2010年3月12日金曜日

『こども時代』 8

小4 「ガキ大将」、生徒会「書記」当選
 K.L.日本人学校にも馴染み、体も成長すると僕は調子に乗り始め、小学校4年生の時には「ガキ大将」となった。いつも5人~8人くらいの、同じクラスの男子を引きつれて、メンコ、コマ回し、ドロケイや、ドッヂボールなど、ありとあらゆる遊びをした。自分がそれだけの仲間を惹きつけたのも、身長150cmの大きな体と、抜群の運動能力、そしてもともと備わっていた遊び好きの性というか、エンターテイナー性が説得したんだろう。この時の担任の先生は女性で、大人しい子供が好きそうだったが、僕のような活発さにはうまく対処できなかったような気がする。それで本来「たたいておくべきところ」をたたけなかったから、先生を圧倒するようなこともし、僕はますます調子に乗って、本領を発揮するようになった。そんな風に思う。
 一度仲間をひきつれて普段は中学生が遊ぶバスケットコートに行き、移動式ゴールにみんなでよじのぼった。リングは前に飛び出している分、後ろには重りがしてあって、バランスが保たれている。しかし3人も4人もリングボードまで登り詰めるとバランスが、崩れる。幸い、それは学級か何かの時間で、リングの下には誰もいなかったため惨事には至らなかった。バスケットリングは僕らの重みで揺れたかと思ったら一気に前倒しになった。ガーンッという音とともにリングはぐにゃりと曲がってしまい、上に乗っていた僕らも転落した。下に生徒がいたら、これは取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
 その調子で僕は、小学6年生と5年生がになう、生徒会の「書記」に立候補した。日本人学校は色んな面で特殊だったが、その選考にもまるで選挙のようなシステムがあった。立候補した生徒は、お弁当の時間を使って各クラスに行き、体育館での演説を経た後に全校生徒によって投票が行われるのだ。立候補者には推薦人もつき、この時非常にまっとうな山口君という級友がついてくれたため、僕は見事「書記」に当選することができた。
 しかし結局僕は幅を利かせすぎていたため、小学5年生のクラス編成では見事に仲間達から切り離された。僕のガキ大将時代に終止符が打たれた。きっと担任の先生の策略だった。


小5 マレーシア最後の一年
 信仰生活やクラス替えの影響で5年生からはけっこう「大人しく」なった。学校も生徒数の増加による新校舎への移転があったため、いろんな意味で新しい生活になったのだ。新しい転入生もどっと入ってきていた。
 小学5年生にもなると、成長期に入る子もいるからだろうか、僕の強かった体や力も、周りに対してそれほど大きな違いは感じられなくなっていた。それは肉を食べない食生活の影響もあったかもしれない。進級して間もなくの運動会では相変わらずリレーの選手に選ばれていたが、サッカーのうまい子や、腕力のある子も出てきていて、自分も自然と大人しくなっていった。
 でもまだ友達に対して腰が高かったのか、小学3年生の時には仲がよかったアソウ君の仲間からからかわれることがあった。自分ばかり出して「生意気」だと思われていたのかもしれない。「ガイジ~ン♪」とか、何かバカにすることを言って素早く逃げてゆくのだが、一度、度が過ぎるので、足の速いそいつを、くたばるまで追いかけて、おなかの上にのっかって何発か殴ってやったことがあった。
 直後、それを知ったクラスの仲間が 「お前サイテーだな!!」 と言ってきたのだが、そこで僕はむしろ抗弁するように、「お前に差別される苦しみが分かんのかよ!!!」 と、感情的に、くやしさをあらわして言い返した。すると繊細だったそいつは 「そうか。」と後ずさりした。感情表現が苦手な僕だったが、その時は自分をしっかりと打ち出していた。
 その頃にはだいぶはっきりと、自分の物事の感じ方や、人間関係の持ち方が、友達とはチガウことを意識するようになっていた。何で「ちがうのか」、どこが「ちがうのか」は分からないまま…。

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