2010年5月2日日曜日

『こども時代』 24


 兄妹は幼い頃は圧倒的に母によって育てられた。父は朝から晩まで仕事で、家には母がいて小さな子供の世話をするという、ごくごく普通な、夫婦の役割分担だ。幼児は、母性を強く欲する、ということもある。父は初めは、お金を運んでくるだけのような存在だった。母は教育にはスイスドイツ語は使わず、日本語を使った。しかしそれも結婚してから学んだものなので表現力は乏しかったし、漢字まではあまり覚えなかった。日本語を使っても、心はスイス人なのだった。幼少に受けたスキンシップや、しつけは、よって西洋的だった。父はその事実は認めても、立場上あまり口を挟むことはできなかっただろう。
 小学校高学年にもなると、僕らの日本語は母よりも上手になった。しかし言葉の重みは母にあったから、母の日本語がどんなに間違っていても逆らうということはできなかったし、そもそも心の優しい母には逆らいたいとも思わなかった。僕らは、特に上の兄妹の頃は、母の日本語をよくよく受け入れて、また、その曲がりの日本語を外で使う自分達すらいた。

 母の日本語が「変」だと、直す努力をして欲しいと思うようになったのは高校生の頃だった。家族が日本に帰化し、家が寄宿生活塾となった時に非日本的なものにはあまり寛容ではいられなくなったのだ。母はそれまでの自分を通そうとしたが、子供や塾生のの圧力によって少しずつ後退していった。そして家族には上の兄妹が昔親しんだ母の醸し出す空間はなくなっていった。代わりに父が「人格的なもの」を発揮する様になった。ある時、「もう昔の小川家はないんだ。」と父は平気な顔でそういった。それが小川家の「喪失」であると感じたのは僕だけではなかったはずだ。しかし2番目の妹になると、その新しい空間ですくすくと成長した。「日本にうまく溶け込んでいるように」僕には見えた。
 母も一度、家に帰りづらく思っている兄や僕を見て、「こんな風になるなんて、これまで作ってきたものが台無しだ。悲しい。」というようなことを明言した。そうは言われても、父と母が始めた新しい国での、新しい仕事なのだから、僕も、切ないながらも、「どうしようもない」「必然だ」と思った。塾が、より多くの子供を受け入れるためには、家の空間をより日本的にする以外に仕方はなかった。でもやはりそれは「強引な」父の強行戦略であったと思う。たとえそれが仕事のためであったとは言っても…。
 
 大学入学の頃だろうか、父が素を出しているのが見られるようになって、僕は内心驚いたことがあった。
 「あのお父さんが、こんなに楽しそうにしているぞ…!?」
 「こんなことを、軽く口にしているぞ…!?」 エトセトラ。
 大人になりながらも父親関係にしていた僕は思ったほどだった。それは、言い換えれば、日本に住み、日本の子供を前にして初めて見せる父の人間性だった。しかし僕はまもなく父と大喧嘩をして、実家は出ることになった。
 兄妹が小さかった頃は母が家庭を牛耳っていたと言えるかもしれない。父は、厳しく、真面目で、遊びにはあまり興味のない人だという印象が強かった。時々、日本人の集まりなんかで父が腹から声を出して笑うことはあったが、それは日本人といるからそうなんであって、家族といる時はあまりそうならないんだと、そうしたくないんだとも思っていた。もちろん少年の僕に言わせれば家でも同じように、大きな声を出して笑ってほしかった。
 しかしそれが、父が家庭で十分に自分を発揮できなかったことが、やはり夫婦関係の貧困さだったのだと思う。母は母でもちうるエネルギーや感性をフルに働かせて家庭を回していた。父は父で決して楽ではない海外の仕事と、家族全体を傍から見守った。父は、母の素質や教育観を自分が介入することで踏みにじることがないように、あえて距離を置こうともしたのかもしれない。よって家庭では父が何か言えば、母はあまり物を言えなかったり、また母が何か言えば、父は黙るという風に、交替交替で自分らを発揮していたような気がする。夫婦としての「連係プレー」はあまりできていなかった。
 母はほとんど無意識にもスイス(西洋)感覚を子供達に教えこんだ。「日本流」に合わせるために自分を殺す限界も感じていただろう。そして後になってからは子供を巻き込んで父に反発することになった。

 母は頭脳人間ではなく「アーティスト」だった。感覚が優れていて、ギターを初め、何でもアドリブでやってやってのけてしまうセンスがあった。それだけに身軽でどこか軽い性格でもあり、アフリカなど世界全般に興味があって、「冒険家」でもあった。スイス人は近隣諸国に比べ閉鎖的で慎重、思慮深い民族だが、母に限ってはそうじゃなかった。父と出会った時もそうだったんじゃないかと勝手だが、思うのだ。中学校を出てすぐ職業訓練校に入った母は、あまり頭はよくなかった。それがばったりチューリッヒで、日本からの高学歴ビジネスマンに出会うと、自分とはまるで対極のような人間にきっとすぐにほれ込んでしまった。父の秀才さ、落ち着き、要領のよさ、かっこよさ。そして異国のにおい。まだ見ぬ極東の世界…。
 そうしてくっついた2人には、いつの日か子供ができた。それが、兄だった。

 父はともかくとして、母が結婚前に地球の裏側から来るような異文化の人間と結婚をするということがどういうことなのか、十分な理解があったとは思えない。その点に関して母の意見を僕は聞いたことがない。しかし母は非常に心の開けていた人で、異文化に対してふつうの人が抱く不信感や疑心をまるで持っていない人だった。そして何でも純粋な心で接するので、却って異国の人にも好かれていたんではないかと思う。
 でも結婚生活が落ち着いてくると、人間の、文化に根差した深い違いが、明るみに出てくるようになった。「なんでこの人はこうなんだろう…」と何度か考えているうちに、とんでもない深いところから、とうてい掘り出せないような深いところから、その原因を発見するのだ。それは母の場合、自分だけじゃなくて、元気に育てた自分の子供が学校や友人関係で苦労をする、そんな事を通しても経験しただろう。

 初めはオープンだった母も、次第に自分のルーツを意識し、納得できない東洋人の考え方などには対抗も示すようになった。それは、社会に対してだけではなく実の夫に対してもそうなった。
 「うちの親は本来夫婦でとどめておく問題を、『子供と共有』することで、子供をも夫婦の問題に巻き込んでいる。」と大学の時に僕は思った。一人暮らしが長くなって自分を客観視するようになったときに、自分の父への憎しみは母親によってアレンジされた偏見でもあったことに僕は気が付かされた。
 母はある時は、夫よりも子供を心の拠り所にするように見えた時期があった。僕らに、こう打ち明けたことがある:
 「まだN(兄)しかいなかった頃ね、Nもお母さんも病気でぐったりしたの。そこにお父さんが帰ってきて、ちょっとNの面倒を見てほしかったんだけど…。お父さんは相手にしないでベッドに入っちゃってね。その時思った。この人と一緒にいる限り、私は病気にはなれない!ってね。」
 確かに母は、お化粧も最小限で、立ち振る舞いも女性にしては力強かったし、教育では時々、男のような威勢を感じさせたなと、後で思った。母は母で父性を発揮して、「全面的に」子供を教育するつもりだったのかもしれない。

 冒険心や、夢に身を任せるようにして日本人と結婚した母は、「異文化」がいかに大きな違いであるかを後になってから知ったと思う。



 5人弟姉の長女として育ち、あまり長く教育を受けられなかった母に対して、父は非常に恵まれた、教養のある人だった。兄弟は一人姉を持ち、当然ながら小川家の跡継ぎの本命だった。子供の頃には距離があり、大人になってから日本を知るのと平行して父を知るようになった僕は、今特に、父がいかに思慮深い人間であるかがわかった。それは今日でも、時に父と対面することを通して新しく見えてくるのだ。そんな僕の、父との関係だ。
 高校に入ったかどうかの頃、僕は父が中学校時代に書いた日記を読ませてもらったことがあった。思いを寄せる異性について書かれていたそれは、中学生とは思えないような表現力、そして感情の豊かさだった。僕はそれを読んで、自分が書いている日記に劣等感を覚えたような気もする。というか、当時はまだ見えない父の人間性だけに、評価を下すのは難しかったが、今思えば、やはり父の精神年齢は自分の高校時代と比べるとはるかに高かった。日本の祖父母が満遍なくよく育てたんだと思う。
 父は現役で上智・慶応・早稲田などの大学に受かり、ドイツ文学科に入った。大学卒業後、商社に入り、ドイツに出張して、そこで母と出会った。その後も日本語教師や寄宿生活塾という仕事を経験して、政治・経済・文化・宗教など、多方面の関心の廃れない人だ。

 僕が小さかった頃は家庭では今日ほど陽気に自分を出さない父だったが、前述したように父には妻に対する配慮があったり、父自身の、深い思惑もあった。
 だけど父は思慮深いからといって、決して安定型ではなかった。母と同じで、「冒険家」・「挑戦者」の根性であると僕は思っている。いろんな仕事にチャレンジする所や、自ら仕事を見つけては自分に課していく積極性は、用心深い人ではあっても、決して安定型ではない(と思う)。父はお酒を飲みながらテレビを見るとか、知人と呑みに行くことをしない。酒は普段はビール350mlを食事の時に開けて、それでおしまいである。ゆったりと、生活に深く根を下ろすことはしない。いつ何時も動ける人だ。

 父と母の結婚は、双方にとってちょっとした「冒険」だった。決して生活の安定しているカップルの、「幸せな家庭を築きたい」という結婚ではなかった。「これからどうなるんだろう。」「どんな家庭が生まれるんだろう。」ということが2人とも見えない、そんな興奮染みた結婚だった。
 でも父は、国際結婚に対する見当は母以上にあったと思う。簡単ではない結婚だけれど、「いちず」な妻だし、肝心なところさえ抑えておけば、大事には至らないという父ならではの自信があったと思う。
 積極的に自分を出し、子供を育ててゆく妻に対し、主として、最も基本的なこと以外は妻に場を譲り、自分は少し引っ込んで陰から支える、そんな父がいた。しかしあまり妻だけに子供を任せても「子供は人間的に何人に育てるのか」、という問題がやがて浮上した。子供らが妻の人間性を強く引き継いで、家庭で自分の、日本人としての在り方を出すのが難しくなったのだ。
 「子供があまり自分のことを理解しない。」「理解しないどころか、妻の感覚によって、勝手なことをするようにもなっている…」
 しかし一概に妻の教育に問題を挙げることは夫婦としての問題へと発展する可能性があるため、父はだいぶ長いこと、自分を殺して家庭全体の幸福を見守った。僕の年齢でいえば15歳頃、家族が日本定住をするまで、そうだったんではないだろうか。
 いつだか、大人になってから、父がこんなことを話した:
 ◇僕がお母さん(妻)に見えていることはクレバス*1のようだ、と、結婚して間もないころ思ったよ。その中(底の見えない氷の割れ目)を見ようとすることは、「危険」だと思った。「覗くべきではない」と思った。 (*1「クレバス」…アルプスなど高い山に見られる、春先に山の雪が解けて生じる、氷河の割れめのこと。表面は人がまたいで渡ることができるような幅でも、割れめの底はどれだけ深く、広いかはわからない。)

 「もう少しお母さんに合わせられないのか」という疑問が僕などにあった頃、何かの折に父は、そう訳を説明した。僕はこの説明では納得しなかった。父はそれ以上語ろうとはしなかった。

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