2010年5月2日日曜日

『こども時代』 25

父はあくまで父
 家族が日本に本格帰国するまでに大きくなった3人は、だいぶ西洋的な人間になっていた。とは言っても特定の国はなく、ドイツや母親を通じたスイス、宗教を通じた日本やマレーシアなどが混在した、独特な人間だった。それは決して日本人的ではなかった。
 生活塾としてよその子供が共同生活をする中で育った4人目、5人目の妹達は、だが、その中で必然的に日本人になっていった。心のいくらかを海外に残してきた様な上の兄姉の生き様に比べると、彼らの方がはるかに落ちついていて要領がよかった。妹らにももちろん別の苦労があっただろうが、でも、僕には見ていてホッとするぐらいのものがあった。
 しかし、日本に定住するにつれ父が本来の自分を発揮するようになると、僕などは却ってそんな父を憎らしく思った。

 「なんでこれまで出してくれなかったのさ!なんで今更この人は自分を出すんだ?!」
 「僕がどれだけお父さんとの基本的な関係に飢えていたか、知らないのか?!(憎悪)」
 「もう憎しみはどっぷりとたまっちまっているよ!苦」

 すべて心の叫びだったが、本人を前に明示したことはなかった。そして、うんと後になってからだが、日本人のことが分かる様になった時に、なぜ父がマレーシア時代など、寡黙で自分を出さなかったかが分かった。
 父は日本人としても、「洗練された」人間だった。それをスイス人と結婚したからといって簡単に変えることはできなかったのだ。それを変えようとしても、却って問題が生じると思ったかもしれない。第一、父の日本語教師や、寄宿生活塾といった仕事は父だからこそできた仕事でもあったのであり、それが自分を崩して、妻の西洋風に合わせていたら、家族の生計もどうなっていたか、わからない。
 母が、子供達の教育でフルに自分を発揮し、そこに父の入る余地はなかったのかもしれない。いずれにしても家計を支えていたのは父であり、父はその中で、いかにしたら家族の中で自分を生かせるかということを考えていた…のではないだろうか。


子供時代 関係的貧困 情報不足
 幼い頃を母の心に生きた自分だが、それでも存分に母の世界を味わうということは、できなかった。まず決定的な要因は、母は日本語を使っていたこと、そして、スイスに住んでいなかったことだ。時折、スイスのおばあちゃんからクリスマスなどに送られてきた胡桃や、旅行などで食べることができたチョコレートなどを、僕らは、非常に有り難がって食べた。食べものの見た目や味を通じて、僕らはわずかにスイスを感じることができた。
 かといって、なら日本ではどうだったかと言えば、早くからあった食生活の厳しさと、父親との不通などで、こっちはもっとひどかった。第一章にも書いたように、僕は日本というものに恐れを抱いていた。代わりと言っては変だが、小学校の頃僕がだいぶ心を浸したのが「マレーシア」とその人々、食文化、自然や気候である。
 僕ら兄妹は、だいぶ長いこと、父からも母からも文化的な、自分のアイデンティティとなるような関わりが持てなかった。自分はスイス人であるとも、日本人であるともなく、帰属の意識が曖昧で、宙ぶらりんだったのだ。子供にはピュアな心と、好奇心、吸収力、成長力などがあるが、それらを十分に発揮することができなかった。友達がやっていること(ファミコン、テレビ等)が許されなかったことも大きな理由だ。
 代わりに僕らを満たしたのはM教の教えや活動、そして比較的「文化」とは関係なく扱うことができる、社会問題などの大人のテーマだった。小学校のとき父の話で夢中になったのが、例えば「AIDS」だった。「AIDSとはどういう病気か」「かかるとどうなるか」「どうするとAIDSにかかるのか」… 父が借りてくるドキュメンタリー番組などを早くから一緒に見たりした。話の核心を理解することはできなかったが、それでも映像や時々汲み取れる内容が新鮮な刺激になった。

 そして僕らは、早くから「立派」でなければならない傾向があった。小学校中学年の頃にはもう4人兄妹であったし、母も父も海外での生活や仕事で、決して余裕がなかったのだ。友達はもっとぼんやりとしていても平気だった。自分のうちだけせめて何かやることを見つけないと、「お風呂掃除してー」とか、「ちょっとお鍋みててちょうだい」と、声がかかるのだった。だからあんまりぼんやりする時間はなかった。特に小学校の頃はそうだ。
 父はそうでもなかったが、母は何かやりながらもよく家族全体を伺っていて、僕が遊んでいても、夢中になっていないときはよく声をかけた。それは必ずしもお手伝いとか注意ではなくて、母も時間の許す限りそうやって一緒に考えたり、アイデアをくれたりするのだった。でも僕はあまり邪魔されたくなかったので、熱中できる何かを積極的に探した。
 親に対する「甘え」は、兄妹も早くから卒業していた。時には甘えたい思いもあったのだが、僕など威勢がよかったため甘えるのは恥ずかしいという感情を教えられていた気がする。本当は子供としては、威勢のよさも褒められ、でも弱い時はそのまま受け入れられる、そんな「ゆとり」が必要だったが…。そんな「ゆとり」を持つということを、僕は大人になってから社会を見て、初めて学んだ。

 「欲しいものが手に入らない」とか「知りたいなんでもないことも知れない」というのもあった。友達だったら海外でも毎週買ってもらえていた「少年ジャンプ」なども、うちにはなかった。兄はマンガにすごく興味を持っていたので、通学バスの中でよく友達に借りて読んでいたのを思い出す。テレビ番組も友達ほど見ることはできなかった。
 概して僕らは子供時代に「忍耐」とか「熟考」といった精神力を試された。その度が過ぎて僕の場合、大人になったとき自虐的になったのだが。M教の活動にしても、親の教育にしてもだいぶ忍耐力をつけされたのは確かだ。「与えない。ちょっと飢えるくらいがちょうどよい。」そんな教育観が父にはあったらしい。

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