2010年4月9日金曜日

『こども時代』 21

◆「家出のあと」
 買ったばかりのノートパソコンと、少しの洋服を、バックパックに詰めて、僕は自転車に乗った。元彼女のところに行きたいような気もしたが、無難に兄を頼ることにした。50kmくらいだろうか、夜中に自転車をとばして、兄貴を訪ねた。兄も池袋でこれ以上安いところはないという様な、みじめな部屋を借りていたが、メールを送った僕に都合をつけて、待ってくれていた。僕は途中どういうわけか道路で派手に横転し、片腕がまともに動かせなくなるほどの怪我をした。動揺と、興奮にまみれて我を忘れて走っていた。
 幼い頃から兄は、優しかった。なにかあった時は父や母よりも兄が頼れる人だった。秘密を打ち明けられるのも、友達というより兄だった。それは海外を転々とした家族ならではのものもあるかもしれない。
 「父とあそこまでやってしまった僕は... もう帰れない。」
 そう強く思ったことを、兄に話した。
 兄が演劇かなにかのサークルでいなくなる時は、僕は静かに部屋で待っていた。最初の数日は、怪我でほとんど動けなかった。
 それから一週間くらいかその間に、僕は「一人暮らし」をすることを決め、大学の生協で部屋を探した。そう迷ってもいられなかった僕は、同じゼミで仲がよかったAの並びの棟に部屋を借りた。引越しや契約費用はどう処理したかよく覚えていないが、自転車で運べそうなものは、自転車でけっこう運んだ。引越しのために割りと早くまた実家に顔を出したが、父とは顔を合わせなかった。家庭教師のアルバイトは1、2回くらい休んだかもしれないが、振り替えで補ったりして、仕事は仕事で大切にした。
 僕の春休みは、引越しと、気持ちを落ちつけて2年目の準備を整えることで、終わってしまった。

 恋愛によって方向づけられた僕の大学生活は、父との喧嘩によって更に具体的に、方向づけられた。例えば、実家から通えば下宿費や食費はあまりとられず、ドイツへの留学も夢ではなかったが、それは一人暮らしの確定によって却下された。そして、大学2年目からは3年間、自分で学費を用意しなければならないので、バイトを続けることは必至だと思われた。
 大学をやめることも考えた。でもそれは「自分に負ける」ことを意味する気がして、とりあえず一人暮らしで頑張ることにした。
 家庭教師の2人ではお金が足りないと思った。奨学金制度は充実していたから借りること自体はいくらでもできたが、少なくとも自分の生活費は自分で賄い、奨学金の給付はそのまま貯金に溜まるようにできたらよいと思った。同クラスの友達が居酒屋のバイトに精を出していて、月12万円とか稼ぐのも見ていたから…。


◆「転機」
 「金欠」を恐れた僕は家庭教師の他に大学近くのバーミヤン(中華料理レストラン)の厨房で働き始めた。家庭教師と合わせて「十万円」を一つの基準にして週3回程度のシフトを入れるが、5月の終わりにはギブアップした。
 「無理だ、これは...。」
 途方に暮れる、自分がいた。そして、やむをえず「休学」することにした。「休学」には、どうせもう払ってしまった半期分の授業料以外にお金はかからなかったのだ。ただ静かに少し落ちつける時間が必要だった。大学のみんなは相変わらず活発な様子で、そうでない、この先どうなるかもわからないような不安定な自分が、意識されるのも辛かった。高校の頃やっていた10kmジョギングを思い出して多摩川まで往復のマラソンに出た。高校の時ほどもう体は軽くなかった。ある時は雨の中あえて出ていって、人のいない多摩川の河川敷で悔しさを叫びに替えた。ずぶぬれの自分だった。
 バーミヤンはやめたが家庭教師は続けた。英語を主として「教える」ことにやりがいを感じている自分がいた。大していい教え方ができたとは思わないが、プリント作りなど、授業準備には時間を惜しまなかった。

 6月になって、知り合いのつながりでちょっとした出会いがあった。親と交流があった静岡のお寺に保養に行かせてもらった時に、人に見えないものが見えるという女性に会った。「ちょっと言葉がキツい人でね、合う人、合わない人がいるんだけど…」 そう柔らかく、お寺で母親のように世話をしてくれたKさんが、説明してくれた。
 Iさん(超能力者)は、Kさんとも重なる、自分の親よりは少し年上の人だった。会ったとたんに、「うかつなことは言えない」ということがわかった。僕は割と、年配の人とも気軽に話をする方だったが、Iさんに限っては言葉が出なかった。家具や飾りものの美しい一軒屋に一人で住んでいるようだったが、心に刻み込まれるような力強いお話の後には手の込んだ、ほとんど上品な食事をたくさんもてなしてくれた。
 個人的なことについて、いくつか貴重な教訓を頂戴したが、中でも印象的だったのは、「今を生きなさい」という彼女の言葉だった。
 「先のことは考えないで今、目の前にあることを命一杯やっていってごらんなさい。「今」、「今」よ。」
 自分の話をするか、Kさんと少し言葉を交わす以外は、Iさんは僕に言うことはあまりなかった。言われたいくつかの言葉は、強く頭に焼きつけられて、それから2、3年間、僕の「指針」となった。
 その年と次の年に合わせて2、3回Iさんを訪ねたが、ある時は一対一の、僕はただ聞いているだけの1、2時間の後に、親に宛てて、「素晴らしい息子さんです。息子さんのこれからが楽しみです。」と、なんだかわからないが嬉しい手紙を打ってくれたこともあった。僕はというと、むしろ悲観的で、将来に対して不安の方が圧倒的だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿