2010年4月9日金曜日

『こども時代』 15

いとこのS君とよくつるんだ
 中学校3年生の時には、昔はあまりうちには来なかったいとこのS君が、不思議とよくうちに遊びに来ては一緒に遊んだ。お互い高校受験を控えていたが、勉強はほどほどで、古ぼけたCDプレーヤーでビートルズを鑑賞したり、熱帯魚を飼ってみたり、訳もなくいろんな店に行ったりもした。それはそれで、控え目だが、楽しい時期だった。
 学校ではほとんど嫌われることもなく、かえって思いを寄せてくる女の子がいた。その子がまた人気の子たちのうちの一人だったので、どうやって彼女の気持ちに応えたらいいかすごく悩んだが、結局、会話もできないまま卒業を迎えた。当時僕の身長は178cmくらいあったが、クラスでは3番目だった。やはり小学校までの圧倒的な体格差はこの頃にはなくなっていた。なくなっていたどころか、中学校の厳しい部活で鍛えられている連中には体力負けした。「大人しいキャラクター」に落ち着くのが自然なようでもあった。

 勉強も、悪くなかった。最初の中間試験では5教科合計で393点(500点満点)をとり、調子もよかった。しかし高校受験には、自分が授業を受けていない「歴史」や、理科であれば「物理」などの単元も入っているため、「帰国子女」として入れる高校を探した。
 中学校では、特に男子は気だるそうにするのが流行ったが、自分はどうもそうする気になれなかった。第一、なぜそうするのかも、僕はよくわからなかった。ただの力の出し惜しみ根性だ、下らないじゃないか、と思った。それで、たとえば掃除などはついつい一生懸命やってしまうのだった。見せ掛けだけでもモップをバケツにつっこんで、掃除をいかにしてさぼるかを考えるのは、基本的に理解できなかった。そんなことしているより思い切って体を使って、しっかり掃除した方が自分にもいいだろう、と思ってやまなかった。後になってから、なぜ日本の子供達がだるそうにするのか、訳がわかったが…。


倍率2/10 帰国子女枠で近くの平凡な高校へ
 「わたくし立にやる金はない」と言われた僕は、併願校はなく帰国子女枠がある公立高校一本だった。でも、事前の新聞に掲載された倍率は10人枠で8人、そして実際に受験したのはたったの2人だった。おそらく親は僕が合格する自信はあったのだろうが、僕は最後の最後まで安心できなかった。
 中学校3年生の冬には父の次の仕事というのもわかるようになった。それはなんと、自分の家を宿舎にして引きこもりや不登校の自立支援をする「寄宿生活塾」というものだった。父と母が、日本で、学校に行けない子・心の病んだ子などを受け入れて共同生活をし、僕らもそこに一緒に生活をする…。親の決めた仕事であるから、自分がどうこう言う資格はなかったが、「すごいことだな」とは思った。
 年の明けた頃には実家を増築した。自然素材だけを使った木の家で、塾のモデルとなった小田原の寄宿生活塾の手配で、木を切り出すところから手伝ったりした。神奈川県足柄の山だった。 

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