2010年4月9日金曜日

『こども時代』 13

工作趣味
 お小遣いを一番つぎ込んだのは工作道具だった。のこぎり、万力、釘、ネジ、ベニヤ板…。 木を使っていろんなものを作った。兄が一度日本に帰国した時にTAMIYA製の電池ボックスやスイッチ、プロペラなど買ってきてもらってラジコンみたいなものをつくってみたり、ライト兄弟が乗った様な風に乗るプロペラ機(小型)をつくったこともあった。自分で遊びを考えたり、創作というものを親は僕らに奨励した。
 マレーシアでは欠かせなかったファミコンも、ドイツのテレビには接続ができなかったため、できなかったが、それは大して気にならなかった。ドイツの友達はファミコンはやっていなかったというのも大きな理由だろう。
 地下室で黙々と一人で工作しているのも好きだったが、兄妹、特に兄とは他にもいろんなことをやった。「モノポリーゲーム」を材料に、自分たちで創意工夫をして、より面白いオリジナル・モノポリーを作ってみたり、近くのうっそうと茂った空地へ行ってはモグラのようになって地中秘密基地を作った。それは完成しないまま終わってしまったが、地面を掘って出てくる土を、炭鉱のトロッコのような台車(自作)で運び、土まみれになりながら地中の道を作ったのだった。兄とはその他にも卓球や、湖公園でのアイスホッケーなど実に色々一緒にやった。海外を転々とする生活だけに兄弟の絆は強かったが、特にドイツでは兄と意気投合していた。
 中学生にもなって秘密基地とは、どこか子供っぽかったかもしれないが、僕らはそれを夢中になって楽しんでいた。親友であったC君を除いて学校以外で級友と遊ぶことはほとんどなかったので、友達が普段何して遊んでいたかはよく知らない。当時ドイツではファミコンに代わるようなものとしてパソコンのゲームがあったが、そうでもなければ友達は町に繰り出していたんだと思う。おおよそ自分とは違う遊びであったことはたしかだ。男女が絡み始める年頃で、僕はまったくそれがなく、男友達と仲良く明るくしているのを見ると、「お前はホモか?」と言ってくるやつもいた。
 それでも僕なりに好きな子がいた。ギムナジウムに転入して一目で好きになったが、彼女と自分のあまりの違いにアプローチすることはできなかった。彼女は他の男子にも、年上の男子にも人気があったし、なにより家庭の事情とかお互いのバックグラウンドを想像すると、近づくのは到底無理があると思えた。変に近づいて拒絶されたらもっとつらいと思った。結局ドイツの2年3ヶ月でつき合った女の子は一人もいなかった。


M教の道場は月1回、ブレーメンへ
 M教の信仰はドイツでももちろん続いた。ただ、道場が遠かったため、道場通いはなくなり、月に一度だけ最も重要な祭事に参加した。よって信仰生活は少し下火になった。家ではまだよくかの「お浄め」の交換をしたが、宗教の話もマレーシアほど盛んには挙がらなかった。信仰生活も落ち着いたという感じだった。食生活もそれに沿うように緩やかになった。週に一遍はラザニアとか、ラーメンとか、けっこう普通のものが食べられた。普段の食事もパンが多く、肉類はなくてもチーズやバター、ジャムがあって、ガッツリと食べることができた。
 外食はマレーシアのように安くはいかないのでほとんどなかった。「ドイツ料理」に対する羨望はあったが、うちの食事で昔よりは満足していたんだと思う。こうして思い出してみると、ドイツの2年間はあっという間だった。


休みはスイスへ スキーでもスノボでもなくそりに夢中な僕と兄
 休みには家族みんなでスイスに旅行した。スイスのおじいちゃんおばあちゃんや弟妹の多かった母方には日本よりもいとこがいた。しかし標準ドイツ語とスイス人のなまりにはかなりの違いがあって聞いている向こうはこっちの言っていることが分かっても向うが何を言っているかはほとんど分からなかった。ヨーロッパ2年間の旅を経てやっと少し耳が慣れたが、やはりドイツとスイスは「別世界」という感じだった。
 小学校5年生の夏に実は一度スイスに旅行したが、相変わらずスイスの自然の美しさには目を見張るものがあって、牧場や木の家はものすごい憧れを掻き立てた。母方の祖父母は日本に帰国する前後に亡くなってしまったが、おばあちゃんちで食べるスープや、ドイツとはまた違うパンなどに意識を集中した。スイス人の生活には深く落ち着きがあった。本当は、もっともっと、スイスに触れたかった。スイスに住みたいと、もちろん思っていた。ふつうの子と違って、自分の帰属意識、アイデンティティの模索がまだ続いていた。
 一度クリスマスパーティーかなにかに参加した時に雪が深々と降って、デュッセルドルフでは滅多にない40cm~50cmが積もった。ドイツに帰るまでの数時間くらいの間に僕と兄は夢中になってソリで遊んだ。もう体が大きくてギリギリだったが、ハンドルがついていて「操縦」が可能だった。おばあちゃんの家のすぐ前の、斜面の牧場だった。
 僕は、兄妹の中でも僕だけだが、大学生になってから何度かスイスを訪ねた。母の妹にあたるおばさんが部屋を貸してくれ、もてなしてくれ、「ヨーロッパの歩き旅」までには3回僕はスイスを訪れた。スイスに住もうとしたこともあった。でも、大学時代には既に色々と内面的な問題に悩んでいて、すんなりスイスに行って落ち着くということはできなかった。心が既に複雑になっていた。

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