只今午後9時。
今日も1日、父の農作業の手伝いをしてきた。
「6月一杯手伝ってよ」と言われての仕事だが、精神的にアップダウンが激しい1日だった。
父の手伝いではそれも不思議じゃあない。
前にも手伝いに行って、昼には早上がりしたことがあった。
父の相手は簡単じゃない。
今日は彼のどういうところが煩わしかったかよく覚えていないが、何しろ相当な反抗期が過去にあるからそれがまだ多少尾を引くのだ。
―「こき使う」
そういう父の癖、人の扱い方が「嫌」だった。もちろん、自分自身がそう扱われるのも。
―「いいように使う」
そういう癖もまた、嫌だった。自分は社長だから、自分がやる分にはいいさ。でも気になったのは相変わらずの、他人に対しての、そっけない言動。
...
そんなことを意識して仕事しているうちに、気分が沈み、「投げ出したい」思いにもなっていた。
「帰って、残っている金を使って、コンビニの食べ物を頬張ってやる。」
とか。
僕には「投げ出し」の癖がある。
それを食べ物で解消することが多い。
日本に帰ってきてから、旅の時より煩わしい、ごちゃごちゃした生活になったが、その鬱憤を晴らすのにも、食べ物がよく使われる。
僕にとって「家族」とはとんでもないくせものだ。
基本的には家族が好きだから、できれば愛したいから、家族に貢献しよう、自分の人生は後回しにしよう、と思うのだが、まだ、その程度というものがよく分かっていない。世間の同年代とは、僕は比べものにならないほど家族に関わってきたが、それも家族の団結や和を夢見てだ。どうも僕は、「ひとり立ち」して不思議でない年頃に、まだ家族のことでだいぶ頭を使っている。同情か、愛情か、使命感か、よく分からない。ただ家族に「縛られている」とか「とらわれている」のは事実だ。
そういう自分を無理に変えようとは思っていない。
話が逸れた。
「投げ出し」を僕はなぜするのか。
それはコンスタントな自分という人間が、定まっていないからだ。
「自分はこういう人間だ」というのが、実はまだあまり決まっていない。20頃、それまでに作られていたそれを崩し、だいぶ根本的なレベルからその再構築を試みたから、その影響もあるだろう。あとは、父と母という、まるで南極と北極を象徴するような「別人間」の間で育ったから、安定した人格が育たず、大人になっても不自然にそれをいじくっていた...。
人間という生きものの、とてつもない広い領域を見ながら育ったのは、疑いがない。
多種多様な人間を見て育ったのは本当で、その影響も、僕の中で人格形成に遅れを出していると思う。日本だけだったら、あるいはドイツだけだったら、マレーシアだけだったら、あるいは仏教だけだったら、イスラムだけだったら、キリスト教だけだったら...、一体どんだけ楽だったろう!!
父と母というぜんぜん違う人間の狭間で育った僕は、「分裂質」を負った。
大学で今一度本格的に「日本人」になろうとしたことが、「日本人でもスイス人でもない」、そして「日本人でもスイス人でもある」という複雑な精神構造をつくっていった。
2006年、自尊心のかけらもなくなり、日本を無銭で脱走するまで、僕は完全に精神的病にかかったが、それは「分裂病」でなかったとは言えない。僕は自分が人のすねをかじって生きるようなのは許せなかったから、ちゃんと医者に診てもらわなかったし、たとえそうだとしてもそんなこと自分には認めなかった。だから気が狂う前に日本を「飛び出した」。
僕は2年間の無銭徒歩の旅で特異な新感覚を開発したのだが、それはどれほど本当なのか、自分でも実はよく分かっていない。テレパシー、予知(能)力、透視(能)力、...そのまったく新しく身に備わった感覚が何なのか、まだよく分かってはいない。
分かっているのは、あの脱走から2年半、自尊心を取り戻し、生きる希望を取り戻した自分が、かなり強い自分が、存在することだ。
そのなんだかまだよくわからない『新感覚』を追究することが僕の人生の夢であり、理由である。
僕はとんだ分裂病患者の進行的症状というケースは、考えられても、認めはしない。
そんなこと認めて、何か良いだろうか。
自分が精神病における「がん」に相当する分裂病患者と思ってよいことが、何かあるだろうか?
僕は今その新しい感覚の中で、「自己の広大さ」に目覚めている。
僕はこの世界のありとあらゆるものと『一つ』であるという意識が完全に目覚めている。これにはもう疑いない。その意識でもって、これからどうよりよく生きていくか。
それがこれからの僕の課題だと思っている。
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