2009年6月11日木曜日

今日は木曜日(6/11)

おっと!
そうだ今日は僕の誕生日ではないか。祝27。上の日付を書いたときに気づいた。

「木曜日」は父の一応の休日。そして今日は「雨」。今日は農作業は休みかもしれない。

今は月末の料金のため、まただいぶ仕事を探す気になっている。
そして雨であっても工作小屋での作業はできる。やることは絶えず絶えない。


昨日「M」さんについて書いてから、また考えることがかなりあった。
「表」を出さない、「M」さん。
「裏」がやけに感じられる、Mさん。
先日鷹さんの日記にも書かれてあったけれど「表」と「裏」がない人間。それが他でもなく僕の目指し、完成してきた姿だ。Mさんの裏は何か。大体想像つくけれど別に知りたいと思わない。ただし今の彼では僕は関係は続かないだろう。不自然だからだ。
しかしこのMさんという人との触れ合いは、また非常な教訓となった。


ヨーロッパに出てから、変わった僕の感覚。
世間は実はこの2年間でそうも変わっていないらしい。
でも僕が変わったから、同じ世間も違って見え続けている。
世間の人間の興味関心は、ほとんど僕のと重複しない。
僕は彼らの世界に生きていない。
同じ場所に肉体的に存在しているだけで、精神世界はまるで違う。
そして、今の自分が数年前の絶望に「返り咲き」せず、こうして粘り強くいられることがすごく嬉しい。「借金返済」とか計画は思ったように進んでいないけれど、生活の「全体感」はよい。

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午前9時半。
今日は仕事に出なかったため、そして雨で朝をゆったり過ごしてしまった。
父は普段とは違うこぎれいな格好をして車でどこかへ出て行った。家には妹と甥のジュン、そして僕だけである。

朝飯から結構食べた。
父が手配してくるおいしいお米と母の焼くパン、そして数々のおかず...「楽しんだ」。
父の新たな挑戦と、寄宿生活塾をやめた実家は経済的に厳しいが、どうも「食事は豊か」で、僕個人的には疑問である。でもうまいことは確かで、付き合い半分食欲半分でいつもよく食べている。
「断食」もしくは「少食」では精神が「研ぎ澄まされ」、意識は澄みきる。あのとき以上の幸福感はないと思う。
でもまた一方で、なんでもない凡人、シャバで人間としての欲望に溺れるのも悪くない。両方知っていることに意味がある。

そんなわけでのんびりと朝を過ごした僕は、却って出だしをとちった。
そしてなんとなくコーヒーをつくり、広間で長いすに腰掛けながら家族のアルバムを見た。
マレーシア時代(1990-1994)、ドイツ時代(1995-1997)、そして親が寄宿生活塾を始めた1998年前後である。
心をぬくもりが満たした。とくに「マレーシア時代」。
その感動を明記せんとばかりまたパソコンを立ち上げ、書き付けている。

なんていい時代だったんだろう。なんて幸せだったんだろう。
今の両親の結婚の危機とくらべると、あの頃が恋しい。過去に未練はないが、「あの頃はよかったなあ」と感慨に浸った。

人生は止まらない。
今も昔もあるけれど、常に「変化」し続けている。
変わらないと思っているのは人間の頭だけだ。僕はむしろ進んで、「僕は変わり続けていく」と思っている。「変わらないなんてありえない」と思っている。
いつか「変わりたくない」と思う時はくるのだろうか。

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午後12時過ぎ。
父に頼まれていた倉庫のひさし作り(木工作業)の途中。
工作は小さい頃から「好き」で、自分は器用だと思っているが、実際に最近手をつけている作業はさほど「上手」でない。それはなぜかと言えば、上手にやるだけの「価値」がないから、だ。
機能性で十分。だから「間に合わせ」、「気休め」で作業している。

作業をしながら、まだ自分の脳裏を行ったり来たりしていたのは、Mさんのことであった。
Mさんはそういえば、父の会社に少なからず「投資」をしてくださっている人で、父の会社にとっては「重要人物」である。
しかし僕はあまりそういう意識はなかった。
「無い」と言うのは、ご本人が「自分から」「喜んで」支援している感じだったからだ。
しかしそんなこともない。
昨日は父が借りる農機倉庫の契約書にMさんが「連帯保証人」として印を押してくれていた。

父のやろうとしていることは僕にはまだそうはっきりは見えない。
父は非常に考えの深い人だから、そう簡単にはこちらもわからない。
ただ思ったのは、「そうだ...、Mさんは父にとって大切な人なのだ」ということだ。

僕は去る2月、このMさんが家にいらした時に、不注意に「不食」について語った。
それはそのときの状況からして僕も「引くに引けず」、会わされたという感じだったのだが、結果的には前述したように、非常に無理な形で関係が始まった。それが、変な芽となって成長している。
『自分の撒いた種は、自分で刈り取る』
僕のMさんとのささいだが、ただならない関係で僕が悩むか否かは僕がこの芽吹いた種をちゃんと世話してやるか、どうかだ。
ちゃんと世話してやれば、まだ芽は正常に発育する。
手を抜けば、それが後にどんな「木」になるか、危ういところだ。

つい二日前、父が会社のパートナーとして信用していた山梨のファームが、「妙な展開」になっていることを聞いた。
なんと、そのファーム(農場)が土地を地主に返してしまうかもしれない、、、というのだ。
つい数週間前、父と一緒に田植えをしにいった、白州の「理想郷」だ。
いったい、どうなっているのか。
僕には僕の見ていた範囲内で、何が起こっているか考えることがあるけれども、ここでは控えておく。

ともかく、Mさんとの関係、僕がこれまで「大したことない」と思っていた関係が、注意しなければいけないことに気がついた。僕の関わり方一つで父とMさんの関係もいかようにも変わる。
人間には「皆」、そういう影響力がある。
この60億の世界人口の中での塵のような存在の自分だが、実は、この自分がすべてを運命付ける力を秘めている。僕はその力にヨーロッパの旅行中に気付いたけれども、なに、これは僕だけのことではない。考えがたく思う人もいるかもしれないが、一人の人間が、実はこの宇宙のすべてを動かし、すべてと密接に繋がっている。

僕は今年の1月にヨーロッパの歩き旅から帰ってきたが、その最後の一ヶ月に前述した『今できる不食総括』という書きものをした。
それは10万字を超え、4月にやっとタイプをし終わったが、それを書いたものすべてを渡した唯一の人が、「M」さんである。最近ネット上で鷹さんとは別の「不食者」とつながって、その人にはメールで送ったが、それ以外には誰にも渡していない。よく自分の書きものを読んでもらったおばにも、途中までしか渡していない。

Mさんとの関係に自分のエネルギーを投資するか、というところである。

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