2010年3月12日金曜日

『こども時代』 9

小6 日本帰国 「給食」が許される
 父の当初の予定任期「3年」が1年延びて4年間マレーシアに住んだ後、僕らは日本に帰国した。父の次なる任地は「ドイツ」であることも間もなくわかり、暫定的な日本での生活が始まった。
 地元の小学校には小学1年生の時に同じクラスだった友達も残っていて、みんな大きくなっていた。それでもやはり日本のことはよく分からないので、友達以上に周りのことに目がいって落ち着きもなかったと思う。転入当初はみんなに好かれ、学級長にもなったが、5、6月の修学旅行では早くもケンカがあった。それはまた、例によって「自分を出す」生意気さに、クラスのやんちゃな男子が反応した。
 日光の観光中に、バスの中で、「外人」というようなことを言われ、僕は日本人だと主張すると「どう見たって日本人じゃない」と言われ、手がとんだ。狭いバスの中なのでとっくみ合いになる前に周りが介入したが、それはまた「納得できない」くやしい出来事だった。
 日本に来るや、いとこのS君が主将をつとめる少年野球部にも入ったが、そこでもちょっとした不和が生じたことがあった。祭りか何かに友達と出掛けた際、花火合戦をしている時にどういうわけか僕は敵の方についていた。野球部のコーチである人が一人やってきて、「いけないよ」といわれてそれでそれは済んだ。
 小学校6年生は、そんななぜか分からない周囲と自分の不調和に一番苦しんだ時かもしれない。本来明るく遊びっぽくて元気な僕の性格も、発揮できなくなっていった。僕は少しずつ内向的になった。

 反面、学校ではみんなと一緒に給食を食べることが許され、父が早くもドイツに飛んでいなくなると、家の食生活も少し緩くなった。そして日本で手に入る食材もまだマレーシアよりマシで、「食事」に関して世間との「違い」に悩むことは、減った。それよりもやはり、この頃は自分の威勢のよさばかりではどうにもならない学校や世間との関係に悩んでいた。
 身体能力にもかげりが感じられた。依然として体も力も強い方だったが、気力は落ちていたし、成長期の友達にはやっぱりかなわなかった。

 小6の夏には3人目の妹も生まれた。12歳の年齢差があったので、母と一緒になって赤ちゃんの成長を見守った。妹が3人いたので3回子守を経験してそれが知らずと「兄妹愛」とか「家族愛」を深めていた。
 次に向かうドイツでは、現地校に入るということになった。それが純粋に自分の意思だったか、せかされての決断だったか微妙なところだが、母の母国語に近いドイツ語を学ぶことには大いに関心があっただろう。でも日本にいる内から通った渋谷の語学学校ではうまくいかなかった。
 ドイツで僕は「孤独」を愛するようになるが、このときも、渋谷への行き帰りの電車や、父のいない生活、友達の少なさなどは、どうしても意識を自己の内面へと向けるようになった。
 小学校の卒業式も日本で終えると、僕ら家族5人は父と兄に合流した。久しぶりの再会がうれしかったし、なにより僕は、「次なる新しい世界」に多大に期待した。

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