◆兄と一緒にドイツに残りたい
中学3年生の夏に兄をドイツに残して一家は帰国した。父は、次の仕事を考えており十年間近く勤めた日本語教師をやめることになった。日本語教師の仕事は短い任期で移動するため、家族の生活が一箇所に落ちつかないことをさすがに心配したのかもしれない。家族を日本に残して単身赴任をする気はなかったと、いつだか父は言っていた。
兄がドイツに残ったのは、ドイツの現地校資格である「アビトゥア」(高校卒業試験)を取ったらいいという親の考えだった。父と二人で早めにドイツに行っていた兄は勉強に熱心で日本人中学校では非常に成績がよかったが、家族と離れて独りになってからは学業の調子は崩してしまったようだった。
僕はドイツにも馴染みきれていなかったが、小学校6年生の時の日本での苦労と比較すると「ドイツに残りたい」と思った。その意思表示には親も少し考えたのか、返事まで少し間があったが、どういう理由だったか忘れたが、僕は親や妹達と一緒に日本に帰ることになった。
日本帰国が決まった頃に母が「泣いた」ことがあった。よほど、ドイツでの家族生活が気に入っていたのだろう。僕も、マレーシアの時ほどではないが、ドイツから日本に帰ることがさみしかった。
日本に帰る途中で、懐かしのマレーシアに寄った。クアラルンプールや住んでいた近所の訪問、島のリゾートにも行ったが、「懐かしい」というよりは、マレーシアもドイツもさよならしてしまうことがさみしかった。それだけ来たる日本という世界に緊張があった。
中学3年生の2学期から僕は地元の公立中学校に転入した。
◆中学校、日本にいたら「荒れて」いた?
ドキドキした心で、少し恥じらいも感じながら、2年半ぶりに学校の仲間と対面した。成長期を経て、みんなもすごく変わっていた。僕はいとこのS君のおにいちゃんが使っていた制服を譲ってもらって、みんなと同じような袖や肩幅の小さい制服で通学した。
小学校6年生の時に級友とケンカしたり、自分の奇抜な言動が嫌われるという経験をしていたので、この時は「次の失敗は人生を暗くする」と、肝に銘じて慎重に出た。
中学校はお弁当で、玄米のご飯や野菜中心のうちのおかずを恥ずかしくは思ったが、マレーシアの時のようにおびえるほどではなかった。ただだまって顔はあまりあげないで弁当を平らげた。クラスには自分を出す子と、大人しい子とあったが、下手に自分を出すとクラスの権力関係に抵触することになるので、目立つキャラクターでありながらも、僕は恥かしがり屋になった。
そうやってなんとか、一部の荒れている連中にも目をつけられずに卒業までやり過ごすことができたのは、ドイツの現地校で自分が達成したことや、海外生活の経験を自分の強みとして、またプライドとして堅持したからだと思う。本当は、日本は日本で、流行の最先端をゆく学校でも一番力のある連中と絡みたかったが、そんな自分は抑えて大人し目のキャラクターを被ったのだった。中学校、高校はマイペースなB型だとは思われず、よく「Aでしょ?」と言われる自分がいた。
しかしもし、後から思ったことだが、ドイツには行かず日本で中学校に入学していたら自分はどうなっていただろうか。小学校6年生の時の、納得できないうっ憤が、抑えきれず「爆発」してしまったのではないか。そんなことを思う今日である。ドイツの学校で、言葉も分からないような状況から、2年そこそこの間に学校の勉強についていけるようになった、そんな自分の実績と自信をプライドにして、嫌なやつは軽くあしらうことができた。しかしそれがまた、のちに“日本的なもの”を軽んじる自分にもつながってしまうのだった。
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