2004年11月、僕は鷹さん(山田鷹夫)の著作『不食―人は食べなくても生きられる―』に出会った。
以来2007年1月、日本を無銭で飛び出すまでの僕の人生は右往左往、何をしてもだめだった。
2007年1月、とうとう行き詰まって日本を飛び出し、数ヶ月後には母の国スイスも飛び出した。
そうして僕の人生は、「開けた」。
2009年1月、希望を持って日本へ帰国し、以来家族と一緒に暮らしている。
2009年6月、山田鷹夫氏と直に連絡を取り始めた。
ソーシャルコミュニケーションサイト、「ミクシィ」でだ。
そして当然ながら(?)、鷹さんと僕の感性が取っ組み合っている。
僕の社会生活をひっくり返した、僕の人生観をひっくり返した、「不食」という思想。
「不食」を知らなければ今ごろ僕は生きてはいないといえるほどのものが、この思想との出会いにはあった。そしておそらくそれは、「鷹さん」の「不食」的生き方だから、そうだったのだ。これが他の、「ジャスムヒーン」とか「森美智代」さんとの出会いだったら、僕はこうなっていない。そもそも「生きていない」可能性が高い。
その「鷹さん」だが、彼は最近「セックス」をテーマにしている。
鷹さんは『不食』のあと『断眠』、『超愛』と、人間の三大欲求(食・眠り・性)をテーマにした本を出されている。その最後、「セックス」とテーマにした『超愛』が、今現在でも鷹さんの主たるテーマである。
だがここで僕は、「無理」が生じた。
僕は「性」に関して、疎遠だ。鷹さんの『超愛』も読んだけれど、観念的に彼を追いかけることはできても、正直、ここまでは「不食」で精一杯であった。
『超愛』だって追体験ができないわけではない。
今の状況が、追いつかないわけだ。鷹さんとつながったことだけで十分刺激的で、ここから自分のセックスも探究を始めるとなると、「今は…無理。」、と感じる。
今僕は何をやっているのか。
今僕は家族を愛するために「普通の」社会生活を送っている。
鷹さん自身は「捨てた」という、『家族愛』を僕は抱きかかえている。
「(僕がやっているのは)無謀なことだ。」と時に先の長さに気が遠くなりかけながら...
また日本を飛び出した時のように、すべてを「捨てれ」ば、僕にも無理なく「セックス」追究の余裕が生まれる。もう「セックスしなきゃおかしい」年齢になっているし。
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今日も一日父の作業を手伝った。
昼前から雨が降り始め、午後は雨の中田んぼに米ぬかを撒いたり、無農薬田んぼの草取りをやった。大空の下、風雨荒れる田んぼの中で。
「輪廻転生」という概念がある。
人は絶えず「生」を繰り返しているという教えだ。そうやって人は、人類は、そしてこの地球は何をやっているか。僕はそうやって「生命全体」として、とてつもない大きな規模で「いのち」というものを享受しているんだと思う。
そう思うとき、僕は他の生命がいとしくてたまらなくなる。抱きしめて、そいつの運命がどうであれ
『俺とお前はどこまでも一緒だよぉ!!!』
と叫びたい衝動を覚える。旅ではしょっちゅうだった。旅では人前でもよく涙した。この日本が「妙に」冷めているのだが。
それで僕は親に対して愛しさを抱く。
家族のために時間を使っている。
自分の人生を「後回し」にしている。ひどく「後回し」にしているが、それは僕の中でのバランスがちゃんとあるようで、世間の常識はあまり構わない。
かわった家族なのだ。でも本当はすばらしい家族なのだ。
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