2010年3月12日金曜日

『こども時代』 4

弁当がほんとうにつらい
 K.L.日本人学校には給食はなかった。弁当屋さんは来ていたが、僕の親がそれを許すわけもなかった。したがって兄と僕と父は、マレーシアで得られる限られた食材からさらにマクロバイオティック法に適ったものだけ弁当に持っていくことができた。しかも作るのは「弁当」という文化をあまり持たないスイス人の母だ。
 1991年には2人目の妹が誕生し、お手伝いさんを雇った時期もあったが、母にはとうてい、美しい弁当を作るような余裕はなかった。だから時には中華鍋一杯につくった焼きうどんを、そのまま弁当に詰め込んで、昼にふたを開けると一面にうどんだけがはし入れの跡がくっきりつくほどぎゅうぎゅうにつまっていた。友達のコロッケやウインナー、おかかのふられた美しい弁当に比べて恥ずかしくて仕方がなかった。大人になってから、弁当さえ普通であったら僕の友達関係はどんなに充実しただろう…!と、悔しさに沈んだ。
 毎日の弁当の時間がいやで仕方なかった。早く昼休みになって外に行きたいと思った。食べなくても済むなら食べたくないとすら思ったかもしれない。完全な、「コンプレックス」であった。

 先日読んだ大平光代さんという、自殺未遂や極道の妻を経て弁護士になった女性が書いた本の中に、日本らしい「お弁当の時間」の描写があったので、記憶の限りで思い出して書いてみたいと思う。 
 弁当の時間: 
 「今日はパン?」 
 「うん。母ちゃん今忙しいねん」 
 「でもみっちゃんのお母さんきれいでいいなー」 
 「うちなんかクソババアやわ」 
 「キャハハハ!」 
 
 3人か4人で食べるお昼の楽しそうな中学生の会話である。イメージとして、こんなシーンであった。この、「今日はパン?」と、他人の弁当について何ともなく聞けて、それが別の話題につながる、そんな会話の中に、和みがある。特に日本人の場合はそうだ。でも、ここでパンはパンでもインドのナンをお弁当に持っていっていたら、会話は上記のように進んだだろうか?いや、「何それ~?」と、パンに注目が集まってクソババアなんて冗談は出なかったのではないか。
 僕が日本人学校で経験したのは弁当の違いのせいによる、友達との必要以上の距離感だった。「それなあに?」と友達に、素朴な質問を受けても、これこれこういう理由でうちはこれを食べるんだと、言うことができなかった。なぜなら、父は一時は世間一般人の食べるものを毒だとか、激しく嫌ったからだ。その感情をそっくりそのまま僕が出せば、友達には嫌われるのが目に見えていた。
 説明ができないどころか、僕は何年もの間、弁当について問われることを恐怖し、畏縮し、非常な緊張状態に陥っていた。でも弁当さえ過ぎれば、音楽でも、国語でも授業が待っていて、休み時間には命一杯想像力を働かせて遊ぶから、なんとか取り返しがついていた。


日本人学校に通っても、なかなか日本人にならない
 学校は日本人学校だったが、引っ越して間もなく近所の子供達とも遊ぶようになった。マレー系、インド系、中国系。言葉はマレーシアの公用語である英語となったが、初め、自己紹介とまでに交流した2コ上のCの家族には「知っている英語を言ってごらん」と言われて、「red」とか「flower」とか思いつきでカタカナ言葉を述べたのを覚えている。もちろん英語は話せなかった。母の母国語、スイスジャーマンはどうかというと、これも、母は日常では日本語を使うようにしていたため、全く話せなかった。
 この一人っ子のC少年とは、よく遊んだ。じきに現地人の英語の先生に英語も習ったため、気付いた時には簡単なことなら英語で意思表示できるようになっていた。日本人学校には小学生から週一回か二回、英会話の授業があったが、僕はもちろんよくできるクラスに入れられて、ディズニーの映画鑑賞など授業というか遊びというか、楽なクラスに入っていた。

 近所の子供達との遊びは楽しかった。家はぺタリングジャヤという、マレーシアでは比較的裕福な人が住む丘陵地域にあって、坂道を使って「スケボー」などに夢中だった。時には親に1リンギット(30円前後)をもらって1キロか2キロ離れた商店へ行き、投げたり、ねじったりするとぱーんと火薬が鳴るばくちくを買ってはCと探検したりしていた。Cに好きな女の子がいるというので様子を伺いに行ったり、意味もなく人の家のベルを鳴らしては走って逃げたり… Cに限らず近所には常時4、5人子供が住んでいて、彼らともよく遊んでいた。
 そんな、現地人との交流もなにげにあって、学校では必要最低限しか「日本人」にはならなかった。「遠慮」の心とか、「自分を抑える」という日本的な自制心はM教の信仰からも学んだが、自分自身はどちらかといえば自分を全開にして正面で向き合うような西洋的な社交術の方が好きだった。
 それはきっと、そういう方を好んだ母親という存在の影響もあったに違いない。
 日本人学校ではきっとエネルギーが強くて、悪気はなく個性を発揮するこの少年を、「まったく、本当に困ったやつだ」とか「親はこの子に何を教えているんだ」と思った先生方もいたことだろう。
 反面、やはり、級友関係は苦手の意識もあった。弁当のこともあるが、集団的「和」を重んじる日本人にとって「個性出しマクリ」の僕は扱いづらかったに違いない。学校の「文化祭」とかで協調関係が問われる時も、自分では命一杯みんなで楽しくやろうとするんだが、日本的な「和」には、ほど遠い有り様だったと思う。

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