2025年4月11日金曜日

『イスタンブールの歓喜』(「神様の承認」 2007.12)

 まえがき

 

 こんにちは。

 2011年まではここで伏せていた、僕の人生で最も重大な出来事である『イスタンブールの歓喜』(2007.12)と『3.11と僕の呪』だが、後者はこれまで幾度か語ってきたのに対して、前者はFacebook(2015年秋?)を除いて、ほとんど語ったことがない。だから、“精神的に”一体どんな体験であったのかを振り返るのは、これが初めての試みと言ってもいいかもしれない。2015年秋、ベルリンで、救世主宣言の失敗によって、体も頭も文字通り「パンク」してしまっていた自分には、まともな話などできなかった気がする。

 

 しかし、一つ言っておかなければならないことがある:

 僕はドイツのUlmで発表した『救世主宣言2013』(Facebook)に失敗した時、自分や人間のことを丸々忘れてしまうというハプニングにも見舞われた。多分に、「日本の家族」、祖国「日本」、はたまた「日本人であること」も捨ててヨーロッパに行っていたからだ。救世主宣言という猛烈な探求だけでなく、そこには、様々な要因が重なって、一度“全崩壊”し、8年間という間、精神が眠りに就いたのだった。

 つまり、今日の僕には、SNSなどでも言っているが、20代の記憶や、日本人に関する知識が、失われているのだ。(不思議なもので、頭が、完全に忘却してしまっても、病室でもない「社会」で生活していくことで、『体が』憶えているようで、そのお陰で僕は精神病院から退院してからの2年間、『自分』を取り戻すことに、ずっと成功してきている。)

 だから、生憎、『イスタンブールの歓喜』という重大な人生体験においても、当時の自分というものをもう鮮明には覚えていない、そんな自分がいる。更に悪いことには、僕は、『救世主宣言』に失敗して、罪悪感に見舞われた時、自分を絶望から救い、それまで8年間かそれくらい自分を鼓舞し続けたこの霊的な体験自体を、一度“否定”している。

 

 しかし、今日の結論から言うと、「神様の承認」をもらったと思ったほどの、相応な「バックグラウンド」を経ての僕のこの霊的体験は、そう簡単には取り下げられない。いくら、当時の自分を、今は忘れてしまっているとしても。

 例えば、退院から2年間、「自分」を取り戻してきた中で、人で、嫌な思いをするとする。それが、“自分は絶対にやらない”、他人だけ、つまり昔自分が絶望したほどに嫌いになった「世間一般人」の所業として、それを再体験する時、僕は、自分にとっての過去の絶望体験の正当性を感じさせられるのだ。それは、詰まるところ、『イスタンブールの歓喜』の正当性ということにつながってゆく。。。

 つまり、これから僕が再び無銭放浪者として積んでいく世界体験が、まだまだこれから、「本当の自分」を掘り当てる足がかりとなると思うのだ。そして…、もし、人間の世界の質が僕がそこを去った18年前とさして変わらないようなら、僕はもう、そんな“下らない世界”には負けていられない。堂々と、ありのままの自分を突き出していく、そういうことに、なる気がしている。

 

 


 さて、そんな訳で、うろ覚えではあるが、「神様の承認」を得たと思ったほどの僕の霊的体験を、発表したいと思う。

 

 子供時代、「人にあるもの」がなくて、「人にないもの」がある境涯に生まれて、概して苦労の多かった子供時代だが、そんな中でも僕は『人生、なんかでっけえことやってやるぞ…!!』という野心は失わなかった。

 人一倍「純粋」で、「エネルギッシュ」で、「世間に毒されなかった」という意味で幸福な子供時代を送った僕は、大学1年の初恋による自己改革の後、『人生で、イエス・キリストのような聖者を目指したい。』という人生目標をかかげることによって、人生との格闘を始めることになる。(単純に言って、そりゃそうだ…、「世間一般の人間の在り方」に倣わないのだから、格闘することになるのは、考えてみれば当然である。)(*詳しくは、こちらをご覧頂きたい: 1.『今できる不食総括』 4~13番 2.(今できる不食総括の後の)『自称卒業論』 3.『こども時代』 20~22、33~36(精神的苦悩)、23~32(僕の個人的·人間的体験))

 

 生憎、そのような壮大な人生目標を掲げた中で、大学時代など僕が何を考えていたかということは、記録にほとんど残っていない。当時日記帳は付けていたが、確かそれは格闘の中で過去と決別するために捨ててしまったし、第一、僕は25歳で絶望から復活する迄、「自分の人生の記録など残さない。」という潔さがあった。だから、恐らく、当時の僕の思惑というのは、僕の中にしか残っていない。今日僕が、他人の話や、人生体験を聞くものなら、「かつての自分だったらどうした」、とか、「自分ならどうするか」、ということが掘り起こされるだろう。

 「劣情を、むやみに吐露はしたくない」という趣向もある。だから、その記録が全く残っていないから、「絶望した。」と言っても、その辛ささえ再現することはできない。

 否…、もしその辛さを文字やブログなどで残そうとするほどそれに力を与えてしまっていたなら、僕は当時『自制』を見失っていたかもしれない。自殺、もしくは、父親を病院送りなど、していたかもしれない。

 確かなことは、(2015年はこれ自体否定しようとしたが)、2007年12月には、(トルコ·イスタンブールで)まがいものではない神様の承認を得たと、「確認」したことである。それは、言い換えれば、自分の経験した絶望も、「浅はかなものではなかった(本物だった)」、ということだ。

 

 物事が、「偏見」や「私感」、「感情」などを交えずに真実を見極めているという厳正な確認は、当時の自分も絶対に大切にしていたことである。そのような姿勢を持って、「神様の承認」をもらったと確認したことは、確かなのだ。その確認の記憶だけは、心にしかととどめているために、絶望体験や、当時の幸福をしっかりと思い出せなくても、人生の布石として、大事にするのだ。。。

 




     ✵    ✵    ✵

 

『イスタンブールの歓喜』

(「神様の承認」 2007年12月、日本人宿ツリー・オブ・ライフにて。)

 


 ここでは、2007年10月下旬、運命的な出会いがあったセルビア・ヴォイヴォディナの農村、「ギバラツ」を去るところから話したい。(詳しい背景を知りたい方は、やはり先述の『今できる不食総括』(~13)をご覧下さい。)

 

 農村「ギバラツ」との出会いは、24で(もう、人生何もない…。)と思っていたところで不意にも起きた、「感動的な出会い」だった。この農村では、実に3ヶ月間足を止めるし、なにより、この出会いによって僕の放浪者として致命的であった「パスポート問題」は解決しているのだ。それだけでなく、内戦という戦禍を経て間もないセルビアの人が持っていた「純粋さ」、「熱さ」、そして「抱擁力」(僕という純外国人を、『同胞』のように受け入れる愛。)は、(人生がここでやり直せるかも…!)と思うほどのものだった。

 すべてが素晴らしく、未知の自然、風土、人々が、荒廃しきっていた僕の精神に滋養を与え、温もりを感じさせ、「25歳」でありながら、子供に戻ったかのようにセルビアを体験する自分がいたが、そこで放浪を終わりにするという選択肢(つまり、「定住する」。)は、自分には「想定外」だった。普通の生活をしたんでは、「不食思想」を探求できないという不利益もあった。

 思えば、この時の自分はまだ、「自分はこうしたい。」ではなく、「自分はこうしなければならない。」で動く、不自由な人間であった。僕は、自分の家族に、そのような人間に仕立て上げられていた…。

 

 ギバラツとの出会いが素晴らしいから、僕は、自分の気持ちをあまり顧みずに、かくまってくれた農家の主の信じがたい厚意に正しく答えることもできず、不本意にも「居座る」ことにした、そうして過ごしたギバラツでの3ヶ月だった。

 「ここ(ギバラツ)で人生やり直さないで、どこでやり直すのだ…?!」

 などと、昔ながらの「自分を鞭打つ自分」がいた。

 そのツケが、3ヶ月ほどで回ってきた。

 

 ある朝、僕は無断で農村を抜け出した。「放浪」を、続けるためである。

 不本意に村に居座ることに決めた自分は、時間の経過で、“不活発”になっていた。ギバラツに居座るだけの動機が、自分にはなかった。そして、そんな自分を主に見せることもできず、「やっぱり放浪を続けたい」と申し出る勇気も、自分にはなかった。残念がられたり、理解してもらえないことを、恐れて。。。

 

 

 そうして、放浪を再開した自分であったが、この時の気分は、実に暗かった。

 こう思っていた:

 (今度こそ、神様は許さないかもしれない…。あんなに素晴らしいギバラツとの出会いを、ほごにして…!)

 天罰が下ることも、覚悟した。

 変な連中が現れて、連れ去られることなども覚悟した。

 秋の深まるバルカン半島は、実にわびしく、冷たく、暗かった。

 

  

 放浪再開から1ヶ月くらいだろうか、暗い気持ちの放浪に一筋の光が差した。

 世界一周自転車ツーリスト、古川道則さんに出会い、イスタンブールの日本人宿「ツリー・オブ・ライフ」のことを聞くのだ。『日本人宿が、「管理人」を募集している。』、という!

 そして…、実際にイスタンブールで宿を訪ねてみると、管理人の見習いをさせてもらえることになる。(!!)

  

 セルビアの農村ギバラツとの出会いが素晴らしかったのは確かだが、あの時はまだ、沈み切った自分の心が持ち返すには足らなかった。ギバラツとの出会いは、(…ん?!まだ僕の人生に何かが起きているぞ…?!)と、不思議な思いにはなったが、絶望の感覚を払拭するほどのパワーはなかった。

 しかし…、この時は違う。(ここからが、2011年までのブログ(『今できる不食総括』)では控えている物語である。)

  

 日本人宿の管理人の見習いをさせてもらえることになり、アジア方面からイスタンブールにやってきたとあるバイカーのお兄さんと、狭く汚い宿のサロンでおしゃべりしている時である。

 たしか、僕はまだその宿の利用客(15~18名くらい)と打ち解けていない頃だった。

 (もう、日本と会うことはない。日本語を話すことも、ないかもしれない…。)そう思って、日本を出ていた自分にとって、この「日本人宿」という思わぬ日本との再会は、その言語能力的高みもあって、極めて刺激的だったのは疑いようがない。

 そのバイカーお兄さんが、身の上話をしてくれた時だった。その人は、お兄さんが自殺?してしまったか、縁が切れてしまったかで、ご家族とも連絡はなく、一人さびしく、何かを探し求めてアジアをはるばる渡ってきた人だった。

 

 にわかに、その人の辛さを僕は感じすぎて、(辛さが、心のひだに触れて)、僕は自分の感情が抑えきれなくなり、『号泣』した。

 大の大人が、見知らぬ旅人たちの前で、力強い声を上げて、泣いた。(この後日、一人パソコン室に座っていた時も、また涙した。)

 

 ≪「セルビア」という貴重な出会いを捨てた自分に、(まだ!)「イスタンブールの日本人宿」という出会いが、恵まれたっ!!!≫

 

 その事実が、僕にとっては、あまりにも大きなメッセージ性をはらんでいた。

 率直に、『神様の愛。』

 しかもそれは、自分が想定していたものと、まるで対局のものだった。自分は、セルビアを去った時、自分の行為は「神様に対する挑戦」だと、「許しがたいワガママ」だと、そう想定していた。だから、「天罰」をも覚悟していたのである。

 ところが、実際はその真逆であった。神様は、そんな自分にもまだ、人生で「GO!」サインをくれたのである!!(このようなチャンスを、恵んでくれるという形で。僕は、自分の人生に起きる展開が、「理解」できなかった…)

 

 その意味合いというものは、20歳頃からの人生のための決死の格闘、絶望、そして精神病を経ていた自分にとっては、更に深いところに達していた。日本人宿との出会いを恵んでくれた神様は、もはやこう言っていると僕は思った:


 『人生、何をやってもよい!何でもできる!最悪、遊んで暮らしてもよい!「天国行き」は決まりだ…!』 

              -「神様の承認」。2007年12月、享年25歳。


 余生は、誰に縛られるともなく、好きなことをやっていい。何でもできる。(…)

 「絶望」の果てに祖国を捨て、自分の知り得た諸外国も捨て、あてもなく未知の世界、外国へと、徒歩、この身一つで漕ぎ出していく…、という体験が、どんな劇的な精神·霊的体験へとつながり得るか、あなたに想像できるだろうか?

 「よいお給料」、「きれいで快適なオフィス」、「一般的な海外旅行」、「レジャー」、「美食」、「ライブ・コンサート」などを易々人生だと決め込んでいるような人間には、おそらくこの価値は見えないであろう。

 

 

                    ≪おわり≫


 

 


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