◆M教の意味
小川家でのM教信仰の意味についても旅の中の流れる思考の中で、何度も扱った。宗教の信仰を始めた理由については、前述したように親からこれといったものを聞いていない僕だが、それは、父の、「家族に関わるための手段」でもあったのではないかと考えるようになった。祖母が当時祖父の介護で苦労していたことや、父よりも母が先に入信したことは聞いている。しかし最も熱心であったのは父であり、父にとってM教がなければ、一体、家族とどんな関わり方をしただろうか、ほとんど想像することができない。宗教がなければ父はもっと露骨に「自己」を出さなければならなくなり、それは妻の施す教育とは衝突し易かった。でも宗教という権威の力を借りることによって、そのたしかに尊い教えと、自らの日本的資質を兼ね添えて、家族で自分を生かすことができたんじゃないだろうか。
それくらい父は、妻や子供たちを前に、自分が出しづらかったかもしれないとある時思った。日本人の、自分を引っこめてゆく遠慮深さと、謙遜の心が、悪気はないが堂々と自分流を出している妻を前に行き場を失ってしまうのは理解できる。僕が幼稚園か小学校の頃は、特に勇ましくて頼もしい、そんな母がいたのを覚えている。
もちろん父には、信仰自体に対する興味もあったのだろう。でもどうもそれだけではなかった。M教は家庭で父が自分を発揮するためにも大いに貢献したのだ。
更には、M教は、子供を「大人しく」、「いい子」にするという意味でも役立っただろう。先述したように、父と母は、あまり子供一人ひとりには深く関われない夫婦だった。できる限り自分達を困らせない子供にしておかないと、結婚自体が問題になりかねなかった。宗教なしでは親子関係もより純粋な「情」のぶつかり合いになり、そうなると意識の共有が乏しかった両親は対処しきれない可能性が出てくる。親が自分たちの弱みを出してしまったら子供だってそこにつけ入って反発する可能性がでてくる。そんな事態を親は危惧していたかもしれないと思う。
そして宗教によって「よい子」を育てることに成功した両親は、心優しい子供達によって後に「支えられる」ようにもなっていった。
二編 『異文化』
◆異文化
文化には、人間関係のルールみたいなものがあって、それをどれだけわきまえているかということで、外国人、日本人、更には東京人、関西人など細かな分別がなされる。日本人は「島国」という性格があり、外国との交流がヨーロッパ人に比べると少なかった民族だ。スイスというあの小さな国も「自」と「他」を峻別する厳しい目を持っているが、それでも日本人の異国とか、異質に対する敏感さに比べたらうんと緩いだろう。
近頃はぱったり見かけなくなったが、僕が幼稚園の頃は自分の茶色い髪や大きめの目をみて瞬時に「がいじん~!」と口に出す子供がよくいた。しかも「外人」というときまってアメリカなのだった。しかし、時代も変わって世界に対して日本の認知度も高まるとそれに呼応するように日本人も異文化に対する抵抗をなくしてきている。
それでも、それでもだが、日本人には世界に類を見ない独自の世界観がある気がする。それをしっかりと継続している。それによって日本人はするどい観察力と巧妙な手法を用いて、自他を区別することができる。しかしそれが非常に厳しい基準によってなされるため、僕自身も日本人になろうとしてもなかなかなりきれない、高いハードルを見つめてきた。これがたとえばアメリカとアフリカ、ドイツとフランスなどであればうんと困難が少ないような気がするのだが、浅はかだろうか。
なんにせよ、日本人の洗練された世界観とは、西洋の精神文化とは全く別次元のものだ。一旦その目で世界を見たら、西洋人の原理はたちまちわからなくなる。逆に西洋人からしたら、日本人の原理が不思議で仕方ないだろう。
そのことを僕は自分の親を通して、痛いほど感じさせられてきた。「他の国際結婚の子供もこんな苦労をしているのだろうか」と疑わしくなるほど僕は2人の違いによって迷宮に生きてきた。
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