2010年3月12日金曜日

『こども時代』 5

休みはエメラルドグリーンのアイランドリゾートへ
 父は倹約家だった。現世的な豊かさを享受することにはあまり興味がなく、それよりも、「あるものでいかに最大限生み出すか」や精神的豊かさの方に関心があった。家は質素な食生活で食費はあまりかからないはずだし、お給料も良いに違いなかったが、子供にモノを与えるのはよくない教育だという考えもあった。
 だが、物価が安いマレーシアでは、休みにはよく「海のリゾート」へ、3泊4日とか4泊5日とかで赴いた。ポートディクソン、クアンタン、パンコール島、カパス島、プルハンティアン島、シブ島、ペナン島。他にもあったかもしれない。マレーシアの大自然に身をさらし、地球に自分が生きていることの不思議さや神秘に触れるような時間もあった。宇宙の「根源」というか、神様のようなものに触れる機会があったとすれば、僕にとってそれは「マレーシア」となるだろう。いいようのない安らぎや幸福感を、僕は浜から見た大きな青い空や眩しい太陽の光の中に感じていた。マレーシアの風のにおいや感触、雨のぬくもりや雷雲の黒さに、「心のふるさと」を思うことがある。
 リゾートにいる時は、さすがにリゾートの食事が一日三食、許された。欧米人向けになっているリゾートの食事は大概セルフサービスのバイキングで、朝食ならウインナーソーセージやたまごやき、コーンフレークの数々、ジュース、普段は食べられないクロワッサンにバターをたっぷり塗って腹にきっちり収めては、海へ一目散に飛び出していった。昼も、夜も、たっぷりと食べた。
 また思い出深いのは、リゾートへ向かう行きと帰りのワゴンだった。父は、休もうと思えばバスでも利用できたと思うのだが、だいたいいつも何十キロも何百キロもファミリーワゴンを走らせて、途中で出店のフルーツを買ったり、風景を楽しみながら、困った時にはにわか仕込みの父のマレー語で、警察官や現地の人と交流しながら旅行した。(余談だが)父は主にマレー人に日本語を教えるという仕事のため、マレー語にも人一倍関心があったと思う。車の中では外を見ているのに疲れたら父のかける70年代80年代のポップソング(日本)に耳を傾けたり、寝たり、兄とふざけ合ったりしていた。
 この頃には兄妹も4人になっていて、兄がイヤになったら(笑)妹をひざの上に座らせてお母さんの代わりに面倒を見たりした。
 高価な日本食は滅多に食べなかったが、家族での外食は、けっこうあった。M教の道場の帰りには中国系の、日本で言えば「つくね」とか「ちくわ」のような肉に野菜がはさまっているおでんのようなものを、6人分どっさり買って家で食べるのが習慣化したり、家の近くではよくインド料理を食べにいった。現地の食べものは肉も普通に使われていたが、マレーシアではそうやって外食することも週に一回くらいあった。ただし家では厳格に食事の難しさを説教する父がいた。だから僕らも外食しても純粋に食事を楽しめないことも多く、申し訳程度に食べることも多かった。小学校高学年になる頃には、マクロバイオティック法による食べものの健康不健康がだいたい検討がつくようにもなっていて、例えばソース焼きそばを食べてもこのソースには「食品添加物」がいっぱい入っていて、それは基本的には体に害があるんだという理解で、「食べない方がいい」と思うようになっていた。そしてだが内面では体の感じ方との違いに気を揉むのだった。


おやつは3枚の食パン
 午後三時か四時頃スクールバスで家に帰ると、よく食パンをそのままかじった。親はクッキーとか、ポテトチップスとか、チョコレートなどは用意しなかった。時々お母さんが作ったケーキなども黒砂糖の味付けであったりたまごをほとんど使わなかったりで味気なかった。それでも何か腹に収まればと、兄や僕は市販の食パンを3枚くらい台所からとってきて、「ドラゴンボール」でも読みながら食べるのだった。何もつけない食パンも、それはそれで、おいしかった。
 テレビやマンガに関しては、うちはやはり厳しかった。マンガ本はドラゴンボール以外にジブリが少しあったが、それ以外に何かあっただろうか。よく覚えていない。同じ部分を何度も何度も読み返して、セリフを覚えてしまうくらいになっていたのは覚えている。
 読書は、僕は嫌いで、読んでも「父に言われたから」とか、けっこう無理をしていた。本は読んでも頭に入ってこないので、友達など、なんであんなに黙々と読めるのか不思議で、また悔しくもあった。
 テレビは当時は衛星放送などもちろん無く、見てもビデオに撮ったジブリか、時にジャパンクラブという所で借りてくるビデオ、それくらいだった。小学3年か4年になって買ってもらえたファミコンも、週末に2時間しかできなかったので、僕らはだいぶ時間を持て余した。友達がやっていることの多くが自分らはできなかったため、僕らはだいぶ想像力を働かせて自分達で遊びを「つくった」。
 その一つは「マンガ描き」だ。自分で自由にストーリーを考えて、紙にマンガを描く。小学4年生の時に兄が始めた「スーパーメルちゃん」というマンガに刺激されて、自分もマンガを描いた。兄のように絵はうまくなく、短気でもあったのでなかなかまとまったものが出来なかったが、この「マンガ描き」は高校生になるまで兄貴と一緒に続けた。しかし、絵に関しては、僕はどうも上達しなかった。兄ほど関心がなかったのだとも思う。

 ファミコンが買ってもらえた時は、驚いた。ある日突然、家に帰ると、テレビの所で父が何かやっているので見に行けば、有り得るかな、見慣れない本体ではあったが確かにそれは「ファミリーコンピュータ」だった。「ファミコンで夢中になると、癲癇(てんかん)になるぞ。」とか「ファミコンをやっているとバカになる。」というようなことを言っていた父が、「ファミコンも、面白いもんな…」と言った。
 僕や兄は、一気に「ハイ」であった。マレーシアの華僑の技術者が、きっと違法的に様々なゲームを1カセットに収めた「22 in 1」というカセットが、僕らの初めてのゲームソフトだった。その日は思う存分やらせてもらえ、たしか次の日曜日まで毎日2時間くらいできたが、どんどん時間は減っていき数ヶ月後には「金土日で2時間」で安定した。
 学校の友達らはすでに性能が1ランク上のスーパーファミコンやゲームボーイに走っていたが、この出来事には大いに喜んだ。ちなみにご近所はというと、隣家のCは一人っ子だったが、ゲーム機(ファミコン)をもらったのは僕たちよりも遅かった。マレーシアを去る時にスーパーマリオブラザーズ3を、安く売ってあげたことを覚えている。
 それからというもの兄と僕は月30リンギット前後のお小遣いを溜めてゲームソフトに使うようになった。TAMIYAの「ミニ四駆」もファミコンと並んで近くのデパートに置いてあったが、どちらかといえばファミコンのためにお小遣いを使った気がする。ミニ四駆は一台30~40リンギット(1000~1300円)した。ファミコンソフトは100リンギット前後だった。
 ロールプレイングゲーム(RPG)では、どうしても時間がかかるため、一週間に2時間じゃあみじめだった。でも父にそれを相談する余地はなかったので、、ある時は真夜中に起きて、心臓をバクバクさせながら音量をゼロにして暗闇の中でファミコンをした。バスルームを挟んだ隣りの部屋から親が出てきたら、まず「アウト」だ。父に怒られることはなによりも怖かった。それでも、僕は危険を冒した。
 「真夜中にファミコンをしたい」ということは兄には話して、最初付き合ってくれたが、その後兄は来なくなった。

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