2010年5月2日日曜日

『こども時代』 36(ラスト)

絶望
 当時は肉体をたしかに刺激する「食事」や「自慰」が、かろうじて癒しだった。自分が達成していた大学時代の栄光も崩れさり、父との喧嘩や、家族との激しい対立は自分が悪かったと思うようになった。 生きていることが虚しい。
 生きているだけ辛い。
 世の中が下らない。
 『どうせみんな、自分のいいようにしか生きていないのさ。
  そんな自己中連中の集まりだ、社会なんて。
  「自己中」を、「自己中」に見えないようにするテクニックを磨く人間が成功する。くだらねぇ!』
 『親だって、僕の元気さをうまく利用していただけさ。』

 予感に翻弄される日々が続いた。
 ただ同じような日々が流れた。すべてのことは大体予想できていて、起こっても何の新鮮さもなかった。あれでは、生きている意味が本当になかった。自己監視の悪魔が、心の中には巣作っていて僕の神経系統を牛耳った。
 「あそび」がなかった。あそびたいとも思わない。今更あそぶなんて、ばかばかしい。そう思った。

 『僕は本気で生きてきた。それでも結果はこうだった。
  これで、今できることを尽くしても何も変わらず、まだ最後まで惨めになっていくようなら、死んでやろうではないか、こんな世界。。。
  それまでの世界だった、ということさ。』


今日
 今日で、日本や家族を捨てる覚悟で日本を飛び出した日から3年がたつ。
 その3年間(約1100日)のうち900日を僕は旅した。歩き旅としてはゆっくりだが、その距離は日本とヨーロッパ19カ国を合わせて10,000kmに達した。旅を経て見えてきたものはただならない。まだとても筆舌に尽くせない。これからゆっくりと、一つひとつを言葉にできたらな、と思う。
 今思えば、今こそはっきり分かるが、僕の魂の性質や生まれ持った境涯からして、2006年の「絶望」は必然だった。親に教えられた信念体系、価値観、人間などを、持ちうる全生命力で生き抜き、限界に挑む他にすることはなかったのだ。もしそれを怠って後回しにしていたなら、僕には一向に晴れ晴れとした人生なんて見えてくるはずはなかった。
 こうして限界まで登り詰めたところで、パカッと、木の実が割れる様にして僕は「新しい自分」を発見した。それがなんだかまだよく分かっていない自分である。次も新たな限界を見定めて、僕は突進していくのだろうか?

 「こうなったら、こうだ。こうなったら、ああだ。かと言ってこうなっても…」
 走り出す思考の中で僕がすべきことは、ただちに思考をやめることだった。
 そんな考えずに、「今の自分自身を楽しめばいい」という、誰でも持っているような余裕が、僕にはなかった。家出や、家族との対立に負い目を感じていた僕は、どうしようもなかった。子供の頃に試行錯誤があまり許されなかったのに、大人になってから「失敗せずに」歩めるはずがなかったのだ。父との喧嘩も、家出も、そして家族との激しい対立という闘いも、失敗だと思ったら、それをそのまま認める必要だった。

 生気盛んな子供は、あまり親が面倒を見ないと、「偏屈」になる。たとえば、手持ち無沙汰を、家の柱と見つめ合って、柱と話すようになるのだ。そうすると子供はどんどん内向的になり、親に「自分を出せなくなる」のは必然だと思う。
 しかし、何にしても、僕も家族も、大事には至らなくてよかったと思っている。
 一度憎しみに染まることを許したら、僕の手は何をするか知れたもんじゃなかった。「犯罪」も、こわくない。
 だがもし「犯罪」をしてしまったら、その時こそ僕は、自尊心のかけらもなくなってビルから飛び降りただろう、首にナイフを刺しただろう。

 自己を嫌う自分が強くなってきたら、もうほとんどそれとの戦いで、生命力を使うようになってしまう。これは、放っておけない。ただちに手を打ちたいものだ。そこから逃げる方法は、僕のように、捨てうるすべてを捨てて旅でもするか、自己を嫌う自己に徹底的に向き合って、その自分を「負かす」ことです。不可能ではありません。キーワードは「愛」とか「喜び」です。自分の心を純粋な喜びや愛で満たすことが自分に許せるならば!、別に僕のように何年も旅しなくてもいいのです。


■■■ おわり ■■■
 執筆期間: 2010.1.1 - 2010.1.20
 タイプ:    2010.4.25 「終了」 

0 件のコメント:

コメントを投稿