(編集日: 2025年(令和7年)4月9日)
こんにちは。
(Facebookやインスタグラムでは以前から少し発表していたが)昨年(2024年)10月に、ここで『3.11と僕の呪』ということに言及してから、月日は延びて、今日になってしまった。僕はあと20日ほどで、6年6ヶ月ぶりに「放浪生活」へと戻るが、(最近の生活については詳しくはインスタグラムやYouTubeをご覧頂きたい)、携帯や、電気が使える内にできる限り「自己発信」をしておきたいと思う。
さて、『3.11(東日本大震災)と僕の呪。』ということだが、実に、ブログでは何も大したことはなかったかのように終わっている22ヶ月間の『日本無銭放浪』は、最後に、人生で1番か2番目にインパクト(印象)の強い出来事を体験している。共に、2011年までのブログでは隠していたこれ、と、2007年12月の『イスタンブールの歓喜』である。
『東日本大震災』(2011年3月11日)は、長年の正義の探求の末に僕が放った『呪』と、重なった。長年の沈黙を破って、「ありのままの自分を出そう!」と決意した10日かそれくらい後に、不純な青年を前に放った『怒りの呪』(「恐怖はやってくる」)が、2週間後の母の誕生日(3月11日)にまさに実現した。
その出来事の全貌を、ここで公開する:
絶望し、命からがらヨーロッパに渡って始まった『無銭放浪』だったが、2年間のヨーロッパを経て始まった日本の放浪は、実に詰まらないものだった。「日本」は、知っている国だし、パスポートだけでは他国に行けないし、冒険心も掻き立てられない。だけど、先述の『イスタンブールの歓喜』(後日発表します)で絶望を克服し、元気になっていた自分は、その「余生はどう生きてもいい。」というメッセージもあって、家族と触れ合うために、日本で時間を取ったのだった。一つ、「これがやりたかった」ということがこの放浪であるとすれば、それは、コンビニの、『ゴミ漁り』だった。子供の頃に、普通のものが食べられなかった飢餓を抱えていた僕にとって、罪深くも食べ物を大量廃棄しているコンビニエンスストアは、格好の獲物だったのだ。
しかし、自分は、日本で絶望した身。
「絶望の理由は100%他者。」と言いたいくらいかつて世間一般人に憎しみを溜めていた僕は、日本の放浪ではほとんど出会いを期待しなかった。増して、自分には『イスタンブールの歓喜』直後に開いていた霊的な目(瞬間掌握力)で、人間の「邪気」や「闇」が、人目で分かっちゃうのであった。それがない自分は、そんな人間どもには触れたくもなかった。
ところが、『日本無銭放浪』も「15ヶ月」と時間が経ち、深まってくると、放浪自体にある虚無感をどうにかしなければと、思うようになった。2011年が明けたか、それくらいの頃である。(ドイツバイエルン州での不食9日間に次ぐ、更なる不食体験か?)…などと思っていたが、否、それから僕のしたことは、きっと正しかった。
ここにも揚げているが、2011年2月17日、愛媛県大洲市で、池田さんという女性会社員が僕に、5000円という大きなカンパをくれる。それで、僕は動き出すことにする。
(もう、人を避けてなんかいてはダメだ!!ありのままの自分を打ち出していこう!)
そのカンパで僕は、久しくインターネット·カフェに入り、メールなどチェックした。
その中で、一昨年岐阜辺りで出会い、お蕎麦をおごってもらい、その後確か彼の地元でも会った三重県津市の「堀友則さん」(1コ上)から連絡が入っていた。
「僕と一緒に、旅をしたい」という。
早速僕はそれに応じ、僕らは「岡山県倉敷」で落ち合うことになった。
しかし、僕が本当の意味で自分を打ち出すのは、この堀君の前でではなかった…。
推定の2月27日、僕は「しまなみ海道」因島、大橋記念公園というところで寝支度を整えた。
そこに、日も落ちてから一人の青年が現れた。川村達哉(21)、理数系大学の3年生である。大学の休みを使って、一人で、自転車旅をしていた…。
僕がテントを張っている公園に、ひっそりと現れたので、新しい意識でいる僕は、打って変わってこの青年に積極的になった。
親切に、自分から、
「キャンプ?良かったら君もこちらを使いなよ。こちらが一番風雨に守られるよ。」
と、自分がテントを構えている屋根付きのイベントステージを勧めてあげた。
そうして始まった僕と川村青年の交流だったが、この青年が、どんな施しであったかもう覚えていないが、僕の施した親切に対して、一向に心を開かなかった。
臆病な彼は、親切な「ホームレス」がついていてくれるから安心な夜だが、「ホームレス」にも、僕がしてあげた「絶望の挙げ句歩んだトルコ・イスタンブールまでの2500km」にも興味はなく、ややもすると僕のことを基本的に見下していないかと思われる節すらあった。
これに対して僕は、「怒り」を覚えた。
翌朝、別れ際に僕は、彼には言っていないが、見抜いていた彼の『臆病心』に関して、それを克服できるスピリチュアルなメッセージを書いてあげようと思い立ち、5分だけ時間をもらった。
即興の、パワフルな手紙、である。
即興なので、悩んでいる時間がないが、手紙の内容はともかく、僕は、題に迷った。
「臆病心」には、必ず、怖いことがつきまとってくる。その、怖いことがやってくるということを、まず明示しなければならなかったが、それが、いいものが見つからなかった。
怖いものはやって来る?
それとも、
恐怖はやって来る?
前者なら、手紙は、丁重に川村青年に寄り添ったものとなる。しかし、僕はそうしなかった。後者を、選んだ。なぜか。
僕の中に、川村青年に対して「怒り」があったからだ。
それから約2週間後、僕の母の誕生日に、『東日本大震災』は起きた。
まさに、『恐怖はやって来た』。(!)
僕と、この震災のリンクを示す、他の客観的事実:
(*「恐怖はやってくる。」という題名の手紙を、「川村達哉」という名前の人間に、確かな動機付けによって書いていることもそうだが、他にも、以下の2つの客観的事実がある。)
1. 呪の手紙を書いた場所の名前:
→ しまなみ海道 因島 大橋記念公園。
(*下線部に、特にこの震災とのつながりを感じさせられる。以下のようにも捉えられる:
『(海)が動(道)いて、福島(しま)に波(なみ)が押し寄せる。その、原因(因)となった島。念を記した(記念)公園。』)
2. 2011年2月27日当時、僕が旅でやろうとしていたことは?:
→ 三重県 津市 出身の、堀 友則 さん と、倉敷 で落ち合う。
(*3.11は、言ってみたら3と1が重なっている。(三重)や、津市は津波の「津」。。。などから、こんな文章を作ることができる。(2024年発覚)
『三重(3.11)に、津波(津)が、海溝(堀)で、智裕(友)に(則)する、テントを敷いた場所(倉敷)で。』)
≪以上。≫
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