◆兄妹
大人になってから、仲がよかった兄との関係は、悪くなった。僕が恋愛や一人暮らしを通して自分の世界を深め、父との喧嘩で家族の在り方を全否定したこともあるかもしれない。
大学一年の夏休みに、兄と二人で自転車旅行に出た頃から、兄とはある根本的なところで分かり合えなくなり、それからはずっと対立し続けた。
僕が訴えていたことは自分のことだけじゃなくて、兄妹のことでもあったが、それはほとんど伝わらなかった。
ある時から、兄貴の心の構造は、自分以上に「西洋的だ」と思うようになった。大胆に自分を改革した僕に比べて、兄は無難に昔ながらの性格で大学生活を送り、社会へ出ていった。しかしそれから、兄は引越しと転職を繰り返し、落ちつきのない生活をしている。
「心が多分に西洋人だからだ」 そう、僕は思っている。楽天家で、パワーがあり、大きな夢を持っているから元気にやっているが、いかに自分達が文化の混合によってハンディを負っていたかということは、兄にも気付いてもらえたらと願っている。特に「もう親のために生きてはならない。僕らの時代が来たんだ」と、僕は言いたい。
一番上の妹は高校の終わりに「妊娠」し、今日シングルマザーをやっている。もうじき3歳になる男の子は、誇れる健康優良児だ。実家で、親と一緒に生活している。
妹は昔、どこかぱっとしないところがあった。やんちゃな男兄弟の下に育って、あまり女の子っぽくもなかった。もの静かで、自分が薄く、こだわりを見せない不思議な妹だった。その彼女が妊娠した時は、それは「絶望」と時期が重なり、「親の関わり不足が原因だ」と思ってやまなかった。「人工中絶」を当然視するような相方の親と、中絶に反対する自分の親の間で、妹は苦しんだ。
「みやがれ!お前達の手抜きがこういう形で出てくるんだよ!」
と僕は、親に言いたかった。妹は苦しんだが、僕が日本を飛び出した後には元気な男の子を産み、今日も元気に生活している。
◆「共依存」
周りの子に比べ明らかに恵まれず、関係的貧困に苦労し続けながらも、なぜか僕は親をはじめとする家族との関係が諦められなかった。
2006年、僕が最も苦しんだ頃に親の決定的な不理解が露呈した。父も、母も。しかし僕はそれを憎みはしても仕返さなかった。例えばこんなことがあった。
寄宿生活塾に入ったK君を僕はよく相手をして彼の大学受験のサポートとして家庭教師もやった。しかし父とKについて意識を十分に共有することができないことや、自分自身の内面的トラブルもあって、僕はKの家庭教師をやめることにした。塾講師の頃のタフさはなく、Kのわがままにも耐えられなかった。そしてしばらくしてKが塾をやめた頃、父にこう言われた。
「これで(君も)どんだけ手をかけなければ子は育たないか、わかったでしょう。」
子供達の教育に、最も手を掛けないのは、他でもなく父だった。
同じく2006年、僕はチャンスさえあれば親や、家族の変なところを、言葉で伝えようとした。それは幼い頃からの、家族への誠意の表し方だった。
ところが、僕もしつこかったのだろうか、母はある時、しびれを切らしてこう言った。
「ともひろのいいかげんな成長の段階には付き合ってられない!(ともひろのいいかげんな成長は相手にしない!)」
僕には、家族を攻撃する気持ちなどなかった。むしろ自分に見えていることを伝えたいと思う、家族への忠誠がその根っこだった。しかしそんな心を母も、まるで感じていなかった。
幼い頃から僕は進んで皆の前で話をした。うれしかったこと、いやだったこと、楽しかったこと、つらかったこと。それは聞いてもらいたかったというのもあるかもしれないが、そうやって家族とコミュニケーションを図ることが好きでもあった。「自分を出す」という点では僕は、兄や妹よりも慣れていた。
大学一年の終わりに父と喧嘩をして家を飛び出した僕は、劇的に自分というものを、社会で試すようになった。経済的に親から独立し、塾講師をやったことなどはその最たるものだ。
ところが、家族はそんな僕の奮闘に「気付かなかった。」
父との喧嘩から2年10ヶ月。僕は大学中退を決したが、その間に学んだものはとても多かった。家族を「否定」し、自分の感覚を養うことに専念したその時間は、本当にたくさんのことを習得した。それまで表層的な理解しかなかった日本や、日本人というものに関して、塾でたくさんの子供達と触れ合ううちに多くのことを学んだ。経済的逆境を自力で乗り越え、大学卒業のための単位も大して残っていなかった。
そんな僕は、親や、家族の在り方を否定しながらも、時々帰った実家ではありのままの自分を出し、家族が、寄宿生活塾として「こうしたらよい」と分かるところは母や兄妹などに伝えようとした。そうすることがなにより、子供の頃からの家族を前にした僕の役職みたいなものだったからだ。
「家族を否定しながらも家族を思ってアドバイス」
一見、妙なことだが、僕は一人暮らしが軌道に乗っていたため、その自分が勝ち得たものを「自慢」ではなく、純粋に分かち合おうと思っていたのだ。
これにはだが、母も兄も、もともと距離のあった父も非常に「冷ややか」だった。僕は、あえて昔ながらの「智裕」で話をしているんだ…。なぜ相手にしてくれないのか…。そして、「いつまでも子供のままである」自慢や自己主張の好きな智裕とでも思って、2006年でさえ皆は、僕を軽くあしらったのだ。
きっと、「恋愛」や「一人暮らし」を通じて、僕が一人「まい進」してゆくのが恐ろしくもあったのだろう。「この智裕は、どこまで一人でやっていってしまうのだろう…。」 父との象徴的な喧嘩で飛び出していった僕が生活や人生に成功したら、それは家族にとってはショックになるのだ。それこそ僕が望んでいることではなかった。
大学3年次の秋には、だが、僕は「次なる」挑戦へと買って出た。大学をやめてスイスに行くことだった。
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