昨日の日記はまだ続けようかと思っていたが、結局はめんどくさくて省略した。
例の、気になっていた「M」さんについて書きたかったが、「旅に出る」と決めた以上、不満をわざわざ表してもしょうがないという思いもあり…
今朝父から、父の助手Tさんが「ダウン」してしまったと愚痴がこぼれた。(過労による)
父のTさんの「扱い」はひどかった。無理もない。
そしてそうなっては僕や、妹に手助けを求める。
求めていいとは思うが、僕や妹は自分らがどう扱われるかも体験的に知っているので、僕は「旅立ち」という自分の予定を変えてまでして行かないし、妹もイヤイヤであった。
「40年変わらない人間」
先日、そんなことを思ったが、父という人は『人の下に就く』ということを知らない人だ。
有能な人間だったから、いつも大切に扱われてきた。「引越し会社」とか「派遣アルバイト」を転々としてきた僕にある体験が、父にはない。だから部下をどう扱ったらよいかということがわからない。
あきれるのは、父は、「にっちもさっちも行かなくなって」から初めて助けを求める。
まだ遣える、まだ遣える...という時は「無慈悲に」人を、酷使する。
だいたいいつも「正面から」人と向き合うことはなく、婉曲に、「言動から読めるもの」を基準に人と関わる。人の言う言葉はまず「信じない」。
「腹が痛い」
と言えば、それに同情しない。そう言うことで「本人は何を求めているか」ということばかりみている。人の気持ちをまずは受け止めるということをしない。それをしない人が人をうまく従えることができるはずがない。
おっとここでは僕の「愚痴こぼし」になってしまった。^^;
父に関してはこう言い出せばきりがないから、こんなことしょうもないから、やめよう。
僕はこれから再び自分を全開にして旅に出るが、それがどこまで許されるかというのは実は疑問はある。僕は完全にフリーではない。ここ相模原に帰ってくる条件はますます厳しくなったことは確かだけど、おやじがぶっ倒れて、兄妹から助けの要求が入ったら、「戻らない」ともいえない。
先日思ったように、おやじは行くとこまで行くしかないだろう。
おやじを前には僕らの言葉なんか羽虫の音にもならない。右耳から入って左耳から完全に抜けてしまっている。
そうなったらもうやらせるしかない。そして、おやじが自分でも言っていたが、もしやがておやじが「しょんべん垂れの徘徊老人」に成ったとしても、それは受け止めよう。そうなったら一緒に人に迷惑の掛からない山里にでも入って、二人暮らしをしてやろうじゃないか。それくらいの覚悟はあるのだ。
日本に帰国してからの「5ヶ月」でわかったこと。
親は何も変わっていない。彼らは彼らのあり方で結婚の維持に精一杯だったから、「変わる」なんてもってのほかだった。そして僕が発狂寸前になってヨーロッパに脱走していながらも、何ヶ月も音信不通になっていながらも、彼らの心を揉めたのは「私たち、本当にそんな悪いことをしてしまったのだろうか?」というちょっとした疑問だった。ひそかに僕の正当性を恐れながらも、結局自分たちの要塞に閉じこもり続けた。自分たちも変わろうとは思わなかった。この再会後の5ヶ月もである。
しかたがない。
「不食」思想など、一般的な感覚で受け入れられないのもわかる。
でも僕は僕の命を最大限に燃やす権利がある。僕の持ちうる可能性を最大限に追求する権利がある。僕はもう奴隷を生きなくていい時期だ。とてつもない可能性を見出した2008年だった。いまこそ不本意の生活で忘れてしまっているが。
命を咲かす。
泣く。それこそ号泣だ。
笑う。地がゆれるまで。
叫ぶ。燃えたぎる命の表現。
人と感じるということ。
人と根源に触れるということ。
そこにこそ本当の生命力がある!
そこでは何でもできてしまう!
そんな体験を、遅かれ早かれ再開したい。
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「M」さんはあやうかった。正直あやうい人だった。
でもむりもない。あの人には僕の本心なんて垣間見えてもいなかった。僕が家族と接するために本当の自分を閉ざしてしまっていたせいもあるが。
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無銭の旅だから、いつまたここに戻ってくるかわからない。
これで出発前の挨拶としたいと思う。
それでは!!
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