今朝7時前後。
父に畑の手伝いの約束をしたため、起こされたが、まったく行く気がしなかった。
行きたくなかったが、代わりに行く場所もないし、身体も動かす気がしなかったので、
そのまま眠り続けていると...:
「ともひろー。起きないと間に合わないぞー。」
と、もう一声掛かった。
それで「起きた」。
他にすることも無いから、自然に身体が動く感じで起床した。
急いで父(かその知人)が作ったお米の海苔と塩のにぎり飯を二つ作って、適当なボックスに入れ、タオルやメガネなど必要最低限のものを用意した。
コーヒーを飲み、8時前に「出発」。
軽トラックに父と乗ると:
「就活も大変だろうから、6月「仕事」手伝ってよ。」
と言われた。
父にはどう「旅」の決意を伝えるか、タイミングが掴めずに放置していた矢先の、「お声」だった。
その「お声」は、どこか嬉しかった。
頼られることの喜び、というのだろうか。
そして丸一日、畑でスイカやかぼちゃ、田んぼの手入れなどの作業をして、日が落ちる前に家に帰った。
「旅」の出発、どうしよう?
昨日はそのために携帯電話の解約手続きに行ってきた。
ただ気持ちは、今、「今すぐにも行く気はしない」のである。
僕は、こだわりがない。
旅に出たら「ブログ」は役立つだろうとの思いから昨日、アカウントを作ったが、恥ずかしい限りだが、さっそく意思変更になりそうである。
でも僕のこのブログ上での自己表現は、「旅」よりも広い意味を持った営みなのかもしれない。そう思う。
僕は2007年1月に日本を「無銭」で飛び出してから、2年間ヨーロッパ19カ国、7000kmの放浪をし、その中では「不食―人は食べなくても生きられる―」という思想を実践的に掘り下げた。
その2年間の放浪が暗示しているものは「不食」思想にとどまらず、ただならないものがある。
そのただならない何か、が、今の僕の「生きる原動力」となっている。
そしてこれからは、これまで以上に世の中に自分の認識を打ち明けていかねばならないという気持ちが出来上がっている。以前は「狂気」としてしか見れなかった「不食」思想も、平和的なアプローチができることを確信し、それを追究することに胸が高鳴っているのだ。
アホなコメントは相手にもしないけれど、僕がこうしてインターネット上でこういうものを始めるからには、縁あって読んで頂いた読者の方々には自由に意見を付して頂ければ、と思う。それは間違いなく読者だけでなく僕自身の「血肉」になることも確信しているから、聞いて嬉しい感想だけでなく、疑問は疑問で正直に、不満は不満で正直に載せていただければ、と思う。でも「不満」や「批判」は、それが純粋でない限り心はすぐ分かるので、仮面は被らないで欲しいということは断っておきたいと思う。
まあ、「ネット族」と呼ばれる種類の、多くの場合“ひねくれた”人間の言葉も、僕には興味がないから予め断っておこうと思う。
また適当な日記になってしまったが、あしからず。
僕も高校卒業後アメリカの西海岸を放浪してすべての
返信削除依存とすべての「なければならない」から脱却しようとした。
けど、死の恐怖と不安で何も達成できずに戻ってきてしまった。
いまは東京で専門学校にバイトをしながら通っています。
でも毎日「これでいいのか」と思いつつ恐怖に屈服して安定と堕落の道に甘んじてしまっている気がしています。
僕は消費社会事体に嫌悪は抱いていませんが、
なぜ生きなければならないのか
なぜ他を淘汰することによってしか生きられないのか
なぜ偽らなければ生きることができないのか、なぜ生きるために何かをしなければいけないのか、なぜ信念を曲げなければ生きることができないのか、なぜ罪を犯さなくては生きることができないのか、そもそも何の目的でこの世界はあるのかという疑問があります。
僕の行動は「こうしなければこうなってしまう」で埋め尽くされてしまっています。
もし、非観測物である現実世界と観測者である僕が一体であったとして、世界は僕を写す鏡なのだとしたら。
僕は恐怖に打ち勝ち、なければならないから脱却したら、体験する現実も変化するのではないか、と思うのです。
不食はまさに最も代表的な「なければならない」への挑戦であり、その達成は、僕の憧れでもあります。
そうゆうわけで、僕はあなたのブログを読んで勇気付けられました。ありがとう
コメント有り難うございました。
返信削除僕もあなたに勇気付けられました。m(__)m
昨年からはそれなりにブログも進み、去年の夏よりは僕のやってきたこと、持っている思想や考えについて載せることができたのではないかと思います。
しかし私はまだまだ自分のことで精一杯で、旅でどんなに頭が冴えたとしても、社会で、普通の生活で「安定した精神」が持てないならば、しょうがありません。
「非凡な感覚」は、一歩間違えれば狂気であり、うまく生かせば天賦の才です。僕は自分の体験したものを後者の方で生かしたいのは言うまでもありませんが、一度常軌を逸してしまった人間として相応の苦労や試練があります。
やはり、何事も究極的には自己責任なんですね… 「ラッキー」なんてものはないと、言えるのかもしれません。
誰しも、真面目な人間は、その追究心において限界に挑み、その中の一部は自分が見えなくなる境地、神なるものを求めるものだと思います。それを宇宙と言おうが、イエスと言おうが、自然と言おうが、同じです。自分が捉えられる超越的な何かに全霊で挑むんだと思います。
僕は最近、「ラムサ(Ramtha)」という霊的存在が書いた教えに感動しました。本の名は『真・聖なる預言』というものです。
彼は、人間の魂の本質は神であると言っています。
「人間」というものを体験する神であるというようなことです。
そこでは、輪廻転生などの概念もありますが、カルマなど、重たい概念は省き、前向きで、心が軽快するような世界の捉え方を提供してくれています。僕は自分が陥りやすかった「悲観」から、ラムサの教えは救ってくれたと思っています。
「不食」は僕の感覚では身体的な苦労よりも、社会的、精神的苦労の方がはるかに大きいと感じます。
家族から理解を得ることや、自分が世間の常識に反したもの、しかも「食事」という人間の根本的な営みにおいてそれを抱くわけですから、相応に責任が伴います。やはり普通の人間として生きることができないならば、「人間」を体験しに来ている私達にとって山の洞窟に籠もってもしょうがないからです。
でも西洋医学の常識はそれがどれだけ体系的で無数の研究による成果であるといっても、捉え方の根本に疑問が見出せるので反省の価値があります。西洋の科学崇拝では説明がつかないことはたくさんあるわけですから…。
僕は、「不食」を信じます。信じないことには、その可能性すら、見出すことはできません。そして、以前よりもゆるやかに、「食べながら」、不食を志向し続けたいのです。