2010年3月12日金曜日

『こども時代』 3

二編 『少年期』  (小学校1年生~6年生)

GSでもらったカップラーメン、お父さん、ごっそり捨てる
 父が病気をした直後か、その頃に、父は10年以上勤めた会社をやめた。そして日本語教師になる準備を始めた。僕が小学2年生にあがる頃には父も一年かそこらのウォーミングアップを終えて、本格的に日本語教師となり、マレーシアに派遣された。それまでの日本での日々についてまずは話したいと思う。
 小学校入学の頃には「うちは世間とはまるで違うものを食べている」という意識がちゃんとあった。だから友達と遊んでいても「食べもの」のことだけ問題にならないように願ってやまなかった。お泊り会というまでの仲のよい友達はいなかったが、時々訪ねた友達のうちでのおやつは、やっぱりうまかった。残っていれば我先にと手を伸ばしたい自分がいた。
 学校の給食も、先生には訳を説明して弁当を持っていった。給食の際、席は動かさずにそのまま自分の席で食べるクラスだったので、苦労は比較的少なかった気がする。僕がなにより嫌だったのは自分の食べているものに周りの意識が向くことだった。そうなることで、余計に自分の違いが意識されて、友達が離れていってしまう…。それが最大の不安だった。

 一年生になっても自分の体の大きさや強さは並外れていて、それゆえに友達とケンカになってしまうことが結構あった。運動会では当たり前のようにリレーの選手に選ばれ、てつぼうは得意だし、土曜日はサッカークラブにも通っていた。運動神経の発達が急激で、スポーツとか力というものを自分の自分のアイデンティティにした。男の子として「強い」ことを誇りにした。1歳半離れている兄との身長差もどんどんなくなっていって、一年生の頃には兄と対等にスケボーでもドッヂボールでもできた気がする。今日では兄と僕は同じ身長だが、僕が小学校4年生の頃くらいから、ずっと同じ背丈だ。それだけ兄は成長がゆっくりで、運動能力に差を感じることなく僕らは一緒に遊ぶということができた。
 でも相変わらず「食生活」は厳しかった。一度は家族でどこか出掛けた際にガソリンスタンドでもらった5つか6つのカップラーメンを、父は人にあげるともなくバッサリと、捨てたことがあった。印象的だった。子供会の集まりかなにかで最後にもらった赤いキャンディも、父には取り上げられてしまったことがあった。
 しかし月一度の100円のおこづかいでは、好きなものを買うことができた。誕生日やお祭りの際は、特別に外のものも食べることができた。「お神輿」が出る大きな祭りで、居酒屋のようなお店で「餃子」を食べたことを覚えている。だが、お祭りでは定番のフィッシュソーセージに甘いころもがついた「アメリカンドッグ」などはまさに憧れの象徴とも言える食べものだった。その他ソース焼きそば、たこ焼き、ハンバーガー、ラーメン、牛丼、焼肉、家で食べられるものではなかった。
 
 学校自体はとても楽しかった。大きな校庭でこれまで遊んだことのない遊具で遊んだり、勉強もとても面白かった。僕は、性格からして好奇心の塊であったから、だいたい何をやっていてもそれなりに楽しめるのだった。生命として命一杯世界に花開いていたと思う。
 好きな女の子もいた。恋心は早くて、その子が転校してしまった時にクラスみんなで歌った歌や、最後に大きな国道で手を振って別れた記憶などはその後何年も心にしまって大事にした。

 僕の子供時代に決定的な影響力を及ぼした宗教Mが始まったのも小学校入学の時だった。M教は日本の新興宗教で、手をかざし神様の光を通してこの世界を清めることを主たる活動とする宗教だが、その活動はもちろん、週に一遍くらいは神様がまつられている「道場」にいってそこで神様の光を頂いたりするようになった。特別な信仰を家庭に持ち込んだ親の動機の部分はよく知らない。祖母の調子が悪かったからとは聞いたことがあるが、それにしてもこのM教の信仰は二十歳前に自分からやめるまで、僕の世界観や人生観には決定的な影響を及ぼしている。この宗教の信仰を通じて僕は「神様を意識する」人間になった。


におい消しゴムに詰まった“にっぽん”
 「古郷」というと、誰しも、何か具体的なものに結び付けられると思う。「海風のにおい」とか、「鳥の鳴き声」とか、「田園風景」とか、そこにしかない何かをその象徴にするものだと思う。
 ところが、僕が15歳で日本に帰ってきた時、「古郷」という情感はいまいち希薄だった。それは小学校6年生の1年間と、小学校1年生までの時間では、本当に心に残る日本の思い出も限られていたからだ。逆に下手に海外に出なければ、人は自分の生まれ育った土地には「古郷」としての立派な定義を知らずと付してしまうものだと思う。
 しかし幼少の、日本らしい、日本にしかない何かに自分のルーツを求めると、おかしいかな、「におい消しゴム」が浮かび上がってきた。今の子供たちはどうなんだろう、やっぱり「ねりケシ」とか「におい消しゴム」で遊ぶんだろうか。マレーシアに出る前、僕はよくこのにおい消しゴムの香りの中に思い出を詰め込んだ。「日本」とはこういうところだ、自分にとって、という良き思い出を、一つ又は二つのにおいの中にとじこめた。それに似たような香りをかぐと、(今ではにおい消しゴムなんてかぐ機会もないが)瞬時にして20年前の自分にタイムトラベルすることができるのだ。まだ、日本をそう長く離れたことがない僕だが、もし5年とか、10年とか日本から完全に離れたら、僕の中に湧き起こる象徴とは何になるのだろう。「甘いお線香の香り」だろうか。

 1990年5月、僕らは父のいるマレーシアに飛び立った。全くの、別世界だった。日本の春とは比べものにならないもわっとした熱帯の空気。暑くはないが体を弛緩させる気温。日本の夏とも違う感じがした。テレビで見たことがあるかないかの、肌の黒い外国人(マレー人)。空港に群がるタクシーから出る排気ガスのにおい…。
 それは別世界に降り立った瞬間だった。
 タクシーで、父が待つK.L.郊外の一軒家に向かった。

 「マレーシア」は、日本に定住するようになった15歳以降に、最も強くノスタルジーを感じた国だ。国籍も、血のつながりもない国だが、滞在した4年間の間に、僕はだいぶ無意識に、その風土に根っこを張っていた。「根っこ」とは無条件に居心地のよさを感じさせる、目に見えない「ゆだね」のようなものだ。
 僕ら家族は、「不安」とか「慎重」よりも、この新しい世界を大いに歓迎した。特に母はそのようで、それに同調するように僕もまるで日本のことは忘れてマレーシアに生きた。もしかしたら父ぐらいかもしれない、一家の主として、又日本人として、異国であるマレーシアや人々に適度な距離を持っていたのは…。
 ただ学校は「日本人学校」に入った。そこで続けて日本の教育を受けた。話す言葉だけが日本語、という感じだった。

 マレーシアに着いてから数日後に、「K.L.日本人学校」に通い始めた。スクールバスに揺られて30分、レンガ積みのユニークな校舎に、いるのはたしかに日本人、でも常夏の国だから皆Tシャツにスカートかズボンといった身軽な姿だ。日に焼けて、マレー人と変わらないくらい黒い子もいる。机や椅子もわざわざ日本製のものを用意するまでしないので、教室の雰囲気なども日本とはちょっと違う。日本語を使い、日本文部省の定めた教育を受けるけれども、そこは僕にとってあまり「日本」ではなかった。そして、日本ではないからこそ僕のような異質さも受け入れられてしまうようであった。
 
 僕にとってマレーシアは日本にいるより気楽だった。僕の持っていたエネルギッシュさを発揮しても支障が少なかったんだと思う。マレーシアは華僑やインド系もかなり住む「多民族国家」。イギリスやオランダといった西洋の植民の歴史をもつこの国は異質なものに対して日本より開けている。日本では冷たい目で見られるような体験が、マレーシアに来るとぱたんとなくなった…そんな経験をしていたと思う。そうして僕はますます活発に、持ちうるエネルギーと創造性をもっと発揮して過ごすようになった。

0 件のコメント:

コメントを投稿