 

 2. 2011年2月27日当時、僕が旅でやろうとしていたことは?:

    → 三重県 市 出身の、 友則 さん と、倉敷 で落ち合う。

      (*3.11は、言ってみたら3と1が重なっている。(三重)や、津市は津波の「津」。。。などから、こんな文章を作ることができる。(2024年発覚)

      『三重(3.11)に、津波(津)が、海溝(堀)で、智裕(友)に(則)する、テントを敷いた場所(倉敷)で。』)

 

 

 ≪以上。≫

2025年4月9日水曜日

≪重要≫2025年3月の思惑。〈第3弾〉(インスタグラムより。)

 こんにちは。

 

 今日は、「インスタグラム」には揚げていて(先月24日)、YouTubeや、ここでは揚げられていなかった重大な印象を公開します。

 今年に入ってから、まず一番訴えたい内容であることは間違いありません。『2025年3月の思惑。』(一本目)の最初の2~3の印象も大事ですが、これは、その上をゆく印象です。

 


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(3/12、SGフィルダーの面接予約で、ヤな思いをした次の日の出来事。) 

『重大な、過去の発掘』




3.13 

 俺はかつて、神様とだけ話をしていた…。

 親や兄妹や、社会全体に離されても、恨み一つ、晴らさなかった。

 彼らを赦し、憎しみを乗り越える為、自らを日本から追放した。自分の憎しみや、格闘の足跡すら、残そうとしなかった。(!!!)

 僕は2007年1月、文字通り「跡形もなく」、「霧のように」日本を去っている。

 文字通り、『人生を捨てた』のだ。


 …心の誠を、『純潔』を、全うするために。

 そのためには、自分の普通に考えて(普通の感覚からして)吐いても全然いいような「文句」、「罵詈雑言」、「攻撃」も、吐かずに、世界に消えたのである。

 

 『目には目を。歯には歯を。』の原理でいけば、当然返してよい報復を、俺は、一切せずに消えたのである。(参考: イエスの言葉『汝の敵を愛せ。』)

 それが一度、できてしまったような人間が、またできないとでも思う?逆に、そんなことができてしまった人間だからこそ、神様は、僕に「地震」という神通力を授けてくれたのかもしれない。

  

 ≪生気盛んな、有望な若者が、24歳で『人生を諦める』という苦しみが、あなたに分かるか?

 俺は、それを苦しみ抜いて、『生き返った』、『生まれ変わった』、そんな人間なのである。≫

 


 再確認:

 「俺は昔も、“怒りを吐かずに”、世界から消えていった男。」(2007.1)(その先に、「東日本大震災」がある。)

 そうするのが、人間とのそういう向き合い方が、俺という人間の「スタイル」なのかもしれない。。。

 

 

3.16

 複雑な世の中の事象の中(人間界)で、自分の中で「イエス様」を貫こうと思えば、俺は、『一人』になっていくしかなかった。(2006年)

 

3.17

『僕は、「結論」、しかも、すごい究極的な結論に到達するのが、むちゃくちゃ早い。

 僕があっという間にエベレストの頂上のような結論に達するとすれば、凡人は1500m、2000mの頂上のような結論を得るだけで、大喜びしている。』#####

 (僕の瞑想能力の賜物。精神世界の大きさ。多分、若かりし頃の不屈の思索·瞑想(「人生探求」)がこれをもたらした。)

 

≪最重要≫ (痛快な気付き)

 『誰も、俺のことなど信じない。信じられない。

 - 「発掘」。たしか、かつてこんな悟りがあった。でも俺は、だからって信念は諦めなかった。一人、「突き進んで」いった。

 cf. 『みんな、俺の純真さが、「真心」が、「優しさ」が、分からない、見えない!』

 イスタンブールの歓喜という霊的体験の価値と、それがもたらした僕の人間的な力。実力。

 

 

『俺のような純潔人間は、世の中にいない。』

 - 24歳、絶望時、たしかこんな結論を僕は出している。

 いるのかもしれないけど、絶望までに出会えた人の中でそういう人は、一人もいなかった。

 

 

                  〈終わり〉

2025年4月5日土曜日

「精神病院」に入れさせられる切っ掛けとなった事件 〈2018年10月〉

 こんにちは。(^_^)

 

 今日は、『なぜ僕が精神病院に入らなければならなかったか』について、公開したいと思います。

 以下に、2023年(令和5年)3月、退院2ヶ月前に書いて、主治医に渡した入院することになった『事件』の、弁明を公開致します。

 当時は、救世主宣言失敗の混乱(「8年間」)からは目覚めていたものの、まだ入院中であり、精神の目覚めの程度も、日本語もまだまだでした。

 でも、「事件全体」を捉えることはでき、それは、十分に本質を突いていると思います。ここには、当時の担当の看護師が聞いて、びっくりした事実も含まれています。

 重要な発表です。(^^)

 

 

 


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 『平成30年10月21日のこと』 -入院することになった事件の弁明兼考察-

                  令和5年3月19日

 

 平成30年10月21日、私は泊まっていた産婦人科の廃墟を朝7時頃眼鏡屋さんに向けて出発した。数キロ歩いて自分が通っていた小学校の正面にあるコンビニに、コーヒーを飲みに入った。そこにはイートイン席に一人のおじいさんがいて、正面の小学校には子供会の催しで大勢の人が集まっていた。(何があるのだろう?)という疑問をおじいさんと共有したかった自分は、「何があるのでしょうね。」とおじいさんに声を掛けた。

 それにおじいさんが「子供会の運動会がある」ということを教えてくれた。その他にも一言二言言葉を交わした気がするが、よく覚えていない。ともかく短かったがそこには自分とおじいさんの間に和やかな交流があった。

 その後、自分は眼鏡屋の開店時間まで時間を潰す為、学校近くの公園で休憩した。まただったか、今度は缶のコーヒーを買いに近くの売店に出た時である。コーヒーを買って交差点に着くと、さっきのおじいさんが現れた。(あ、さっきの人だ。)と思って「僕はあの小学校に通っていたんです。」とおじいさんに言った。話がしたかったのである。

 ところが、そのおじいさんはさっきは話したにも関わらず僕のことを無視した。納得できないので言葉を掛け続けると、信号が青に変わるやそのおじいさんは逃げるように横断歩道を渡っていった。そしておじいさんが僕をかわそうとした直後に交差点の反対側から大きなせき払いが聞こえた。そのせきをした女性2人組(せきをしたのはそのうちの1人)とすれ違ってしばらくすると、そのせき払いの意味に意識が向いた。

 自分の中で、ヨーロッパに行って久しく忘れていた日本人の“締め出し文化”に意識が及んだのである。人は、その場にいる望ましくない人物に対して「せき払い」によって警告というか、不快な思いを当人に対して伝えるということをする。「見ているぞ。」とか「やめろ。」という言外のメッセージである。

 無視されてもおじいさんと絡もうとした自分の行動の訳を、女性は知らない。知らない女性は、そんな自分の行動をはたから見て不快に思ってせき払いしたのかもしれない…。そう予感したのである。

 女性とすれ違って20秒ほど行くや、そのこと(締め出し行為)に意識が及んで、女性らを追いかけて行った。

 「さっきのせきはなんだ!!!

 女性らが行く先方に道路を渡って回り、ガードレールを飛び越えると、怒りを女性らにぶつけた。

 しかし、女性たちは反応しない。こちらが明らかに怒っているにもかかわらず、女性達は訳を説明せず自分のことを無視した。

 「2000円を出せ!

 慰謝料として金銭を要求した。しかし、これにも女性は無視し、僕から逃げようとした。そんな瞬間、私は年配の女性を蹴った。でも、女性は逃げていたのでまともに当たらなかった。女性は散れぢれになって逃げた。追いかけて更に暴力を振るう気はせず、だが、私は、

 「警察を呼べ!!!

 と大声で言った。近くにあった団地の一ドアをたたいて通報をお願いした。そんなことをしているうちに女性は二人ともどこかへ隠れてしまい、私だけが現場に残り、警察の到着を待った。

 

 警察が来るや、警官たちはパトカーを飛び出して僕の前と後ろからはさむようにしてやってきた。

 私は状況を説明した。繰り返し繰り返し、今思えば心もとない(にぶった)日本語で警察の説得を試みた。

 警察は女性らの言い分も聞き出して、僕に、

 「蹴ったんだろ?

 と言って手錠を掛けたがった。何度言っても分かってもらえないので、私はこう切り出した。

 「ここで話すのも疲れるから、署に行って話しましょう。

 これに対してどこからか

 「(それで)いいんじゃないですか。」 という声がした。

 つまり、署に行って事情を聞くということで了解してもらったのだが、手錠を掛けたがるので、(仕方がないなぁ。)と思って私は自分の手を差し出した。

 

 署に着くや、始まったのは担当の者による「弁護士がどうのこうの…」という話だった。話が違う。猛反発をして、説得を試みたが、一時は10人位警官が集まったが通じない為、私はとうとう折れた。留置場に入る際の身体の取り調べに移った。

 

 これが、拘束された経緯である。

 聴聞に当たった検察官も僕の言い分は理解せず、

 「精神科医に会ってもらえますか?

 と言った。そうして、11月の8日、神奈川県寒川町にある「K病院」に連れていかれた。精神科医は私に精神疾患を疑った。

 

 

 K病院の担当医によれば、私は女性のせき払いの際、統合失調症の“被害妄想”なるものを抱いたと診断している。

 しかし、それは違う。

 私は若い頃日本で、よく“締め出し文化”を体験していた締め出し文化とは、ある場所にいる望ましくない人物や弱者を排除する文化である。

 公の人間の他者を見る目はおおよそ「温かい」とは言えない。温かくないどころか、そこには軽蔑·嘲笑·嫉妬·敵意などあまたの低俗な心理が蔓延している。公の場に対する人の目は冷徹で遺憾を禁じえない。公の場での人の振る舞いは冷酷に監視されているのである。

 “空気を読む”精神文化を持つ日本人は、他者の目に気を配り自分の行動にも細心の注意を払っている。特に場を支配している空気というものを日本人は敏感に感じ取る。「言葉」ではない、言外のコミュニケーションだ。

 そんな日本人にとって「せき払い」は不快を表す最も手っ取り早い手段だ。生理的にせきを催すのではなく、注意を喚起するために「せき」をするのだ。

 また、せきは場から望ましくない人間、弱者などを排除する(締め出す)目的でも使われる。空気を読むことを仕込まれている日本人は、せきをされると勝手なことはできなくなる。せきによって彼らに「社会の目の冷たさ」を戒めるのだ。せきは人間をその場から追い出す。

 

 

 人間社会を、理想の共存共栄の観点から見た時、締め出し文化は「悪」である。いかに締め出し文化が人を陥れるか。なぜ社会には「ひきこもり」がなくならないのか。私は老女のせきの際、この締め出し文化を疑ったのだった。老女もせきくらいでは反撃されないと思っていたかもしれない。

 聞いた話では、老女は「因縁をつけられ、蹴られた」と説明したという。ではなぜ私がはじめ怒りを込めて問い詰めたにも関わらず「無視」をしたのだ?老女が「無視をした」から私は彼女を蹴ったのです。私は、誰よりも先に自分が警察を呼んでいるのだが、警察は私の道理を理解すると思っていた。締め出し文化が悪である、ということと、“自分が”警察を呼んだ理由と。

 ところが、警察は「蹴った」という一事実だけを見てそれを「暴行」と見なし、私を逮捕した。私の説明を理解しなかった検察官は、私の精神を疑い、精神科医に精神鑑定を依頼し、それが統合失調症の被害妄想という診断結果を持ち出してきた。

 私は老女のせきの際、被害の妄想を抱いたのではなく、上述したように「締め出し文化」という“具体的な事象”を取り上げ問い正そうとしたのである。(警察の力を借りて。)妄想とは、国語辞典によれば、「根拠のない不合理なことを事実と確信し、いくら訂正しても承知しない状態」である。私には、せきに目を向けた明確な理由(根拠)があった。

 妄想ではないのだ。

  

 また、余談だが、根本的な疑問として、警察は、いかなる理由があろうとも手を出した時点で本人を犯罪者とするほど「無能」なのか?

 「暴行」とは一般に、まぶたに青あざができるほど殴るとか、あばら骨が折れるほど人を何かでたたくということである。私は、老女の後部を足がかすめたくらいで手を止め、警察を呼んだ。そして、正義の判断を警察に委ねたのである。これは、“手を出したら、それがいかに軽くても負け”という正義の判断の際の法律の『死角』を浮き彫りにしている。

 もしそういう事情を酌量することができないのであれば、警察が犯罪者にあざむかれるという現実はまぬがれることはできない。なぜなら、警察が正義ではないからである。思うのは、警察は変なタイミングでせきをした女性に「謝らせる」という対応はできなかったのか?ということだ。警察に正義を期待した自分がバカを見たのである。

 

 

 話を元に戻す。

 こういう私にも今回の事件に対する非がまったくないとは言えない。1つ目の非は、事件当時私の日本語はヨーロッパ上がりでにぶっていた、ということである。日本語のにぶりのせいで、警察、そして検察を前に「締め出し文化」や状況の正確な説明が十分にできなかった可能性がある。4年半ヨーロッパに専心したことで、日本のことも忘れていた。そしてもう一つの非は、それ自体事件の自分の正当性を削ぐことにはならないが、事件当時「自分の精神が慢性的に混乱していた」ということである。事件の数年前、ヨーロッパで『救世主』を目指したのだが、それに失敗した時にたいへんな混乱に見舞われた。その時、いくら考えても解決できない何かの問題に遭遇し、そのことに完全に頭が奪われて、回りのことさえ見えなくなっていた…。父に連れられてドイツを去るまで、来る日も来る日もその問題の解決策(だけ)を探して考え込む1年数カ月を過ごした。それは、ごく最近、2022年11月に元の元気で活発な精神状態を思い出す迄の、実に8年間の精神の「混乱」というか「もうろう状態」である。

 なぜそうなってしまったのかということは今日でも思案するがよく分かっていない。ともかく、世界に向けて救世主を名乗り、「神」を目指した中で、人間的な限界というものにぶつかって、それまで築いてきたものが崩れ去り、根本的な自己否定に見舞われた、という気がする。この混乱に見舞われていなければ、たとえば、「せき」くらいで警察を呼ぶということはしなかったかもしれない…。また、去る「K病院」では、この混乱のせいで主治医に事件の弁明ということもできなかった。

 以上述べた2つの非が事件当時警察や検察を前に“精神を疑わせる”何かを醸し出していたかもしれない。ここで言っておきたいのは、2つ目の非、精神的混乱は「統合失調症」ではないということである。目指したテーマの大きさがもたらした混乱だったと思う。私は病院に入院したその日から、4年5ヶ月、一度も荒れたことはない。幻聴や幻覚、妄想などもない。

 

 


                  (おわり)

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≪今日の考察≫

 文字一つひとつをタイピングして思ったことは、思っていたより「自分の悔しさがちゃんと、しっかり打ち出されている」、ということである。(「物事の道理」というものを忘れてしまっていた自分は、書いていた2年前は自分の正当性に確固たる自信が持てなかったのだが…🙂)

 特に、交差点でおじいさんに無視された時は。

 …しかし、『子供会』が母校で運動会を催すなんていう見当は、ヨーロッパに行った僕は、おおよそ付くものではなかった。その無知は、おじいさんを前に怪しく映ったかもしれない。

 自分の格好も、どことなくうす汚かったと思うし。

 『僕はあの小学校に通っていたんです。』という、おじいさんを前にした『カミング·アウト』も、皮肉にもおじいさんには「大嘘」だと聞こえていたかもしれない…。😭

  

 当時僕に必要だったのは、「日本語」や、完全と言ってもいいほど忘れてしまった日本人に関する「知識」を取り戻すために、日本の人々に触れることだったのだが、不幸なことにその前年、「仕事」が続けられなくなったことで、実家にもおれなくなり、「身内」という、最も接触しやすい人々も、自分の生活環境から奪われてしまったのだった。

 なにげに、「精神の混乱」も続いていた…。

 しかし、ヨーロッパでなんとか『鎮静化』に成功した、救世主としての強烈なプライドも、自分を易易と引っ込ませはしなかった…。

 もう、『トラブル』と、それによる学習というプロセスは、当時既に“不可避”であったのかもしれない。

 もっとも、それによってまったく刺激のない病院で、相手も上手とは言えない日本人女性の精神科医の元で、「3年数カ月」を送ることになるのだが…。

 もう、言ってしまうが、『救世主宣言2013』の失敗の感覚(と、それにつきまとった罪悪感等)は、恐らく、一旦『忘れる』しかなかった。“忘れて”、新しい意識を生きることで、僕は生まれ変わるしかなかった。

 

 そうして《新しい意識》を生きる中で、「人」(日本人)と接し、その場数をこなすことで僕は、『自分』を取り戻していった。あれから「2年」は経ち、まだ完全ではないが、どこかでは、2011年に日本を捨てた自分に舞い戻るのではなく、「救世主宣言」と「混乱」を経た自分は、「更に強くなっている」、そんな気がしている。 

 

                 (おわり)