2009年6月15日月曜日

今日も相変わらず。。。

父の作業を手伝っている。

ただいま午前11時35分。
今日は小麦の収穫をし、実家の倉庫にから干しするため、収穫した小麦を実家まで持って帰ってきた。
だからちょっと、ネットを開くチャンスをつかんだ。

昨日は疲れていたので結局日記がかけなかった。
書きたいことが結構あったにもかかわらず。

車の運転中、煙草を吸ったが、感度が高かったのでクラクラした。
そして不意に「なんで『飲酒運転』はだめで、『喫煙運転』はOKなのか」という疑問を持った。
正直、クラクラした僕の頭は注意力が落ちていた。
感度が高い状態は煙草でも酒でも、それこそ食い物でさえ、注意力を落とす。
「法律」というものの奇妙さを感じた。


昨日は草ぼうぼうの耕作放棄地を、田んぼに変えた。
びっしりと、田んぼ内に密生している雑草を延々とむしった。
そしてあるとき突然、「時空」がとんだ。
そして「妙な」感覚が僕の意識を埋めた。
ちょっと今はこのことについて詳しく書いている時間がない。
でもその感想を言葉にすると
「僕は小川智裕という人間を生きているが、同時に、あるいは本来はここの(この世界の)者じゃない。」

という感じだった。
高校時代から、この突然起きるこの現象を経験している。
それがなんなのか、知りたい。
また今晩つづけよう/

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午後7時半。
18時過ぎに帰宅した。

ほっと一息ついて「ミクシィ」や「メール」のチェックを行う。
先日、うちの親が営んでいた寄宿生活塾の元塾生「けいすけ」からメールが入ったが、案の定、彼は変わっていなかった。相変わらず人を探る・挑戦する白々しい態度。彼は『日本での生活に行き詰った』というが、もし本当にそうなのならば僕の示した厳しい姿勢に、すぐに抗したりしない。 すぐに抗するだけの力が、あるのだ。

もうにっちもさっちも行かなくなって、藁にもすがる思いで、何かに身や判断をゆだねるしかない状況―「行き詰まり」。そう考えると、彼が僕を前に示した態度は「行き詰まる」というにはまだ早い、悩みの内だった。まだまだ‘行き詰める’余地がある。彼の苦労もただならないが、それは人間としてより大きくなるための試練と考えることができる。僕の知り合いにはそういう連中が多いが、若いうちに相当の苦労を積む人間というのは、相応に将来が「期待できる」。でもそれは楽な道ではない。「楽」の間逆、苦悩の淵だ。でもそれが結果的に「人」を鍛え上げる。
楽して生きようなんて思ってくれるな。
この世界に生まれて来たからには、ある意味で「死ぬまで勉強」だ。死ぬまで精進し続ければならない。それは楽しみと捉えることもできると思うけど、いつもじゃない。
先日会った元塾生のY君やH君も、同じだ。彼らの人生も相当きついはずだ。でもそれだからこそ僕は彼らに同情するし、一緒に「苦労」を乗り越えて行きたいと思う。順風満帆な人間には僕は興味がない。

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昨日僕の身に起きた「現象」について。
田んぼづくりの途中、僕の意識が「とんだ」。
「時空がとんだ」と上に書いたけれど、それが適切な表現かどうか、改めてみると考えてしまう。

それはある時突然来た。
「あれ?!!
 … これはもう一人の自分だ。普段の顕在意識にはない、もう一人の自分だ。」
そんなようなことを感覚的に捉える。
そしてもう少しそこを探検していると、これが決して心地よくないのだが、むしろ「苦しい」のだが、そこを探っていくと、そこにもう一人の、まったく別の「たましい」である自分を認める。

高校の頃初めてその領域に入るのを経験し、当時はひどく不快だった。
それは眠りの浅い寝始めや寝起きに突如としてよく起こり、当惑した。
なんだこれは。
なんだこの感触は。
と。

慣れるうちにその領域を探索するようになった。
これがまた「気持ち悪い」。非常に「奇妙」。
本来の自分でない、この世界で二十数年間慣れ親しんできたこの身体とそこに宿る魂と違うもの、まったく別の認知系統なのだ。恐ろしくもなる。

昨日の草取り中、突如として「それ」が起こった。
なんでもない次の瞬間にそこにシフトした。
一気に「すべてを忘れる」。
すべてがすべてではないが、今自分はどこで何をどうしていたかということの細部が見事に忘れ去られる。ぶっとぶ。
自分は田んぼで、父と助手のTさんと三人で泥に生えた草を引っこ抜いていた。
そのときの前後関係、状況は見事に忘れる。ただ手は惰性で、草をむしり続けながら。

自分がどんな人間であるかということでさえ、これを経験したあとは微妙に分からなくなる。
「自分とは誰?」
そんな質問がなんともなく浮き上がる。
そんな質問とやりとりして「それ」を多く経験していくうちに、僕はただ自分をありのままに生かされるままに生かすようになった。それは「自分で選択する」というよりは「世界に選択してもらう」、身を委ねるという生き方だ。多かれ少なかれは。

その領域をなんと言ったらいいのか、わからない。
言葉で表現しようとしても、それを体験した直後であっても(!)それがなんであるか、言葉にならない。何か、自分の認識手段がそこでは人間的ではないのだ。
よくわからない。
これからもっと深く見つめて行きたいと思う。その領域は、安易に入ると非常な不快感(言葉にならない不快感)を覚えるのだが、それがなんなのか、突き止めたい。僕の意識の活動の無視できぬ現象だ。
だがひとつ言えるのはうまく出入りすると、この世での自分の意識が見事に「生まれ変わる」ことだ。これはすさまじいものがある。まだ数回しか体験していないが、うまくそこを処理すると、かつてないほど新鮮な意識で目が覚める。「天国」を生きているような晴れ晴れしさを獲得する。やることはなんでもない「いつもと同じもの、生活」であってもだ。(!)
とりあえず今言えるのは、多くの場合そこは「不快」の世界ということだ。
この不快の元(根源)は何だ?

一度その領域に入るとそれが2、3日精神活動に影響するが、今日もまだ微妙にそこに近いところにいる。今晩にもまた意識的にそこに入れるかもしれない。

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