2009年12月26日土曜日

『自称卒業論文』 9

我慢について
         
17.12.04
 人間は、意味がないと感じることをしなければならないのだろうか。
 生きてゆくために我慢は必要だろうか。
 一つの仕事の中にはやりがいのあることも、面倒くさいことややりたくないこともあるが、やりたくないこともやらなければならない、のだろうか。 おそらくこれを読んだ人の十中八九は、こういうことを言う奴は、「働く」ということをわかっていない、と思うのだろう。人生を甘く見ている、と思うかもしれない。
 私はこれまで、上の問いには“そうだ!”と答えてきたが、ある時から“ちがう!”という姿勢で生きるようになった。 その代表的な例が、今大学を退学しようとしていることだ。

 大学では、休学1年を含めた3年間で90単位を取り、残りの2年間で46単位を取るだけで卒業ができる状態だ。しかもその残りの2年間は好きなことに存分に時間を使える。単純に計算してこれまで一年で45単位とってきたのだから、残りの2年間はこれまでの半分の努力(半分の単位を修得するだけ)で卒業できる状況だったのだから。
 これまで経験したことのないことに取り組んでみてもいいし、好きな勉強に費やしてもいい。そんな恵まれた境遇が、今年(2004年)4月にはあった。 さらに私は幸せだった。なにより2年前の経済的逆境を自力で乗り越え、卒業までの資金的不自由はない、という、大きな“達成感”に満たされたから。 しかし、前期試験(同7月)で全く勉強する気にならず、失敗し、後期には授業にも出る気にならなくなって、現在(2004年12月)、に至っている。やはりスイスに行く、ということになっている。
 
 高校の時のがんばり(年6回の定期試験で好成績を残した)に比べれば、テストの基準も、回数も、授業の回数も少ない、はるかに楽な講義に出る気にならないのは、明らかに、おかしい!高校のときの「勤勉な小川智裕」はどこかへ行ってしまったのか。 2002年の一人暮らし開始から、人生の厳しさをすべて一人で背負い、厳しいけど人間関係から完全に開放された自由の中で、かたくななまでにその新たな道を大切にしてきた。
 そうやって生きることの思索に耽った自分は、 「人間はしたくないことはしなくてもよい」 、という生き方に妥当性を見るようになった。それはどんなこまかいことでも、些細なことでも当てはまる。つまり、人間は一切のネガティブな感情から開放されハッピーに生きられる、ということだ。人がハッピーに生きるのは、無条件だ、ということだ。 これは、苦しむ人が絶えないこの社会の常識に反した認識であるし(家族からも反対されている)、この道で達成したこともまだ少ないせいか、私もはっきり正しいとは思えない。今でも自分を疑っている。
 でも、どうも身体というか、私の心は、「それが正しい」と言っているような気がするのだ。それであたかも生理的な症状のように「勉強」が出来なくなってしまったのだ。いわゆる勉強は、「無益な思考」と身体は感じているのだ。益のない作業だからやりたくない。やりたくないからやらなくてよい、というように。
 
 これは重大なことで、定着すれば、私の物事の認識が根底から崩れることを意味している。自分の中で、「仕事」が変わる。「人間づきあい」が変わる。そして、「生き方」が変わる。 これが真実だとするならば、これまでの認識が全面的に改められるだろう。
 ほとんど遊んでいても卒業ができた、恵まれた2004年の4月。
 しかし、私は「社会に出るまで遊ぼう、学生時代の最後を悔いのないように楽しく過ごそう」なんていう生き方はしたくない。損得を考えたりして打算的な生き方をする人間はちっぽけだし、人間の生き方というのは、そんな制限されたものであってほしくはない、と思う。



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 以上CD-ROMから発掘したすべて。
 (全体の約8割を思われる)

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