「こども時代」― 執筆の動機 (2009.12.18 旅日記より)
■■■長いですが、以下が『こども時代』を書くと思い立ったときの日記です (当時「まえがき」のつもりで書いています) ■■■
ここは静岡県「熱海」の数キロ手前、海岸沿いの廃業となったレストランのテラスである。ここ2日くらいいよいよ冬らしく冷え込んでいて、体を温めるために日光浴をしている。テントをかやだけ張って、適度に通気しながら、適当な温度を保つ。
今日は12月18日で、「日本無銭徒歩の旅」は173日目だ。6月29日に地元「相模原」を出発してから山口県「下関」を経て再び関東地方に戻ってきたというところだ。距離にすると推定2850km、一日平均で16.4km歩いていることになる。今年1月までのヨーロッパの「無銭徒歩」とを合わせると、旅の総距離は間もなく10,000kmになる。
なんでこんなにも歩いてきたのかと思うと、自分でも不思議になる。別に「歩く」ことが好きなわけでも、「旅」が特別好きな訳でもなかった。率直に言うと僕は『居場所を失った』から歩き始め、気付いたときには旅が深まっていた。
「旅人」というのはおこがましいかもしれない。「放浪者」とか「流浪人」と言った方が僕には合っているかもしれない。「お金を持たず」、食べ物は「自然界」か、「人が捨てるもの」しかないからだ。ブルガリアでは毎日50個も60個もクルミを食べ、オーストリアから西の世界では可食ゴミの多さに感動した。セルビアでは野性のフルーツに、それまで感じたことのないような「幸福」を感じ、カビの生えたパンに心とおなかが温まった。日本では、今日、コンビニエンスストアというヨーロッパ以上のゴミの豊かさに甘んじている。
「無銭徒歩」は、絶望から始まった。僕はスイス人の母と日本人の父を親に持つが、スイス以外の海外生活が長く人間的に「日本人」には育たず、大学を中退後の僕の人生は急坂を転げ落ちる様だった。2006年はその「どん底」という年で、「自殺」願望を始め精神が異常な活動を始めるのが自分でも分かった。ついに働くこともできなくなり、親に生活支援をもらうようになった矢先、バックパック一つで日本を飛び出した。2007年1月のことだった。
母の祖国スイスで3ヶ月間できることを試したが、ダメだった。チューリッヒではスイステレビ局専属のプロダンサーに出会い、彼のところで居候したり、次に助手として働いた農場の主はきさくで面白く、馬が合いそうだったが、それらの貴重な出会いも生かすことはできなかった。自分は何をやってもダメだった。精神の底からまるでエネルギーが出なかった。もうこれ以上人に迷惑は掛けられないと思ってスイスも後にすることにした。
2007年4月末、「無一文」になる覚悟を決めて、残り数ヶ月のパスポートで僕は「歩き」出した。
僕の経験した「絶望」は、実際にどの程度のものだったかは分からない。「そんなに大したことではなかったのかもしれない…」と最近考えたが、20歳頃から始まった「自分の」人生との奮闘は、たしかに「精一杯」の日々で、僕には「夏休み」はおろか「友人関係」も「若者らしい遊び」も、ないも同然だった。その4、5年間は、周りの誰よりも本気で生きているという自負心だけは本物で、それなのに一向に好転しない人生に、次第に気力を失っていった。「悲観的」になり、「何をやってもダメだ」という自己暗示が強まっていった。そして実際に自分が、その思いの喰いものになった。
つい最近得られた一つの答えは、「絶望」当時の僕の「精神年齢」は低かったかもしれない、ということだ。当時24歳の僕だが、心が無垢でずるいことは嫌いで、清らかな人間ではあったと思うが、世の厳しさに立ち向かうだけのタフさはなかった気がする。また「日本人」というよりはどちらかといえば「西洋人」であった僕の心は、日本人の心にも十分歩み寄れず、「誤解」や「偏見」、不十分な理解などを携えていた気もする。
ちょっとやそっとではどうにもなりそうにない深い問題に、当時「責任」の追及をした。そしてその結果、僕は「親」を憎んだ。「親がおかしいのだ」という思いは20歳頃にもあったのだが、親の言っていることはほとんど当てにならないばかりか、彼らが子供に教えたことは結局は自分らがいいようにするための教えであったと思うようになった。親を疑うという醜い自分の心に、疑いに疑いを重ねたが、その思いは強くなるばかりだった。今年に入ってからもその検証は続いていた。そしてやはり「人に好かれなければ何もできない」お人好し人間にしか育ててくれなかった親を、「実社会に対して手ほどきをして見せてくれなかった」親を、また憎んだりした。
もっとも、国際結婚の家族の問題は「扱いづらい」のは確かだ。文化の、洗練された眼鏡をかけて初めて検証できる問題も、片親が異文化出身ということになるとうかつなことは言えなくなってしまう。その当人を傷つけてはならない、と配慮するならば。文化Aでは至極当然なことも、文化Bではそうでもなかったりする。根気ある人間でも「こんなのやってられない」と思ってしまうのは、異文化の絡む問題では無理がない。よって国際結婚の家族は、どうしても「孤立しがち」である。自分達だけの、ユニークな家庭を築くというロマンはあるけれども、それも限度というものがある。「ムーミントロール」の世界だったら、それでもいいかもしれない。あそこだったら、親が好きなように子供を育てても差し支えなさそうだ。ムーミン一家以外に家庭もないからだ。
―失望の中で飛びついた思想『不食』―
2004年11月のとある日、僕は3年間通った大学をやめることにした。22歳だったが、できることを尽くした大学生活がちっともよくならなかったため、「肩書きというものにしがみついても自分のためにならない」と判断した。不安もあったのだが、大学での僕は「勉強」もできなくなっていた。単位を取るために勉強するということは納得しなくなっていた。
そして自分の直感とかセンスを信じて何かやっていった方がよいと思って退学すると、ちょうどその時に
『「不食」―人は食べなくても生きられる― 山田鷹夫著 三五館』
という本に出会った。「人は食べなくても生きられる」だって?とんでもない話だが、僕はすぐに本を買ってきて、むさぼるように読んだ。「一日に、青汁一杯だけで元気に生活する人もいる」ということは聞いたことがあったけれど、その山田氏の本は「食事を全く摂らなくても人は生きられる」と言っているのだから、まさに「とんでもない」本だった。
しかし、読んでみると、その本は理屈とか難しい概念を羅列した宗教本などとは全く正反対に、著者のセンスによって直感的な言葉で書かれていたので、非常に読み易かった。読み終えた感想にも疑いはなく、そういう「境地」というか、「潜在能力」が人間には眠っているということを、僕は信じるようになった。そして時間がたつにつれますます自分自身が「不食」を追及してみなければすまない気持ちになった。
ここで言っておかなければならないと思うのは、この「不食」との出会いには、1つ、「フィルター」がかかっていたことだ。著書「不食」は、自分自身が広告か何かで見つけたのではなかった。実は「父」が、新聞の広告でそれを発見した朝、僕はたまたま実家に帰っていて、その場に居合わせたのだ。この事実はこれまであまり気にしてこなかったが、もし、自分一人でその本に出会ったら、これほど夢中にこの思想を扱うことはなかったかもしれない。前述の青汁生活者の話も父から聞いた話しであったし、僕の「断食」に対する興味関心は、幼い頃お寺に断食修養に出掛けて腹ペコになって帰ってきた父の面影も強い。
なにはともあれ、大学というものがなくなり、その友人関係や塾講師のアルバイトもなくなってポッカリと空いた僕の頭のスペースには、この「不食」という思想が居座るようになった。初めはあまり大々的に「不食」を考えることはしないようにしていたが、他にやることも見つからなかったので次第にその存在感が増していった。そして自分の食生活を変えたりいじったりしているうちに食事に関してより大きな疑問が沸いたりして、仕事もやめて徹底して食事に向き合ってみたい気持ちになった。もっとも、僕は大学時代に奨学金を借りていたため、その返済が、月々2万円、なされなければならなかった。
―大学中退から絶望までの2年間―
「不食」と徹底的に向き合うために「無銭徒歩の放浪者」となるまでは約2年間あった。最初の1年間は「不食」を意識しているだけで精一杯だった。そして「不食」思想に夢中となっている自分を他人を前に出すことは、あまりできなかった。「キチガイ」とか「変人」扱いを受けることを恐れていた。そしてスイスや京都に行ってなんとか「大学」に代わるものを探すのだが、コレといったものが見つからず、ますます「不食」だけが際立って見えるようになった。
「不食」を知ったことを、「悪い呪いにかかった」と恐れたのもこの頃だ。でも過去数年の自分の人生に対する尽力に対して、それに見合ったふさわしい取り組みがあるとすれば、それは、「不食」思想であった。それくらい実は、大学を辞退したことは「挫折」だった。過去の自分を裏切ることはできなかったので、時に恐れながらも、僕は「不食」の研究を深めていった。食事に関する常識を覆して、「不食」独自の食事感覚(哲学)を養った。
友人もなく、仕事は半日だけのアルバイトかアルバイト派遣スタッフでやりくりしていた僕の生活は、ますます孤立し、「こんなことしていていいのだろうか…??」という不安が頭を悩ませた。そして何度も職場を替え、アパートを替えしているうちに、とうとう社会生活が難しくなった。職場で人に会っても話すこともないし、話したくもない。お金だけ必要だから仕事だけしたいけれど、それではどうもマズイ。馴染み切れていない日本の社会に対する嫌悪が増したり、孤独がエスカレートして精神がむしばまれるようになった。
みじめな有様を受け入れて、「あぁ… 人生下り坂だなぁ…」と溜め息をついてみても、後戻りはできなかった。プライドが、それを許さなかった。
「僕はまっすぐ生きてきた。人をけなしたり、傷つけたり、人目を盗んで悪さを働くこともなく、極めて誠意的であったし、高校時代も家族の慣れない日本での生活や、「学業」に専念するために遊び心を捨てて頑張っていた。学校では「恋愛」よりも「友情」の方を大切にし、生活のより基本的な部分を重んじた。「真面目」だった。何も狂っちゃいない…。自分はいつでも本気で生きてきたじゃないか!「不食」との出会いは必然なのだ。もしかしたら自分が数少ない選ばれた「有志」なのだ…。」
そう前向きに解釈する様にした。「妄想」も抱くようになっていた。「第六感」というか、目に見えない世界に、本や人の話を基に意識を向けるようになった。そうして「自分だけ」の世界が育まれていった。
「自分の感覚を信頼すること」。感覚が「面白い」とか「興味深い」と判断したら、あまり迷わずやってみる自分があった。知識の詰め込みという勉強方法に、疑問を抱いた大学時代があった。「自主性(主体性)」や「個性」を重んじる外国人の文化研究者についていた影響もあるだろう。
「何を採り、何を捨てるか。」 広大な精神活動をどう統制するかという問題に、まるで子供のような基本的なレベルから見直しをした。親に教わった人生観はほとんど捨てて、自分自身のものを創り上げることに取り組んだ。その中で根拠の伴う思想と、そうでない「妄想」との間を、行ったり来たりした。
「不食」に出会ってから2年間は、大いに錯乱した。「人は食べなくても生きられる」という前提が、人生観を根こそぎ植え替えてしまったのである。極端な話、自分は山で仙人になることもできると、思うようになった。「食べもの」に対する依存が解除されたら、それこそ「何だってできる」ような気がした。インドの修行者のような数々の超人的な妙技も「身近」に感じるようになった。その最たるものは、「ババジ」という聖者で、何千年も25、6歳の若さを保ち、身体を自在に物質化・非物質化する能力を持った伝説の人物である。かのイエス・キリストと共に働いたとも聞いたことがある。僕はそこまで、「人間という生き物に秘められた可能性」を信じるようになった。
そうやって非常識的な世界に入り浸るにつれ、考えるだけではなくて自分も「非凡」の領域、言い換えれば「狂気」とも呼べる道に踏み出さずにはおれなくなった。その世界に「とりつかれて」しまった自分は、もう、行くとこまで行ってみるしかないのだった。下手に中断しては、それこそ夢を奪われた「ろくでもない」生き方しかできない気がした。「廃人」にしかならないだろう、と思った。
大学の中退からはしばらく右往左往したが、ついにそこまで考えが行きついてしまったということは、「大学中退」がそれだけ大きな「敗退」また「喪失」だったということだ。学生時代は集団に英語を教えるという塾講師のアルバイトがはかどっていたので、必ずしも失望的ではなかったが、漠然とした「不透明」感が生活にはあった。「地に足がついていない」という感覚があった。
2006年3月、僕はアルバイトをしていた京都の運送会社に無断欠勤をし、10万円を持って放浪に出た。同年9月には子供時代の思い出が詰まるマレーシアへ、日本を出るために航空チケットを買うが、どたんばになってキャンセルし、そのまま地元から宛なき放浪に出た。そうして3度目か4度目になる2007年1月の脱走は「成功」して、それがヨーロッパで「無銭徒歩」というそれまで知りもしない旅へとつながった。
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