2010年5月2日日曜日

『こども時代』 34

飛蚊症という名の「呪い」
 「家出」と家族否定は僕にとっても大きな負担だった。家出は歴然とした「負い目」だった。
 父と喧嘩して兄のアパートに転がり込んだ頃、視界に異常を感じた。視界の真ん中に大きなゴミが浮いているのだ。大学一年次はパソコン技能を急速につけなければならず、授業も大変で、目を酷使していた。「飛蚊症」と呼ばれる、視細胞の眼球内の浮遊は、それ自体問題はないのだが、急激に発生する場合は失明の前兆という場合がある。とにかくその頃から、目に浮かぶゴミが急発生して、これには僕は不安を覚えた。眼医者に見てもらって「網膜はきれいですよ」との優しさのこもった言葉をもらっても、僕の不安はなくならなかった。
 飛蚊症(視界のごみ)は、ある特定の精神状態の時に強く意識され、それが気分を左右した。2003年になっても2004年になっても、「家出がいけなかったのだろうか。あの、父との喧嘩がやっぱりいけなかったのだろうか。」 と不安になる時があった。何かに熱中していると、視界のごみは見えなくなるが、休んだり、気持ちが消極的になると、とたんに気になって、しかたなくなるのだった。
 絶望の只中にいる時は飛蚊症によく「ノックアウト」された。ふと朝目が覚めた時に、ゴミが意識されたり、目ぶたが重かったりすると、それだけで落ち込むのだ。それはまるで「呪い」のようで、抵抗できず、自己嫌悪を促した。
 痔によって便に血がついていれば、「ハァ。。。目も、腸も一人暮らしになってからの食生活のつけが回ってきているんだ。早く手を打たなければ。」と、食生活を変える(自制する)余裕なんてないのに頭はそう考えて心を砕いた。


症例 1
 2006年頃の僕の精神活動には次のような症状が認められた:
ケース
  1 
 「コンビニに行こう」と思っていたら、僕の始めたことは皿洗いだった。 (1時間とかたった後で思い出す)
  2 町に出たのに、一番したかったことがどうしても思い出せない。    
    思い出そうとすると「ブロック」もかかっていて、仕方なく家に帰る。
    (家に帰って一段落した頃やりたかったことを思い出す。)
  3 (2の他例) あるいは、一番したかったこと(例えば「本屋で本を買う」)を自ら否定してしまう。 (理由をつけて「本は買うべきじゃない」と思う)
  4 ラーメンを食べに行こうと思っていたら、急に「マクドナルド」という内なる声がして、マクドナルドに行き、満足せずに帰ってきて、コンビニに食べものを買いにいく。

(僕の場合、公の面前では変な行動は出なかった。自立心が強かったためと思われる。これらの症状はすべて自分自身で感じうるものだ。)

 人は何かのこだわりや、信念によって「心」に反発し、し続けると次第にこうなるのかもしれない。僕の場合世間体や名誉は捨てても、自立心は手放さなかったため人の迷惑になる前に日本を飛び出した。しかし、そうでなくすべてを放棄して精神的異常をそのままにしていると、きっとこの先に「精神病」があるのだ。
 ケース2に挙げた「ブロック」についてだが、これは本当に不可解な現象だった。思い出そうとしても、素直に思い出せないのである。それはあたかもアプローチが拒否されているような感覚で、精神が、まるでそっちのことを見れなくなってしまう。時々体験するそんな異常現象だったが、これは恐らく、普段から「心」というものに素直に従わないつけが全く別個の精神活動において現れてきたものだ。
 ケース3についてもこれに似ている。普段から自分を疑い、自己批判や監視が過ぎると、全く別個のそれまで普通にできた精神活動に同じような現象が起こる。しかしこれは、全くもって迷惑な話で、単純明解な欲求までがフィルターにかけられ自動的に疑われてしまうのだ。自分の中に、別個の人格があるのではないか…と思いかねない。
 ケース4について。これもケース2や3に準じている。しかしこれは、最も困ることで、自分の欲求のコントロールを失うことを意味している。「ラーメンだ」と思っていた心は、マクドナルドに行ったことによって無視され、しまいにはコンビニに行くことで余計にお金も使ってしまう。心は自分が何を欲しているのか見失って、しまいには「あれもこれも」とねだる状態になる。「声」というのはその抵抗できない性質から、そう感知される。思考の余地がないのだ。 次に、これの延長とも考えられる症状を紹介したいと思う。

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