2010年5月2日日曜日

『こども時代』 33

第三章 絶望の記憶Ⅰ


精神分裂質
 絶望について記憶を手繰ることは、本当はあまりやりたいことではない。今日僕が希望を持って生きているのは「それを忘れている」からであり、下手に思い起こすことは危険ですらあると思っている。
 しかし今回、「こども時代」を書くにつれてあまり無理なく過去の精神状態を思い出し、いくつかの有力なメモを作成することができた。それは絶望の精神の一部でしかないかもしれないが、以前だったらこれだけ思い起こすことはできなかったと思う。

 2006年、仕事以外は自分のアパートに籠り、友人もなく、することもなかった僕は自分の精神を観察するようになっていた。
 「!?、今のこの希望の感触は何か!、どこから来たのか。」
 「なぜあの時は邪念に邪魔されたのか。」
 「こういうところで自分に逆らってみたら、どうなるか。」、云々。自分で自分を「監視」していた。
 そんな中で頭が勝手に思考を始めたり、予想もしないことを発想するような症状があり、それを僕は、精神活動が「分裂」しているのではないかと思うようになった。そのつながりで僕は精神病に興味を持ち、「分裂病」の入門書を買ってみた。
 分裂病の定義や専門的な解説部分はほとんど頭に入らなかったが、患者の症例や行動に関してはなんだかよく分かる気がした。完全に自分の世界に入ってしまい、「奇行」に走る患者、一見普通に見えて人をだまし、激しく同情や、怒りや、喜悦に浸る患者。まったくもって交渉の余地がない、認知系統の異常を持った患者…。なぜ多くの患者が自分自身によって狂気を生きなければならなくなるか、僕はわかるような感じがした。
 ヴィンセント・ファン・ボッホは、晩年に分裂病になっていたらしいが、買った本の冒頭には彼の言葉が載せられていた:
 「他に手段があったのなら、何も進んで狂気を選ぶことはなかっただろう。」
 僕は自分自身の精神異常は必然だと思われたため、この言葉に深く共感した。

 異文化の、心はまるで別次元を生きているような両親に育てられた僕には、もともと「分裂質」の傾向があったかもしれない。全く同じことでも、父に言われた時はAで、母に言われた時はBであるというような、一見ルールのない、複雑な世界に生きていた。
 二十歳前後からの「自己改革」にも原因があるかもしれない。親に教わったものを根底から疑い、世間一般人の感覚を身に付けようと躍起になった僕は「自分を打ちこわす」ようなこともした。弱い自分をわざと絶望に立たせるような、そんな行動をよくとった。
 自分が感知しうる世界は心広く、訳隔てなく受け入れるよう努めた。それは西洋と東洋という二大文化だけでなく、社会、風俗、女性、男性、子供も老人も、この日本で、とにかくすべてを対象にした。「僕は大学生であるから…」とか、「そういうのには興味がないから」という絞込みはしないで、できるかぎり感性を開いた。そこまでしようと思った動機には、「神様」を求める気持ちや、「真理」を知りたいという強い欲求があった。「自分の人生を捧げてでも…!」という思いがあった気がする。言い換えれば「楽しい人生」・「豊かな人生」・「幸せな人生」というような現世的な願望には興味もなかった。

 「自分という人間はまだまだこんなものではない!」
 「今認識している自己というものは、「いいかげん」にできたものかもしれない。」
 「感覚を意識的に改造すれば(心に沿っていけば)、全然違う人間にもなれるのかもしれない…!」
 恋愛で大きく変わった経験もあって、そんなことを思っていた。そしてだが、意識的にこれまでとは違う行動、目線、体の使い方などを試しているうちに、自分らしさというものが薄れていった。体を動かすことが好きだった自分が、しだいにそうでもないと思ったり、ある人のタイプが嫌いだと思っていたのがそうでもない気がするようになった。それは、感性の「拡大」、人間の深まりのようにも感じたが、長い年月で培った自分の素養を台無しにすることでもあった。たとえば自分の長所であった「優しさ」とか「礼儀正しさ」というものを僕は、どんどん捨てた。
 2006年の僕は「分裂病」であったのかどうかは分からない。しかし当時僕にあったのは分裂病でも何でも、親のすねをかじってしか生きられないくらいならば、死んでやろうじゃないかという気持ちだった。


自己改革と生存的危機感
 親(家族)を否定し、自己改革を行い始めた2002年頃からは、度々動物的な、生存的危機感に襲われていた。「こんなことして大丈夫か?」という自然な不安を押し殺して自分を追い詰め、駆り続けたからだ。自分の信念体系を大きく崩してしまうと、それはたとえば「生活」を大きく変えるのと同じことで、生命にとっては大きな負担だ。2006年にはその突如として襲ってくる生存的危機感も、定着し、精神的危機感に拍車をかけていた。
 僕が自己の内面に入り込んで籠ってしまったのには、親の教育の影響ももちろんあると思う。例えば親は僕ら子供に「それは本当なのか?」「たしかなのか?」「自分を十分疑ったか?」というような問いかけが過ぎた。子供だから、あまり考え過ぎても却って不健康なのだが、親はどちらも、しきりに熟考を僕らに促していた。大人になってから、人はもっと直感で動いてみなければならないものなんだということを、僕は自分で体験的に学んだ。特に「旅」ではそれが何より大切なことだった。自分のセンスを生かして使ってこそ、人は本当に貴重な学びを体験するのだ。僕の親は子供自身のセンスや理解というものに目を向けなかったため、僕らも子供として余計に自分達の感覚には自信がなかったと思う。
 たとえば、こんなこともあった。自分達には分かりにくい日本の映画などを観て、人が感動するシーンがいくつかある。しかし日本と接触不足であった自分にはその多くが分からない。映画を楽しむ以前の段階なのだ。しかし、友達は中学生にもなればドラマなんかの登場人物の心理がかなり分かって、それに触れて楽しむ。しかしそれが分からない自分は(こういうシーンではこう感じなければならない。)とか、自分の感受性を操作する傾向があった。あるいは誰かに何かをもらって、大してうれしくなくても、(ここで喜べなければならない。)と思うのだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿