2010年5月2日日曜日

『こども時代』 29

情けの民と合理主義のゲルマン
 異文化に関してはあとひとつだけ触れて終わりにしたいと思う。 スイスドイツ人は、いわゆるドイツ人の固さは控え目だが、同じゲルマンの民として日本と比較したいと思う。

 僕が大学をやめて23か24の頃だったと思う。基本的に挫折の中をさまよっていた僕だったが、時には少し開き直って新しい目で日本を見る自分がいた。仕事も大学時代の塾講師から派遣アルバイトスタッフ(引越し、軽作業など)や2tトラックの運転手と、ランクが落ちていた。そんな情けない惨めな自分を仕事仲間を前には苦笑いしてごまかしてみた。プライド高きゲルマンの心ではとうていできないことだ。すると驚いたが、不思議と仕事の仲間が寄ってきたのだ。自分の弱みや失敗をありのまま出してしまうことで、人間関係がうんと楽になる気がした。
 「失敗しても、それを隠さないで出してしまうと、不思議とうまくいくんだな。」
 そんなことを思った。まだ見知らぬ、日本の処世術だった。対してドイツやスイスではどうかというと、失敗を、頭をぺこぺこして苦笑いしてみせれば、 (情けないヤツだな)と思われるだけである。職場だったら、 (なんだその態度は!)と思われて、 「責任をとってもらおう。」と、言われてしまう。だからドイツなら、失敗をしても、どう失敗したのかを真面目に話し、これからはどうするのかということを共有しようとするのがまっとうな在り方だ。
 日本だったら、どう失敗したかを真面目に延々と話されても、上司はほとんどめんどくさくて 「うるさい!要点だけ短く話せ。」 と言いたいところだ。したがって社会では自己管理がきちっとできていて、堂々としていると認められ、よい思いをするのがドイツだ。

 もうひとつ。町を歩いているとする。
 なにやら不審な人物が、建物の陰に居る。日本だったら、「何あの人。早く行こ。」 というのが普通だろう。変なことが起きる前にいなくなってしまえばいいという心理だ。また仮にその不審者が「困って」いたとしても、 「関わり合いになりたくない」と思い、見ても見ぬ振りをするというのが普通だ。それが日本では、難を避け、足をすくわれずに器用に生きるための基本だ。
 では、日本では不審者は自由なのかと言ったらもちろんそんなことはないのはご存知の通りだ。町には必ず、そういう人物を取り締まる人間がいる。警察でなくても、地元の人間がうまくそういう人間にアプローチし、事情を調べ、それに応じて対策を講じる。警察なしで済んでしまうことも多い。
 ゲルマンはどうするのかと言えば、意外と暇な人間が町を歩くついでに不審者に声を掛けたりする。「変なことを企んでいるんじゃないだろうな?」という気持ちをぶつける。それで不審者が奇行に出れば、それはすぐさま警察沙汰だ。近隣の人々も、(不審者がいる!)と思ったらすぐ110番する。自分達でどうにかしようとはあまり考えない。「そういう時こそ警察の出番だ」と思っているのだ。
 でも不審者も、厳しい一般人の目で見つめられてしまうと、ふつう悪いことはできなくなる。それくらい向こうでは個人が、社会を代表して判断力を行使できる。それでもそれに反して何かやらかせば、不審者の処罰は厳重で、一般人の抱く恨みも尋常ではない。
 ドイツ人にももちろん 「関わり合いになりたくない」という心理はある。でも人々は関わることも日本人ほどには恐れていない。向こうには個人の権限が歴然とあって、関係したくなければ 「関わるな。」と言えばそれで済むのだ。日本だとその点人間関係というのはイイカゲンなもので、相手の弱みさえ抑えておけばいくらでもちょっかいを出せる…ということがある。したたかな人間が善人の弱みに付け込んで、益を引き出す。だから 「変な人とは関わり合いになりたくない」と日本人はとかく思うのだ。「情け」を重んじる日本人ならではの弱みかもしれない。



 三編  『共依存』


精神的に近すぎる関係
 僕が15歳になる頃まで海外を転々とした僕の家族は「孤立」していた。マレーシアでもドイツでもそして日本でも地元との交流はあったが、決して深くならなかった。そして家族内でも異文化による関係の難しさから、つながれる者とは深いつながりを求めるようになった。それは母の指揮のもとに団結した兄、僕、妹Yと、母のつながりだ。
 前にも述べたように、僕と兄はとても仲のいい兄弟だった。一番上の妹Yは僕と5歳離れているため、遊び自体はあまり一緒にならなかったが、母の下には一緒になって団結した。そして僕らはこの母という人物に支えられて、母をこよなく慕った。
 しかし、そんな関係は「近すぎる」のだった。兄妹が何を思っているのか、母はどんな気持ちでいるか、言葉を交わさなくても分かる感じで僕らはお互いを認識し合った。「自分の感じることは兄妹も感じている。」 そんな一心同体の心を僕は大切にしていた。それが母を支え、また僕らを支えていた。
 テレビ番組を見ても、抱く感想はみな、似たり寄ったりで、あまり独自の感性を発揮することはよくないとさえ思われた。しかしそれでは家庭内でもあまりに窮屈なので、中学生にもなると僕は、静かに自分の世界に入ることも多くなった。妹も、どうも行き場がないように見えた。
 兄はだが、長男として兄妹をまとめるのが好きだった。大人になってもその癖が残っていて僕は個性や個人の尊厳の大切さを主張したりした。
 母は、自分の人生を僕らの教育に捧げる中で、しだいに夫婦関係よりも子供との関係に力を入れるようになった。その中で、母の、父に対する不満や悩みのようなものも、僕らも一緒になって考えるようになった。そしてそれは、気付かぬうちに他のことにも派生して、母の好き嫌いそのものを自分が引き継ぐような結果を招いた。僕はある面で自分自身の感性を発揮することを恐れ、母や兄妹にどう思うか聞いてみないと心が落ちつかないような、そんなところがあった。
 24で人生に絶望した時、僕はだいぶ自己を、小川家で育った自分を、社会で試し、経験を積んでいた。でもそれでもうかなり傷ついて元気を失っていた。「この小川家の人間が、そのまま日本の社会に出ていくと、どうなるか。」 兄妹を思うと、目が暗んだ。
 大学の一人暮らしから日本や日本人について多くを学んだが、母が自分を守るために持っていた東洋人に対する部分的なさげすみは、僕からも抜けきらなかった。たとえば母は、女性問題をよく訴えた。「日本の女性は虐げられている」「かわいそうだ」「立ち上がらなければだめよ」というようようなことをよく口にした。母ほど激しくはなかったが、僕も女性が自分を出さずに、お世辞やその場凌ぎの言葉だけ言って去っていくのを見ると、哀れだという気がしていた。

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