2010年3月12日金曜日

『こども時代』 7

小4 おじいちゃんのお葬儀で一時帰国
 4年生のとき、日本のおじいちゃんの容態が末期になって、僕らは日本に呼ばれた。祖父は僕がまだ幼少の頃に脳いっ血で倒れ、半身不随になって車いす生活を送っていた。「ぼけ」も出ていたのでおばあちゃんは一人での看病に参ってしまい、一度マレーシアにも呼んだことがあったが、いよいよ時が近いとされ、家族全員で帰った。
 おじいちゃんとの思い出は、残念ながら、ほとんどない。物心がついた時は既に心身衰弱した車いす生活だったからだ。自分で立っている、元気なおじいちゃんの姿はアルバムの写真でしかしらない。
 祖父は、戦時中は兵隊としてグアムなどに出兵し銃弾を足に受けたりしながらも生還した、数少ない兵士の一人で、小川家では唯一の男でもあった。結婚が遅れたため、父とはだいぶ年齢差があった。
 
 恥ずかしいことに、僕は当時、おじいちゃんのことを心から思う気持ちはほとんどなかった。日本に帰ることをどこか「建前」的に思った。きっと、「父」の心が分からなかったからだろう。僕は父は厳しくて怖いだけでもっと人間的な部分、弱い部分を見ることがなかった。それは実に、大人になるまでそうだった。そんな自分は飛行機にのって日本に帰れることをただ喜び、祖父に関することは適当につきあう感じだった。お葬式では皆と一緒に泣いたが、祖父との関係によって涙したのではなくて親類が一人いなくなったことが悲しい、そんな程度だった。
 
 2年ぶりの日本は楽しかった。いとこのS君にも会えたしおばあちゃんにもらったお小遣いなどではファミコンのソフトやマレーシアでは買えないプラモデルなどのおもちゃを買った。吐く息が白くなる日本の秋を体験することも新鮮だったし、昔の思い出を追いかけながら、2週間程度の日本を、楽しんだ。S君の母であるおばさんは、学校がない僕に、家に誰もいない時は玄関のカギの場所まで教えては、「ともちゃんいつでもファミコンやりに来ていいからね」と言ってくれるのだった。S君がどう思うかもあまり気にせずに僕は誰もいないおばさんのうちでファミコンをやったものだ。
 自分にとって「日本」とは何かということが、この頃まだよく分からなかった。父の祖国であり、自分の帰りつく国でもあるということがどういう意味なのか、まだよく分からなかった。父との関係的な距離は歴然としたものがあって、母親に気に入られるままの自分を生きていた僕はほとんど「日本」というものを考えてみなかった。「大きくなったらスイスに行くんだ」と、言葉も話せないくせに軽く思っていたかもしれない。とにかく「日本」とは、僕にとって、「なんだか知らないけどある」、そんなものだった。日本を「ふるさと」とする精神的なつながりは、「希薄」だった。


◆「道場」通い
 小学校と共に始まったM教の信仰は、マレーシアに行っても続いた。神道や仏教に性格の似ている日本発祥の宗教だが、マレーシアのK.L.(クアラルンプール、首都)にも、しっかりとした道場があった。道場長は中国人だったが、マレー系を除いて中国系とインド系の信者が大勢いた。だがインド系は少なかった。時には頭にターバンを巻いた、あれは何教なのだろう、明らかに別の信仰がありそうな人もいた。マレー系がゼロに等しかったのは、マレー人はムスリムだからである。(ムスリムは基本的に改宗を許されていない。)
 週に一回はこの道場に通い、「お浄め」と呼ばれる神様の光の受光・施光をしに3時間から4時間使った。主に体に御光を頂くのだが、それが一人40分~50分かかり、10歳以上で3日間の集中研修を経ると自分も手をかざすことができる様になり、受けて、手をかざせば簡単に2時間くらいになる。小学校4年生の終わりに、僕も兄に次いで手をかざすことができるようになり、信仰生活は盛んになった。
 月に一度は「月並祭」という祭りがあって、中国人の英語で賜るその教えや奇跡の体験談などをほとんど頭に入らないが、(苦笑)我慢して聞いているのだった。自由参加だが、水曜日か木曜日には午後7時の御神殿の閉場の後にトイレ掃除や、道場全体の掃除に通った時期もあった。平日の8時とか、ほとんど9時まで、そうして神様の役に立っていると思える活動をすると、自分が偉く、清らかになった気もし、なんともいえない幸福感に包まれたことがあった。
 マレーシアの頃は家でもよく「お浄め」の交換をした。お母さんとやったり、お父さんとやったり、妹にやってあげたり、その時々に必要だと思われる人が御光を受けた。本当は、毎日この御光を受けることが奨励されていたが、さすがに毎日はできなかった。一度受ければ40分とかじっとしていなければならないので、僕は好きじゃなかった。それでも、十分に遊んだ後など、落ち着いて、家族とおしゃべりをしながら受ける「お浄め」は、悪くもなかった。お浄めの時間は、私語は慎むべきだが、完全無言であることはむしろなくてそれは食卓と同じように家族的な交流の場にもなっていた。
 M教を通じて学んだことは計り知れない。精神的な鍛錬、集中力や信念の養成、道徳、愛、人間性の学び…。僕は明らかにこの宗教を通じて信仰的人間になった。19歳で、自分から辞退して世間一般の世界に飛び出したが、決して実利主義、実在主義にはなれなかった。
 M教は僕にとって、「日本」との接点でもあった。信仰的に非常に日本人の心に近いのである。創始者が日本人であるから当たり前かもしれないが、僕がどんなにマレーシアに浸って「外人」になっていても、この信仰があることで時にはキュッと自分を引き締め仏性の世界というか、内なる静寂の世界に目を向けることができた。
 「組手(くみて)」と呼ばれる、自分から手をかざすことができる状態になると、その頃から、僕の心も急に一成長した。幼稚園の頃からあった自分の「粗暴性」が、収まり始めた。

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