2010年5月2日日曜日

『こども時代』 23

 第二章 裏のこと
 一編 親・家族・国際結婚

兵庫で見た保母さん
 昨年の11月、兵庫を歩いていた時、高砂の近くで2、3人の幼児の面倒を見ている保母さんがあった。僕は歩き始めて2、3時間の一回目の休憩だったが、その公園での保母さんと子供らのやりとりが、見ていて新鮮だった。
 別に保母さんを見ることが珍しかったわけじゃない。それまで日本の生活で、いくらでも幼稚園や保育園の光景を目にすることはあった。でもかつては目に留まらなかった何かが、この時には目に留まった。それは僕には経験のない(ないと言っておこう)、「日本人女性の子供との関わり方」だった。
 「自分もああいう風な(ごく普通の)保母さんに育てられていたらな…」
 ――日本というものが僕にとってそう「難しく」はなかったに違いない、とその時思った。僕は幼稚園だったが、母というスイス人を見て、それに触れて、そこから学んだのだ。保母さんと、子供らの具体的なやりとりはよく覚えていない。ぽかーんと、自分の世界に入っている幼児らに、保母さんはしきりに声をかけ、注意を喚起し、一緒に遊んでいた。たぶんに、ヨーロッパ人にはない関わり方だ。僕はすごく新鮮なものを感じ、自分がいかに西洋人の心を教えられていたかということを悟らされた。
 「スイス人」というよりは「日本人」としての自覚で、日本の教育を受けて育った僕だが、この「日本」というものにはたいへんな苦労を経験した。


つめたい流し目と無視
 少ないマンガや日本のドラマを通して日本人の心の機微が分かる様になる中学生まで、僕は自分と学校の友達との「不調和」に苦労した。学校では、自分が元気に遊んでいると、なんともなしに冷たい視線を向けてくる子や、声を掛けても無視する子がいた。僕にはそれがどういうことなのか、訳がわからなかった。わかろうとはもちろんしていたと思うけど、わからなかった。口で聞いてみても、答えを聞くことはできなかった。それが、マレーシア人や西洋人にはない、僕にとっては「日本人特有」と認識される性質が、気掛かりで、また恐ろしかった。調子のいい時は意外とそういう経験は少なくて、調子の悪い時、周りを意識する余裕のない時は、特にそれを味わうのだった。
 無視まで行かなくとも、ある決定的な瞬間に冷たい流し目を見るだけで、(何?!!)(何がいけないの?!!)と気を煩った。それでも僕は自分にできる最大限の元気と、明るさと、楽しさを追究して生活していた。朝起きてから、夜寝るまで、そうだったと思う。でもそれは、生憎、周りにとっては必ずしも望ましいものじゃなかった。それより僕ははるかに「母親にとって」望ましい息子だった。
 
 高校や、大学になっても、時々そういう体験をした。西洋人の心だからこそつめたい視線や無視の態度は「異様」で「不可解」だった。そういうことをする人に対して、(私のことが気になるなら、正面からかかってこい!!)と、ほとんど腹立たしく思った。そういう行動自体、軽蔑し、弾圧したかった。
 日本を好かない外国人の気持ちを聞けば、それは痛いほど分かった。僕自身が自分の中から「日本」を、追い出しそうだった。この世界でも珍しい深く洗練された精神文化の残る国を。


父と母の関係
 「国際結婚」の家族を、僕は自分以外にあまり知らない。日本の一般の人に比べたら、国際結婚の家族と触れ合う機会は多かったかもしれないが、そのことを別段意識して付き合っていたわけじゃない。そして、「国際結婚」と一口に言っても、相手方がヨーロッパ人なのか、アジア人なのか、アジアのどこなのか、韓国か、中国か、…こういうことでまるで違ってくる。結局、「ユニーク」だとか、「変わっている」ということで片付けられてしまうのが、国際結婚の現状だろう。
 ところが、じゃあそれで親が好きなようにやっていいかと言ったら、もちろんそんなわけはない。子供が、母方であろうが父方であろうが、「自立」し、社会に巣立っていけるよう育てるのが親として変わらぬ使命だ。
 この点で僕の親はいいかげんだった。今日、5人兄妹のうち上の3人にこれが顕著に現れている。父も母も、子供の立場に立つ余裕がなかった。父と母の夫婦としての意思疎通の程度ではそれが無理だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿