◆症例 2
飛蚊症の呪いもひどかったが、「思考が勝手に走り出す」というような体験もあった。意味のわからない、狂った思考が頭の中で勝手に展開されていく。2つの有りそうな例を思いついたので書いてみたいと思う:
A― 頭の中に1つのイメージが思い浮かぶ。
なにやらそこに何かの機械と牛に与える干草がある。
リアルな牛舎で、人がその機械に干草をかけ、真面目に働いている。
干草は機械によってほぐされて出てくる。用途はそれだけの機械である。
秋に機械によって圧縮され、束ねられた干草はたしかに固まっているが、それを牛に与える前にほぐすのは、人かもしくは牛が自分ですることだ。
「機械でやる必要がない。」
「全く意味がわからない。」
しかし、頭はまじまじとそういうシーンを扱う。
B― 雪印乳業のチーズのコマーシャルに昔、
「スライスチーズは雪印♪」というキャッチフレーズがあった。
ある時、「フランスベッドは雪印♪」と、僕の頭に思い浮かぶ。
なぜかは分からない。特に意味はありそうにない。
だが思考はそれから更に話を続ける。
『分からないよ?「雪印」がフランスベッドを生産しているかもしれないよ?そうだとしたら、どうだろう…。』
頭は僕にそう問いを投げかける。
面白みがあるわけでもない、ただ不条理で無機質、何の価値もない発想が起こっては意識を奪われた。そして、こういう意味のわからない自動的な思考に限って無視しようとするとその話が余計に強く印象付けられた。ひどい場合には後で複数回同じ光景やイメージを見せられることもあった。そうなるといよいよ「自分は気が狂っている」と思いかねなかった。僕は「このような思考が頻繁化すれば、自分の思考をコントロールできなくなる」という不満に襲われた。
自分の内面的世界が異常を見せる一方で、家族に対する僕の理解はかなり進んでもいた。その時僕は24で、実家を飛び出した19の時から少なくとも4年はたっており、その間に家族についてたくさん研究していたのだ。実家に帰れば、家族の一挙一動が気になった。ほんの些細な言動でも、僕の目は見逃さなかった。実家で目の前に展開される映像は、僕の頭の中とほとんど変わりがなかった。家族一人ひとりの言動が、手にとるように分かる気がした。
それだけに失望もした。兄や一番上の妹Yが社会に出たときに経験しなければ済まない苦労が僕にはよく見えて、哀れで痛ましくて、しかたがなかった。兄妹にとって明るい、若者らしい時代などまるで見えてこなかった。
◆症例 3
「思考が走り出す」という現象は、健全な思考の中でもよく見られた。 たとえばある日、父の頑固さが気になった。その頑固さはどこからくるのか、僕にはそれなりの見当があった。例えば母の、父に対する配慮不足(独り歩き)から、例えば今の塾生や兄妹達の自分勝手から。例えば家族の不理解から。
父一人を見ると、そのどんな性質も、決して解くことのできない問題とは思えなかった。むしろ、家族でも、一人ひとりを見ると決して難しくはなかった。問題は僕が一人ひとりの人間的傾向のもとに、自分を監視するのと同じように家族を監視していたことなのだ。
父の頑固さが気になれば、そのことが兄妹などで話題になった時に、僕はそれに絡む特定の問題を、日常生活の中からピックアップして話し意識の共有を試みた。家族、特に兄妹では、家族について、父さんについて、母さんについて、生活塾についていくらでも真面目な話が挙がった。心の優しい兄妹達は、自ら進んで小川家族の問題を深くそして真剣に扱うのだった。
そんな中で、僕は日本を飛び出す時まで「話しによって」問題の解決を図ったのだが、そこには手順に大きな間違いがあったことには意外と気付いていなかった。少し脱線するが、話してしまいたいと思う。
「こども時代」の中で書いたが、小川家や、親の経営する寄宿塾を取り巻く大部分の問題は夫婦の不通によるものだった。おそらく、母が夫婦間にとどめておくべき問題を子供と共有し始めた昔に、兄妹には家族について話す習慣が生まれた。それが家が寄宿生活塾となって、より多面的な問題が生じた時に兄妹は無意識にそこに飛びついたのだ。これが「過ち」の始まりだった。もちろん両親には子供が“無謀にも”「家族について」議論を交わしていることについて配慮はなかった。ないどころか、そんな関わりを求めるところすらあった。
絶望の当時、僕はだが、最後の最後まで、言葉による家族の「意識統一」を目指した。その中で、思考の迷宮に入り込んで疲れ果てて、何もできなくなってしまった。
「父の頑固さは、母のここが変わればよい」と思えば、それを母に共有した場合のことを考えた。「おそらくこんな意見が返ってくるだろうなぁ」というが分かった。そして一つひとつの場合において何が言えるかを、それまた詳細に考えた。それは当然、父と母にとどまらず、兄妹や、寄宿塾生を考慮に入れて、時には彼らも交えて検証を続けた。
月十万円程度のお金をアルバイトで稼ぐ以外は、たっぷりと時間を、思索に費やした。時には家族の問題からとんで、自分自身や、哲学や宗教の教えとして検証を続けた。家具も風呂もない、閑散とした六畳一間のアパートで、膨大な執筆を行った。精神的に病んでいたため、食事はみだらになり、風呂に入らない日がつづき、睡眠時間も長かったが、起きている時は進んで執筆に向かった。
家族の問題について、ありとあらゆる切り口から検証を試した。2006年はだが、そうして得られる斬新なアイデアや、理解も、あまり出なくなっていて、僕の腐心に対する家族の無知や無関心が辛かった。 アイデアや知識、理解が充実するにつれ、家族の問題一つを取り上げれば半自動的に理論が展開するようになった。それは、もし「小川家」という学問があったとしたら、それを究めた学者みたいに、理論を展開できるのだった。
思考はまるで映像のように、次から次へと展開した。しかし、どう展開しても、どれだけ展開させても、希望的なものは見えてこなかった。10回考えれば7、8回は悲観的な結論が出た。2,3回はうやむやになって、放棄した。稀に希望的観測が得られたが、消え去るのも時間の問題だった。
「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
真剣に一歩一歩確認した理論も、希望の見出せない結果に終わってしまうと、その努力は水の泡と化し、意気消沈した。
0 件のコメント:
コメントを投稿