2010年3月12日金曜日

『こども時代』 1

   『こども時代』 

第一章
 表のこと

第一編
 『幼年期』 (小学校入学前、まで)
 
’86 母方おじの結婚式 4歳 
 幼児期は、誰しも母との思い出が濃厚だろう。母親の見た世界を見、感じたものを感じ、やることを真似するのが幼児の特徴だと思う。その意味で、僕は日本人には育たなかった。「しつけ」とか「お行儀」とかいうものより、男の子だから、とにかく元気に明るく楽しくすることが大事だと母は思った。1986年の母の弟のスイスでの結婚式は、幼稚園に入る前の、最も早い時期の記憶だ。
 
 断片的にしか思い出さないその時の記憶だが、その時見たスイスの自然の豊かな風景や町の雰囲気は、その後の僕の「憧れ」となった。きっとそれは母親の心を映していたからだろう、幼年は日本に住んでいながら、西洋的なものに無意識に反応し、深く観察しようとする自分がいた。たとえばそれはジブリ『天空の城ラピュタ』を映画館に見に行った時の記憶。もう少し後であれば『スタンド・バイ・ミー』という、アメリカ少年達の冒険映画などだ。小学校に上がって、友達との違いに苦労して、一人ぼっちになったりした時には、西洋文化に対する「憧憬」はエスカレートした。
 『天空の城ラピュタ』に描かれた世界はそれにしても美しく清らかで、僕は日本ではないそのイメージ世界にいいようのない郷愁のような気持ちを抱いていた。もっとも、このアニメ世界は、ヨーロッパ人から見たらどこか“つくりもの”の雰囲気が強くて受けないのだろうが、海外に出たことのない日本人や、西洋的なものに触れたかった僕にとっては申し分なかったのだろう。そして「大空のどこかには天空の城があるかもしれない」という壮大な夢には、僕の胸、そして心は高鳴っていた。


◆プラレール大好き
 とは言っても、もちろん日本のものや、お父さんとの遊びを楽しむ自分もあった。当時父は会社勤めをしていたが、よくお父さんが玄関に帰ってくるのを楽しみにした。時々おみやげにちょっとしたおかしを買ってきてくれることがあって僕と兄は一緒になって待った。お父さんが帰ってくると、晩ゴハンの後なんかに広い八畳間でとっくみ合ったり、相撲をとったりして、一運動した後にぼんたんあめなどがご褒美でもらえるのだった。一度は兄がイヤになって泣いてどこかへ行ってしまって、父と「なにがイヤなんだろ、なあ?」とか言って2人だけで相撲をとったが、別の時は兄と全く同じことを僕がやっているのだった。1歳半の年齢差でも、成長が早かった僕は、早くから兄と一緒に遊ぶようになっていた。
 日本的だと思った自分の趣向には、「プラレール」の遊びがあった。プラスチック製の線路と電車のおもちゃである。別にそういうおもちゃ自体が日本的だとは思わないが、僕がプラレールを通じて浸った世界は、JRや小田急線といった「日本の鉄道の世界」だった。
 これも‘86年頃だろうか、父が健康を害したため、まだ幼稚園に入っていなかった僕は、母に連れられて電車で、健康法の料理教室に通った。小田急線はJRよりカーブや駅が多く、車線変更や車内放送も多い。時間やアナウンスの、正確さ。そして、決められた路線を設定どおりに進む、車やバスにはない、精妙さ。後で思うと、これは西洋の鉄道にはない、精妙さをこよなく愛する日本人の性格が現れているのだと分かったが、この時早くも僕は、その方面に強い関心を持っていた。
 「童話」の世界にもよく親しんだ。日本に住み、日本語を覚えるので、西洋の童話よりは日本のものに触れた。夜寝る前にお布団に入りながら、お父さんがおはなしを読み聞かせてくれたのを思い出す。だから「童話」というと、僕は、圧倒的に日本の物語を思い出す。

 

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