2010年4月1日木曜日

■出会いの不思議…

~高橋さんという人~

 3月30日午前10時ごろ、僕は耐えかねて仕事を投げ出して家に帰った。

 高橋さん(仮名)との向き合いが限界になった。


 高橋さんとは、すごい人だ。
 プライバシーに触れるため、ここでは存分に語ることができないが、僕は14日間B(運送会社)で働いて、リーダーよりもマネジャーよりも、実質大切な人だった。僕が今向き合うべき、出会いというようなものだった。この間他にも何人かのドライバーさんとトラックに乗った僕だが、もっとも印象的で興味深いのは高橋さんだった。


 高橋さんは拘束時間の長いBに、往復3時間の通勤時間をかけて相模原にやってくる。朝8時前に出勤すると、夜11時までの仕事は普通で、それから1時間半かけてほとんど山梨県まで帰宅する。朝も1時間半かかるから、それでは寝ている時間などほとんどない…。

 事実、高橋さんは2時間半か3時間くらいしか寝ないのだと言った。一日15件前後の家電配送をこなしながら、体は疲れているのに、それしか眠らない。食事をしながら時に箸を握ったまま眠っている、とか、風呂に入ったまま寝て、家族に風呂で寝るのは「危険」だと、言われているのだと言っていた。


 そこまでして「働く」理由は何かと、僕はある時訊いた。自分の子供たちを養う必要があるのだと高橋さんは言った。「経済力」というものが、大して重要とは思えない僕に比して、高橋さんは経済力は重要なのだと言う。今の嫁さんには月10万円の生活費を入れているのだとか…。前の結婚で生まれた子供たちの養育費にもいくらか回しているらしい。
 子供を持っていない僕には経済力の重要さは分かりにくかった。なるほど「現実問題」としての経済力の重要さは理解できないわけじゃないが、僕には、高橋さんの精神力がどれほど強靭であるとはいっても今の生活の様子を伺って、心配をしてしまった。

 高橋さんは僕より10歳年上で、もうそんなに肉体的に無理ができる年齢ではない。それだのに睡眠時間まで削って、体を酷使して働いている。Bは、そうでなくても皆長い労働時間で眠そうな顔をしているが、高橋さんの表情からも疲労の蓄積は一目瞭然だった。

 『(この会社では)みんなそうなのだから…』
 としてしまえばそれまでだろう。でも僕にはそれが「しょうがないことだ」とは思えなかった。20代の若者ならまだしも、高橋さんに限っては切に無理を感じた。腹を割って話しをすれば、するほど…。

 「なんでそこまでして働くのか
 僕は14日間働いて一向にぬぐえなかった疑問がそれだ。
 お金が稼げることはありがたい。それは確かだ。毎日少なくとも「1万円」は金が溜まるという充足感。しかし、早くも一週間くらいでその価値は疑わしくなった。

 「そんなに金は必要なのか??
 Bの一ヶ月の休日は平均5~6日だという。ドライバーが一日14,000円稼ぐと仮定すれば、一ヶ月で35万円になる。しかし、一家4人としてその収入が、どれほどの意味を持つのだろう?

 日本はその高度経済成長期から豊かであればあるほど良いという人生観を、多くの人は何の疑いもなく信奉してきた。日本経済が低迷して20年が経つ今でも経済的富裕さにたいする反省はあまりなされていない気がする…。


 高橋さんを過労が蝕んでいるのが見えた。高橋さんの持ち前の精神力、意志力ではそれはやむをえないようだったが、僕の個人的な望みとしては高橋さんにうんと楽をして欲しかった。自己に課すハードルを下げて、自分(からだ)を大切にして欲しいと、切に思った。神経痛や皮膚に関して悩むのだとも言っていた。

 高橋さんの人生経験はすさまじいものがあった。3年近く旅をして出会った人の中でも最も強烈な人物だと言えるのかもしれない。もう旅ではないのだが… それを書きたくてもちょっとプライバシーの関係でここに書くことはできない。いずれにしても運送会社で働くような、人間の器ではないのである。そして密かながらも、計り知れない可能性を持っている人だった。その能力の高さと、置かれている現状の過酷さという、激しい対照性。。。 それが“強烈な人物”として僕の意識をつかんで、離さなかった。
 その対照性そっくりに、僕はあるところで高橋さんと非常に心が通い、また非常に対立的でもあった。ユーモアとか、人生観・興味関心は似通うものがありながら、仕事に関してはあまり噛み合わない。相性がよいようで悪い。「仕事」であるから、仕事力としては僕は高橋さんとあまり合わない感じであった。だが、仕事以外の面ではとても意気投合したのだ。でもそれが却って仕事を邪魔したし、仕事がはかどらないと僕も疲弊した。
 一緒に仕事をした3日目から、僕は高橋さんがわざと時間を喰っているように思えた。他のドライバーだったら15分くらいで家電機器の説明を終えて帰ってくるところ、高橋さんは、やけに時間がかかった。それが配送の時間を遅らせ、時間が遅れると僕は焦り、焦ると無駄な動きやミスをするようになった。そんな仕事の仕方がどこかであほらしかった。高橋さんと乗ると、疲れが人一倍強かった。13日目の仕事あがりが日付をまたいだのも、それだ。

 なんで高橋さんは説明にそんなに時間がかかるのか、僕は分からなかった。
 「やる気がないのか」、と思った。「僕以外の助手の時もこうなのだろうか」、と思った。
 さらには「僕のフォローが足りないのか??」と思った。

 でも、13日目などは丸一日仕事をして、1分たりとも僕は自分の時間を持たなかった。仕事から意識を外さなかった。昼の休憩時間はなく、トラックの移動中でも僕は地図や伝票のチェックをしていた。それでも仕事は日付をまたぐまで、終わらなかった。

 「なんだこの仕事は」
 そう思わざるをえなかった。「こういう仕事なのか?  いや、そんなはずはない。」これは、高橋さんがのぞんだ仕事だ。早くあがろうと思えば、あがれたのだ。高橋さんがそれをのぞまなかっただけだ…。13日目が終わったとき、僕は疲れきっていた。疲れが無意識となって、かえって元気そうだったかもしれない…


 13日目、30日になっていたが、僕は家に帰ってもすぐ眠らなかった。むしろコンビニで食べ物を買い、家ではインスタントラーメンをつくり、インターネットもブログもやった。もう、やけくそだった。明日のために寝ることなどしたくなかった。31日には休みをとる予定でもあった。自分の生活を犠牲にする、限界だった。
 それだけ「疲れて」しまったのも、高橋さんという人が僕にとって強烈な人だったからだ。高橋さんが人生に対して持っている壮大なビジョンや、野心、可能性などに対して、僕は釘付けだった。その計画に、自分が関わりたいと思った。しかし、仕事とそれはまったく別問題だった。

 30日、午前10時半ころ、配送の一件目にして早々30分以上出てこない高橋さんに僕は「失望」した。
 なんでこんなに遅いんだよ!!またすべて悪循環に陥るのが見えた。その日もまた一日、高橋さんのペースで僕があたふたやらなければならなくなるのがわかった。
 ごめんだった。
 僕はおかしいとしか思えなかった。高橋さんは、わざと時間を使っているようにしか、わざと配送を遅らせるようにしか思えなかった。その理由はわからなかった。

 日付が変わるまで働いて、僕の給料は14,500円前後。はっきり言ってそんな価値はなかった。2万円もらえるならやってもいいかもしれない、というレベルだった。あまりに疲れすぎた。
 そしてやはり思った。ここまで長時間、自分を拘束して働く意味はないと。ここまでして1万数千円を稼ぐ意味はないと。

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 まだ今回のことは消化しきれていないのだが、大きな反省点が一つある。
 社会では「不食」をはじめとして、自分の非凡な精神活動について、話してはいけない。
 ということだ。昼間に作業着のまま家に帰ってきた僕に父が声を掛けて、事態を報告すると、そういう結論に至った。

 『どんなに正直で、かつ丁寧だとしても、「不食」は語るな。社会の人間は理解しない。』
 『人と違う世界を持つ者は、その扱いに間違いが許されない。』
 『人と違う世界を持っていても、「人」であることに変わりはない。社会で生きていくならば、一般人でなければならない。』
 『神はそこらじゅうにいる。奇跡はそこらじゅうに起こっている。でもそれを扱わないのが、変な話この社会であるのだから、そこではそこのルールに従って、扱うべきではない。』
 …。

 僕は昔から、子供のころから、自分の体験したことは正直に打ち明ける人間だった。喜びと、驚きと、感動を込めて…。それが兄妹や親をはじめとして多くの人間を喜ばせることを知っていたから、ずっと言葉を使って、自分の体験を表現してきた。しかし、その『非凡さ』・『奇異さ』が強くなってくると、あるところからは話してはならない領域に入る。話すことが決してプラスにならないケースがある。そこを僕はまだよく分かっていない。僕は自分が体験したことは他人も理解できると思い込んでいる、と、父はおととい言った。


 「脱走」を繰り返す自分。
 常識的立ち振る舞いができない自分。精神の分裂質や、長い一人旅、文化混在がその原因だが、社会で生きるならそれを元にもどさなければならない。世界を封印して、一般人に還らなければならない。
 …

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