2010年4月9日金曜日

『こども時代』 17

心は多分に西洋的 日本的な情に動かされず
 大人しい僕であったが、友人関係はあまり充実しなかった。学校では毎日バスケをしたりする仲間がいたが、一緒に町へ出たりすることはほとんどなくどこか虚しかった。友達ってのは、もっとふざけれて、盛り上がって、勢いのあまりちょっといたずらしちゃうくらいのイメージがあったので、中学校も高校もそうでないまま終わりそうであるのが、なんだか「ちがう」感じがした。それでも「それが日本なんだ」と「日本ならではの楽しみ方を探せばいい」と、そう自戒する自分がいた気がする。高校生にはなっても、日本での自分の、正当な生かし方がまだ十分に分かっていなかった。僕に必要だったのは、まだまだピュアに、子供っぽくてもいいから自分を「出して」、感覚を磨くことだった。そんな余裕、なかったのだが…
 僕の心は、海外生活や、最も濃密に触れた母の人格から学びとった最低限のものでこの頃も生きていた。それは多分に西洋人的な心で、日本的な心とはそぐわない面も当然あった。表では立ち振る舞いに少し気を遣っていれば日本でも生活できないほどではなかったので、「それでとりあえずは満足しなければ」と思っていた。
 しかしそうやって僕には本当に心が通じ合う友達というのはできなかった。そんなことが少しずつ、後々に暗雲を投げかけていた。


寄宿生活塾
 変わって自宅は自宅で、安泰ではなかった。高校入学前には2コ上の、紙を金髪に染めたヤンキーが入ってきた。僕は部屋をシェアし、慎重に相手をしたが、何を間違ったか6月頃には彼のギターのスタンドで頭を殴られた。顔に血がつたる、まるでマンガみたいなことが起きたが、それでその子は実家に返された。
 続いては高校1年の秋頃だったか、明らかに僕を意識した、美人の女の子が入ってきた。一体彼女のどこが悪くてうちに入れているんだと、考えれば疑いきれない性格のいい女の子だったが、僕にとっては負担だった。このEさんは、実に1年半くらいうちにいたが、僕は彼女に心を開かなかった。もし恋に落ちても、同じ屋根の下で、親が認めるはずもないし、第一、うちは「自立支援」が仕事なのだ。兄が日本に帰ってきた時、彼女と兄はくっついたが、案の定、それによって兄は家を追い出され、合格した東京の大学の近くの下宿に入った。

 高校3年生の頃には2コ下のなまけ者のS君を調教しようとして失敗したこともあった。彼は何ヶ月経っても態度を変えず、余裕があるのに精進しようという気を見せないので、話はできた僕が諭そうとしたが、これはどうにもならなかった。
 僕の家には昔から、「明るく元気にいい子であろう」という様な、暗黙の了解があった。顔を上げない子、人の目を見て話せない子、答えない子、返事ができない子、それらはすべて即精神的な疾患だとするような見方があった。多分に母、スイス人の感覚だ。それをそのまま日本で、子供に適用したところで、うまく行くわけがなかった。このS君は小柄で頭もよさそうには見えなかったが、道理にそぐわないことには一人ででも抗する力があった。一度、僕は彼が生意気に思えてならなくて、離れ部屋の柱に彼の手を縛ったことがあった。それが正しいことであったか父も母も構わなかったが、S君は、縛られても「平気」であった。結局僕自身が悪いことをしているような気になって彼の手綱をほどきに行った。「僕がバカを見た」というような結果に終わった。
 塾の生活はなにげに大変だった。大学受験の際にはモデルとなっていたH塾の塾長から大学への推薦状を書いてもらえたが、もし「日本を享受する」ということを考えれば、僕の置かれた環境には無理があった。

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