―今日、まだ僕の体は脈打っている…―
2007年1月の脱走は、社会的に見れば絶望の結果だが、「不食」探求という意味では「門出」ともいうことができる。もちろん、当時は「絶望」という感触が圧倒的だ。「これで新に不食に向き合うことができるぞ」 などとはみじんも思っていない。当時は、「自分が自分を否定し切らないように」することで精一杯だった。たとえば、突如として起こる 「あのビルの最上階からポンッとジャンプするだけで…」などという発想に、意識が「奪われない」ようにすることで精一杯だった。少し町に出れば、たとえばそういうことで自分の精神異常を外に出さないことでたいへん疲れてしまうのだった。
成田空港から大韓航空で飛び立った時は、ひとまず安心をした。憎しみや恨みに駆られて、自分の手が何をするかわからなかったからだ。チケット購入日から離陸までの数日間、心がブレずに目的を果たせたことに、その時安堵を感じていた。
スイスに着いて間もなく例のダンサーと出会いがあり、彼のもとで1ヶ月生活したが、ホモセクシュアルという性分が自分には合わず、やはり放浪するしかなくなった。自分がホモセクシュアルになることや、そのダンサーの元で何かできることはあるかということを考えてはいたが、そういうことになった。
心ない装備で放浪していると、気が緩んでスイスの親戚を訪ねた。そして親戚の助けを借りて仕事を探し、農場に住み込みの仕事を見つけたが、それも案の定、ダメだった。ある日、無断で農場を抜け出し、15kmほど歩いた先の川で足の裏を切って、農場へ引き返した。「頼りにならない」(独: "unbelastbar..." ) と言われ、「スイスもあとにする」という気持ちを親戚とその農家に伝えた。
2007年4月の終わりにアルプス北側のスイスを出発してから、「無銭徒歩」の旅は始まった。「無銭」という言葉自体当初の僕は知らず、自分のことは「打ちひしがれた放浪者」だと思っていたが、旅は数多くの出会いに恵まれた。その出会いが、一つ、また一つと経る度に僕の中に「自尊心」とか「喜び」といった人生で最も重要なものを、養ってくれた。言ってみれば、それは「東欧」の人々が、養ってくれた。特にスイスを発って80日、3ヶ月生活を共にしたセルビアの、貧しい農村の人達だ。
680日に渡る東欧19カ国と地域の旅によってなんとか「絶望」を克服した僕は、また日本に戻ってきて、今度は日本を同じように旅している。日本はセルビアとはまるで違う世界であり、ここに集中していると向うのことはどんどん忘れていってしまうのだが、できればそうでない自分でありたい。特に、お世話になったセルビアには、今後プレゼンテーションの道具を持って『100学校巡り』というのをやりたいと思っている。 つたない自分のセルビア語だけど、外国に行けない貧しいセルビアの子供達に日本や、僕の知る世界のことを紹介できたらいいなと思う。
―今回の執筆の目的―
「書く」ことは、僕の趣味だと言えそうなくらい、僕は言葉(とくに日本語)を心の指針にしてきた。高校の頃から人に話せないことを文章にまとめることで気持ちの整理整頓を始めた。それが思った以上に役立って、夢中にもなってしまうので、書くことが好きという感想を抱くようになった。反面、定期的に言葉の世界にとらわれるようにもなった。
本来言葉は、人の気持ちを伝える手段に過ぎないはずだが、言葉の世界に溺れてしまうと言葉が「先走って」しまって、聞こえはいいが肝心な中身が伴わない言葉を使ったりする自分がいた。特に自分が持っていた外国的な資質を日本語で表現しきろうとすると、どうしても変な言葉になってしまったり、ドイツで覚えたある感情を日本語だったらどういうだろうなどという、自己感覚の多元性によく悩まされた。
それでも「日本語」という言葉に馴染みも深まるにつれて、高度な表現もできるようになり、心の持ち様も日本的になった部分も多いと思う。しかし今日でも言葉は心を通訳しきれないものであり、ドイツや、マレーシアで覚えた感覚は心深くにしまわれて、滅多に扱わないものも多い。
純粋に「不食」思想を究めるなら、「書く」必要はない。むしろ一人で静かに、断食を追及するべきだ。この5ヶ月間はそれをやっていたつもりだ。心を捉えるために、自分のために書くが、書いているうちに次第に言葉にとらわれるようになり、ある時バッサリと書いたものを捨てる、そんな5ヶ月間だった。 でもここに来て 『社会に自己発信してみよう』と思うようになった。日本とヨーロッパで800日を越える旅の話は沢山あるし、どうも最近はただ歩いていることにあまり進歩が感じられなかったからだ。「思い切って社会を前に自分を打ち出してみた方がいいのかもしれない…」、と思った。
しかし社会に対する「自己発信」に取り組むということは、僕の心の持ち様としては大変な変化だ。これまではより純粋な「不食」探求の旅だった。むしろ、「余計なこと」、たとえば「観光」とか、時間を使う出会いとかは慎む姿勢だった。ありったけの精力を「不食」探求に傾けるためだった。
数年前の僕に言わせれば、「自己発信」なんて生意気なことはするな…、というところだ。しかし、月日の経過で、「絶対変わらない」と思っていた気持ちが、変わってきた。
2006年前後に僕が打ちのめされた「絶望」の根幹を一言で表せば、「カニバリズム」(弱肉強食の原理)だ。この世の原理とは、『強い者がさかずきを交わし、弱い者はいずこかへ消滅する』
自分が生きるためには他をのけずり落とすしかないのが、この世界。漁師が海で魚をとって食べるのもそれだし、アメリカがイスラーム過激派組織と対立するのも、それだ。結局どんなにきれいに繕ってみたところで本質はそれなのだ。そう見えない美しい世界がこの世にあるとすれば、それはあなたが騙されているということだ。
この事実に僕は、深く、深く、失望した。少なくとも親に見せられた世界は、そうではなかった。
「自分が生きるために他が、極端な話、死ななければならないのか!」
「そんな世界に生きていたいとは思わん!」
「死んじまって、いいよ…、ほんとに。」
そして戦争は絶えず、自然は破壊し、人口を爆発させながらも、「地球にやさしいガソリン」だとか「差別のない社会」などと言っている人間があほらしくてしかたなかった。そして、もう、何もしたくなくなったのだった。
ところで、それなら僕はこれまで一体何を見せられて来たのだろう?
20年間の人生で、この世の過酷さに気付かないというのも変だし、大人になってから現実に直面して「ショック」を受けてしまったのには他の人にはない何かがあったから、もしくは他の人にはある何かが自分にはなかったからだと言えないか。
そんな客観的な自己について旅の前も最中もよく思いをめぐらせた。そこでどうしても一遍、自分の「こども時代」を振り返る必要に駆られた。
特に「文化」というものをキーワードに、日本にいても日本人に見えなかったらしい自分の素質とか、なぜ自分は幼少の頃から人一倍活発でいたずらなども絶えなかったか、とか、「人間」そのものについても色々と考察を深めた。そして今回社会への自己発信としては、「子供時代」を徹底して振り返りたいと思うのだ。幼い頃から「違い」に関して苦労して、いつも「でも僕は…」「でも僕は…」と自己主張せねば済まなかった僕の「子供時代」について…。
(―生い立ち―略)
―「強く」なければいけない―
「生きるならば、強くなければならない。」―――「絶望」は乗り越えたが、なんとなく生きることを選択した僕が今日突きつけられている課題だ。
子どもの頃は清らかだった。いたずらっぽかったが穢れはなく、天使のようであったとすら思う。それも僕の場合は長かった。周りの友達が着々と現実的な、シビアな物事の見方を身に付ける中、まだ僕は、「夕日に染まる入道雲の美しさ」とか、「今朝の夢の世界」に漂っていた。
僕には、中学生の頃、「反抗期」らしきものがなかった。19歳頃から始まった親に対する「反抗」は、ある意味今日も続いていて、とても長引いている。出せなかったものが溜まりに溜まってしまったのかもしれない。だがどうも僕は、最初の数年間は、決定的な「反抗力」を示すことができなかった。中学生だったらバーンッと家を飛び出しては警察に連れ戻されても、「口も利かない」とか、親も困ってしまうような反抗力を見せたりして、親もそれでびっくりして態度を変えて、事は済んでしまったりするが、僕の場合は非常に“柔らかく”、そして“やさしかった”。当初は、「気付いてくれ。そして態度を改めてくれ。」という期待のもとに大きな反抗は示せなかった。自分が「気付く」ように親も「気付いて」くれると思っていたのである。
しかし、あるものはあるのだ。あるどころか発散が遅れているせいか、僕にはどす黒いものが溜まっていた。父の部屋にあるものを、パソコンから机から、「何から何まで庭の池にぶち込んでやろう」とか、「庭木の目立つものを根元から切り倒してやりたい」という衝動が度々襲ってきたが、それだけで終わらず、他の恨みにも飛び火して「大爆発」になることを恐れた。致命的な傷が関係に残ることを感じて、いつも自分を押し殺していた。そうして劣情・激情を抑制している自分を自分で尊くも思った。
しかし、怒りや憎しみは抑えても抑えても、キリがなかった。親とは別居していても、度々親を訪ねては、少しずつ、発散せずにはおれなかった。「発散」と言っても、僕が溜め込んでいたものに比べたら大した暴力にはなっていない。怒鳴るので収まらなかったときはふすまを打ち抜くとか、せいぜい窓ガラスを割った、それくらいである。
一年や二年が過ぎても、親に関しては、何も変わらなかった。「正当な発散」によって心が楽になるまでは、大変な時間が流れた。暴力ではなしに「日本からいなくなる」という形をとった2007年の1月、初めて少し仕返しが出来たようで、心は「軽快」した。ヨーロッパで感じた「自由」・「解放感」・「幸せ」は、それゆえでもあっただろう。しかしそれでも、親は大きくは変わらなかった。ただ親は僕の言うことには慎重に相手をするようになったくらいである。
ヨーロッパ2年間の旅を経て帰ってきても、親の理解度というものには虚しいものがあった。おそらく父も、母も、なんで智裕が反抗するのか、今日もほとんどわからないのだ。「こんな親だったら息子が自殺していなくなってしまうわけだ」と過去を振り返って、思った。
今年の5ヶ月間の相模原も、親に同情して送った日々だったが、予想以上の理解の欠如が、発覚した。「この親は…子供がどれだけ犠牲になっているか、気付いていないんだ…」
2008年の10月、僕は丸9日間の完全断食旅に成功し、帰る相模原では「次なる断食に挑めるんではないか」と思っていたが、それ以上にまた悩んでしまった。それもけっこうなもので、相模原を出て放浪の身となってからも、次なる断食はすすまないほどだった。9日間の断食を可能にしたヨーロッパ最後の幸福感は5ヶ月の相模原を経てまるで、過去のものとなってしまったのだ。
「親とはもう、話して通じる次元じゃない。」
そう夏ごろ思った。話して気持ちを伝えようとするだけお互いが辛い思いをする。だからようやく、27歳になってやっと「親からは離れる」ということが全肯定できそうだ。それは言い換えれば、「独立する」ということかもしれない。
『親を前にもしっかりと自分を打ち出し、「強く」あらねば、そしてそうあることを“誇り”とするくらいでなければ、この世では生きてゆけない。』
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