◆家族に認められたい
家族と「共依存」的関係にあった僕は、確かに大学時代自力で「成功」しても、それを認めてくれる家族が必要だった。それは元彼女とか友人、たとえ恋人でもだめだった。そもそも僕には次なる彼女をつくる心の余裕もなかった。家族、父、母、そして兄や妹でなければだめだった。
ところが、前述した様に家族の僕の奮闘に対する理解は本当に乏しかった。それで僕は、200万円の貯金でのこり少ない大学生活を、ゆったり、やりたいことやって過ごすという気にはならず、まだ挑戦をつづけた。
ちょうどその頃、僕は「不食」思想に出会った。
―人は食べなくても生きられる―
たしかにそれは、運命的な出会いだった。「不食」を知ってしまった以上、元の生活には戻れなくもなった。社会の中で、ただなんとなく自分のできる仕事をして、結婚して、子供を育てて…という生き方にまるで興味がなくなってしまったのだ。
大学時代に超能力者Iさんに会ったことや、本を通して岡本太郎などの熱き先人らの生き様に魂が揺さぶられるのを経験していた。僕はもう、おとなしくはしていられなかった。
◆転落
大学をやめてからはだが、人生は急に下り坂になった。スイスに行く前に、軽い気持ちで寄ったマレーシアで50万円を騙し取られた。「いかさまトランプ詐欺」というやつで、日本人の心の弱みを熟知した、マレーかフィリピン系の行為即妙な詐欺師だった。警察と手を組んで、詐欺師の家をつきとめようとしたり、電話でうまく詐欺師をおびきよせて、警察に捕まえてもらえないかなどと必死に考えたが、しまいには自分の命の危険を感じて、命からがらスイスへ飛んだ。
本当は日本に帰るべき、精神状態だった。マレーシアの空港を出る時には長かった髪を坊主頭にし、サングラスを掛けて、飛行機が離陸したときには心底ほっとした。
向かったスイスでは案の定「失敗」した。詐欺の当惑が抜けなくて、雇われた職場でも自分を十分に発揮できなかった。貯金をむさぼり食うように、物価の高いスイスで数ヶ月過ごした後、とうとう限界が来て日本に戻った。
日本に帰ってからは、「違う日本を見よう」と思って京都に行ったが、元の調子を取り戻すことはなかった。失敗を重ね、惨めになるにつれて自尊心もなくなっていった。家族に認められることはもちろんなく、僕の大学時代の確かな成功は見事過去に葬られてしまった。「また塾講師に返り咲くか?」とも何度か思ったが、そんな後ろ向きな選択はよくないと思った。「行くとこまで行ってやろう」と、思っていたかもしれない。
京都で勤めていた半日の電線配送の仕事を無断で休み、放浪に出た。三日目にアパートに戻った時には、そこに母がいた。僕はそれで地元相模原に帰ることにしたが、それからはもうボロボロだった。京都から相模原へ戻った10ヵ月後には、また日本を飛び出していた。
四編 総論
◆結果しか見ない親
子供の心を十分に知らない親は、僕の大学時代の成功も、そしてその後の奮闘と苦悩も知らなかった。特に僕などは大学から「自慢するためではないから」と、一人黙々と精進したのだが、それが見えない親はいつまでたってもすげなかった。
ヨーロッパ7000kmの旅を終えて帰ってきた時にはやっと、親や家族の僕に対する態度が変わっているのが分かった。2年間の旅や断食の実績が僕を絶望から救い上げてくれたが、その時、 「(こんなにばかすか子供を産んで…)息子の一人くらい自殺で失っても、不思議じゃない親だな…!」 と思った。思えば子供の頃も、自分らが限界になる前にはほとんど気付いてくれず、あえぎ声をあげたら初めて手を打つというような親がいたような気がする。
親への憎しみを言い出したらきりがない。
たとえば我が家には「ゆとり」がなかった。『子供時代 関係的貧困 情報不足』のところでも触れたが、子供の頃の僕らはいつもどこか焦りの中にいた。母が夫婦関係で補えないものを必死になってカバーしようとした、そんな影響もあるだろう。僕らは母によってもたぶんにせかされていた。
大人になってから僕は、よその人間が自分とは比べものにならないほどゆとりの中にいるのかもしれない…ということに気が付いた。そして自分の家族での在り方を否定しながら、生活に「ゆとり」を呼び込もうとしたが、なかなか大人になってしまった自分を変えることはできなかった。
母は昔から、つい焦るところがあって、その焦りの中でいかに精一杯動き回るかということが大事なのだと僕らは無意識のうちに学んだ。「焦らなくて済むように」とか、「よく全体を整理して…」という余裕の在り方は、あまり美しくないと思われた。M教道場の奉仕でも、家の掃除でも必死になってやることが一番なんだと、そんな教育があった。
おそらく母の持っていた焦りの性分は、自分自身の家族で、五人弟妹の長女として大変だった頃の名残りだろう。母の性格的な「軽さ」も、母の未発達の部分であると思われる。
しかしそれに対して父という人はしっかりと世間並みの「ゆとり」を知っていて、また採用している人でもあった。父は昔から、自分が子供の頃から、十分なゆとりの中でぬくぬくと育ったのである。
僕は妻や子供達の焦りを見ながらも、まるで知らんぷりをし続けた父を深く憎らしく思った。
父にはたとえばもう一つ、すごく自己中心的なところがあった。
日本人だったらふつう、相手を見てから話すものだ。相手が何をしているか。気分はどうか。話し掛けてもよいかどうか。どう話し掛けられそうか。そして大丈夫そうだと分かって初めて言葉を掛けるのが日本人ならではのきめ細かな感覚だと思う。しかし父は、自分の妻や子供が外国風であるのをよいことに、また主としての権威を誇張して、そうしないところがあった。
相手の意向を伺いもせず、突拍子もなく自分の話を始める父。家族は皆、これに参っていた。日本に定住し、寄宿生活塾の中でもよくそうする父がいた。
マレーシアやドイツの頃だったら、西洋的な心でもって、あまりそれも気にしなかったが、日本で父に日本人らしくないことをされてしまうと、さすがに僕らも反感を持った。父も含めて家族一同、大変な時期だった。
やはり夫婦の意思疎通の不足が一番の問題だが、今では父がそうであったワケも、理解できる。家族を前に「父」であるために、父は日本人として一人前であることも捨てなければならなかったのだ。決して父が察しの悪い人間だったというわけではない。決して父が他人の顔色をうかがえない欠陥の人なのではない。家族生活の中でひょっとしたら無意識にもそうなってしまったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿