2010年4月9日金曜日

『こども時代』 22

休学
 大学で休学の措置をとった僕は、多くの時間を一人で過ごした。親友と呼べる友達もなかった僕は友達から連絡をもらうことも少なかった。休学すること自体、いちいち人には話さなかった。
 恋愛で変わった自分のこと、父との喧嘩のこと、一人暮らしが始まったこと… その半年かそこらで一変したすべてを整理するために、自然と一人になった。大学をやめることも、この時はけっこう考えた。自分は確かな目的意識があって大学に入ったわけじゃない。「大学には行っておいた方がよい」「できればいい大学に」と周りは言うから大学を受験し、入学した、そんなもんだ。年間110万円はかかる学費の手配に汲々としてなんとか卒業資格が取れるくらいなら、やめた方がいいのかもしれない…。この時に、そこまでの考えはあった。でも一度やめたら戻りにくいことや、短い間に生活を変えすぎるのは危惧したため、「できるだけ慎重に」と思った。
 大学を続けるにしても、やめるにしても、その決断は2年次の終わりまで猶予があった。しばしの余裕が、生まれた。

 同6月には「スイスパスポート」を作った。そう、休学中にスイスに行こうと思ったのである。国籍は日本のも持っているが、その時はまずスイスパスポートが作りたかった。大学をやめてスイスに住む可能性も、考えていないわけじゃなかった。
 渡航費をつくるため、東京で自転車便の仕事をした。面接の時には「どれくらいの期間やるのか」について、何と言ったか覚えていない。出入りの激しい会社だったが、半年とか、一年とか、本当はない気をあるように見せていたかもしれない…。自転車便をやろうと思ったのは、サークルの仲のいい友達がやっていて自分にも興味があったからだ。7月、8月、9月と2ヶ月半ほど家庭教師と平行して仕事に明け暮れると、あっという間に費用は溜まった。9月中旬から3週間、マレーシアとスイスを訪ねた。
 この頃もなにげに元彼女のことが頭にあった。別れてから一年が経っていたが、大学に行けば彼女を見かけたし、時々はメールのやりとりもあった。スイスに行けばもう彼女と会うことはなくなるだろう…。そんなことが頭にひっかかったりした。いろんなことに関して何をどうしたらよいか分からなかった。
 懐かしのマレーシアや、初めて一人でスイスを見てくると、心も和むものがあった。それで、だいたい、「まだ大学はあきらめない」、特に「金銭的な理由でやめてたまるか。」と思った。


なぜ生きるのか 何をやっていくのか 「迷子の子羊」
 「恋愛」によってそれまでの価値観や世界観が崩れ、父との衝突によって慣れ親しんだ家庭から見事に切り離された僕は、まるで「迷子の子羊」だった。高校の最後から自分の感覚を試すようになり、その未熟なセンスではとうてい「器用」に生きることはできなかったが、不本意な、心をしいたげるような数年間の果てにはそれでも踏み出さざるを得なかった。
 
 食生活も、肉や、スーパーの甘いお菓子や化学調味料のものを食べずにはおれなかった。それが自分の体には悪いという考えがあっても、欲望には逆らえずうやむやにも食べた。
 M教も、大学生になってからやめていた。「手かざし」に欠かすことができないお守りを道場に返しに行き、道場長を前に「やめます」と言った。迷いなくやめることなど不可能だったが、もう、自分の直感を実行するしか仕方がない自分だった。 
 『自分の中に毒を持て』 岡本太郎
 『今ある自分を打ちこわせ』 余暇三千雄 
 いかにも激しい、気になる題名の自己啓発本を手当たり次第読み耽って、書いてあることを実践した。僕は人生に希望を見出すために、それまでの自分を実質「こわす」ように生きた。恋愛で垣間見た清らかな世界にも支えられながら…。

 大学2年次の終わりに、塾講師のアルバイトを始めた。安定した収入と、教えることのレベルアップを図っての挑戦だった。
 アパートもそれまでより1.6万円安い、2万5千円のところに引っ越し、復学の準備を整えた。大学の2年目は、「波乱万丈」という感じだった。その後も決して楽だったわけではないが、精神的にはこの頃より落ちついていた。




(以上 第1章 表のこと ) 

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