2010年3月12日金曜日

『こども時代』 2

幼稚園の2年間
 幼稚園に上がると、記憶もだいぶ残っている。幼稚園は、ごくごく普通の、地元の幼稚園に入った。「年中さん」から入り、2年間だった。
 僕の成長は早かったとさっき言ったが、西洋人の血が入っているためか、入園式の写真を見ると、見事顔1コ分周りより大きい。単に身長というより、顔もでかく見えるのでやはり成長が早かったんだろう。
 大人になった今の身長は180cmくらいだが、日本の平均と比べると幼少の頃の方が大きかったんじゃないだろうか。
 大きいのは体だけじゃなかった。力も元気も、お友達と比べると温度差があった。お友達は静かに大人しくそれでもそれなりに楽しく遊ぶのだが、僕は外で命一杯体を動かして、冒険して、腕白な、そんな男の子だった。
 みなぎるような元気のはけ口が「いたずら」になった。たとえば当時、ビックリマンシールというのがはやっていて、「スーパーゼウス」という一番いいキラカードがあったが、普段そんなものを買ってはもらえない自分が、気付くとスーパーゼウスを含め何枚かビックリマンシールを持っていた。記憶にはないが、いつだか自分で手に入れた同類のシールを、価値があるように見せて、気の弱い友達から半強引に「スーパーゼウス」と交換したという可能性が高い。一こ上、いや、二こ上とも対等にやっていけるような威勢のよさだったから、どうしても同学年とは馴染めない感じだった。
 他には、幼稚園の近くのよく行くお菓子屋さんで、小さなおかしをポケットに隠して店を出て、見つかったことや、そのお菓子屋さんの裏にあった倉庫に勝手に入って見つかってしまったこともある。自分でもどうにもできない加熱性が、生まれ持った性質のようにして、僕にはあった。
 他方、みんなとの違いに苦労したのも幼稚園からだ。それは小学校になると気になってしかたないテーマになるが、幼稚園でも既に、周りとの「違い」による浮いている感は、感じていた。
 たとえば幼稚園に持っていった手さげかばんの柄に不満を持ったことがあった。「こんなのみんな使ってない。かわいいクマさん(テディベア)のがいい。」 そうお母さんには反発した。今思えば母さんが選んでつくってくれた明るい星柄の手さげかばんは、僕によく似合っていたが、みんなと同じものを使い、同じことをしないと、仲間外れにされてしまうということをどこかで経験していたんだろう。
 しかし、そんな僕を前に決定的な「挑戦」がつきつけられた。父の病気に伴い、食生活がガラリと変わってますます周囲との違いを抱えることになったのだ。食事は「マクロバイオティック法」とか、「玄米菜食」といったそれは厳しいものに変わった。白砂糖だめ、動物たんぱく質だめ、その他ジュースや食品添加物の入ったお菓子などもだめということで、僕は世間一般人が食べるものを羨望の眼差しで眺めるようになった。お味噌汁に入れるかつおぶしやフルーツでも日本にもともと自生しないバナナやグレープフルーツ、ビニールハウスで育ったイチゴなども、だめだった。うどんにしても野菜炒めや煮物、味噌汁にしても、味がいまいちである。ほとんどうちと外の間に別世界の境界線が引かれたようであった。これが、この食生活の違いというものが、外での僕を決定的に孤立させた。まだ幼稚園の頃は違いに対する意識は緩く、あまり問題だとは思わなかった。
 
 幼稚園時代ので忘れもしないのは「ファミリーコンピュータ」、いわゆるファミコンとの出会いだった。僕の親は厳しく家にはファミコンはなかったが、同学年で同じ幼稚園に通ったいとこの家や、友達のうちにはだいたいファミコンがあった。電車に対する興味の延長だろうか、これまた僕は夢中になってファミコンをやった。人の家だから遠慮も必要だったに違いないが、僕は構わず夢中にファミコンをやっていたような気がする。今思うと、ファミコンに「飢え」のようなものを感じたのも、加熱性がお友達とのケンカや、いたずらに及んだのも、自分のうちではあまり恵まれなかった、その結果でもあったような気がしている。 
 「自分のうちではあまり恵まれない」――――― この傾向は実に高校生になるまで、続く。

 幼稚園時代の温かい思い出は、陽の当たる縁側でお母さんと食パンを食べた思い出だ。干しぶどう入りのパンに、マーガリンを塗って食べる簡単なお昼ごはんだが、たっぷりとマーガリンを塗ったそのパンが、心が落ち着く母の懐の感触と一緒になって、幸せをかたどっていた。太陽の温もりもまた絶妙だった。

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